ことばにおとをー君の死を、僕の最高傑作の燃料にー

僕は欠陥品だ。

本音を曝け出すことが、ただ怖かった。

均一にはめ込まれた正方形の窓から、温和な陽光が差し込んでいる。
普段は教員の会議室として利用されている部屋で、ひっそりと椅子に座り担当教諭が来るのを待っていた。
高校を卒業しようとしている今でも、本性を胸のうちに隠したままだ。

ーーすべての始まりは、母さんと手を繋いで歩いていた幼少期のこと。

買い物の帰り道。横断歩道を渡り終えた瞬間、突如鳴り響いた異常な音に耳が震えた。

音の方に視線を向ける。アスファルトに伸びた赤い筋と、辺りに散らばった鉄やガラスの破片と、恐怖を孕んだざわめきがその場の凄惨な光景を縁取っていた。

バイク事故。

倒れていた男が、口をぱくぱくさせながら、震えながら起き上がる。
その顔は、血まみれだった。

母さんがすぐに僕の目を覆って、目の前の薬局に入った。
幼児が目にするにはあまりに衝撃的で、怖い光景だっただろう。
けど、違う。僕は違った。

ーー人の血に、壊れていく命に、一種の美しさすら感じてしまった。

あの光景が、何年経っても強烈に瞳の膜に張り付いている。
悲しさはもちろんある。怖さも。でも、そんな異常な感覚が、確かに自分の心の中に存在する。
悲しみと陶酔。概念は矛盾しているのに、矛盾なく自身の中に在る。

生きていく中で、他人から優しい眼差しを受けるたびに、その異常性を思い知った。

ーー抑えつけないと。

両親にも友人にも、誰にも言えるわけがない。
気を張って心に沈ませたブラックボックスは、文字で密かに表現すること以外に吐き出す方法がなかった。
虚構であり、静かで味のない音が佇む中で、僕は過ごしていた。




「ねえ、いつもノートになにをかいてるの?」


小学二年生の春、遠足の班決めの時間だった。
机を合わせた途端、隣の席の結野栞ゆいのしおりが、ひそひそ声で僕の顔を覗き込んできた。
心臓が跳ねる。 物語を書くときは、教科書を開いて片方のページを少し浮かせて、壁にして書いていたはずだった。
見えているはずはない。なぜばれているのか、不思議だった。

「いつも、本もよんでるもんね。たのしい?」

ぎこちない動きで頷く。
この出会いが、波風を立てないようにと矯正した僕の心に生まれた、最初の、そして最大の嵐の予兆だった。

「へえ。こんどたくさん、おはなし聞きたいな。それで、なにをいつもかいてるの?」

「もの、がたり」

結野さんは活発をそのまま体中にはめ込んだような子だった。
習い事なのか、常に小さな楽器ケースを持ち歩いていて、充実という名の空気が周りでいつも踊っていた。
つまり、毎日教室の隅で本を読んだり、隠れてノートの端に物語を書いているような僕と、互いの点が重なるはずがなかった。
だからこそ話しかけられた時は驚いたし、状況をなかなか理解できなかった。

お互いにひそひそ声だったけれど、結野さんは興味津々と言いたげな面持ちで、その表情はとても輝いて見えた。

「え、ものがたり? すごい!」

「ぜんぜん、すごくないよ」

少し潤みを帯びた、綺麗な黒目が僕を捉えている。
ちょうど先生から、「そろそろ終わるよー」という号令がかかった。結野さんは「すごいなあ」と言いながら、何事もなかったかのように、僕を含めたメンバー全員に笑顔で挨拶を済ませ、そそくさと机の位置を直し始めた。

この数分間の出来事は夢のような瞬間だったけれど、それは結野さんへの好意とかそういうものではなくて、初めて人として認められたような、そんな安心感だった。

その日の放課後、いつものように静かに帰り支度を済ませ、昇降口で外履きに履き替えて歩き出そうとした時、結野さんの声が僕の背中を掴んだ。

「ねえ!」

咄嗟に振り向くと、彼女はさっきと同じ潤みを帯びた瞳で、微笑みながら僕を見つめていた。

「どうしたの……?」

「いっしょに帰ろ!」

普段の自分なら確実に断っていた。緊張なのか恥ずかしさなのか、何かに操られているかのように黙って首を縦に振った。
集団下校以外で同級生と一緒に帰ること自体が初めてで、不安しかなかったけれど、結野さんがひたすらに質問をしてきたのでその不安はいつの間にか消えていた。
僕の名前が林道直人りんどうなおとだから、「りんくんってよぶね!」と最初に言われた時は本当に恥ずかしくて、顔が熱くなったのを覚えている。初めて味わう親しみへの嬉しさ。照れながらも、それもすんなりと受け入れることができた。

「お話をかけるなんですごいね! どうしてそんなことを思いつけるの?」

「す、すごくないって。ただ本をよんだり、歩いてたら思いつく」

結野さんはどんどん声を強く弾ませて、時折僕の顔を嬉しそうに覗き込んでくる。
その度に顔をそむけたのに、彼女は全く折れなかった。

「すごい! ほんとうにすごい!」

「だ、だからすごくない。ただのことばだよ」

その発言に、結野さんの心の中で何かが引っ掛かったのか、突然歩みを止めて僕の前に立って、右手を勢いよく差し出してきた。

「な、なに?」

「すこしだけでいいから、りんくんがかいたもの、みせて」

有無を言わさぬような真剣な面持ち。焦燥が体中を駆け巡り、額に汗が滲んだ。書いた物語を見せて、万が一にも本性を知られたら生きていく場所を失う。なのに、眩しいほどに煌めきながら相手の心をまっすぐに見つめてくる結野さんの瞳のせいで、自分の感覚の全てが緩くなっていた。「う、うん」と言いながら、ランドセルをまさぐっている間も、彼女はその真剣な視線を僕から外さなかった。

「は、はい」

渡したのは、ノートの切れ端ではなくて、本格的に物語を書いているB五サイズのリングノートだ。
後にも先にも、そのノートを見せたのは結野さんだけだ。本格的といっても当時のレベルではという意味であり、たどたどしい平仮名と漢字の組み合わせで綴った文章は、文法も何も整っていない。
有り体に表現すれば、意味のない言葉がただ並べられているだけで、物語の形を成していなかった。
今の自分が見返しても、その拙さに思わず笑ってしまうほどだ。

小学一年生の後半、中休みにノートに物語を書いている時、クラスメイトの数人に見つかって、「うわ! もじなんてぽちぽちかいてるー!」と揶揄からかわれたことがあったから、誰にも見せたくないと心に強く思っていた。内容を理解されなくてよかった安堵もあったけれど。

誰かに理解してほしい。でも、理解されるのは怖い。矛盾に満ちた願い。
けれど、結野さんにだったら、見せても大丈夫かもしれない。そんな期待から湧き出た行動だった。

「ありがとう!」

結野さんは真剣な面持ちを崩して、少し口角を上げながら貪るようにノートを読み始めた。

刹那、瞳に映る世界が色めきたった。
ノートから言葉が浮かび上がってきて、彼女の周りで浮遊している。
時にぶつかり、時に回り、夕照せきしょうに照らされて輝きながら踊る言葉たちからは、耳をすませば音が聞こえてくるようだった。

時間にして数分間だろうか、結野さんはノートを閉じて僕を凝視した。その瞳は、果てもなく澄んでいた。

「やっぱりすごいね! りんくんのかいたものがたり、大人になったらもっとたくさんよんでみたいなあ」

素直に嬉しかったのに、顔を赤くすること以外に上手にその喜びを態度で表現できない自分が情けなかった。

「だ、だから、ただのことばだよ……」

俯く頭に強烈な圧を感じてすぐにまた顔を上げると、結野さんがムッとした表情で睨んでいた。
学校で見たこともない、彼女の表情。そしてその後彼女が僕にくれた言葉が、今でも胸のうちで陽気に歌っている。


「わかった! きみのことばにおとをあげる!」


 理由なんて具体的に説明できないし、したくもない。ただその時、人生で一番、幸せな瞬間だった。