次の日の昼、僕は嬉々として早めに図書館に向かった。
昨日結野さんと別れた後、今日が普段は彼女と会わない日曜で、しかもたまたまバイトのシフトを入れていたことに気づき、慌てて野口にシフトを変わって欲しいと連絡をした。シフト変更を承諾する代わりに、大学の学食で昼ご飯をおごる約束をさせられた。本田といい取り付けられた約束が多くなってきた気がするけれど、とりあえず気にしないでおく。
雨催いの空の下で、公園は陰々たる雰囲気に包まれていた。
あいにくの天気ではあるけれど、結野さんのフルートの演奏を聴けるなら気持ちは快晴だ。
公園に着き、ベンチに座りながら所在無げに首を巡らせていると、図書館近くにある池の周りでいつも散歩しているおじいさんが今日もよたよたと歩いていた。池を囲むように置かれた北側のベンチによく座っているから、きっとそこまで行くのだろう。
ただ、肩に掛けているショッピングバッグが大きく膨らんでいたのと、あまりにも頼りなげな足取りだったから、駆け寄って声をかけた。
「おじいさん、荷物、お持ちしますよ。池周りのベンチに行くんですよね?」
おじいさんは少し驚いた表情をして、けれどすぐに柔和な笑顔を見せて、「ありがとう」と言った。
荷物を渡してもらうと、仄かに野菜の香りが鼻を撫でる。にしても、重い。よくここまで運んで来れたものだ。僕の表情から何かを察知したのか、おじいさんは優しく口角を上げたまま「どうかしたのかい?」と尋ねた。
「お野菜のいい匂いがしました。この後、何かお作りになるんですか?」
「ああ。少し遅めのお昼で、大根の煮付けと、小松菜のおひたし、それに紅鮭を焼こうと思っていてね」
朝ご飯を食べて少し経っていたからか、料理のイメージがすぐに頭の中で出来上がり、そのままお腹に向かっていって勢いよく弾けた。想像だけで胃には何も残らず、お腹が鳴った。
「ごめんなさい……。ついっ」
「はははっ。構わないよ。若者は素直でなくてはね」
耳まで赤くなっているのを感じたから、僕は顔を池の方に逸らして表情を隠した。逸らした視線の先で、小学生くらいの男の子二人が、池に向かって石を投げて遊んでいる。快活そうな男の子たちが投げた石が、勢いよく水面にぶつかり、ゆっくり沈んでいく。
泡沫が静かに消えていく様は儚く、でもどこか尊さを感じた。
「池に、何かあったのかい?」
おじいさんが腰を屈めて僕の顔を覗き込んでいた。
「あ、いや、子どもが池に石を投げてて、泡が消えていく様子がなんだか儚げで気になって」
「ほお。お兄さんは、素直で優しい、素敵な感性をしているんだねえ」
「そんな、褒めていただくほどの立派な感性は持っていませんよ」
謙遜、というか本心だけれど、それは耳に入らなかったのか、おじいさんは口角を上げたまま黙ってまた歩き出した。
僕も本来の目的を思い出して荷物を肩に掛け直し、『やっぱり本当に重い』と心の中で呟いておじいさんの後ろを歩いた。
ほんの数分、ベンチでおじいさんと話していると、池の反対側で結野さんがこちらに向かって手を振っているのが見えた。
おじいさんに「では失礼します」といって席を立ち、おじいさんにもらったミルク飴を握りながら彼女に駆け寄る。
「待たせてごめんね。あのおじいさん知り合い?」
結野さんはフルートケースを肩に掛け、白いワンピースにクリーム色のカーディガンという装いだった。
全体的に透明感のある色合いだからか、曇天の下でも彼女の肌の白さが際立っている。
「全然待ってないよ。おじいさんは知り合い、というかよく公園に来てる人でさ。荷物が重そうだったから、さっき近くのベンチまで運んであげたんだ」
確証は全くないけれど、結野さんの後方の木々の隙間に、誰かに見られてるような気配を感じた。気のせいか。彼女に視線を戻すと、なぜか嬉しそうに微笑んでいた。
「そっかあ。おじいさんも嬉しそうにりんくんと話してたし、さすがだね」
さすが、と心の中で噛み締めてみたけれど、何がさすがなのかがよくわからない。
結野さんの僕への評価は、昔からよくわからない。
「さすがっていうのはよくわからないけど、まあいいや。じゃあ、早速行こっか。東口の広場、今の時間帯は特に人がいないと思うし、演奏にはうってつけだと思う」
「あ! そうそう。それなんだけど、りんくん、この後うちこない?」
うち? うち、家のこと?
突然の展開に、驚きからすぐに言葉が喉を通らなかった。なぜ、急に成人間近の女性の実家に行くことなる?
「う、うちって、結野さんの家のこと?」
「あったりまえでしょ! 他にどこがあるの。嫌なら無理強いはしないけど。それに、りんくん一回来たことあるじゃん」
さも当たり前かのように、彼女は澄ました顔をしている。確かに小学生の時に誕生日会で行ったけれど、あの時は彼女の転校の事実が受け入れられなくて、家の感じは全く覚えていない。
それに、僕は君の同性の親友とかじゃないんだぞ。と今すぐ叫びたい。そもそも女性経験が皆無だから僕が狼狽えているだけで、実はよくある展開なのか……? だめだ。こんな短い時間じゃ考えても絶対わからない。
「嫌では全然ないけど、ご両親もいるでしょ? それに、普通そんな急に男を家に上げる?」
「え、何? りんくん、私を襲おうと思ってるわけ? ほほお。意外と男!って感じなんだね」
「誰が! 僕は潔白人間だしょ……」
焦りすぎて言葉を噛む。恥ずかしすぎる。
「あははっ! 『だしょ』って…!」
周りの人が一瞥するくらい、結野さんは大声で腹を抱えて笑った。暴力をいけないが、チョップくらい彼女にお見舞いしたくなる。けれどそんな勇気はないから、代わりに全力で彼女を睨んだ。
「ごめんごめん! あー面白い。今日、パパとママは急な用事ができて外出しててさ、夜まで帰ってこないの。うち、練習とか演奏用の防音部屋もあるし、この辺より気にせず演奏できるかなって!」
言葉は謝っているけど、明らかに僕を小馬鹿にして笑っているから、睨みは継続しておく。
「なるほどね。なら、結野さんの家に行こう」
極めて冷静に。睨みは継続して。さっきまでの狼狽をなかったようにするんだ。お前ならできるぞ、直人。目の前の女性は僕の心なんて見透かしているように、さっきから意地悪い笑みを表情を浮かべている。本当に、腹が立つ。
「うん! すぐに行こう! 家まで先導いたしますね」
「うん。よろしく」
極めて、冷静に。
公園を出る時、後方からまた誰かに見られているような視線を感じたけれど、今はそれどころじゃない。
リボン花壇に植えられたロベリアの花が、視界にちらついた。
結野さんの家は、豪華というより、一言で表すと品があった。
ひばり公園の西口から徒歩で十分ほど。両開き門扉を開けると、真面目に、そして艶やかに佇む前庭が迎えてくれる。
アースホワイトのストーンデッキが玄関まで伸びていて、庭の両端には丁寧に刈り込まれた若草色の芝生が敷かれている。
洋風な赤みを帯びた屋根瓦からは、煙突が控えめに突き出ていた。
白い外壁と、付け柱が程よいアクセントになっている。
やっぱり結野さんは凄い。と、特に深い意味のない結論を心の中で呟く。
家に入ると、室内から流れてきたアロマの香りが鼻を撫で、お洒落な香水屋にでも来たような気分になった。
リビングは家具屋で展示されているモデルルームをそのまま嵌め込んだのではと思えるほどの整い具合で、外観の様子とよく合っていた。規則正しさの中に光る、気品。
暖炉に火は灯っておらず、その近くにはチェロが置かれていた。アンティーク風のソファには数冊の本が横たわっている。
サイドテーブルには中身のわからない楽器ケースと、年季を感じる楽譜があった。リビングをじっくり見渡していると、確かにここで誕生日会をやったという記憶がうっすらと頭の中で浮かび上がる。
でもそれが現実の記憶か夢の記憶かの判断ができないほどに、あの時のことは朧げだ。「少しリビングで座って待ってて」と言われたけれど、周りのもの全てが高価に見えて、下手に動いて壊したらと想像すると身がすくむ。僕は座ることもできずに、ただ佇立していた。成り行きで本当に家まで来てしまったけど、どう振る舞えばいいのかわからない。僕のこれまでの人生には、判断に役立ちそうな経験がない。
「どうしたの?」
突然後ろから声をかけられ、思わず体がびくついた。振り向くと、彼女は訝しげな表情でフィレンツェトレイを持って立っていた。
トレイの上では、麦茶がわずかに水面を揺らしている。
「ごめん。人の家来たの久しぶりで、なんか落ち着かなくて」
「だからりんくん、一度来てるでしょ? そんなに緊張しなくたって」
覚えてないし、昔と今じゃ状況が違うだろと言いたかったけれど、その言葉を消すように僕は差し出された麦茶を一気に飲み干した。何よりもまず、緊張で渇ききった喉をなんとかしたかった。結野さんは「よっぽど喉乾いてたんだね」と、くすっと笑いながら同じく一気に麦茶を飲み干した。
「よし! やるか! ちょっと待っててね!」
結野さんは小走りでトレイを置きに行き、また小走りで戻ってきた。いつものフルートケースを肩に掛けて。
「防音室があるんだっけ?」
「そ! こっちきて」
結野さんについていき、玄関から伸びる廊下を少し歩くと、堅牢そうな扉が右手に現れた。扉を開けるとその先にもう一つ扉があって、二つ目の扉を開けると、そこには広さ七畳半ほどの空間が広がっていた。グランドピアノが静かに佇み、奥の収納スペースにはヴァイオリンケースと何冊もの楽譜がある。電気を点けても少し暗く、わずかに不穏な空気さえ感じる。
彼女は換気扇のスイッチを入れ、慣れた手つきで側にあった丸椅子を僕の元まで移動させて、ケースからフルートを取り出した。
銀色で、艶やかな煌めきを帯びている。素人が見ても、大切に手入れされているのがわかる。毎回思うけど、大きくない楽器とはいえ、彼女の華奢な体で六十センチほどの長さがあるフルートを、よく長時間持ちながら演奏できるものだ。
「りんくん、座って。そんな真顔で立って見られたら、なんか恥ずかしいよ」
「あ、うん、ごめん」
丸椅子に座って、彼女を見上げる。すでに目を閉じ、沈黙という音楽を作り始めている。
結野さんが目を僅かに開いたと同時、演奏が始まった。
換気扇の音が、緊張を誘う。
フルートのソロから始まり、側に置かれたタブレットからピアノの伴奏の音が彩りを加える。
実は最近、結野さんの影響で音楽の本や動画をよく読んだり観ている(たまになので、ただの趣味程度だけど)。
この曲は確か、クロード・ドビュッシーの代表作、『牧神の午後への前奏曲』だ。
冒頭の、まるで昼下がりのまどろみを想起させる印象的なフルートのソロ。
そこから緩やかで優しい旋律が川の流れのように繋がり、ピアノの音が合わさり幻想的な空気を生む。
甘く、淡く、輪郭を掴むことができない音色。
僕は夢の中で暖かい陽光に照らされ、うとうとしている。
気怠い印象さえ抱くのに、でもどこか、自由な音色。夢と現実の境界を揺らして、区別をつかなくさせるような音色。
現実に疲れた人間たちを癒すような、慈愛に満ちた音色。
子守唄を耳元で囁かれている。そんな気分。
”きみのことばにおとをあげる!”
小学生の頃の結野さんの顔と声が、頭の中で浮かび上がる。
僕はふと思った。結野さんのために、歌詞を書いてみよう。小説は時間がかかるから並行して進めるとして、まずは歌詞がいい。彼女が褒めてくれた、命を題材にしたあの未完成の物語をイメージして書く。生々しさは隠して、精一杯に脚色して。
あの日、僕の言葉に音をくれた君に、今も音で心を豊にしてくれる君に、恩返しがしたい。
そう、静かに誓った。
昨日結野さんと別れた後、今日が普段は彼女と会わない日曜で、しかもたまたまバイトのシフトを入れていたことに気づき、慌てて野口にシフトを変わって欲しいと連絡をした。シフト変更を承諾する代わりに、大学の学食で昼ご飯をおごる約束をさせられた。本田といい取り付けられた約束が多くなってきた気がするけれど、とりあえず気にしないでおく。
雨催いの空の下で、公園は陰々たる雰囲気に包まれていた。
あいにくの天気ではあるけれど、結野さんのフルートの演奏を聴けるなら気持ちは快晴だ。
公園に着き、ベンチに座りながら所在無げに首を巡らせていると、図書館近くにある池の周りでいつも散歩しているおじいさんが今日もよたよたと歩いていた。池を囲むように置かれた北側のベンチによく座っているから、きっとそこまで行くのだろう。
ただ、肩に掛けているショッピングバッグが大きく膨らんでいたのと、あまりにも頼りなげな足取りだったから、駆け寄って声をかけた。
「おじいさん、荷物、お持ちしますよ。池周りのベンチに行くんですよね?」
おじいさんは少し驚いた表情をして、けれどすぐに柔和な笑顔を見せて、「ありがとう」と言った。
荷物を渡してもらうと、仄かに野菜の香りが鼻を撫でる。にしても、重い。よくここまで運んで来れたものだ。僕の表情から何かを察知したのか、おじいさんは優しく口角を上げたまま「どうかしたのかい?」と尋ねた。
「お野菜のいい匂いがしました。この後、何かお作りになるんですか?」
「ああ。少し遅めのお昼で、大根の煮付けと、小松菜のおひたし、それに紅鮭を焼こうと思っていてね」
朝ご飯を食べて少し経っていたからか、料理のイメージがすぐに頭の中で出来上がり、そのままお腹に向かっていって勢いよく弾けた。想像だけで胃には何も残らず、お腹が鳴った。
「ごめんなさい……。ついっ」
「はははっ。構わないよ。若者は素直でなくてはね」
耳まで赤くなっているのを感じたから、僕は顔を池の方に逸らして表情を隠した。逸らした視線の先で、小学生くらいの男の子二人が、池に向かって石を投げて遊んでいる。快活そうな男の子たちが投げた石が、勢いよく水面にぶつかり、ゆっくり沈んでいく。
泡沫が静かに消えていく様は儚く、でもどこか尊さを感じた。
「池に、何かあったのかい?」
おじいさんが腰を屈めて僕の顔を覗き込んでいた。
「あ、いや、子どもが池に石を投げてて、泡が消えていく様子がなんだか儚げで気になって」
「ほお。お兄さんは、素直で優しい、素敵な感性をしているんだねえ」
「そんな、褒めていただくほどの立派な感性は持っていませんよ」
謙遜、というか本心だけれど、それは耳に入らなかったのか、おじいさんは口角を上げたまま黙ってまた歩き出した。
僕も本来の目的を思い出して荷物を肩に掛け直し、『やっぱり本当に重い』と心の中で呟いておじいさんの後ろを歩いた。
ほんの数分、ベンチでおじいさんと話していると、池の反対側で結野さんがこちらに向かって手を振っているのが見えた。
おじいさんに「では失礼します」といって席を立ち、おじいさんにもらったミルク飴を握りながら彼女に駆け寄る。
「待たせてごめんね。あのおじいさん知り合い?」
結野さんはフルートケースを肩に掛け、白いワンピースにクリーム色のカーディガンという装いだった。
全体的に透明感のある色合いだからか、曇天の下でも彼女の肌の白さが際立っている。
「全然待ってないよ。おじいさんは知り合い、というかよく公園に来てる人でさ。荷物が重そうだったから、さっき近くのベンチまで運んであげたんだ」
確証は全くないけれど、結野さんの後方の木々の隙間に、誰かに見られてるような気配を感じた。気のせいか。彼女に視線を戻すと、なぜか嬉しそうに微笑んでいた。
「そっかあ。おじいさんも嬉しそうにりんくんと話してたし、さすがだね」
さすが、と心の中で噛み締めてみたけれど、何がさすがなのかがよくわからない。
結野さんの僕への評価は、昔からよくわからない。
「さすがっていうのはよくわからないけど、まあいいや。じゃあ、早速行こっか。東口の広場、今の時間帯は特に人がいないと思うし、演奏にはうってつけだと思う」
「あ! そうそう。それなんだけど、りんくん、この後うちこない?」
うち? うち、家のこと?
突然の展開に、驚きからすぐに言葉が喉を通らなかった。なぜ、急に成人間近の女性の実家に行くことなる?
「う、うちって、結野さんの家のこと?」
「あったりまえでしょ! 他にどこがあるの。嫌なら無理強いはしないけど。それに、りんくん一回来たことあるじゃん」
さも当たり前かのように、彼女は澄ました顔をしている。確かに小学生の時に誕生日会で行ったけれど、あの時は彼女の転校の事実が受け入れられなくて、家の感じは全く覚えていない。
それに、僕は君の同性の親友とかじゃないんだぞ。と今すぐ叫びたい。そもそも女性経験が皆無だから僕が狼狽えているだけで、実はよくある展開なのか……? だめだ。こんな短い時間じゃ考えても絶対わからない。
「嫌では全然ないけど、ご両親もいるでしょ? それに、普通そんな急に男を家に上げる?」
「え、何? りんくん、私を襲おうと思ってるわけ? ほほお。意外と男!って感じなんだね」
「誰が! 僕は潔白人間だしょ……」
焦りすぎて言葉を噛む。恥ずかしすぎる。
「あははっ! 『だしょ』って…!」
周りの人が一瞥するくらい、結野さんは大声で腹を抱えて笑った。暴力をいけないが、チョップくらい彼女にお見舞いしたくなる。けれどそんな勇気はないから、代わりに全力で彼女を睨んだ。
「ごめんごめん! あー面白い。今日、パパとママは急な用事ができて外出しててさ、夜まで帰ってこないの。うち、練習とか演奏用の防音部屋もあるし、この辺より気にせず演奏できるかなって!」
言葉は謝っているけど、明らかに僕を小馬鹿にして笑っているから、睨みは継続しておく。
「なるほどね。なら、結野さんの家に行こう」
極めて冷静に。睨みは継続して。さっきまでの狼狽をなかったようにするんだ。お前ならできるぞ、直人。目の前の女性は僕の心なんて見透かしているように、さっきから意地悪い笑みを表情を浮かべている。本当に、腹が立つ。
「うん! すぐに行こう! 家まで先導いたしますね」
「うん。よろしく」
極めて、冷静に。
公園を出る時、後方からまた誰かに見られているような視線を感じたけれど、今はそれどころじゃない。
リボン花壇に植えられたロベリアの花が、視界にちらついた。
結野さんの家は、豪華というより、一言で表すと品があった。
ひばり公園の西口から徒歩で十分ほど。両開き門扉を開けると、真面目に、そして艶やかに佇む前庭が迎えてくれる。
アースホワイトのストーンデッキが玄関まで伸びていて、庭の両端には丁寧に刈り込まれた若草色の芝生が敷かれている。
洋風な赤みを帯びた屋根瓦からは、煙突が控えめに突き出ていた。
白い外壁と、付け柱が程よいアクセントになっている。
やっぱり結野さんは凄い。と、特に深い意味のない結論を心の中で呟く。
家に入ると、室内から流れてきたアロマの香りが鼻を撫で、お洒落な香水屋にでも来たような気分になった。
リビングは家具屋で展示されているモデルルームをそのまま嵌め込んだのではと思えるほどの整い具合で、外観の様子とよく合っていた。規則正しさの中に光る、気品。
暖炉に火は灯っておらず、その近くにはチェロが置かれていた。アンティーク風のソファには数冊の本が横たわっている。
サイドテーブルには中身のわからない楽器ケースと、年季を感じる楽譜があった。リビングをじっくり見渡していると、確かにここで誕生日会をやったという記憶がうっすらと頭の中で浮かび上がる。
でもそれが現実の記憶か夢の記憶かの判断ができないほどに、あの時のことは朧げだ。「少しリビングで座って待ってて」と言われたけれど、周りのもの全てが高価に見えて、下手に動いて壊したらと想像すると身がすくむ。僕は座ることもできずに、ただ佇立していた。成り行きで本当に家まで来てしまったけど、どう振る舞えばいいのかわからない。僕のこれまでの人生には、判断に役立ちそうな経験がない。
「どうしたの?」
突然後ろから声をかけられ、思わず体がびくついた。振り向くと、彼女は訝しげな表情でフィレンツェトレイを持って立っていた。
トレイの上では、麦茶がわずかに水面を揺らしている。
「ごめん。人の家来たの久しぶりで、なんか落ち着かなくて」
「だからりんくん、一度来てるでしょ? そんなに緊張しなくたって」
覚えてないし、昔と今じゃ状況が違うだろと言いたかったけれど、その言葉を消すように僕は差し出された麦茶を一気に飲み干した。何よりもまず、緊張で渇ききった喉をなんとかしたかった。結野さんは「よっぽど喉乾いてたんだね」と、くすっと笑いながら同じく一気に麦茶を飲み干した。
「よし! やるか! ちょっと待っててね!」
結野さんは小走りでトレイを置きに行き、また小走りで戻ってきた。いつものフルートケースを肩に掛けて。
「防音室があるんだっけ?」
「そ! こっちきて」
結野さんについていき、玄関から伸びる廊下を少し歩くと、堅牢そうな扉が右手に現れた。扉を開けるとその先にもう一つ扉があって、二つ目の扉を開けると、そこには広さ七畳半ほどの空間が広がっていた。グランドピアノが静かに佇み、奥の収納スペースにはヴァイオリンケースと何冊もの楽譜がある。電気を点けても少し暗く、わずかに不穏な空気さえ感じる。
彼女は換気扇のスイッチを入れ、慣れた手つきで側にあった丸椅子を僕の元まで移動させて、ケースからフルートを取り出した。
銀色で、艶やかな煌めきを帯びている。素人が見ても、大切に手入れされているのがわかる。毎回思うけど、大きくない楽器とはいえ、彼女の華奢な体で六十センチほどの長さがあるフルートを、よく長時間持ちながら演奏できるものだ。
「りんくん、座って。そんな真顔で立って見られたら、なんか恥ずかしいよ」
「あ、うん、ごめん」
丸椅子に座って、彼女を見上げる。すでに目を閉じ、沈黙という音楽を作り始めている。
結野さんが目を僅かに開いたと同時、演奏が始まった。
換気扇の音が、緊張を誘う。
フルートのソロから始まり、側に置かれたタブレットからピアノの伴奏の音が彩りを加える。
実は最近、結野さんの影響で音楽の本や動画をよく読んだり観ている(たまになので、ただの趣味程度だけど)。
この曲は確か、クロード・ドビュッシーの代表作、『牧神の午後への前奏曲』だ。
冒頭の、まるで昼下がりのまどろみを想起させる印象的なフルートのソロ。
そこから緩やかで優しい旋律が川の流れのように繋がり、ピアノの音が合わさり幻想的な空気を生む。
甘く、淡く、輪郭を掴むことができない音色。
僕は夢の中で暖かい陽光に照らされ、うとうとしている。
気怠い印象さえ抱くのに、でもどこか、自由な音色。夢と現実の境界を揺らして、区別をつかなくさせるような音色。
現実に疲れた人間たちを癒すような、慈愛に満ちた音色。
子守唄を耳元で囁かれている。そんな気分。
”きみのことばにおとをあげる!”
小学生の頃の結野さんの顔と声が、頭の中で浮かび上がる。
僕はふと思った。結野さんのために、歌詞を書いてみよう。小説は時間がかかるから並行して進めるとして、まずは歌詞がいい。彼女が褒めてくれた、命を題材にしたあの未完成の物語をイメージして書く。生々しさは隠して、精一杯に脚色して。
あの日、僕の言葉に音をくれた君に、今も音で心を豊にしてくれる君に、恩返しがしたい。
そう、静かに誓った。
