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結野さんを商店街で見た週の土曜日、僕は一六時少し前に図書館に着いた。
少し気分を変えて、小説ではなく気になっていた自己啓発系の本を取り、八人掛けのテーブルの端の席に腰を下ろした。
縦長窓から覗き見える薄雲。視線を空から活字に移しても、いまいち集中できない。
原因ははっきりしていて、先週見かけた宮野のことだった。
卒業後の進路は知らなかったけれど、大学の第一志望は大阪にある難関私立と聞いていたから、てっきりその大学に進学するものだと思っていた。だから、商店街で見かけたことが不思議だった。
あまり彼の記憶は故意に思い出したくない。でもどうしても気になり数日前に本田に連絡を取った。
高校の卒業式で宮野との一件があってから、なんとなくばつが悪くて本田には自分から連絡できていない。
彼からは何度か連絡をもらっていたのに、新生活の準備やらで忙しいとか、適当な理由をつけて誘いを断っていた。
「林道~! 薄情な友達だよほんっとに! あー寂しかった」
ひばり公園から程近い、三十代くらいの姉妹が切り盛りするカフェで僕らは会った。
開口一番に放たれた本田の不満に関しては、ただ謝罪するしかない。
「ごめん」
「まあいいよ、で、今日はどしたん? 何か相談したそうな雰囲気だけど」
そんな雰囲気を出してしまっていたのかと、恥ずかしくなる。
「うん。こないださ、宮野を商店街で見かけたんだよね」
「宮野? まじで? そうなんだ。てか、林道って宮野と仲良かったっけ?」
僕は全てを話した。宮野との高校での出来事を、全て。包み隠さず。本田の顔から、みるみる明るさが消えて真剣になっていく。
「あー。それはなんか、悪かったな」
「なんで本田が謝るの? 宮野に弱腰な僕がいけない」
「林道は悪くねーよ。いや、俺も今は宮野と連絡取ってなくてさ。……あいつ、第一志望の大学に落ちたんだよ」
本田の言葉の余韻に飾りを添えるように、からんっと、アイスティーの氷が触れ合う音が鳴る。意外だった。宮野の成績はいつも学内テストでトップクラスだったし、受験期間中はずっと変わらず笑顔でクラスメイトに接していたから、第一志望に受かったものと疑わなかった。
「そうだったんだ。てっきり受かったんだと……」
本田が大きなため息を漏らす。僕を睨み、けれどその視線は僕にではなくて、もっと先を睨んでいるように感じた。
「だろ? 俺もだよ。あいつ全然自分のことは言わなくてさ、俺もぎりぎりまで知らんかった。で、二月くらいから急に俺たちに対して態度が悪くなって、何度か俺から注意したんだけど……。卒業式前に、どうでもいいことで安井にノートを投げつけたことがあって、俺がその時安井をかばってあいつにキレたら、さらに逆上しやがって、一方的に絶縁された。まじでわけわかんねえ」
安井。少し気弱だけど誰にでも優しく、宮野とは中学からの付き合いだったはず。僕はほとんど話したことがなかったけど、宮野とはとにかく仲が良さそうだった。宮野の暴力的な一面は、あの冷たい視線を考えると納得ではあったが、まさか本田と絶縁していたなんて。
「自分は落ちて、他のみんなは大学に受かってたから、気まずかったのかな」
「さーな」
本田は言葉を一度切って、窓外を見つめた。
「宮野からさ、あいつの両親は小さい頃から勉強にうるさくて、それがしんどくてって話は何度か聞いてたんだよ。きっと落ちた後は家にも居づらくて、しんどかったのかなって思う。でもさ、どんな事情があっても、そんなんみんな同じだろ? 大なり小なり何かしら抱えてるし」
何かしら抱えている。痛いところを突かれたように、途端にいたたまれなくなる。
「そう、だね」
「それにあいつ、人当たりはいいんだけど、こっちが少し踏み込もうとすると、急に扉を閉めたりすんだよ。いきなりスンってなるっていうか。そのくせ、いざ何かあったら周りに当たるとか、ありえないだろ? そう思わん?」
僕に視線を戻し、いつもの陽気な笑顔は見せない本田。真剣に、ただ誠実に。宮野を突き放しているようで、心から心配しているのがわかる。人に向き合う姿勢は、本当に尊敬している。けれど、どこか自分のことを言われているようで、体はどんどん重くなる。
「同感だよ。でさ、さっきも言ったけど、こないだ宮野を駅前の商店街で見たんだよね。大阪に行ったと思い込んでたから、びっくりした」
「あ、そうそう。そこが変なんだよな。あいつ、受かる気まんまんで大阪に一人暮らし用の物件も契約してたらしいから、そのままランクが少し下の大阪の私立大に進学する予定って、安井に聞いたんだけどな」
特に何かされた訳でもないのに、背筋に悪寒が走った。大阪にいるはずの宮野が、商店街にいた理由。気になるけど、これ以上詮索すると気分がどんどん悪くなりそうだった。考えても詮無いこと。そう、思うことにしよう。
「ええ、じゃあなんでいたんだろ……。まあ、別にいいんだけど」
「うん、もう気にすることねーよあんなやつ。あ! そういや、いい大学デビューはできたのかよ。俺は気になって気になって朝も起きれなかった」
「朝は起きなよ。夜も眠れない、でしょ。それに、何もないよ」
それからは、話題を変えてお互いの近況を語らった。会話の中で一つだけ嫌だったのは、話の流れでどうしても結野さんの存在を説明しないといけなくて、興奮気味に鼻を膨らませた彼の興味関心が結野さんと僕の関係に集中してしまったせいで、今度会わせるという約束を強制的に取り付けられたこと。
結野さん本人の気持ちが、とかうんぬんかんぬん反抗したけれど、聞く耳持たず。必死に反抗した理由は、今思うとよくわからない。彼女は嫌がるどころか、性格的に喜んで会いたがるだろうけど、商店街で見かけた時の表情が頭にちらついた。
僕の頼んだロイヤルミルクティーは、話し終えて解散する頃にはすっかり味が薄くなっていた。
本田との会話を思い出しながら、ただ紙面上の活字に目を向けていた。
目の端で映る空が杏色に染まり始めた頃、目の前に人の気配を感じて顔を上げると、予想通り結野さんがいて、彼女は軽く微笑み、僕に目配せしてから席についた。「珍しいね、りんくんが小説じゃないの読んでるなんて」と小声で言う。時計を見ると、短針は十七時半を過ぎていた。
「たまにはいいかなって。というか遅かったね。向こうに移動する?」
「ううん。今日はここでゆっくり、本読みたい」
いつもはおしゃべりしても問題ないフリースペースに移動して、読書をしたり会話したりするのだけれど、今日の結野さんは少しだけ、元気がない気がする。といっても、商店街で見かけた時ほどではない。気になるのは、目尻がほんの少し赤いこと。彼女の白い肌に、赤みは余計に目立つ。泣いていた?と思いながら見ていると、彼女は視線に気づいてまた僕に向かって微笑んだ。無理矢理踊らせた彼女の周りの音符が、嫌に不自然だった。
「どうか、した?
「ううん。何にもないよ」
それからは、しばらく二人で黙って本を読んだ。一時間ほど経つと、結野さんが席から立つ。
「どうしたの?」
「今日はもう帰ろうかなって。りんくんは帰る……?」
普段よりも早いけれど、結野さんの謎の寂しげな表情になんとも断り辛く、「うん。僕も帰るよ」と小声で同意した。
公園西口までの帰り道。日が顔を隠したせいで、辺りの命の音も静寂に眠っている。
言葉数少ない結野さんも、周りに同調したように存在が朧げで、集中していないと僕の意識から消えてしまいそうだった。いつもと違う。考えすぎではなく、確実に。
「結野さんっ」
「りんくん」
言葉を待ち伏せしていたかのように、遮るように結野さんは僕の名を呼んだ。
「え?」
出番を迎えた夜気が吹く。控えめに揺れた結野さんの髪が、彼女の表情を隠した。
出しっぱなしなのだろうか。蛇口から漏れ出る情けない水の音が、前方から聞こえた。
僕は結野さんの次の言葉を、緊張しながら待った。
「明日さ、私の音、聴いてくれない?」
身構えていたのもあって、少し緊張の糸が緩んで前のめりに倒れそうになった。
引っ越しとか、またこの日常が無くなるような不安が心の中で顔を覗かせていたから。
「フルート? もちろんだよ! 東口の近くに小さめの広場があるから、そこで演奏会をやろうよ。人があんまり来ないとこだし」
しばらく結野さんは僕を凝視していた。「あ、ごめん急にテンション上がって」と謝ると彼女は頭を振り、
「ううん。ありがとう。嬉しい」
と笑みを浮かべた。
小学生の頃の、フルートを背負い元気に揺らしていた時の姿の面影を、彼女の表情に見た。
結野さんを商店街で見た週の土曜日、僕は一六時少し前に図書館に着いた。
少し気分を変えて、小説ではなく気になっていた自己啓発系の本を取り、八人掛けのテーブルの端の席に腰を下ろした。
縦長窓から覗き見える薄雲。視線を空から活字に移しても、いまいち集中できない。
原因ははっきりしていて、先週見かけた宮野のことだった。
卒業後の進路は知らなかったけれど、大学の第一志望は大阪にある難関私立と聞いていたから、てっきりその大学に進学するものだと思っていた。だから、商店街で見かけたことが不思議だった。
あまり彼の記憶は故意に思い出したくない。でもどうしても気になり数日前に本田に連絡を取った。
高校の卒業式で宮野との一件があってから、なんとなくばつが悪くて本田には自分から連絡できていない。
彼からは何度か連絡をもらっていたのに、新生活の準備やらで忙しいとか、適当な理由をつけて誘いを断っていた。
「林道~! 薄情な友達だよほんっとに! あー寂しかった」
ひばり公園から程近い、三十代くらいの姉妹が切り盛りするカフェで僕らは会った。
開口一番に放たれた本田の不満に関しては、ただ謝罪するしかない。
「ごめん」
「まあいいよ、で、今日はどしたん? 何か相談したそうな雰囲気だけど」
そんな雰囲気を出してしまっていたのかと、恥ずかしくなる。
「うん。こないださ、宮野を商店街で見かけたんだよね」
「宮野? まじで? そうなんだ。てか、林道って宮野と仲良かったっけ?」
僕は全てを話した。宮野との高校での出来事を、全て。包み隠さず。本田の顔から、みるみる明るさが消えて真剣になっていく。
「あー。それはなんか、悪かったな」
「なんで本田が謝るの? 宮野に弱腰な僕がいけない」
「林道は悪くねーよ。いや、俺も今は宮野と連絡取ってなくてさ。……あいつ、第一志望の大学に落ちたんだよ」
本田の言葉の余韻に飾りを添えるように、からんっと、アイスティーの氷が触れ合う音が鳴る。意外だった。宮野の成績はいつも学内テストでトップクラスだったし、受験期間中はずっと変わらず笑顔でクラスメイトに接していたから、第一志望に受かったものと疑わなかった。
「そうだったんだ。てっきり受かったんだと……」
本田が大きなため息を漏らす。僕を睨み、けれどその視線は僕にではなくて、もっと先を睨んでいるように感じた。
「だろ? 俺もだよ。あいつ全然自分のことは言わなくてさ、俺もぎりぎりまで知らんかった。で、二月くらいから急に俺たちに対して態度が悪くなって、何度か俺から注意したんだけど……。卒業式前に、どうでもいいことで安井にノートを投げつけたことがあって、俺がその時安井をかばってあいつにキレたら、さらに逆上しやがって、一方的に絶縁された。まじでわけわかんねえ」
安井。少し気弱だけど誰にでも優しく、宮野とは中学からの付き合いだったはず。僕はほとんど話したことがなかったけど、宮野とはとにかく仲が良さそうだった。宮野の暴力的な一面は、あの冷たい視線を考えると納得ではあったが、まさか本田と絶縁していたなんて。
「自分は落ちて、他のみんなは大学に受かってたから、気まずかったのかな」
「さーな」
本田は言葉を一度切って、窓外を見つめた。
「宮野からさ、あいつの両親は小さい頃から勉強にうるさくて、それがしんどくてって話は何度か聞いてたんだよ。きっと落ちた後は家にも居づらくて、しんどかったのかなって思う。でもさ、どんな事情があっても、そんなんみんな同じだろ? 大なり小なり何かしら抱えてるし」
何かしら抱えている。痛いところを突かれたように、途端にいたたまれなくなる。
「そう、だね」
「それにあいつ、人当たりはいいんだけど、こっちが少し踏み込もうとすると、急に扉を閉めたりすんだよ。いきなりスンってなるっていうか。そのくせ、いざ何かあったら周りに当たるとか、ありえないだろ? そう思わん?」
僕に視線を戻し、いつもの陽気な笑顔は見せない本田。真剣に、ただ誠実に。宮野を突き放しているようで、心から心配しているのがわかる。人に向き合う姿勢は、本当に尊敬している。けれど、どこか自分のことを言われているようで、体はどんどん重くなる。
「同感だよ。でさ、さっきも言ったけど、こないだ宮野を駅前の商店街で見たんだよね。大阪に行ったと思い込んでたから、びっくりした」
「あ、そうそう。そこが変なんだよな。あいつ、受かる気まんまんで大阪に一人暮らし用の物件も契約してたらしいから、そのままランクが少し下の大阪の私立大に進学する予定って、安井に聞いたんだけどな」
特に何かされた訳でもないのに、背筋に悪寒が走った。大阪にいるはずの宮野が、商店街にいた理由。気になるけど、これ以上詮索すると気分がどんどん悪くなりそうだった。考えても詮無いこと。そう、思うことにしよう。
「ええ、じゃあなんでいたんだろ……。まあ、別にいいんだけど」
「うん、もう気にすることねーよあんなやつ。あ! そういや、いい大学デビューはできたのかよ。俺は気になって気になって朝も起きれなかった」
「朝は起きなよ。夜も眠れない、でしょ。それに、何もないよ」
それからは、話題を変えてお互いの近況を語らった。会話の中で一つだけ嫌だったのは、話の流れでどうしても結野さんの存在を説明しないといけなくて、興奮気味に鼻を膨らませた彼の興味関心が結野さんと僕の関係に集中してしまったせいで、今度会わせるという約束を強制的に取り付けられたこと。
結野さん本人の気持ちが、とかうんぬんかんぬん反抗したけれど、聞く耳持たず。必死に反抗した理由は、今思うとよくわからない。彼女は嫌がるどころか、性格的に喜んで会いたがるだろうけど、商店街で見かけた時の表情が頭にちらついた。
僕の頼んだロイヤルミルクティーは、話し終えて解散する頃にはすっかり味が薄くなっていた。
本田との会話を思い出しながら、ただ紙面上の活字に目を向けていた。
目の端で映る空が杏色に染まり始めた頃、目の前に人の気配を感じて顔を上げると、予想通り結野さんがいて、彼女は軽く微笑み、僕に目配せしてから席についた。「珍しいね、りんくんが小説じゃないの読んでるなんて」と小声で言う。時計を見ると、短針は十七時半を過ぎていた。
「たまにはいいかなって。というか遅かったね。向こうに移動する?」
「ううん。今日はここでゆっくり、本読みたい」
いつもはおしゃべりしても問題ないフリースペースに移動して、読書をしたり会話したりするのだけれど、今日の結野さんは少しだけ、元気がない気がする。といっても、商店街で見かけた時ほどではない。気になるのは、目尻がほんの少し赤いこと。彼女の白い肌に、赤みは余計に目立つ。泣いていた?と思いながら見ていると、彼女は視線に気づいてまた僕に向かって微笑んだ。無理矢理踊らせた彼女の周りの音符が、嫌に不自然だった。
「どうか、した?
「ううん。何にもないよ」
それからは、しばらく二人で黙って本を読んだ。一時間ほど経つと、結野さんが席から立つ。
「どうしたの?」
「今日はもう帰ろうかなって。りんくんは帰る……?」
普段よりも早いけれど、結野さんの謎の寂しげな表情になんとも断り辛く、「うん。僕も帰るよ」と小声で同意した。
公園西口までの帰り道。日が顔を隠したせいで、辺りの命の音も静寂に眠っている。
言葉数少ない結野さんも、周りに同調したように存在が朧げで、集中していないと僕の意識から消えてしまいそうだった。いつもと違う。考えすぎではなく、確実に。
「結野さんっ」
「りんくん」
言葉を待ち伏せしていたかのように、遮るように結野さんは僕の名を呼んだ。
「え?」
出番を迎えた夜気が吹く。控えめに揺れた結野さんの髪が、彼女の表情を隠した。
出しっぱなしなのだろうか。蛇口から漏れ出る情けない水の音が、前方から聞こえた。
僕は結野さんの次の言葉を、緊張しながら待った。
「明日さ、私の音、聴いてくれない?」
身構えていたのもあって、少し緊張の糸が緩んで前のめりに倒れそうになった。
引っ越しとか、またこの日常が無くなるような不安が心の中で顔を覗かせていたから。
「フルート? もちろんだよ! 東口の近くに小さめの広場があるから、そこで演奏会をやろうよ。人があんまり来ないとこだし」
しばらく結野さんは僕を凝視していた。「あ、ごめん急にテンション上がって」と謝ると彼女は頭を振り、
「ううん。ありがとう。嬉しい」
と笑みを浮かべた。
小学生の頃の、フルートを背負い元気に揺らしていた時の姿の面影を、彼女の表情に見た。
