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希望に満ちていた大学生活。
積み上げてきた希望。
崩れ去った希望。
皆、当たり前にくる未来を信じて笑っている。
大学だけじゃない。日常のあらゆる煌めきを見る度に、胸のうちが痛くなる。今まで気づかなかったけれど、点でしか見ていなかったけれど、あらゆる煌めきは線になっていて、過去から未来に伸びている。未来を閉ざされた目には、もう煌めきが嫌味にしか映らない。
暗がりに自ら飛び込んでいけないのはわかってる。
そう、悲観しすぎるな。だめ。だめ。りんくんと再会して、頑張ってみようって決めたんだから。
次の講義に向けて、俯きながらキャンパスを歩く。三号館の入り口から視線を感じた。
「栞ー!」
声をかけてくれたのは、同級生の小村美咲。高校からの友達。身長は百五十二センチほどで痩せ型。だぼっとしたラフなスウェットシャツをよく着て、髪はいつもツインテール。少し巻き髪。私が一六〇センチで、いつも美咲が少し見上げる形になるから、明るい人懐っこい性格も合わさって、とにかく小動物みたいで可愛い。心に邪気の欠片も持たないような、素敵な子。私は、「お疲れ」と手を上げた。
「栞はこれから講義?」
「うん。必修の宗教史なんだ」
美咲は同じ器楽科で、専攻はヴァイオリン。ワインレッドのケースが似合っていて可愛い。
少女のような出立ちからは想像できないけれど、ヴァイオリンの腕前は相当なものだ。
「うげー! あれ、超眠いよねえ。あ、そうだ! 後で昼ごはん一緒に食べよ!」
「あ、いや……それは……」
入学する前に、決めていたこと。大学で私が過ごせる期間は長くても一年。だから、必要以上に友達付き合いをしないこと。
どうして?
だって、誰かと仲良くなればなるほど、心を通わせれば通わせるほど、死ぬのがどんどん怖くなる気がするから。みんなともっといたいって、きっと思ってしまう。その葛藤に耐えられる自信がない。だから無理をしてでも、みんなの前では笑顔や相槌で感じが悪くならないように、必要最低限の対応だけして、深くは付き合わないように心がけている。
基本はつんとした表情で、とっつきにくくする。知り合った人、特に学生オケの仲間は本当にいい人ばっかりだから、本当はたくさん話したい。たくさん、一緒に音楽を奏でたい。
「お願い栞ー! 栞と話したいんだもーん」
抱きつかれる。美咲だけは、どんなに距離のある対応をしてもすぐに全速力で詰めてきてくれる。困りながらも、正直嬉しい。飛び上がるくらい、本当は嬉しい。高校生の時、いつも二人で過ごして、笑って、歌って、一緒に音楽を奏でた。そんな美咲と、りんくんにだけは、甘えてもいいのかもしれない。
「わかったわかった。じゃあ、十二時十分に食堂前ね」
「やった! じゃあそれまで図書館で寝てこよーっと」
美咲の後ろ姿を見送りながら、「寝るのかよ」とツッコミを入れた。思わず笑みがこぼれる。すぐに首を振る。しっかりしなくちゃ。彼女は例外として、ちゃんと触れにくい人間を演じるんだ。大事な人が増えたら、今は心が持たない。
大学は両親とお医者さんにお願いして、ぎりぎりまで通わせてもらえることになっている。一日でも長く、当たり前の生活がしたい。その為に両親のお金を使わせてしまっているのは申し訳ないけれど、それでも、当たり前に生きたい。
二号館の前まで来て、少し空を見上げた。瞬間、吐き気が込み上げてきた。薬のせいだ。
このまま我慢したら、喉が破裂する。私は急いで二号館一階の女子トイレに駆け込んだ。
よかった。誰もいない。一番手前の個室に駆け込み、思い切りに吐いた。
何かを強く引き絞るような、喉を逆流する不快な嘔吐物の音。
便器に荒々しく注ぎ込まれる、私の嘔吐物。
何かを踏み潰したような、不愉快な音。
息すらまともにできず、吐きながら漏れる情けない嗚咽の音。
目からずっと流れ続ける、汗。
吐き終わってからも、無情に流れ続ける、汗。
悲しむことすら許さない、嘔吐物の強烈な匂い。
誰かが、トイレに入ってきた。
声を掻き消すように、センサースイッチに手をかざし、嘔吐物を流す。
音が鳴り止むまで、咽び泣いた。いまこの場にある全ての音が、大嫌いだ。
講義が始まる時間になっても、私はトイレから出られなかった。おもむろに携帯電話を取り出す。美咲に『ごめん。急用ができて、家に帰る。ごめんね』とメッセージを送った。すぐに既読がついて、『残念すぎるよー! でも、明日の楽しみにとっとく! 急用、大丈夫? 何かあったら言ってね!』ときた。
また、目から汗が垂れた。『ごめんね』しか、打てなかった。
ごめんね。美咲。みんな、ごめんね。つんけんした態度をとってごめんね。
きっと、傷つけてるよね。本当にごめんね。思いやりを向けられなくて、ごめんね。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめん…ね。
私はまた、咽び泣いた。ひたすらに。
廊下から聞こえる賑やかな声が、虚しく私の心を引っ掻いた。
希望に満ちていた大学生活。
積み上げてきた希望。
崩れ去った希望。
皆、当たり前にくる未来を信じて笑っている。
大学だけじゃない。日常のあらゆる煌めきを見る度に、胸のうちが痛くなる。今まで気づかなかったけれど、点でしか見ていなかったけれど、あらゆる煌めきは線になっていて、過去から未来に伸びている。未来を閉ざされた目には、もう煌めきが嫌味にしか映らない。
暗がりに自ら飛び込んでいけないのはわかってる。
そう、悲観しすぎるな。だめ。だめ。りんくんと再会して、頑張ってみようって決めたんだから。
次の講義に向けて、俯きながらキャンパスを歩く。三号館の入り口から視線を感じた。
「栞ー!」
声をかけてくれたのは、同級生の小村美咲。高校からの友達。身長は百五十二センチほどで痩せ型。だぼっとしたラフなスウェットシャツをよく着て、髪はいつもツインテール。少し巻き髪。私が一六〇センチで、いつも美咲が少し見上げる形になるから、明るい人懐っこい性格も合わさって、とにかく小動物みたいで可愛い。心に邪気の欠片も持たないような、素敵な子。私は、「お疲れ」と手を上げた。
「栞はこれから講義?」
「うん。必修の宗教史なんだ」
美咲は同じ器楽科で、専攻はヴァイオリン。ワインレッドのケースが似合っていて可愛い。
少女のような出立ちからは想像できないけれど、ヴァイオリンの腕前は相当なものだ。
「うげー! あれ、超眠いよねえ。あ、そうだ! 後で昼ごはん一緒に食べよ!」
「あ、いや……それは……」
入学する前に、決めていたこと。大学で私が過ごせる期間は長くても一年。だから、必要以上に友達付き合いをしないこと。
どうして?
だって、誰かと仲良くなればなるほど、心を通わせれば通わせるほど、死ぬのがどんどん怖くなる気がするから。みんなともっといたいって、きっと思ってしまう。その葛藤に耐えられる自信がない。だから無理をしてでも、みんなの前では笑顔や相槌で感じが悪くならないように、必要最低限の対応だけして、深くは付き合わないように心がけている。
基本はつんとした表情で、とっつきにくくする。知り合った人、特に学生オケの仲間は本当にいい人ばっかりだから、本当はたくさん話したい。たくさん、一緒に音楽を奏でたい。
「お願い栞ー! 栞と話したいんだもーん」
抱きつかれる。美咲だけは、どんなに距離のある対応をしてもすぐに全速力で詰めてきてくれる。困りながらも、正直嬉しい。飛び上がるくらい、本当は嬉しい。高校生の時、いつも二人で過ごして、笑って、歌って、一緒に音楽を奏でた。そんな美咲と、りんくんにだけは、甘えてもいいのかもしれない。
「わかったわかった。じゃあ、十二時十分に食堂前ね」
「やった! じゃあそれまで図書館で寝てこよーっと」
美咲の後ろ姿を見送りながら、「寝るのかよ」とツッコミを入れた。思わず笑みがこぼれる。すぐに首を振る。しっかりしなくちゃ。彼女は例外として、ちゃんと触れにくい人間を演じるんだ。大事な人が増えたら、今は心が持たない。
大学は両親とお医者さんにお願いして、ぎりぎりまで通わせてもらえることになっている。一日でも長く、当たり前の生活がしたい。その為に両親のお金を使わせてしまっているのは申し訳ないけれど、それでも、当たり前に生きたい。
二号館の前まで来て、少し空を見上げた。瞬間、吐き気が込み上げてきた。薬のせいだ。
このまま我慢したら、喉が破裂する。私は急いで二号館一階の女子トイレに駆け込んだ。
よかった。誰もいない。一番手前の個室に駆け込み、思い切りに吐いた。
何かを強く引き絞るような、喉を逆流する不快な嘔吐物の音。
便器に荒々しく注ぎ込まれる、私の嘔吐物。
何かを踏み潰したような、不愉快な音。
息すらまともにできず、吐きながら漏れる情けない嗚咽の音。
目からずっと流れ続ける、汗。
吐き終わってからも、無情に流れ続ける、汗。
悲しむことすら許さない、嘔吐物の強烈な匂い。
誰かが、トイレに入ってきた。
声を掻き消すように、センサースイッチに手をかざし、嘔吐物を流す。
音が鳴り止むまで、咽び泣いた。いまこの場にある全ての音が、大嫌いだ。
講義が始まる時間になっても、私はトイレから出られなかった。おもむろに携帯電話を取り出す。美咲に『ごめん。急用ができて、家に帰る。ごめんね』とメッセージを送った。すぐに既読がついて、『残念すぎるよー! でも、明日の楽しみにとっとく! 急用、大丈夫? 何かあったら言ってね!』ときた。
また、目から汗が垂れた。『ごめんね』しか、打てなかった。
ごめんね。美咲。みんな、ごめんね。つんけんした態度をとってごめんね。
きっと、傷つけてるよね。本当にごめんね。思いやりを向けられなくて、ごめんね。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめん…ね。
私はまた、咽び泣いた。ひたすらに。
廊下から聞こえる賑やかな声が、虚しく私の心を引っ掻いた。
