ことばにおとをー君の死を、僕の最高傑作の燃料にー

毎週土曜日はバイトがないため(正確にいうとシフトを入れないようにしている)、一六時に図書館で集まるのが結野さんとの決まりになっていた。結野さんはバイトをしていない。両親は音楽家と官僚だから、お金があるんだろう。

僕は自立を理由に来年からは一人暮らしをする予定だから、学費とともにその資金も貯めないといけない。
一人暮らしといっても、実家から近いところにするつもりだけど。

ちなみに、バイトは野口と一緒だ。
彼は高三の時から大手チェーンのしゃぶしゃぶ屋で(学校には内緒で)バイトをしていたらしく、店長に僕を紹介してくれた。

面接もほどほどにすぐに採用となり、月、水木の週三日で働いている。学生だからなのかはわからないけれど、基本的に配膳と簡単な調理補助だけなので、仕事はかなり楽だ。飲み屋でもないから、そこまでめんどくさいお客もいないし、その分時給はそこまで高くはないけれど、そこそこ稼げるから満足している。

バイトを始めてから一ヶ月ほどが経った後の、水曜日のことだった。
毎週水曜日は講義が午前中で終わるから、バイトを十四時から入れていた。野口も一緒のシフトだ。商店街にある店舗でいつも混んではいるけれど、平日であることと、昼の混雑を過ぎていたこともあって夕方くらいまでは忙しくなさそうだった。

近くの着付け教室に通う、常連の上品な女性集団からの注文を捌いた後、窓際の席のテーブルを拭いていると、向かいのお店沿いに歩く学生らしき一団が視界に滑り込んだ。大きな楽器ケースを各々が肩に掛けたり、背負っていたり、手に持っている。

その中の一人が、見知った人だった。

「結野さん?」

思わず呟いて、意味もなく辺りを見渡す。

もう一度視線を戻すと、やはり結野さんだった。
けれど、なんだろう。得も言われぬ違和感を感じる。

遠くから見ても、整った容姿が際立っている。でもそういうことじゃない。
僕の前で話す彼女とは、まるで別人だ。
陽気な音色は全くない。ファッションが奇抜な人はいるけど、みんな人の良さそうな一団だから余計に落ち込んだ姿が目立つ。

なぜ、あんなに静かな、とっつきにくそうな無表情をしているんだ。
 
彼女の歩く位置にちょうどアーケードが落としている影があって、一人だけ違う空間にいるような、異質な雰囲気が彼女から漂っていた。発表会で音が乱れ、心が止まり、絶望が思考を断ち切る。そんな虚しさがそこにある。終わりの、無音が。

斜向かいの店が小さな楽器屋の前でたむろしながら、時折仲間から話しかけられていて、それには笑顔で応えているけど、必要最低限といった感じ。いつもの結野さんの面影は、欠片も存在していない。

しばらく呆然と眺めて、一団の背中を見送っていると、「ねえ、大丈夫? りっちゃん」と不意に声をかけられた。反射的に「わっ」と驚いて後ろを向くと、むしろこっちがびっくりだと言わんばかりの表情で、野口が訝しげに見ていた。補足すると、きっかけは忘れたけど、僕のあだ名はりっちゃんになっていた。ただし、野口に限る。

「ど、どした?」

「いや、どしたって……今勤務中だよ? ホール行ったっきり、注文も鳴ってないのに全然戻ってこないから、様子見に来たんだよ」

「あ、ごめんごめん。ちょっとぼーっとしてて」

真面目が辞書からそのまま出てきたような野口は、責めるような目つきで優しく睨む。

「ぼーっと、ねえ。なんか音大生?っぽい集団を目で追ってたけど、知り合いでもいたの?」

そこは見られてたのか。誤魔化しきれずに看破された恥ずかしさが込み上げてくる。

「あ、もしかして一人綺麗な子がいたから、さては見惚れてた? りっちゃんもちゃんとそういう感情はあるんだね」

「は? 違うって、確かに見てたけど、あの子は知り合いで……」

小学生の時から、結野さんへの感情はわからずにいる。魅力的な人だし、恩人だ。それだけの、はず。

「表情が正直すぎる。いいところだけど、隠し事とかすぐにばれるタイプだから、気をつけなよ」

本田にも似たような言葉を言われた気がする。
いけない。最近、体中に張り巡らせた緊張が緩んでいる気がする。
誰も入ってこれないようにもっと気をつけないと、全てが壊れる。

「ごめん、なんか説教くさくなった。てか、あんな美人が知り合いなんて、やるね」

僕は人知れず再び緊張を強めた。

「ううん。こちらこそ。でもやるねって何だよ。小学生の頃からの付き合いで、それだけだよ。途中転校して長い間会ってなかったけど、数ヶ月前に再会してさ」

追求がめんどくさそうだから、図書館で会っていることなどは伏せた。

「なんか、恋の始まりみたいな展開じゃん」

野口はいささか、ませた小学生の女の子みたいな思考をする時がある。

「野口ね、本の読み過ぎだと思うよ。そんなあまーい展開なんて普通ないから。それに……」

それに、ただ今は、結野さんの別人のようだった雰囲気が気になる。本当にあれは結野さんだったのか、疑いたくなるほどの。

「それに?」

「いや、なんでもない。ほら、仕事仕事」

「急に仕切り出す? りっちゃんがサボってたんだろ」

軽く野口に背中を叩かれた。今になって気づいたけど、店長が厨房の入り口に寄りかかって、柔らかな微笑を湛えながらこちらを見ていることに気づいた。ああ、今日はきっと、退勤の時に呼び出し、だな。

いないのはわかっているのに、斜向かいの楽器屋をもう一度見る。
荒廃した土地に風だけが吹いているような、寂寞とした空気だけが残っていた。そして、すぐに目を逸らしたけれど、また一人、知っている人が足早に通っていったのが見えた。髪を染めていたけど、間違いない。見たくなかった。もう二度と。

――冷たい視線が、蘇る。宮野啓太だった。