しばらく結野さんの音楽話に対して、僕は黙って頷いたり時折質問したりしながら、久しぶりの会話に二人で花を咲かせた。
バッハは音楽一族の生まれだとか、礼拝用の曲を多く作っていたとか、兄から教えてもらったオルガンが得意で、オルガニストでもあったこと。ゴルトベルク変奏曲は不眠症に悩む、とある伯爵のために作曲されたこと。
音楽の全てに作者の想いが込められていて、自分たち演奏家は作者の想いを掬って表現するんだという、彼女自身の熱い想い。
自分の紡ぐ音色で、みんなを笑顔にしたいという将来の夢。
それらを幸せそうに、中空を見つめながら話す彼女からは、明るい音色が流れていた。
僕にはない目眩くほどの煌めきに、嫉妬に似た感情を抱いた時もあったけれど、今は尊敬の念を抱いている。
――僕は、何をしているんだろう。将来……か。
「あ、私ばっかり喋ってごめんね。りんくんは? 最近小説は書いてるの?」
高校三年間でも書いてはいたけど、それだけだ。
昔に書いた原稿のうちの一つを文学賞に応募して、いきなり最初の選考を通ったことがあった。
嬉しいはずなのに、同時に恐怖だった。いろんな人に、自分の本音が一気に知れ渡るかもしれない、傲慢にも似た、恐怖。
最終選考まで残って、落ちた時、落胆と同時に安堵してしまった。
怯え、逃げて、でも認められたい。でも怖い。どこまでも醜い、感情の坩堝。
「うん……それなりに」
結野さんと再会できた喜びに、傷がついたような痛みが、胸の内に走った。
「いいねいいね! 今度また読ませてよ。成長したりんくんの物語、絶対面白いもん! 読みたい!」
「そんな風に言ってくれるの、今も昔も、結野さんだけだよ」
「ええ~。だとしたらみんな、見る目ないなあ」
少しむっとした表情で空を見上げる結野さん。「ありがとう」と、心の中で呟いた。
その場しのぎで、本音を隠しながら、ただ上辺だけで生きてきた人生。
未来への希望も、大志も、遠大な将来設計があるわけでもない。
用意された線路を、外れるどころか急行で進む勇気すらない。でも……。
――結野さんのフルートの残響が、耳の内でやおらかに響き渡る。
でも、また少し、頑張ってみようという気持ちになってくる。
結野さんの音楽には、言葉には、人の心を動かす不思議な力がある。
初めて彼女の音を聴いた、あの時みたいに。
「たまにだけで、最近はそこまでがっつりは書けてなかったから、また真剣に書いてみるよ。いいところまでいったら、必ず、結野さんに一番に見せるね」
「本当に⁉︎ やった! 約束だからね。破ったら罰をお見舞いするから」
「罰って?」
「え? 罰は罰だよ。ほら、うん。うーん、あっつあつのたこ焼きを唇に当てるぞの刑とか……」
「ぜっったい何も考えてなかったでしょ? 白状しなよ」
「はい……」
沈黙の後、二人で笑い合った。もうしばらく話して、連絡先を交換して、昔と同じように結野さんを西門まで送った。
連絡を取り合って、定期的に図書館で会おうという約束も。
些細なことかもしれないけれど、そんな喜びがあるなら、前向きに頑張ろうと思えた。
※
『打つ手はありません。もって一年です』
少し空いた診療室の窓の隙間から、不穏な葉擦れの音が耳に届く。
高校の卒業式の少し前の出来事だった。
とても、自分のことを言われているとは思えない。
え、誰のこと? 私? 私が余命宣告を受けたってこと?
私から離れないお医者さんからの視線が、嫌でも現実にはっきりとした輪郭を加えてくる。
癌なんだって。私。ステージは四だって。何それ。ねえ、私……。
――私、死ぬの?
咳が完治しなくて、症状が長く続いた。受診した街の病院では原因を掴みきれず、大きな総合病院への紹介状を書いてもらい、その日にいくつかの検査を受けた。念の為にと受診した結果だった。
ただのしつこい風邪だと思っていたから、病院には一人で来ていた。両親が不在のためか、担当の先生は結果を言い渋っていたけれど、その態度が余計に事態の現実性を私の心にもたらした。信じたくなくて、頭が真っ白になって、「本当に私のことを言ってますか?」と、先生に何度も聞いてしまった。病院を出て、ママに電話をかけた。「どうだった?」という質問に、私はしばらく沈黙して返事をできなかった。俯いていると、いつの間にか涙が出ていた。
「ママ、私、ダメみたい……」
絞り出せたのは、それだけだった。
電話を切る。生まれて初めて、目に入ったフルートが憎たらしくなった。どうしようもないほどに。地面に叩きつけようとした。
でも、できなかった。そんなこと、できなかった。
私はただ、周りの目も気にせず、泣いた。
りんくんと別れて、楽しい薬が切れてしまったみたい。
一人になると、いつも思い出してしまう。余命宣告された時の、情景を。
一人になると、どうしても、恐怖と不安に頭を支配されてしまう。
朱鷺色の空を見上げる。死を意識してから、感情の整理が上手くつかずに、現在過去と思いが錯綜する。
転校のせいで友達関係はいい思い出があまりなかったけれど、恋愛の失敗も経験したけれど、フルートは、音楽はとにかく順調だった。国際芸術大学の音楽学部器楽科に合格して、学生オーケストラへの入団も既に決まっていた。これからだった。これから、もっともっと私の音楽を聴いてもらって、たくさんの人の心を笑顔にしたかった。
――なのに、何で、私なの?
高校の卒業式後は、全ての予定をキャンセルして部屋にこもった。
両親は辛そうな顔で私に接してくるようになった。
心配してくれている。頭ではわかってる。私だって、心配してくれてありがとうって思いたい。
でも、無理。『私の方が辛いんだよ。自分たちだけそんな顔すんな』って、自分でもびっくりするくらいの醜い感情が湧き出てしまう。まだ、余命宣告されてそんなに経っていないのに、もう、情緒をコントロールできていない自分。
この先、きっと、どんどん私の体は、自分の意思に反して、生きる気力を無くしていく。
気合いと根性だけではどうにもできない運命が、私の命を削っていく。
生きたい。まだ生きれる。でも、その残り少ない人生を、私は全うできる?
多くの人を、余計に傷つけてしまうかもしれない。だって、今でもこんなに攻撃的な感情が芽吹いているんだから。
両親が出かけているタイミングで、私、部屋で思いっ切り泣いた。目尻が痛くなるまで、嗚咽で喉がひりつくまで。
ずっとずっと。
音が心地よくなくて、でもそれでも、必死にここまで、文字通り音楽に全てをかけてきた。
その終着点が、これ? 神様、どうして? あんまりだよ。
ひとしきり泣いた後、感情の説明はできないんだけど、何かに縋るように、私、フルートを手に取った。
私の人生の、全て。
これから沢山いろんなステージで吹いて、歌って、皆に褒められて、皆を笑顔にして。
でももう、それもできないんだ。
フルートを抱きかかえて泣いていると、不意にりんくんのことを思い出した。
初めて、私を、私の音を、正面から聴いてくれた人。
あの時だった。魅入られたような、幸せに満ちた恍惚とした彼の表情を見た時、幼心に、音楽で人を笑顔にしたいと強く願ったのは。できれば両親にも、同じような表情をして欲しいなって。中学でも高校でも、大事なコンサートの時は、胸のうちで彼の表情をいつも思い描いていた。私にとって、生きるための大事なお守りだった。
――残った命で、まだ、人を笑顔にできるのかな。私の音色で。
フルートを握り締めた時、もう一つ思い出した。りんくんが見せてくれた物語。漢字とひらがなが入り混じって、たどたどしい言葉で紡がれていた物語。物語というより、可愛らしい日記みたいだった。でも、言葉は鮮烈。ありありと、これでもかと、死への美がそこに書かれていた。もしかしたら、りんくんも?って……今なら思う。けれど、私が本当に心が動かされたのは、最後の一文。
『たくさんわらってね。ぼくもこっちでわらう。きみが天ごくにきたときは、いっしょにピアノをひこう。そしていっしょに、わらおう』
はっきりとした文字が頭の中に浮かび上がる。ありありと死を表現しながら、なんて、なんて優しさに満ちた言葉だろう。元々無口な子で、他の子と違って私に近づいてこなかったから、気になって話しかけた程度だったけど、物語を読んだ時、彼の底なしの優しさに触れた気がして、強く印象に残った。
思い出すとどこか、りんくんに直接言われている気分になる。
――まだ、あの図書館に通っているのかな
無性に、りんくんに会いたくなった。何かに、縋りたかった。
誰か、助けて。
受付に中川さんはいなかった。辞めてしまったのかな。
少し残念に思いながらもう一度利用者カードを作ってもらった。階段を上って、思い出をなぞるように、音楽系の書架に向かう。流石に、偶然会えるわけないじゃんと思い始めていた時、願った声が耳に届いた。
たとえりんくんが今も頻繁に通っていたとしても、願った通りに会えるなんて、信じられなかった。
でも、彼はそこにいた。
小学生の時と変わらない黒縁メガネ。
程よくかかった前髪。
相変わらずの童顔だけど、少し大人びた雰囲気だった。背は私より高くなっていた。
失ってしまった未来に続く時の流れが、今の私の心には、強く響く。
……でも嬉しかった。本当に。嬉しいの最上級って何だろう。
それくらい、言葉に言い表すことができないくらい、心が喜んだ。
恋なのかはわからない。そもそも、恋をしたって、私にはもう叶わないんだから、考えたくない。
恋の先の未来が、私には用意されていないんだから。
でも、会えてよかった。話せて、本当に心が軽くなった。
また、私の音色を聴いて、彼は幸せそうな表情をしてくれた。
また、見れた。大丈夫。私、きっと、頑張れる。きっと。
花が咲き始める春に、後ろ向きでいたくない。
負けたくない。
バッハは音楽一族の生まれだとか、礼拝用の曲を多く作っていたとか、兄から教えてもらったオルガンが得意で、オルガニストでもあったこと。ゴルトベルク変奏曲は不眠症に悩む、とある伯爵のために作曲されたこと。
音楽の全てに作者の想いが込められていて、自分たち演奏家は作者の想いを掬って表現するんだという、彼女自身の熱い想い。
自分の紡ぐ音色で、みんなを笑顔にしたいという将来の夢。
それらを幸せそうに、中空を見つめながら話す彼女からは、明るい音色が流れていた。
僕にはない目眩くほどの煌めきに、嫉妬に似た感情を抱いた時もあったけれど、今は尊敬の念を抱いている。
――僕は、何をしているんだろう。将来……か。
「あ、私ばっかり喋ってごめんね。りんくんは? 最近小説は書いてるの?」
高校三年間でも書いてはいたけど、それだけだ。
昔に書いた原稿のうちの一つを文学賞に応募して、いきなり最初の選考を通ったことがあった。
嬉しいはずなのに、同時に恐怖だった。いろんな人に、自分の本音が一気に知れ渡るかもしれない、傲慢にも似た、恐怖。
最終選考まで残って、落ちた時、落胆と同時に安堵してしまった。
怯え、逃げて、でも認められたい。でも怖い。どこまでも醜い、感情の坩堝。
「うん……それなりに」
結野さんと再会できた喜びに、傷がついたような痛みが、胸の内に走った。
「いいねいいね! 今度また読ませてよ。成長したりんくんの物語、絶対面白いもん! 読みたい!」
「そんな風に言ってくれるの、今も昔も、結野さんだけだよ」
「ええ~。だとしたらみんな、見る目ないなあ」
少しむっとした表情で空を見上げる結野さん。「ありがとう」と、心の中で呟いた。
その場しのぎで、本音を隠しながら、ただ上辺だけで生きてきた人生。
未来への希望も、大志も、遠大な将来設計があるわけでもない。
用意された線路を、外れるどころか急行で進む勇気すらない。でも……。
――結野さんのフルートの残響が、耳の内でやおらかに響き渡る。
でも、また少し、頑張ってみようという気持ちになってくる。
結野さんの音楽には、言葉には、人の心を動かす不思議な力がある。
初めて彼女の音を聴いた、あの時みたいに。
「たまにだけで、最近はそこまでがっつりは書けてなかったから、また真剣に書いてみるよ。いいところまでいったら、必ず、結野さんに一番に見せるね」
「本当に⁉︎ やった! 約束だからね。破ったら罰をお見舞いするから」
「罰って?」
「え? 罰は罰だよ。ほら、うん。うーん、あっつあつのたこ焼きを唇に当てるぞの刑とか……」
「ぜっったい何も考えてなかったでしょ? 白状しなよ」
「はい……」
沈黙の後、二人で笑い合った。もうしばらく話して、連絡先を交換して、昔と同じように結野さんを西門まで送った。
連絡を取り合って、定期的に図書館で会おうという約束も。
些細なことかもしれないけれど、そんな喜びがあるなら、前向きに頑張ろうと思えた。
※
『打つ手はありません。もって一年です』
少し空いた診療室の窓の隙間から、不穏な葉擦れの音が耳に届く。
高校の卒業式の少し前の出来事だった。
とても、自分のことを言われているとは思えない。
え、誰のこと? 私? 私が余命宣告を受けたってこと?
私から離れないお医者さんからの視線が、嫌でも現実にはっきりとした輪郭を加えてくる。
癌なんだって。私。ステージは四だって。何それ。ねえ、私……。
――私、死ぬの?
咳が完治しなくて、症状が長く続いた。受診した街の病院では原因を掴みきれず、大きな総合病院への紹介状を書いてもらい、その日にいくつかの検査を受けた。念の為にと受診した結果だった。
ただのしつこい風邪だと思っていたから、病院には一人で来ていた。両親が不在のためか、担当の先生は結果を言い渋っていたけれど、その態度が余計に事態の現実性を私の心にもたらした。信じたくなくて、頭が真っ白になって、「本当に私のことを言ってますか?」と、先生に何度も聞いてしまった。病院を出て、ママに電話をかけた。「どうだった?」という質問に、私はしばらく沈黙して返事をできなかった。俯いていると、いつの間にか涙が出ていた。
「ママ、私、ダメみたい……」
絞り出せたのは、それだけだった。
電話を切る。生まれて初めて、目に入ったフルートが憎たらしくなった。どうしようもないほどに。地面に叩きつけようとした。
でも、できなかった。そんなこと、できなかった。
私はただ、周りの目も気にせず、泣いた。
りんくんと別れて、楽しい薬が切れてしまったみたい。
一人になると、いつも思い出してしまう。余命宣告された時の、情景を。
一人になると、どうしても、恐怖と不安に頭を支配されてしまう。
朱鷺色の空を見上げる。死を意識してから、感情の整理が上手くつかずに、現在過去と思いが錯綜する。
転校のせいで友達関係はいい思い出があまりなかったけれど、恋愛の失敗も経験したけれど、フルートは、音楽はとにかく順調だった。国際芸術大学の音楽学部器楽科に合格して、学生オーケストラへの入団も既に決まっていた。これからだった。これから、もっともっと私の音楽を聴いてもらって、たくさんの人の心を笑顔にしたかった。
――なのに、何で、私なの?
高校の卒業式後は、全ての予定をキャンセルして部屋にこもった。
両親は辛そうな顔で私に接してくるようになった。
心配してくれている。頭ではわかってる。私だって、心配してくれてありがとうって思いたい。
でも、無理。『私の方が辛いんだよ。自分たちだけそんな顔すんな』って、自分でもびっくりするくらいの醜い感情が湧き出てしまう。まだ、余命宣告されてそんなに経っていないのに、もう、情緒をコントロールできていない自分。
この先、きっと、どんどん私の体は、自分の意思に反して、生きる気力を無くしていく。
気合いと根性だけではどうにもできない運命が、私の命を削っていく。
生きたい。まだ生きれる。でも、その残り少ない人生を、私は全うできる?
多くの人を、余計に傷つけてしまうかもしれない。だって、今でもこんなに攻撃的な感情が芽吹いているんだから。
両親が出かけているタイミングで、私、部屋で思いっ切り泣いた。目尻が痛くなるまで、嗚咽で喉がひりつくまで。
ずっとずっと。
音が心地よくなくて、でもそれでも、必死にここまで、文字通り音楽に全てをかけてきた。
その終着点が、これ? 神様、どうして? あんまりだよ。
ひとしきり泣いた後、感情の説明はできないんだけど、何かに縋るように、私、フルートを手に取った。
私の人生の、全て。
これから沢山いろんなステージで吹いて、歌って、皆に褒められて、皆を笑顔にして。
でももう、それもできないんだ。
フルートを抱きかかえて泣いていると、不意にりんくんのことを思い出した。
初めて、私を、私の音を、正面から聴いてくれた人。
あの時だった。魅入られたような、幸せに満ちた恍惚とした彼の表情を見た時、幼心に、音楽で人を笑顔にしたいと強く願ったのは。できれば両親にも、同じような表情をして欲しいなって。中学でも高校でも、大事なコンサートの時は、胸のうちで彼の表情をいつも思い描いていた。私にとって、生きるための大事なお守りだった。
――残った命で、まだ、人を笑顔にできるのかな。私の音色で。
フルートを握り締めた時、もう一つ思い出した。りんくんが見せてくれた物語。漢字とひらがなが入り混じって、たどたどしい言葉で紡がれていた物語。物語というより、可愛らしい日記みたいだった。でも、言葉は鮮烈。ありありと、これでもかと、死への美がそこに書かれていた。もしかしたら、りんくんも?って……今なら思う。けれど、私が本当に心が動かされたのは、最後の一文。
『たくさんわらってね。ぼくもこっちでわらう。きみが天ごくにきたときは、いっしょにピアノをひこう。そしていっしょに、わらおう』
はっきりとした文字が頭の中に浮かび上がる。ありありと死を表現しながら、なんて、なんて優しさに満ちた言葉だろう。元々無口な子で、他の子と違って私に近づいてこなかったから、気になって話しかけた程度だったけど、物語を読んだ時、彼の底なしの優しさに触れた気がして、強く印象に残った。
思い出すとどこか、りんくんに直接言われている気分になる。
――まだ、あの図書館に通っているのかな
無性に、りんくんに会いたくなった。何かに、縋りたかった。
誰か、助けて。
受付に中川さんはいなかった。辞めてしまったのかな。
少し残念に思いながらもう一度利用者カードを作ってもらった。階段を上って、思い出をなぞるように、音楽系の書架に向かう。流石に、偶然会えるわけないじゃんと思い始めていた時、願った声が耳に届いた。
たとえりんくんが今も頻繁に通っていたとしても、願った通りに会えるなんて、信じられなかった。
でも、彼はそこにいた。
小学生の時と変わらない黒縁メガネ。
程よくかかった前髪。
相変わらずの童顔だけど、少し大人びた雰囲気だった。背は私より高くなっていた。
失ってしまった未来に続く時の流れが、今の私の心には、強く響く。
……でも嬉しかった。本当に。嬉しいの最上級って何だろう。
それくらい、言葉に言い表すことができないくらい、心が喜んだ。
恋なのかはわからない。そもそも、恋をしたって、私にはもう叶わないんだから、考えたくない。
恋の先の未来が、私には用意されていないんだから。
でも、会えてよかった。話せて、本当に心が軽くなった。
また、私の音色を聴いて、彼は幸せそうな表情をしてくれた。
また、見れた。大丈夫。私、きっと、頑張れる。きっと。
花が咲き始める春に、後ろ向きでいたくない。
負けたくない。
