図書館を出ると、思わず手を掴んでいたことに気づいて、僕は「ごめん」と手を離した。
「ううん! あ、りんくん。さっきの続き、そこのベンチに座って話そうよ」
彼女の指差す先では、深緑色の手すりが良いアクセントになっている木製ベンチが桜の木の下で佇んでいた。
日は昇って暖かくなっていたけれど、まだ少し肌寒い。
結野さんを先に座らせて、僕は図書館入り口にある自販機でホットココアを二つ買ってまたベンチに戻った。
「ココア嫌い?」
「大好き! ありがとう。お金払うよ」
財布を出そうとすると結野さんを「気にしないで」と制した。
申し訳なさそうな彼女の表情をあまり見ていたくなかったので、
「それで、どうしてこの図書館にいたの?」
と、話題を変えた。彼女はココア缶を両手に添えて、少し俯いた。
僅かな間に春風が流れ込み、目の前の花壇に咲くシクラメンをかすかに揺らした。
シクラメンは秋から冬にかけてのイメージだったけど、春頃まで咲くのだなと、必死に呑気な考えで頭を満たす。
なぜかはわからない。教会でたった一人。
歌いながら返ってくるのは自分の声だけ。そんなような寂しさと仄かな崩壊の香りが、彼女から出ている。
「転校、あの後結構繰り返してさ。パパが省庁に勤めてるから、何回も。官僚ってやつだね。で、中学卒業の時に神奈川にきて、高校卒業と同じタイミングでまたここに戻ってきたんだ」
省庁勤めというと、ドラマでよく見るキャリア官僚とかかなと思ったけれど、なんとなく、彼女の濁した表現からあまり話したくなさそうだったから、詮索はせずに黙って頷いた。
「私は知らなかったんだけど、元々こっちには戻ってくる予定だったみたいでさ。家はパパの妹夫婦に貸してて、残してはいたんだって。知らされたの去年の末だよ? それで、こないだ入れ替わりで引っ越してきたの。色々街並みも変わってたから、落ち着きたくてこの図書館に来てみたって感じ。そして、りんくんに会えた」
彼女はそう言うと、僕の方を向いて「嬉しかった」と笑顔を浮かべた。僕はすぐに顔を逸らした。
昔は感じなかった。でも今は感じる。何かを隠しているような、彼女の笑顔。
「そうだったんだ。この辺の大学に進学するの?」
何も感じなかった風を装う。
「うん。突然の進路変更で大変だったよ。それに、相変わらずかって思うかもしれないけど、今もフルートやってるの。だから、近くの国際芸術大学に通うことになってる」
国際芸術大学。音楽学部ある大学の中では日本トップの大学だ。面接試験では、本当に訳のわからないことを聞かれるという噂を耳にしたことがあるし、勉学ではない特殊な才能を携えた天才しか受からない大学というイメージだ。
「すごいね。あそこって。本物の天才しか受からないって聞くよ」
「あはは。そんなことないと思うけどな。りんくんは? この辺の大学……だよね?」
「うん。京林大学の文学部に進学するんだ」
「え! すごっ! しかも文学部かあ。りんくんっぽくていいね」
「僕っぽいかなあ」
「うん。ぽいぽい。あ、根暗とか思ってないからね?」
「根暗って言われてるなんて全く思わなかったけど、ちょっとは結野さんの頭の中にあるってことだね」
「違う違う! 嫌味っぽくてうざいぞこのっ」
肩を小突かれて思わず笑った。人前で笑うのは、随分久しぶりに思えた。
彼女の周りで跳ねる音色は、いつも周りを陽気にさせる。
その場の空気すらも。
フルートをやっていること以上に、陽気な音色の方が相変わらずだ。
先ほどまでの嫌な匂いと、寂しげな音は忘れよう。僕の考えすぎのはずだから。
暖かな心地がそうさせたのか、彼女に一つお願いをした。
「ねえ、一つだけお願いがあるんだけど」
「ん?」
「フルート、聞かせて欲しいなあって」
不意に、結野さんの目から頬を伝って雫が落ちた。理解が追いつかない。
なぜ、彼女が泣いたのか。そんなにまずいことを言ってしまったのだろうか。
何かフルートに関して行き詰まっていて、彼女の心の琴線に荒々しく触れてしまったのだろうか。
「ご、ごめん! 僕、嫌なこと言った?」
結野さんは首を振り、「ううん。違うの」と言って、泣きながら笑った。訳が分からなかった。
「よし! いいでしょう! 言っとくけど、私の演奏、なかなか貴重なんだからね。感謝しなさい!」
「ううん! あ、りんくん。さっきの続き、そこのベンチに座って話そうよ」
彼女の指差す先では、深緑色の手すりが良いアクセントになっている木製ベンチが桜の木の下で佇んでいた。
日は昇って暖かくなっていたけれど、まだ少し肌寒い。
結野さんを先に座らせて、僕は図書館入り口にある自販機でホットココアを二つ買ってまたベンチに戻った。
「ココア嫌い?」
「大好き! ありがとう。お金払うよ」
財布を出そうとすると結野さんを「気にしないで」と制した。
申し訳なさそうな彼女の表情をあまり見ていたくなかったので、
「それで、どうしてこの図書館にいたの?」
と、話題を変えた。彼女はココア缶を両手に添えて、少し俯いた。
僅かな間に春風が流れ込み、目の前の花壇に咲くシクラメンをかすかに揺らした。
シクラメンは秋から冬にかけてのイメージだったけど、春頃まで咲くのだなと、必死に呑気な考えで頭を満たす。
なぜかはわからない。教会でたった一人。
歌いながら返ってくるのは自分の声だけ。そんなような寂しさと仄かな崩壊の香りが、彼女から出ている。
「転校、あの後結構繰り返してさ。パパが省庁に勤めてるから、何回も。官僚ってやつだね。で、中学卒業の時に神奈川にきて、高校卒業と同じタイミングでまたここに戻ってきたんだ」
省庁勤めというと、ドラマでよく見るキャリア官僚とかかなと思ったけれど、なんとなく、彼女の濁した表現からあまり話したくなさそうだったから、詮索はせずに黙って頷いた。
「私は知らなかったんだけど、元々こっちには戻ってくる予定だったみたいでさ。家はパパの妹夫婦に貸してて、残してはいたんだって。知らされたの去年の末だよ? それで、こないだ入れ替わりで引っ越してきたの。色々街並みも変わってたから、落ち着きたくてこの図書館に来てみたって感じ。そして、りんくんに会えた」
彼女はそう言うと、僕の方を向いて「嬉しかった」と笑顔を浮かべた。僕はすぐに顔を逸らした。
昔は感じなかった。でも今は感じる。何かを隠しているような、彼女の笑顔。
「そうだったんだ。この辺の大学に進学するの?」
何も感じなかった風を装う。
「うん。突然の進路変更で大変だったよ。それに、相変わらずかって思うかもしれないけど、今もフルートやってるの。だから、近くの国際芸術大学に通うことになってる」
国際芸術大学。音楽学部ある大学の中では日本トップの大学だ。面接試験では、本当に訳のわからないことを聞かれるという噂を耳にしたことがあるし、勉学ではない特殊な才能を携えた天才しか受からない大学というイメージだ。
「すごいね。あそこって。本物の天才しか受からないって聞くよ」
「あはは。そんなことないと思うけどな。りんくんは? この辺の大学……だよね?」
「うん。京林大学の文学部に進学するんだ」
「え! すごっ! しかも文学部かあ。りんくんっぽくていいね」
「僕っぽいかなあ」
「うん。ぽいぽい。あ、根暗とか思ってないからね?」
「根暗って言われてるなんて全く思わなかったけど、ちょっとは結野さんの頭の中にあるってことだね」
「違う違う! 嫌味っぽくてうざいぞこのっ」
肩を小突かれて思わず笑った。人前で笑うのは、随分久しぶりに思えた。
彼女の周りで跳ねる音色は、いつも周りを陽気にさせる。
その場の空気すらも。
フルートをやっていること以上に、陽気な音色の方が相変わらずだ。
先ほどまでの嫌な匂いと、寂しげな音は忘れよう。僕の考えすぎのはずだから。
暖かな心地がそうさせたのか、彼女に一つお願いをした。
「ねえ、一つだけお願いがあるんだけど」
「ん?」
「フルート、聞かせて欲しいなあって」
不意に、結野さんの目から頬を伝って雫が落ちた。理解が追いつかない。
なぜ、彼女が泣いたのか。そんなにまずいことを言ってしまったのだろうか。
何かフルートに関して行き詰まっていて、彼女の心の琴線に荒々しく触れてしまったのだろうか。
「ご、ごめん! 僕、嫌なこと言った?」
結野さんは首を振り、「ううん。違うの」と言って、泣きながら笑った。訳が分からなかった。
「よし! いいでしょう! 言っとくけど、私の演奏、なかなか貴重なんだからね。感謝しなさい!」
