透明に堕ちるわたしの輪郭

「一緒に待ってくれてたのかい?」

 車が発進してから窓の向こうで移り変わる景色に目を向けていた時、張りのある凛とした声が鼓膜に触れた。お母さんはハンドルを握りながら「あの子」と付け足した。ロマンスグレーの髪をゆるやかにかき上げ、花柄のチュニックと黒のパンツという出で立ちは今日もどこか品があり、顔立ちもくっきりとしている為に若い時はもっと綺麗だったんだろうなあと容易に想像がつく。私の、自慢のお母さんだ。

「うん、なんか話したいって。でもお母さんがもうすぐ来るからって言ったら、じゃあ来るまであそこで待とうって言ってくれたの」
「そう、確か鮎人くんって言ったかな? 利発そうないい子だ」
「お母さんのお気に入りだもんね」

 茶目っ気たっぷりに目配せした時、車がゆるやかに速度を落として止まった。夕暮れ時の夏の光が、正面に止まっている鏡面加工された車に反射して眩しかった。サンバイザーを降ろした時「あたしは昔から野球をやっている男には目がないからねえ」とお母さんが砕けたような笑みをみせた。

 前の車が動いたのとほぼ同時に私が乗る車も発進する。横や後ろで停車していた車もなにかに引き寄せられているみたいに同じ速度で進み出した。私が通う星林高校は山の(ふもと)にあるが、里中先生のクリニックは更に山に入ったところにある。蛇行しながら車は山道を進んでいき、途中にある小道を更に進むと両脇に針葉樹林が立ち並ぶ林道が現れる。そこを真っすぐに突っ切った先がそうだ。クリニックと名がついてはいるが、実際は一軒家だ。黒の壁とガラスを基調とした洋風テイストのおしゃれな家で、半分以上がガラス張りな為にいつも泥棒が入らないか心配になる。里中先生はいつも鍵をかけないから尚更。

 お母さんは私を家の前に降ろしてから「あとで迎えにくるからね」と車を発進させた。家の扉を開けた途端、(ひのき)の香りがふわりと鼻の奥を抜ける。どうして木造じゃないのにこんなに森の匂いがするのと一度問いかけてみると、「僕は檜が好きでね。家のなかは香料を使ってその香りで満たしているんだ」と答えてくれた。一階には居なかった為に二階に上がると里中先生は何やら書類を読んでいた。青いシャツに黒のパンツを身に纏い、眼鏡をかけながら何やら難しい顔をしている。仕事中なのかなと躊躇いながらも意を決して声をかけてみることにした。

「こんにちは」

 私に気付くと「路花ちゃん、よく来てくれたね。そこに座ってくれるかな」と里中先生は途端に優しげな笑みを向けてくれた。席に通される。ガラス張りのテーブルを挟んだ向かいの席には里中先生がいて、その背には大きなガラス窓がある。窓の向こうにみえる深い森をぼんやりとみつめていると里中先生がふいに立ち上がり、「紅茶好きだったよね」と問い掛けきたので小さく頷いた。出された陶器のカップからは微かに湯気が立ち昇っており、お茶を甘く煮詰めたような香りがする。

「いいにおい」
「アールグレイだよ。まだおかわりもあるからね。沢山飲むといい」
「はい。あっすっごく美味しいこれ」
「良かった。そんな風に言って貰えると丹精込めてお茶を淹れた甲斐があるよ。じゃあ、路花ちゃん。それを飲みながらでいいから聞かせて貰えないかな。今日は、どんな日だった?」

 それから他愛もない話を五分程してから、こっちにきてと里中先生がふいに立ち上がりソファの前にあるテーブルの傍で腰をおろした。テーブルの上には内側が青空みたいに綺麗な水色で塗られた大きな箱があり、砂が満ちている。まっさらな、何もない空間が広がっている。

「ルールはもう分かるね? ここに君自身を表現して欲しい」

 里中先生はふわりと笑みを浮かべると、箱の傍にあるミニチュア人形に目をやった。それは人差し指と親指で挟めるくらいにちいさい。人、犬、家、ベンチ、車。それらのミニチュアを自分の好きなように並べる。箱庭療法(はこにわりょうほう)というらしく、自分でも思ってもみなかった心の変化や癒しや気付きを得られるらしかった。私はちいさく頷いて、まずは大きな家を手に取った。それを砂が敷き詰められた箱の中心に置く。周りには人。男の子、女の子。あと犬も。花壇も並べてもいいかもしれない。楽しげな感じで。

「出来ました」

 五分程で完成した。私が思うこの世界を、私なりの表現で作ってみた。里中先生はお疲れ様と声をかけてくれる。

「この家は?」

 箱を上から見渡して、一番最初に砂のうえに置いた家に指を指している。三角形の屋根が赤い、よくある家だ。

「これは学校です」
「周りには沢山人がいるね。男の子と女の子」
「はい。クラスメイトと他のクラスの子たちです」
「じゃあこれは?」

 里中先生は箱の隅にあるちいさな家を指差した。

「それは私の家」
「近くに人が一人いるね」
「お母さんです」
「君は?」

 問われ、私はえっと目を見開いた。

「私はいません」
「どうして」
「これは、私がみている世界だから。そこには友達がいてお母さんがいて、世界があるけどそこに私はいない。でも、夜の私はいつも悲しそうだから部屋に閉じこもって家の中にいます。朝の私もいつも怒ってるから家の中にいます。外には、誰も出たがらない。きっと、彼女たちはそう思ってる」
「なるほど。路花ちゃんは彼女たちの一番の理解者だ。だから、きっとそうなのかもしれない。でも、この箱の中心には学校があって人も沢山いる。花壇まであるのにそこに自分を置こうとは思わなかった?」
「はい。私、友達なんていないし。そこに私がいても賑やかな感じに馴染めないし」

 私に友達はいない。鮎人という友達は一人いるけれど、多くはない。

「孤独を感じる?」
「いえ、私は一人でもハッピーハッピーって感じで楽しめるタイプなので」
「大勢の人たちと過ごすことは嫌い?」
「嫌いじゃないけど、好きでもないって感じです。どっちでもいい」
「そっか。よくわかった。最後にひとつ聞いてもいいかな?」

 里中先生は箱の中を覗き込みながら言った。

「君が作ったこの世界。人がいて、家もあって、花壇もベンチまであるのに車が一台も走ってないね。置こうとは思わなかった?」
「はい」
「なんで?」
「必要が、ない、と思ったからです」

 一瞬言葉につっかえて、口の中が乾いていることに気付いた。

「里中先生、水を飲んでもいいですか」

 問いかけると、里中先生は「いいよ。今日はここまでにしてあっちの席に戻ろうか」と陽だまりのような笑みを浮かべた。三角形のテーブルに腰をおろし、グラスに入った水を勢いよく飲んだ。喉がごくりごくりって鳴った。ようやく満たされた時、私は私の役割を果たさなければならないことを思い出した。夜の私に頼まれていたのだ。

「あの、睡眠薬を頂けますか」

 里中先生は顔色ひとつ変えず「何故かな」と問い返してきた。

「夜の私が中々眠れないらしくて、その事で朝の私と喧嘩になったりもして、私は結構楽観的っていうか皆ハッピーに過ごせたらいいじゃんって感じなんで二人が喧嘩をしているのはみてて辛いんです」
「辛い?」
「えっ、あっはい」
「君が辛いの?」

 再度問われ私はちいさく頷いた。里中先生はいつも私と話す時、一切目線を外さない。常に瞳の中心を捉えられているというのか、その更に奥深くにある私のなかをみられているというのか、とにかく今この瞬間も私と里中先生の瞳は磁力で引き寄せられているみたいに結びついていた。不思議と嫌な気持ちがしないのは何故だろう、と以前考えてみたことがある。それはきっと、里中先生が醸し出す空気感が私が知る誰よりも柔らかく、おまけに妙な安心感があるからだろうという答えに行き着いた。

「路花ちゃん、いいかな」
「あっはい」
「薬を出す事は簡単だ。眠れないというのなら、恐らくはそれによって症状も軽減されるだろうし、君が言うように朝と夜の君が喧嘩をすることも少なくなるかもしれない。でもね、僕は君にその力を使って欲しくはないかな」
「何でですか」

 問うと、里中先生は「僕は君の力を信じているから」と穏やかな笑みを浮かべた。窓の向こうにみえる木々がさわさわと揺れながら、空から降り注ぐ陽の光を細切れにしてる。

「薬はね、本当に必要としている人に届けるべきものなんだ。たとえば生活に支障をきたす場合、たとえば痛みや症状を軽減しなければならない場合みたいにね。まあ、aという事象に対してbの方法、あるいはcやdを提示するというのが本来僕のような職種の人間の仕事なのかもしれないが、今回僕はそのどれもを選択するつもりはないよ。路花ちゃんの話を聞いている限り、差し迫った重要性を感じなかったのがまず一つ。それからもう一つは、さっきも言ったね僕は路花ちゃんの力を信じているからだ。眠れないというならば、その原因を探ってみよう。根っこにあるそれを解決出来れば、君は薬に頼らずとも眠れるようになるはずだ。こんな事ばかり言ってるから風変わりだとか何とか口コミに書かれるのかな。ああ、ごめんごめんこっちの話だった。とりあえず聞かせてよ、路花ちゃんの話を」

 里中先生の瞳は微かに茶色掛かっている。陽の光を吸い込んだ時は、更にその色味が増す。私はその移り変わりをみながら躊躇(ためら)うことなく頷いていた。