いつも使っている裏階段から帰ろうと二階の渡り廊下を歩いていくと、女子トイレの前で浅川さんをみつけた。トイレ前の柱の傍には大きな水槽があり、どうやらそのなかを泳ぐ魚を身体を折りみつめているようだった。二日前、確か浅川さんは私を守ろうとしてくれた。今はよくない状況だから美藤さんは戻らない方がいいよって。そのときはよく分からなかったけれど、後で分かったのだ。浅川さんは、とても優しい子だ。
「浅川さん、なにしてんの」
声をかけると、長い前髪の隙間から覗く綺麗な瞳がこちらを向いた。
「みたら分かるでしょ。魚、みてたの」
「うん、それは分かってる。魚好きなんだ」
浅川さんはふっと目を落とし、「別に好きじゃないよ」とちいさく呟いた。廊下の奥から女子たちの甲高い笑い声が響いてくる。
「でも、一階にも三階にも水槽があるけど、この水槽のなかで生きる魚たちが一番派手だから気になって」
確かにこの水槽には綺麗な魚が沢山泳いでいる。名前は知らないが青く光っている魚とか、オレンジと水色のシマシマの魚とか、カラフルなエビまでいる。綺麗だもんね、と相槌を打つと、浅川さんはふるふると首を横に振り、ボブカットの髪がちいさく揺れた。
「綺麗なんかじゃないよ。派手な色してこんな風に優雅に泳いで、たぶん全員がさ自分が一番特別で美しいと思ってる。僕は、それが凄く不愉快」
「どうして?」
「特別な存在になれるのは一握りなのに、こいつらは自惚れてるから」
曖昧に頷いてはみたが、いよいよ浅川さんが何を言いたいのか分からなくなってきた。読書が好きなひとは、やっぱり独特な感性を持っているのかもしれない。ただ、これでは会話が弾まないと「あっそう言えばさ」と話題を変えることにした。
「こないだはありがとね。浅川さん、私のこと助けてくれようとしたんだよね?」
浅川さんは一瞬目を丸くしたが、「ああ、あれ」と首を横に振った。
「別に、助けてないよ。僕は僕が正しいと思うことをしただけ。大きな流れに身を任せるだけのあいつらとは違うから」
そう溢すと、浅川さんは足元に置いていた鞄を素早く拾い上げ廊下の向こうから差し込むひかりの先へと消えていった。
それを見届けてから昇降口を抜け運動場に出ると、野球部がランニングをしていた。白いユニフォームを身に纏い独特な掛け声をあげながら、まるでアヒルの親子みたいに綺麗な二列になって走っている。空から振り注ぐ強い日差しのせいなのか、野球部の子たちの靴底が砂ぼこりを起こしているからなのか、埃っぽい匂いがした。
皆頑張ってるなあ、なんて思いながら眺めていると、列のなかから一人が私の元へと駆けてきた。鮎人だった。
「路花」
つばの長い帽子で影にはなっていたが、どうしてこの人は私と話す時いつも泣きそうな顔をしているのだろうと思わずにはいられなかった。だから、慰めるつもりで「よっ」と声をかけた。
「よっ?」
「そう、よっ!」
右手を持ち上げ、顔の傍に添える。
「どうした。今日はやけにテンション高いじゃん」
「まあね。いいことあったから」
私はついさっき、先生の純粋無垢な優しさに触れたばかりだ。今の私なら全人類に優しく出来る。鮎人は一瞬驚いたような表情をみせていたが、「路花が楽しそうなら良かった」と白い歯をみせて笑った。夏のひかりを吸い込んで、こんがりとやけた肌にはつぅっと汗が伝っていた。ちょっと話せないか、と言われたものだから少しだけならと答えた。毎週木曜日は里中先生のカウンセリングがある為、四時半にはお母さんが学校まで車で迎えにくるのだ。
車はいつも校門を出てすぐのところに止められる。いつ来ても分かるように、その辺りで話すことになった。肩から提げていた鞄には教材が入っていて重い為降ろそうかとは思ったけれど、でもと躊躇っていると「いいよ俺が持っといてやるよ」と鮎人が鞄を持ってくれた。
「ずっと大切にしてるもんなこれ」
「うん」
私の学校指定鞄にはファスナーのところにガラス玉の球体のキーホルダーをつけている。何故か分からないけど無性に愛着があってお守りみたいに大切にしている。地面なんかに置いたら砂がついて汚れてしまうと思ったのだ。
「なんか透明なものって、まあ特にそれなんだけど好きなんだよね私」
「物を大切にする路花のそういうとこ好きだよ俺」
「す、き」
無防備なところにふいをつかれ思わず繰り返してしまう。鮎人は鮎人で「いや、人としてって意味な」とあたふたしていて、それが余計に気まずい空気を私たちの間に降ろしてきた。なにか別の会話をと思い「ってか練習はいいの?」と問いかけると、鮎人はちいさく頷き、「今は練習よりも路花と話したいからいい」とぼそりと呟いた。再び静寂が降りかけた時、でも後で監督に怒られるかもな、とくしゃりと顔を崩し笑っていた。
「で、話って何?」
問いかけると、鮎人はあーと呟きながら目を眇めた。微かに橙色に染まり始めた陽の光が斜めから差し込んでいる。確かに眩しい。私は左手を持ち上げ、それを傘のようにして顔の前にかざしながら答えを待った。
「いや、俺ってうざかったよなって思って」
「うざい?」
「そう。なんか妹思いの兄貴っていうか、娘が心配なあまりに過保護過ぎる父親っていうかさ、とにかく世話焼きで必要以上に大丈夫かとか声かけるからそりゃ路花したらうざいよなってようやく気付いたんだよ。ほら、今朝また怒られたじゃん俺」
「怒られたって私に?」
自分の顔に指を指す。鮎人はちいさく頷いている。それをみながら、そういえば、朝の私がもう鮎人を対応するのがだるい、みたいなことを日記に書いていたことを思い出す。
「ごめんな。もうやめるからそういうの。それだけは路花に伝えときたくて」
鮎人は心底申し訳なさそうに言った。私はそんな鮎人の顔をみながら「なんで」と問いかけた。
「なんで私のことをいつもそんなに気にかけてくれるの」
「そんなの」
「中学からの同級生だから?」
問いかけると、鮎人はちいさく頷いた。けれど、その瞬間目が泳いだことを私は見逃していなかった。
「あーなんか嘘ついてる顔してるー」
「嘘ってなんだよ」
「分かんないけど、私はさ、この半年の記憶しかないじゃん。それより前に鮎人が私になんか悪さしてたりして」
悪戯っぽく笑ってみせると、鮎人はまたあの顔をした。今にも泣きそうな、凄く辛そうな顔。冗談で言ったのに、と思う。こっちが気まずくなって何か声をかけようとした時だった。クラクションが鳴った。振り返ると、お母さんの運転する車がこちらに向かってきていた。グレーの軽自動車だ。ゆっくりと徐行し、脇に止まる。「あっ、お母さんきた。じゃあね」と声をかけた時、鮎人は運転席に座るお母さんに頭をさげていた。それから視線が滑るように向けられて、目が合った。くしゃりと顔を崩し、「おう、じゃあな」と最後は手を振りあった。
「浅川さん、なにしてんの」
声をかけると、長い前髪の隙間から覗く綺麗な瞳がこちらを向いた。
「みたら分かるでしょ。魚、みてたの」
「うん、それは分かってる。魚好きなんだ」
浅川さんはふっと目を落とし、「別に好きじゃないよ」とちいさく呟いた。廊下の奥から女子たちの甲高い笑い声が響いてくる。
「でも、一階にも三階にも水槽があるけど、この水槽のなかで生きる魚たちが一番派手だから気になって」
確かにこの水槽には綺麗な魚が沢山泳いでいる。名前は知らないが青く光っている魚とか、オレンジと水色のシマシマの魚とか、カラフルなエビまでいる。綺麗だもんね、と相槌を打つと、浅川さんはふるふると首を横に振り、ボブカットの髪がちいさく揺れた。
「綺麗なんかじゃないよ。派手な色してこんな風に優雅に泳いで、たぶん全員がさ自分が一番特別で美しいと思ってる。僕は、それが凄く不愉快」
「どうして?」
「特別な存在になれるのは一握りなのに、こいつらは自惚れてるから」
曖昧に頷いてはみたが、いよいよ浅川さんが何を言いたいのか分からなくなってきた。読書が好きなひとは、やっぱり独特な感性を持っているのかもしれない。ただ、これでは会話が弾まないと「あっそう言えばさ」と話題を変えることにした。
「こないだはありがとね。浅川さん、私のこと助けてくれようとしたんだよね?」
浅川さんは一瞬目を丸くしたが、「ああ、あれ」と首を横に振った。
「別に、助けてないよ。僕は僕が正しいと思うことをしただけ。大きな流れに身を任せるだけのあいつらとは違うから」
そう溢すと、浅川さんは足元に置いていた鞄を素早く拾い上げ廊下の向こうから差し込むひかりの先へと消えていった。
それを見届けてから昇降口を抜け運動場に出ると、野球部がランニングをしていた。白いユニフォームを身に纏い独特な掛け声をあげながら、まるでアヒルの親子みたいに綺麗な二列になって走っている。空から振り注ぐ強い日差しのせいなのか、野球部の子たちの靴底が砂ぼこりを起こしているからなのか、埃っぽい匂いがした。
皆頑張ってるなあ、なんて思いながら眺めていると、列のなかから一人が私の元へと駆けてきた。鮎人だった。
「路花」
つばの長い帽子で影にはなっていたが、どうしてこの人は私と話す時いつも泣きそうな顔をしているのだろうと思わずにはいられなかった。だから、慰めるつもりで「よっ」と声をかけた。
「よっ?」
「そう、よっ!」
右手を持ち上げ、顔の傍に添える。
「どうした。今日はやけにテンション高いじゃん」
「まあね。いいことあったから」
私はついさっき、先生の純粋無垢な優しさに触れたばかりだ。今の私なら全人類に優しく出来る。鮎人は一瞬驚いたような表情をみせていたが、「路花が楽しそうなら良かった」と白い歯をみせて笑った。夏のひかりを吸い込んで、こんがりとやけた肌にはつぅっと汗が伝っていた。ちょっと話せないか、と言われたものだから少しだけならと答えた。毎週木曜日は里中先生のカウンセリングがある為、四時半にはお母さんが学校まで車で迎えにくるのだ。
車はいつも校門を出てすぐのところに止められる。いつ来ても分かるように、その辺りで話すことになった。肩から提げていた鞄には教材が入っていて重い為降ろそうかとは思ったけれど、でもと躊躇っていると「いいよ俺が持っといてやるよ」と鮎人が鞄を持ってくれた。
「ずっと大切にしてるもんなこれ」
「うん」
私の学校指定鞄にはファスナーのところにガラス玉の球体のキーホルダーをつけている。何故か分からないけど無性に愛着があってお守りみたいに大切にしている。地面なんかに置いたら砂がついて汚れてしまうと思ったのだ。
「なんか透明なものって、まあ特にそれなんだけど好きなんだよね私」
「物を大切にする路花のそういうとこ好きだよ俺」
「す、き」
無防備なところにふいをつかれ思わず繰り返してしまう。鮎人は鮎人で「いや、人としてって意味な」とあたふたしていて、それが余計に気まずい空気を私たちの間に降ろしてきた。なにか別の会話をと思い「ってか練習はいいの?」と問いかけると、鮎人はちいさく頷き、「今は練習よりも路花と話したいからいい」とぼそりと呟いた。再び静寂が降りかけた時、でも後で監督に怒られるかもな、とくしゃりと顔を崩し笑っていた。
「で、話って何?」
問いかけると、鮎人はあーと呟きながら目を眇めた。微かに橙色に染まり始めた陽の光が斜めから差し込んでいる。確かに眩しい。私は左手を持ち上げ、それを傘のようにして顔の前にかざしながら答えを待った。
「いや、俺ってうざかったよなって思って」
「うざい?」
「そう。なんか妹思いの兄貴っていうか、娘が心配なあまりに過保護過ぎる父親っていうかさ、とにかく世話焼きで必要以上に大丈夫かとか声かけるからそりゃ路花したらうざいよなってようやく気付いたんだよ。ほら、今朝また怒られたじゃん俺」
「怒られたって私に?」
自分の顔に指を指す。鮎人はちいさく頷いている。それをみながら、そういえば、朝の私がもう鮎人を対応するのがだるい、みたいなことを日記に書いていたことを思い出す。
「ごめんな。もうやめるからそういうの。それだけは路花に伝えときたくて」
鮎人は心底申し訳なさそうに言った。私はそんな鮎人の顔をみながら「なんで」と問いかけた。
「なんで私のことをいつもそんなに気にかけてくれるの」
「そんなの」
「中学からの同級生だから?」
問いかけると、鮎人はちいさく頷いた。けれど、その瞬間目が泳いだことを私は見逃していなかった。
「あーなんか嘘ついてる顔してるー」
「嘘ってなんだよ」
「分かんないけど、私はさ、この半年の記憶しかないじゃん。それより前に鮎人が私になんか悪さしてたりして」
悪戯っぽく笑ってみせると、鮎人はまたあの顔をした。今にも泣きそうな、凄く辛そうな顔。冗談で言ったのに、と思う。こっちが気まずくなって何か声をかけようとした時だった。クラクションが鳴った。振り返ると、お母さんの運転する車がこちらに向かってきていた。グレーの軽自動車だ。ゆっくりと徐行し、脇に止まる。「あっ、お母さんきた。じゃあね」と声をかけた時、鮎人は運転席に座るお母さんに頭をさげていた。それから視線が滑るように向けられて、目が合った。くしゃりと顔を崩し、「おう、じゃあな」と最後は手を振りあった。
