透明に堕ちるわたしの輪郭

 教室の中から私以外の生徒がいなくなったことを確認してから白石先生が扉を閉めた。それから春の陽だまりみたいな笑みを浮かべながら私の座る席まで歩いてくると、「ここ座ってもいい?」とひとつ前の席に腰を下ろした。

「最近学校はどう? 楽しんでる?」
「はい。すっごく楽しいです」

 思ったままの感想を口にすると、白石先生は左の耳に指通りの良さそうな綺麗な髪をかけながら「そう。それは良かった」と笑みを浮かべた。

「実はね、昨日柳井さんと美藤さんが言い合っているところを廊下からたまたま見かけたっていう先生がいらっしゃってね。話したくないなら話さなくてもいいんだけど、もし良かったら先生に何があったか教えてくれないかな」
「昨日」
「そう、昨日」

 野球部だろうか。それともサッカー部だろうか。窓の向こうから男子たちの掛け声が聴こえてくる。それに半ば意識を絡め取られそうになられながらも私は記憶の海へと手を伸ばした。

「えっ、と、昨日は私が食堂でご飯を食べてから教室に戻ってきたら私の席に柳井さんが座ってて、それで私の席だよって教えてあげたら柳井さんが知ってるよって。この席の居心地がいいって言うから私は柳井さんの席に座ろうとしたら彼女がちょっと不機嫌になっちゃって」
「そうなの」
「そうなんです」
「美藤さんは柳井さんに嫌なことを言われたの?」
「言われてません」
「じゃあ、嫌な気持ちにはなった? 昨日はよく眠れた?」

 問われ、ふるふると首を横に振る。全く持って嫌な気持ちにはなってないし、眠れたどうかは朝と夜の私にしか分からない。両方の意味を込めて首を振ったのだが、白石先生は「なら良かった」と笑みを浮かべた。綺麗に整列している白い歯が数珠みたいに横並びにずらっと並んでいる。眠れなくて褒められたのは初めてだった。

「よしっ、じゃあ先生の話は終わり。美藤さんは何か話したいことある? 相談事でも日常会話でも何でもいいけど」
「私、は」

 せっかく先生が話を振ってくれたのだから何かないかと頭のなかに手を伸ばしてはみたけれど、特に思い付かなかった。だから。

「あの、犯人ってみつかったんですか?」

 咄嗟に今の我が校では一押しの話題を振ってみた。白石先生は分かりやすいくらいに顔を曇らせた。

「犯人って、落書きの?」
「はい」
「まだよ。一応全学年の先生たちがなにか手掛かりはないかって探ったり、生徒たちに聞き込みをしたりはしてるんだけどね。そっちは音沙汰無し。名乗り出た子もいないみたいだし」
「そう、なんですね。まあ男子はプライドも高いし自分がやりましたって後から言い出すのって難しいですよね」

 何気なく放った言葉のつもりだったが、「どうして」と白石先生がぴたりと動きを止めた。

「どうして犯人が男子って分かるの」
「いや、だって、文章にぼくって書いてたじゃないですか」

 いつかクジラがぼくを迎えにきてくれる。あの文章に書かれた一人称はそれだった。

「一般的にぼくって男子が使うものですよね?」
「ええ、そうね。でも、たとえば犯人が女子だとしてもあえて分かりにくくする為にぼくって使っている場合もあるでしょう?」

 なるほど、と思う。言われてみれば浅川さんも女の子だけれど一人称を僕にしている。やっぱり先生になれる人は皆柔軟な思考を持っているんだなと素直に感心する。私が納得した様子をみて「他になにか話したいことはある?」と問われたので首を横に振った。

「そう、じゃあ遅くなる前に帰ろっか」

 白石先生が席を立ったのをみて、私も立ち上がる。肩にそっと手を置かれ、教室の入り口のところまで導かれた。

「じゃあ、先生さよなら」
「うん。気を付けて帰るのよ」

 くるりと背を向け教室の扉を開けた時、「あっ美藤さん」と呼び止められる。何ですか、と目を向けた。

「先生は、なにがあっても美藤さんの味方だから。それだけは忘れないで。気を付けてね」

 先生は私が振り向いて廊下を歩き始めるまでずっと手を振ってくれた。その純粋無垢な優しさに、私は泣きそうだった。