透明に堕ちるわたしの輪郭

「本当にいいんだな」
「そうだって、別に無理してこなくていいじゃん」

 ひかえめな色を宿す秋の空の下、鮎人と凪が心から心配そうな面持ちで私をみつめてくる。

「いいの。もう決めたから」

 語尾を強めて言った時、手にしていた花束のビニールがかさりと音を立てた。あれから二年が経っていた。わたしの症状は進退を繰り返しながらも確実に快方に向かっていた。これまで分裂していた朝と夜と昼間というわたしの人格はひとつに統一され、再び顔を出す片鱗すらも今はない。きっと週に一度、予定時間を大幅に経過しても真摯に向き合ってくれた里中先生のおかげだ。あの人には本当に感謝している。

「路花ちゃん、今日もまずは以前の君をみてくれるかな」

 わたしはあれから学校をやめた。治療に専念する為にはそうするしかなかった。学校をやめる前、おばあちゃんの携帯の連絡先を浅川さんに渡した。

「これ、おばあちゃんの携帯なんだけど私と繋がれから」

 浅川さんはちいさな紙切れを手に取って「どうして、僕に」と呟いた。わたしは彼女の手を取って、それから身体を抱きしめた。強く、強く。そのままの体勢で言った。

「だってわたしたち友達でしょ? ごめんね、いっぱい迷惑かけたよね? わたしは学校やめちゃうけど、身体が良くなったらいっぱい遊んでくれたら嬉しい。そうだ、浅川さんがお勧めの本とか貸してよ。あっ連絡はいつでも大歓迎だから」 

 今の自分に出来る最大限の笑みを浮かべた時、浅川さんは声を上げて泣いてくれた。その身体の震えをわたしも直に感じ、自然と涙が溢れていた。

 それからの日々は外に出るのは家の周りくらいで、後は里中先生のカウンセリングルームに通うだけだった。森のなかにひっそりと佇む一軒家。大きな窓ガラスから陽の光が差し込み、その日もわたしと里中先生は三角形のテーブルを挟み向かい合うように座っていた。パソコンに指を指し、里中先生は陽だまりのような笑みを浮かべた。

 画面にはわたしが映っていて、里中先生から振られた質問に答えている。目が覚めて今日という日をどう思った? 朝ご飯は何を食べ、おばあちゃんとどんな話をした? 好きな音楽は? 映画は? あの日のことを、どれくらい思い出せた?

 わたしは時折言葉を詰まらせながらも真摯に答えた。分からないものは分からない、と正直に答えた。朝と夜と昼間、更には悠という名の男の子の人格まで持っている。それら全てをひとつの人格へと統合させるのは並大抵のことでは無かった。里中先生から過去に起きた全ての出来事を告げられたあの日以降も一日のなかで時間帯に応じた人格が現れ、記憶の消失や耐え難い程の死への憧れ、更には感情が爆発したせいで物や人に当たってしまうことが多々あった。

 里中先生はそれでも根気強く待ってくれた。カウンセリングを全て録画し、記憶が消失している場合はその日の記録をみる。当時の自分は誰で、何故このような状況に陥ってしまったのかを受け入れる。そうやってひとつの人格へと統合されていったかと思えば、また分裂し、わたしは以前のわたしへと戻ってしまう。

 そんなわたしに救いを見出してくれたのは凪と鮎人だった。二人はあれからほとんど每日わたしの家を訪ねてくれた。どの人格のわたしとも正面から向き合い、優しくしてくれたそうだった。大きな転換点になったのは凪かわたしの部屋で歌ってくれた時だった。

──ねえ、いつだったが私が作った曲覚えてる?

 凪はそう言って、細い指先を用いてギターを奏でた。弦から生まれた音が部屋に満ち、それから凪の透明感のある歌声が鼓膜に触れた時、わたしは自然と涙を流していた。音が心を揺らし、歌が思い出させてくれた。凪が歌ったのは、『あえかなひかり』というオリジナル曲だった。高校一年の時、まだわたしが一分先の幸せですら疑わなかった時、両親と悠がまだ生きていた時に聞かせてくれた歌だった。

 わたしは大きく身体を揺らし嗚咽を漏らす程に泣いてしまった為にその日の凪が心配して歌うのを止めたが、わたしは「いいの、続けて。お願い」と訴えかけた。少なくともその瞬間だけは、記憶のなかで家族と過ごせたからだ。

 里中先生はそれを記憶を引き起こす一種のトリガーだったのかもしれない、と言った。それからというもの里中先生のカウンセリングを受け続け、症状がよくない時は凪に歌を歌ってもらう日々を二年続けていく内に朝と夜と昼間、それから悠と人格が分裂する回数は日を追うこどに減っていった。わたしの人格は、わたしだけに統合された。

 そしてわたしは今ようやく決心がつき、ずっと行けていなかった父と母のお墓参りに向かおうとしていた。さすがに一人で行く勇気は無かった為に二人には同席して貰ったのだが、鮎人も凪もまた症状が出てしまうのではないかとわたし以上に心配してくれていたのだ。

「わたしはもう大丈夫。だから、もういこ?」

 笑みを向けると、渋々といった様子で頷いた。直線上に伸びる防波堤の通りを歩いていった先には、勾配のきつい石畳の階段があるらしい。それを登り切った小高い山は広げていて、海を見下ろされる霊園がある。わたしの両親と悠は、そこで眠っているらしかった。本当は場所を知っているのはおばあちゃんだけだから、私も行くよとは言ってくれたけれど、断わった。鮎人と凪も同席してくれているし、今度だけはわたしだけで向き合いたかった。

 しばらく歩くとおばあちゃん言っていた石畳の階段がみえてきた。確かに勾配がきつい。「なんでこの階段こんなに急なの」と凪も文句を漏らしていた。けれど、登り切った際にみえた景色はそれはそれは美しいものだった。眼下には、空を抱き締められそうな程に大きな大海が広がっている。風が気持いい。大きく息を吸い込むと、潮の香りを孕んだ風で肺のなかが満たされていく。よしっと更に上まで歩みを進めた。

 霊園がみえてくる。目の前にお墓が立ち並ぶその光景に一瞬足がすくんだ。鮎人がすぐさま「路花、やっぱり帰ろう」と声をかけてくる。わたしはふるふると首を横に振り、一歩、また一歩と歩みを進めた。おばあちゃんからは墓石に刻まれている美藤という文字。それから庭先で育てていたケイトウの赤い花を供えているからそれが大きな目印になると教えて貰っていた。見渡し、すぐに見つけることが出来たのでお墓の前に立った。その瞬間、ぶわっと涙が溢れてきたので咄嗟に口元を抑えた。すぐさま鮎人と路花が身体を支えてくれる。ふぅ、ふぅ、と何度か息を吐き、それから大きく吸い込む。

「二人とも大丈夫、だから」

 わたしはお墓の前で腰を落とし、手にしていた花束を添えた。手を合わせる。もう随分前から溢れてる涙はもう拭わなかった。これまでの記憶。両親と弟と過ごした幸せだったあの日々を頭に思い浮かべ、ゆっくりと口を開いた。

「お父さん、お母、さん。悠。長い間会いにこれなくてごめん、ね。心配かけたよね。でも、わたしはもう大丈夫だから心配しないでね。ただいま!」

 言い切った瞬間、嗚咽が漏れた。両の手のひらで顔を覆い尽くし押さえてるのに涙が止まらない。でも、駄目だ駄目だと頭を振り払う。こんな事ではまた心配をかけてしまう。だから、手のひらで乱雑に涙を拭い、お墓に向き合った。

「よしっ、じゃあ行ってくるよ! また来るから!」

 今の自分に出来る精一杯の笑みを向けてすっと立ち上がった。振り返ると、鮎人も凪も泣いていた。

「ちょっと、なんで二人が泣いてんの」
「だって」
「うるせぇよ」

 このままではお父さんとお母さんの前で三人で泣いてしまうばかりだと思ったわたしは二人の手を引いた。足早に階段を駆け下りていく。早いって、と二人とも口にしてる。ようやく降りきって防波堤がみえたところで向き直った。

「二人とも本当にありがとう。今までずっと」

 凪と鮎人にはこれまでにも何度もお礼を口にしてきたが、それでも足りない。わたしは沢山の迷惑をかけ、沢山の優しさと想いを受け取った。

「どれだけ口にしても足りないくらいに感謝してるの。これから二人にはわたしなりに精一杯恩返ししていくつもりでいます。だから、ずっとわたしと友達でいてください」

 手を差し出した。すると、凪と鮎人は一瞬顔を見合わせ、それから砕けたように笑った。

「そんなのいらねえよ」
「そうそっ、っていうかいちいちそんな約束みたいな事しなくても私たち三人はずっと親友でしょ?」

 二人が呆れたような笑みを溢し、歩きだした。その先には防波堤が続いてる。相変わらず分かってねえな、あいつ。ねっ路花ってなんか抜けてるよね。あの場であんな事言わなくても私ら親友じゃんね。などと、ぶつぶつと呟きながら歩いていく二人をみながら自然と笑みが溢れていた。「ねえ、待って」と追いかける。ふいに視界の端に差したひかりが強くなった気がした。顔をあげる。そこにはひかりの輪を纏う太陽が、秋空の真ん中で輝いていた。綺麗、と思う。思わず腕を持ち上げていた。ガラス玉ではなくわたしの手のひらで、今度はしっかりと太陽をつかまえた。