「初めまして。で、いいかな?」
目の前に座る里中先生という男性は、想像していたよりも若かった。
「はい、お会いするのは初めてなので」
「ようやく来てくれて僕は嬉しいよ。もう来てくれないかと思った」
あれから三週間という月日が流れていた。あの日、里中先生がわたしに会いたいと言っているという旨の昼のわたしの活動記録を読んでからというもの、更に眠れなくなった。本当はここにだって来たくなかった。
「ごめんなさい、目の前に海があったんです」
「海?」
「はい、真っ暗で底すらみえない大きな海が、黒い塊が、うねりをあげていました。それが、里中先生のところに行かなくちゃって思う度に瞼の奥で浮かぶんです。自分でもその理由は分からないんですけど」
「なるほど一種の拒絶反応かもしれないね。あっそれ飲んでね。飲むと気分が落ち着くから」
ティーカップを指差し、昼間の君はそれが好きなんだと付け足される。口をつけ、ちいさくため息を溢した時だった。「僕は君なんじゃないかと思ってる」と里中先生が言った。
「えっ?」
「時間帯で切り分けた三つの人格。それぞれが独立して動き、尚且つ記憶の共有も出来ない。でも、こういった場合、必ず核となる人格がそのどれかにいる」
微かに茶色に染まった瞳が真っすぐに私をみつめていた。
「朝の君は怒り、昼間は楽観、そして夜は深い悲しみ。三つの君のうち、僕は最も今の君に近しいであろう人格を考えた。そう、家族を一瞬にして失った君に」
なにかが込み上げてくる。けれど、わたしにはその感情の名前が分からない。
「今から一年前のあの日、君は家族を失った」
そいつはうねりをあげながら、わたしのなかを突き刺してくる。
「誰も悪くない。あれは予期せぬ事故だったんだ」
里中先生の言うことが正しいなら、そいつは悲しみという名前なのだろうか。
「よく聞いて欲しい、これから話す君の過去を。その日は日曜日だった。天気予報は晴れ。気温は二十度と外で過ごすなら最高の気候だ。君はある男の子に招待され野球の練習試合に応援に行こうとしていた。両親を連れてね。だが、イレギュラーな事が立て続けに起こった為に君はその試合に遅れそうになり、急いで車で向かうことにした。運転していたのは君のお父さんだ」
「やめてください」
無意識に口から溢れていた。
「助手席にはお母さんが乗ってる。君はお父さんにもっとスピードを出すように言った」
「やめて」
「急がないと間に合わない」
里中先生の放った言葉が頭のなかで別の人物の声に変換される。
──お父さん早く! 急がないと間に合わない。
「日曜日の昼時にも関わらず、その日の道路はあまり混んでいなかった。だから、お父さんは娘の為にとアクセルを強く踏んだ。ちょうど球場がみえた時、窓を開けていた君は大きな声でお父さんに呼びかけた。球場がみえたよ! お父さんは君が指を差した先へと一瞬顔を向けた」
「ねえ、いや」
「法定速度ギリギリまでアクセルを踏み続けた君のお父さんは、その一瞬の遅れで信号が切り替わったことに気づかなかった」
「やめてよ」
「横から進入してきたトラックの運転手は90日間連続勤務という過労でほとんど意識を失っていた。そして、君たちの車はそのトラックに横から追突されたんだ。お父さんとお母さんは即死、運転手も病院に運ばれたが亡くなった。生存したのは君だけだ」
「いやっっ!!」
声を張り上げたその時だった。扉が勢いよく開き、部屋の中にお母さんが入ってきた。足をもつれさせながらも駆けていき、里中先生の前で膝をついた。
「先生……もう十分です。やめてください」
まるで許しを請うようだった。先生のおへその辺りに頭をつけている。里中先生は顔を歪め「美藤さん」と呟いた。
「僕は先日言ったはずです。これは荒療治ですと。同席してもらうことは構いませんが、カウンセリングの間は決して彼女の前に姿をみせないこと。決して中断させないこと。あなたはそれを了承してくれたはずだ」
「ええ、ですが、これではあまりにも」
「今日が路花ちゃんの心を取り戻す最後のチャンスかもしれないんです。ずっと今のままでもいいんですか?」
問われ、お母さんがゆっくりとわたしに顔を向けてくる。それから目を伏せた。里中先生はそれを答えと受け取ったようだった。お母さんの肩に手を添えながら「この人は誰だ」と私に視線を滑らせてくる。
「え……お、かあさん」
「違う」
「おかあ、さん……お母さんなのっ!お母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さん」
「違う。君は分かってるはずだ。この人は、君のお母さんじゃないって」
里中先生の隣にはいつものお母さんが立っていた。ロマンスグレーの髪を緩やかにかきあげ、今日も花柄のチェニックを身に纏っている。胸の前まで持ち上げられた手は震え、無数の皺が刻まれていた。
「おばあちゃん、だ。そうだろう? 路花ちゃん、この人の顔をよくみるんだ」
お母さんに目をやりながら、あれ、と思う。頬を拭うと、手のひらが濡れた。私が振り絞るように「……違う」と言うと、里中先生は「そうか。じゃあこれは覚えているかな」と席を立ちあがった。
「さっきはある男の子の野球の応援にと言ったが、その子の名前は鮎人くんだ」
里中先生は気付いたらわたしの前に立っていた。
「え」
「そう、君のクラスメイトだ。三つの独立した人格に分かれた時、唯一共通認識として君の頭に残った人物がそこにいる君のおばあちゃんと鮎人くんだ。何故かな」
「そんなの」
「分からないか。じゃあ、僕が代わりに答えよう。君はたぶん、いや高い確率で鮎人くんのことを愛していたのだと思う。何故彼だけがどの時間帯の君の記憶に残ってる。何故彼だけに君は心を許してる。路花ちゃん」
肩に手を置かれた。里中先生は「思い出すんだ」と続けた。
「君は三つの時間帯に自分を作り、それぞれの方法で自傷してる。朝の君は他者に怒りをぶつけることで自ら孤独へ向かい、昼の君は自身が身体に悪いと思っているものを積極的に体内に取り込み、そして夜の君は自らの身体を。性格も人格も考えまで違う君たちが鮎人くんだけは共通認識としてる。何故だ」
「わ、わからない」
「人の優しさや愛、時間は少なからず悲しみを癒やしてくれる。でも、その前に現実と向き合わなくちゃそれすらも叶わない。よく思い出して。鮎人くんのことを愛していた君はどれだ。誰彼構わず怒りをぶつける君か? それとも異常に陽気で常に楽観的な君か? どれも違うだろ? 悲しくて、辛くて、今は心を閉ざしてしまってはいるが、僕の前にいる君こそが本来の君だろ?」
瞬間、身体が震えた。肌が粟立ち、鮎人を通して当時の記憶が頭のなかに広がった。まるで爆発したかのように感情が溢れかえってくる。それに、と里中先生は続けた。
「朝と夜と昼間。君のなかにいる人格は三つだと思っていたが、どうやら違ったようだ。四人目の人格がいるだろ? ちいさな男の子の」
「わ、わからない」
「每日、毎晩、君がせっせと夜食を運び、話しかけている子のことだ」
「知らな、い」
「日記やカウンセリングから推察するに恐らくこの事を朝と昼間の君は知らない。でも、君だけは違う。君だけが、その四人目の人格を認知し匿ってきたから。名前は悠。君の、弟だ」
「あああぁああぁっ!!!」
意味も分からず頭を掻きむしっていた。そうでもしないと頭のなかから湧き上がるなにかを抑えられそうになかった。
──お姉ちゃん。
やめて。
──お姉ちゃん、ぼく水族館にいきたい。
そんな綺麗な目でわたしをみないで。
──いつかぼくが、クジラでも幸せに過ごせる大きな水槽を作ってあげる。
ごめん。ごめん、なさい。悠。
「いやっあぁあぁ!!」
まるで静寂な湖の湖底に大きな石を落としたあとのようだった。湧き上がった無数の記憶が頭のなかを埋め尽くしてった。頭を両手で抑え、何度も何度も叫び声をあげた。その先でみた。普段は身に纏うことのない半袖のシャツを着て、更に上から長袖を羽織り家を出るわたし。裏庭を駆け下りて校舎裏の壁の前に立ったわたしは、羽織っていた制服を一枚脱いだ。夏の空に普段は表に出すことのないわたしの白い肌が陽の光を弾いていた。何度もカッターナイフで切りつけ盛り上がった肉と共に持ち上げた左腕は赤いペンキを手にしていた。
「いつか……クジラが、ぼくの世界を壊して、くれる」
悠が言っていた。お父さんに憧れ、水族館の飼育員になろうとしていた悠が。クジラを水槽で飼うことは出来ない。そんな、常識を纏う世界が嫌で。
次にみたのは学校の廊下だった。朝のひかりが濁流みたいに溢れる中、わたしは水槽のエアポンプを動かすコードをハサミで切断した。
なに、これ。思わず髪を掻きむしった時「路花ちゃん」と腕を掴まれた。
「君のお父さんとお母さんが亡くなった時、後部座席の左側に座っていた悠くんも亡くなったんだ。でも、悠くんはその日、本当は左側に座るはずじゃなかった。そうだろう?」
「な……んで」
「悠くんは右側に座りたいと言ったが、既に車に乗り込んでいた君は動くのが嫌で譲らなかった。だから君は罪悪感に苛まれた。わたしが譲っていればって」
「あぁぁっああ」
うまく息が出来なかった。
「わたしが譲れば悠は生きていた。わたしが死ねば良かった。わたしなんか、わたしがこんな世界に生きていなければ。その想いが君のなかに四人目の人格を生み出し、更には自分を含めたこの世界で生きるありとあらゆる生き物を憎むようになったんだ」
「なん、で、そんなこと」
「ここまできたら正直に言う。実は、君がこの段階まで回復したのは初めてじゃない。僕のカウンセリングを受けて半年で君は一度全ての記憶を取り戻した。でも、悲しみに耐えきれなくなった君は、数日後には朝と夜と昼間の君に分かれ元には戻らなかった。だから頼む。今度だけは受けいれてくれ。どれだけ時間がかかってもいい。でも、君のなかにある大きなその傷だけは、もう無いものにしないでくれ。君のお父さんとお母さん、それに悠くんの為にも」
里中先生の言葉は、ゆっくりと、でも着実に、わたしの胸に染みていった。
「あ、いたい」
無意識に呟いていたが、それがわたしの心から漏れたものだということはすぐに分かった。あいたい。その言葉を口に含んだ瞬間、わたしは決壊した。最初の涙がこぼれ落ち、それを追いかけるように次々と頬を伝った。
「あぁぁあぁぁっ!!」
まるで赤子のようだった。自分のものとは思えない程の大きな声が喉から溢れ出てくる。一生分の涙を流した。里中先生は「大丈夫。もう大丈夫だ」と一緒に涙を流し身体を抱き締めてくれた。
それからわたしは里中先生の元をあとにしおばあちゃんの運転する車で自宅に戻った。すると、夜が溶け落ちた道なりに見覚えのある影が二つ動いた。運転席にいるおばあちゃんが「私が呼んだんだ」と呟く。
「今日が路花にとって一番辛い日になる。だから傍にいてやって欲しいってね。さあ、いこう」
おばあちゃんが身体を支えてくれながら家まで歩いていくと、鮎人と凪が駆けてきた。「路花、路花っ」と二人とも声を上げて泣いている。世界に充満した夜のなかで、私は三人の体温に包まれながら泣き続けた。二人が帰ったあと、おばあちゃんは温かい紅茶をわたしの前に置きまた涙も流してくれた。わたしは「ありがとう」とそれを飲み干し「疲れたから寝るね」と自室に戻った。机のうえには一冊のノートがある。今まではこれにその日の活動記録を書いて眠りについていた。一度は手を伸ばしかけて、その手をひっこめた。ベッドに潜り、身体中の水分を振り絞るようにまた泣いた。手で握り締めていたシーツが、わたしの液状化した悲しみで湿っていく。この一年ずっと夜が怖かった。瞼を閉じるとみたくもないものがみえそうで、お前は一人だと孤独がささやいてきそうで、怖くて怖くて仕方なかった。でも、と指先で目元を拭う。今なら、ほんの少しなら。
わたしはその日、一年ぶりに夜に手を伸ばした。
目の前に座る里中先生という男性は、想像していたよりも若かった。
「はい、お会いするのは初めてなので」
「ようやく来てくれて僕は嬉しいよ。もう来てくれないかと思った」
あれから三週間という月日が流れていた。あの日、里中先生がわたしに会いたいと言っているという旨の昼のわたしの活動記録を読んでからというもの、更に眠れなくなった。本当はここにだって来たくなかった。
「ごめんなさい、目の前に海があったんです」
「海?」
「はい、真っ暗で底すらみえない大きな海が、黒い塊が、うねりをあげていました。それが、里中先生のところに行かなくちゃって思う度に瞼の奥で浮かぶんです。自分でもその理由は分からないんですけど」
「なるほど一種の拒絶反応かもしれないね。あっそれ飲んでね。飲むと気分が落ち着くから」
ティーカップを指差し、昼間の君はそれが好きなんだと付け足される。口をつけ、ちいさくため息を溢した時だった。「僕は君なんじゃないかと思ってる」と里中先生が言った。
「えっ?」
「時間帯で切り分けた三つの人格。それぞれが独立して動き、尚且つ記憶の共有も出来ない。でも、こういった場合、必ず核となる人格がそのどれかにいる」
微かに茶色に染まった瞳が真っすぐに私をみつめていた。
「朝の君は怒り、昼間は楽観、そして夜は深い悲しみ。三つの君のうち、僕は最も今の君に近しいであろう人格を考えた。そう、家族を一瞬にして失った君に」
なにかが込み上げてくる。けれど、わたしにはその感情の名前が分からない。
「今から一年前のあの日、君は家族を失った」
そいつはうねりをあげながら、わたしのなかを突き刺してくる。
「誰も悪くない。あれは予期せぬ事故だったんだ」
里中先生の言うことが正しいなら、そいつは悲しみという名前なのだろうか。
「よく聞いて欲しい、これから話す君の過去を。その日は日曜日だった。天気予報は晴れ。気温は二十度と外で過ごすなら最高の気候だ。君はある男の子に招待され野球の練習試合に応援に行こうとしていた。両親を連れてね。だが、イレギュラーな事が立て続けに起こった為に君はその試合に遅れそうになり、急いで車で向かうことにした。運転していたのは君のお父さんだ」
「やめてください」
無意識に口から溢れていた。
「助手席にはお母さんが乗ってる。君はお父さんにもっとスピードを出すように言った」
「やめて」
「急がないと間に合わない」
里中先生の放った言葉が頭のなかで別の人物の声に変換される。
──お父さん早く! 急がないと間に合わない。
「日曜日の昼時にも関わらず、その日の道路はあまり混んでいなかった。だから、お父さんは娘の為にとアクセルを強く踏んだ。ちょうど球場がみえた時、窓を開けていた君は大きな声でお父さんに呼びかけた。球場がみえたよ! お父さんは君が指を差した先へと一瞬顔を向けた」
「ねえ、いや」
「法定速度ギリギリまでアクセルを踏み続けた君のお父さんは、その一瞬の遅れで信号が切り替わったことに気づかなかった」
「やめてよ」
「横から進入してきたトラックの運転手は90日間連続勤務という過労でほとんど意識を失っていた。そして、君たちの車はそのトラックに横から追突されたんだ。お父さんとお母さんは即死、運転手も病院に運ばれたが亡くなった。生存したのは君だけだ」
「いやっっ!!」
声を張り上げたその時だった。扉が勢いよく開き、部屋の中にお母さんが入ってきた。足をもつれさせながらも駆けていき、里中先生の前で膝をついた。
「先生……もう十分です。やめてください」
まるで許しを請うようだった。先生のおへその辺りに頭をつけている。里中先生は顔を歪め「美藤さん」と呟いた。
「僕は先日言ったはずです。これは荒療治ですと。同席してもらうことは構いませんが、カウンセリングの間は決して彼女の前に姿をみせないこと。決して中断させないこと。あなたはそれを了承してくれたはずだ」
「ええ、ですが、これではあまりにも」
「今日が路花ちゃんの心を取り戻す最後のチャンスかもしれないんです。ずっと今のままでもいいんですか?」
問われ、お母さんがゆっくりとわたしに顔を向けてくる。それから目を伏せた。里中先生はそれを答えと受け取ったようだった。お母さんの肩に手を添えながら「この人は誰だ」と私に視線を滑らせてくる。
「え……お、かあさん」
「違う」
「おかあ、さん……お母さんなのっ!お母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さん」
「違う。君は分かってるはずだ。この人は、君のお母さんじゃないって」
里中先生の隣にはいつものお母さんが立っていた。ロマンスグレーの髪を緩やかにかきあげ、今日も花柄のチェニックを身に纏っている。胸の前まで持ち上げられた手は震え、無数の皺が刻まれていた。
「おばあちゃん、だ。そうだろう? 路花ちゃん、この人の顔をよくみるんだ」
お母さんに目をやりながら、あれ、と思う。頬を拭うと、手のひらが濡れた。私が振り絞るように「……違う」と言うと、里中先生は「そうか。じゃあこれは覚えているかな」と席を立ちあがった。
「さっきはある男の子の野球の応援にと言ったが、その子の名前は鮎人くんだ」
里中先生は気付いたらわたしの前に立っていた。
「え」
「そう、君のクラスメイトだ。三つの独立した人格に分かれた時、唯一共通認識として君の頭に残った人物がそこにいる君のおばあちゃんと鮎人くんだ。何故かな」
「そんなの」
「分からないか。じゃあ、僕が代わりに答えよう。君はたぶん、いや高い確率で鮎人くんのことを愛していたのだと思う。何故彼だけがどの時間帯の君の記憶に残ってる。何故彼だけに君は心を許してる。路花ちゃん」
肩に手を置かれた。里中先生は「思い出すんだ」と続けた。
「君は三つの時間帯に自分を作り、それぞれの方法で自傷してる。朝の君は他者に怒りをぶつけることで自ら孤独へ向かい、昼の君は自身が身体に悪いと思っているものを積極的に体内に取り込み、そして夜の君は自らの身体を。性格も人格も考えまで違う君たちが鮎人くんだけは共通認識としてる。何故だ」
「わ、わからない」
「人の優しさや愛、時間は少なからず悲しみを癒やしてくれる。でも、その前に現実と向き合わなくちゃそれすらも叶わない。よく思い出して。鮎人くんのことを愛していた君はどれだ。誰彼構わず怒りをぶつける君か? それとも異常に陽気で常に楽観的な君か? どれも違うだろ? 悲しくて、辛くて、今は心を閉ざしてしまってはいるが、僕の前にいる君こそが本来の君だろ?」
瞬間、身体が震えた。肌が粟立ち、鮎人を通して当時の記憶が頭のなかに広がった。まるで爆発したかのように感情が溢れかえってくる。それに、と里中先生は続けた。
「朝と夜と昼間。君のなかにいる人格は三つだと思っていたが、どうやら違ったようだ。四人目の人格がいるだろ? ちいさな男の子の」
「わ、わからない」
「每日、毎晩、君がせっせと夜食を運び、話しかけている子のことだ」
「知らな、い」
「日記やカウンセリングから推察するに恐らくこの事を朝と昼間の君は知らない。でも、君だけは違う。君だけが、その四人目の人格を認知し匿ってきたから。名前は悠。君の、弟だ」
「あああぁああぁっ!!!」
意味も分からず頭を掻きむしっていた。そうでもしないと頭のなかから湧き上がるなにかを抑えられそうになかった。
──お姉ちゃん。
やめて。
──お姉ちゃん、ぼく水族館にいきたい。
そんな綺麗な目でわたしをみないで。
──いつかぼくが、クジラでも幸せに過ごせる大きな水槽を作ってあげる。
ごめん。ごめん、なさい。悠。
「いやっあぁあぁ!!」
まるで静寂な湖の湖底に大きな石を落としたあとのようだった。湧き上がった無数の記憶が頭のなかを埋め尽くしてった。頭を両手で抑え、何度も何度も叫び声をあげた。その先でみた。普段は身に纏うことのない半袖のシャツを着て、更に上から長袖を羽織り家を出るわたし。裏庭を駆け下りて校舎裏の壁の前に立ったわたしは、羽織っていた制服を一枚脱いだ。夏の空に普段は表に出すことのないわたしの白い肌が陽の光を弾いていた。何度もカッターナイフで切りつけ盛り上がった肉と共に持ち上げた左腕は赤いペンキを手にしていた。
「いつか……クジラが、ぼくの世界を壊して、くれる」
悠が言っていた。お父さんに憧れ、水族館の飼育員になろうとしていた悠が。クジラを水槽で飼うことは出来ない。そんな、常識を纏う世界が嫌で。
次にみたのは学校の廊下だった。朝のひかりが濁流みたいに溢れる中、わたしは水槽のエアポンプを動かすコードをハサミで切断した。
なに、これ。思わず髪を掻きむしった時「路花ちゃん」と腕を掴まれた。
「君のお父さんとお母さんが亡くなった時、後部座席の左側に座っていた悠くんも亡くなったんだ。でも、悠くんはその日、本当は左側に座るはずじゃなかった。そうだろう?」
「な……んで」
「悠くんは右側に座りたいと言ったが、既に車に乗り込んでいた君は動くのが嫌で譲らなかった。だから君は罪悪感に苛まれた。わたしが譲っていればって」
「あぁぁっああ」
うまく息が出来なかった。
「わたしが譲れば悠は生きていた。わたしが死ねば良かった。わたしなんか、わたしがこんな世界に生きていなければ。その想いが君のなかに四人目の人格を生み出し、更には自分を含めたこの世界で生きるありとあらゆる生き物を憎むようになったんだ」
「なん、で、そんなこと」
「ここまできたら正直に言う。実は、君がこの段階まで回復したのは初めてじゃない。僕のカウンセリングを受けて半年で君は一度全ての記憶を取り戻した。でも、悲しみに耐えきれなくなった君は、数日後には朝と夜と昼間の君に分かれ元には戻らなかった。だから頼む。今度だけは受けいれてくれ。どれだけ時間がかかってもいい。でも、君のなかにある大きなその傷だけは、もう無いものにしないでくれ。君のお父さんとお母さん、それに悠くんの為にも」
里中先生の言葉は、ゆっくりと、でも着実に、わたしの胸に染みていった。
「あ、いたい」
無意識に呟いていたが、それがわたしの心から漏れたものだということはすぐに分かった。あいたい。その言葉を口に含んだ瞬間、わたしは決壊した。最初の涙がこぼれ落ち、それを追いかけるように次々と頬を伝った。
「あぁぁあぁぁっ!!」
まるで赤子のようだった。自分のものとは思えない程の大きな声が喉から溢れ出てくる。一生分の涙を流した。里中先生は「大丈夫。もう大丈夫だ」と一緒に涙を流し身体を抱き締めてくれた。
それからわたしは里中先生の元をあとにしおばあちゃんの運転する車で自宅に戻った。すると、夜が溶け落ちた道なりに見覚えのある影が二つ動いた。運転席にいるおばあちゃんが「私が呼んだんだ」と呟く。
「今日が路花にとって一番辛い日になる。だから傍にいてやって欲しいってね。さあ、いこう」
おばあちゃんが身体を支えてくれながら家まで歩いていくと、鮎人と凪が駆けてきた。「路花、路花っ」と二人とも声を上げて泣いている。世界に充満した夜のなかで、私は三人の体温に包まれながら泣き続けた。二人が帰ったあと、おばあちゃんは温かい紅茶をわたしの前に置きまた涙も流してくれた。わたしは「ありがとう」とそれを飲み干し「疲れたから寝るね」と自室に戻った。机のうえには一冊のノートがある。今まではこれにその日の活動記録を書いて眠りについていた。一度は手を伸ばしかけて、その手をひっこめた。ベッドに潜り、身体中の水分を振り絞るようにまた泣いた。手で握り締めていたシーツが、わたしの液状化した悲しみで湿っていく。この一年ずっと夜が怖かった。瞼を閉じるとみたくもないものがみえそうで、お前は一人だと孤独がささやいてきそうで、怖くて怖くて仕方なかった。でも、と指先で目元を拭う。今なら、ほんの少しなら。
わたしはその日、一年ぶりに夜に手を伸ばした。
