路花とは、あの日から二週間以上会えていなかった。学校で取り乱した路花はそれから自分を傷付けかねないという医師の判断から閉鎖病棟に入院した。当然だが面会は謝絶。現状を知ることすら出来なかった。数日後、退院はしたという事は路花のおばあちゃんから教えて貰ったが、「今は混乱してるから合わせることが出来ない」とその一点張りで路花がどこにいるかすら教えて貰えなかった。その数日間は、気がおかしくなりそうだった。
路花のおばあちゃんから連絡を貰ったのは昨夜の事だ。もう自分にはどうする事も出来ないから力を貸して貰えないかという旨だった。私は「勿論です」と即答し、鮎人にもそれを伝えた。路花は今、二階のあの部屋にいるらしく、先に鮎人と合流することにした。
「これから先、なにがあっても俺は引き下がるつもりないから。全ての原因は俺にあるんだから」
家を前にした時、鮎人がまるで自分に言い聞かせるようにふいに呟いた。
「私も」
私たちは、路花の家の中へと足を踏み入れた。すぐにおばあちゃんが出迎えてくれる。たった数週間会っていなかっただけなのに、随分年をとってしまったように感じた。目は落ち窪み、顔の至るところにある皺が深く刻まれていた。それだけに疲れているのだろう。
「よく来てくれたねえ二人とも。本当にありがとう」
玄関口で、おばあちゃんが深々と頭を下げてくれる。顔を上げると「電話でも話したけど」とおばあちゃんは続けた。
「とにかく今の私の願いはね、路花に良くなって貰う事だけなんだ。その為には里中先生のところに連れて行くのが一番の早道だと私は思ってる。けど、あの子はもうどこにも行かないとそればかりでね、とてもじゃないけど連れ出せないんだ。二人にお願いしたいのは、まずは一歩でも路花を外に連れ出して貰う事だ。お願い出来るかな?」
問われ、私も鮎人も頷いた。おばあちゃんは満足そうに微笑むと、「路花はこっちだ」と二階に通してくれる。木製の階段だ。かなり古いからいつも一歩足を踏み出す度にぎっ、ぎっ、とちいさな音が鳴る。踊り場から廊下を渡り、二階の突き当たりの部屋の前に立つ。おばあちゃんが「いいかい?」と確認を求めてきた為、私は頷いた。
扉が開く。視界に広がったそれらをみて、私は無意識に「えっ」と声を漏らしていた。あとからみた鮎人も「なんだよ、これ」と声をあげた。まず目に入ったのが部屋中に置かれた透明な置物の数々だった。球体やお皿タイプのもの、蝶や花、動物をかたどったガラス製の置物。それらで床やベッド、机のうえは敷き詰められていた。そして路花は、ベッドと机の狭い隙間に身体を縮こませ座り込んでおり、虚ろな目で一点をみつめていた。
「これはね、私が買い与えたんだ。路花が求めるものを、早く良くなって欲しい一心で私が毎日毎日買いにいった。透明なものが欲しい。そればかり言うからねこの子は」
言葉を失っていた私たちにおばあちゃんが横から説明してくれる。確かに路花の為にというその気持ちは分かる。でもこれは、どう考えても異常ではないだろうか。
「とりあえずこれを片付けよう。こんな環境にいたら治るものも治らないよ」
鮎人も私と同じことを感じとったのかもしれない。手前にある透明な置物から順に廊下に並べていく。私もそれを手伝った。足元に路花の日記が落ちているのに気付き、それを拾い上げページを捲った。瞬間、全身の肌が粟立ち、声が漏れそうになったが必死に抑えた。
『透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい』
日記はびっしりとその文字で埋め尽くされていたのだ。私はそれを廊下に運び、再び片付けに戻った。ようやく足のふみ場が出来るまでに三十分程かかった。膝を立て、床に座り込む路花を前に腰をおろした。
「路花、大丈夫?」
問いかけると、顔がゆっくりと持ち上がる。長い髪の隙間から虚ろな目が私を覗いている。
「な、ぎ」
「そう。私のこと分かるんだね。良かった」
一瞬喜びかけた私の心は、「ねえ、みてよこれ」と腕を持ち上げた路花の言葉でガラスのように粉々に砕け散った。
「私の腕、透明になった」
「透明?」
私にはそうみえない。何度も傷つけられた結果、肉が盛り上がった手首とその先にある腕は今もしっかりと宙に浮いている。
「髪も、肌も、足も、私の全ては今透明なの」
「路花!」
これ以上は聞いていられないと肩を掴んだ。
「ねえ、しっかりして! 自分を取り戻して!」
「なに」
「路花は、私の知ってる路花は自分が透明だなんて言ったりしなかったよ?」
「でも、私の、私は今透明だから。ほら」
路花がまた腕を持ち上げみせつけてくる。確かに目に見え、存在している腕を何度も何度も。くそっ。胸のなかだけで張り裂び、路花の手を掴んだ。
「じゃあ、なんで触れんの」
後ろから「凪!」と鮎人が声をかけてくる。路花のような症状の人を頭ごなしに否定してはいけない。現実を唐突に突きつけてはいけない。そんなこと、私だって分かってる。でも、これ以上自分の大切な人が壊れていく姿をみるのは耐えられなかった。
「私にはみえてるよ。あんたの腕が、あんたの顔が。ちゃんと体温も感じる。あんたが言うようにもし透明なら、なんで私は触れんの」
「それは、たぶんきっと凪も透明だから」
「路花っ!!」
肩を揺すった。「ねえ、思い出して!」と声を荒げる。
「私のことは覚えてるんでしょ? いつから? ライブに来てくれた事は覚えてる? じゃあその後カフェにいったことは? 鮎人と一緒に海に行った事は? その時のあんたも透明だったの? 違うでしょ」
「う、み」
路花がどこか遠くをみるような目をした。鮎人が私のすぐ傍に腰をおろし「路花」と呼びかける。
「一緒に過ごした日々を俺も覚えてるよ。一緒にアイスを食べただろ? 食堂でもご飯を食べただろ?」
「一緒」
「ねえ路花、全部を否定しないでよ。目を背けたくなる気持ちも分かるよ。辛いのだって、私には分かる。けどさ、あんたと同じ世界で生きて心の底からあんたの事まで好きだって言ってる私たちの事まで否定しないでよ。だって、私たち親友でしょ?」
感情のままに言葉を紡いだせいか気付いた時には私は泣いていた。ひっ、と上擦った声が漏れ、頬を伝う涙を乱雑に手のひらで拭った。
「少しずつでいい。私は無理をしろなんて言ってない。でも、少しでいいから私と鮎人が生きる世界に戻ってきて。今のあんたが生きる世界に私たちは入れないの。だから、あんたがこっちにきて。まずは、この部屋を出ることから。ねえ、また遊ぼうよ」
最後は項垂れるように呟き、ぽんと路花の胸を叩いた。その日は結局、路花が部屋から出ることは無かった。けれど、鮎人はあの瞬間路花の心に凪の言葉は届いたはずだと言ってくれた。路花の目に一瞬だがひかりが宿っていたと、そう言ってくれた。
私と鮎人は、以前のように毎日路花の家を訪れた。そんな日々が二週間続いたある日のことだった。ついに路花が家から出てくれたとおばあちゃんから連絡があった。
路花のおばあちゃんから連絡を貰ったのは昨夜の事だ。もう自分にはどうする事も出来ないから力を貸して貰えないかという旨だった。私は「勿論です」と即答し、鮎人にもそれを伝えた。路花は今、二階のあの部屋にいるらしく、先に鮎人と合流することにした。
「これから先、なにがあっても俺は引き下がるつもりないから。全ての原因は俺にあるんだから」
家を前にした時、鮎人がまるで自分に言い聞かせるようにふいに呟いた。
「私も」
私たちは、路花の家の中へと足を踏み入れた。すぐにおばあちゃんが出迎えてくれる。たった数週間会っていなかっただけなのに、随分年をとってしまったように感じた。目は落ち窪み、顔の至るところにある皺が深く刻まれていた。それだけに疲れているのだろう。
「よく来てくれたねえ二人とも。本当にありがとう」
玄関口で、おばあちゃんが深々と頭を下げてくれる。顔を上げると「電話でも話したけど」とおばあちゃんは続けた。
「とにかく今の私の願いはね、路花に良くなって貰う事だけなんだ。その為には里中先生のところに連れて行くのが一番の早道だと私は思ってる。けど、あの子はもうどこにも行かないとそればかりでね、とてもじゃないけど連れ出せないんだ。二人にお願いしたいのは、まずは一歩でも路花を外に連れ出して貰う事だ。お願い出来るかな?」
問われ、私も鮎人も頷いた。おばあちゃんは満足そうに微笑むと、「路花はこっちだ」と二階に通してくれる。木製の階段だ。かなり古いからいつも一歩足を踏み出す度にぎっ、ぎっ、とちいさな音が鳴る。踊り場から廊下を渡り、二階の突き当たりの部屋の前に立つ。おばあちゃんが「いいかい?」と確認を求めてきた為、私は頷いた。
扉が開く。視界に広がったそれらをみて、私は無意識に「えっ」と声を漏らしていた。あとからみた鮎人も「なんだよ、これ」と声をあげた。まず目に入ったのが部屋中に置かれた透明な置物の数々だった。球体やお皿タイプのもの、蝶や花、動物をかたどったガラス製の置物。それらで床やベッド、机のうえは敷き詰められていた。そして路花は、ベッドと机の狭い隙間に身体を縮こませ座り込んでおり、虚ろな目で一点をみつめていた。
「これはね、私が買い与えたんだ。路花が求めるものを、早く良くなって欲しい一心で私が毎日毎日買いにいった。透明なものが欲しい。そればかり言うからねこの子は」
言葉を失っていた私たちにおばあちゃんが横から説明してくれる。確かに路花の為にというその気持ちは分かる。でもこれは、どう考えても異常ではないだろうか。
「とりあえずこれを片付けよう。こんな環境にいたら治るものも治らないよ」
鮎人も私と同じことを感じとったのかもしれない。手前にある透明な置物から順に廊下に並べていく。私もそれを手伝った。足元に路花の日記が落ちているのに気付き、それを拾い上げページを捲った。瞬間、全身の肌が粟立ち、声が漏れそうになったが必死に抑えた。
『透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい透明になりたい』
日記はびっしりとその文字で埋め尽くされていたのだ。私はそれを廊下に運び、再び片付けに戻った。ようやく足のふみ場が出来るまでに三十分程かかった。膝を立て、床に座り込む路花を前に腰をおろした。
「路花、大丈夫?」
問いかけると、顔がゆっくりと持ち上がる。長い髪の隙間から虚ろな目が私を覗いている。
「な、ぎ」
「そう。私のこと分かるんだね。良かった」
一瞬喜びかけた私の心は、「ねえ、みてよこれ」と腕を持ち上げた路花の言葉でガラスのように粉々に砕け散った。
「私の腕、透明になった」
「透明?」
私にはそうみえない。何度も傷つけられた結果、肉が盛り上がった手首とその先にある腕は今もしっかりと宙に浮いている。
「髪も、肌も、足も、私の全ては今透明なの」
「路花!」
これ以上は聞いていられないと肩を掴んだ。
「ねえ、しっかりして! 自分を取り戻して!」
「なに」
「路花は、私の知ってる路花は自分が透明だなんて言ったりしなかったよ?」
「でも、私の、私は今透明だから。ほら」
路花がまた腕を持ち上げみせつけてくる。確かに目に見え、存在している腕を何度も何度も。くそっ。胸のなかだけで張り裂び、路花の手を掴んだ。
「じゃあ、なんで触れんの」
後ろから「凪!」と鮎人が声をかけてくる。路花のような症状の人を頭ごなしに否定してはいけない。現実を唐突に突きつけてはいけない。そんなこと、私だって分かってる。でも、これ以上自分の大切な人が壊れていく姿をみるのは耐えられなかった。
「私にはみえてるよ。あんたの腕が、あんたの顔が。ちゃんと体温も感じる。あんたが言うようにもし透明なら、なんで私は触れんの」
「それは、たぶんきっと凪も透明だから」
「路花っ!!」
肩を揺すった。「ねえ、思い出して!」と声を荒げる。
「私のことは覚えてるんでしょ? いつから? ライブに来てくれた事は覚えてる? じゃあその後カフェにいったことは? 鮎人と一緒に海に行った事は? その時のあんたも透明だったの? 違うでしょ」
「う、み」
路花がどこか遠くをみるような目をした。鮎人が私のすぐ傍に腰をおろし「路花」と呼びかける。
「一緒に過ごした日々を俺も覚えてるよ。一緒にアイスを食べただろ? 食堂でもご飯を食べただろ?」
「一緒」
「ねえ路花、全部を否定しないでよ。目を背けたくなる気持ちも分かるよ。辛いのだって、私には分かる。けどさ、あんたと同じ世界で生きて心の底からあんたの事まで好きだって言ってる私たちの事まで否定しないでよ。だって、私たち親友でしょ?」
感情のままに言葉を紡いだせいか気付いた時には私は泣いていた。ひっ、と上擦った声が漏れ、頬を伝う涙を乱雑に手のひらで拭った。
「少しずつでいい。私は無理をしろなんて言ってない。でも、少しでいいから私と鮎人が生きる世界に戻ってきて。今のあんたが生きる世界に私たちは入れないの。だから、あんたがこっちにきて。まずは、この部屋を出ることから。ねえ、また遊ぼうよ」
最後は項垂れるように呟き、ぽんと路花の胸を叩いた。その日は結局、路花が部屋から出ることは無かった。けれど、鮎人はあの瞬間路花の心に凪の言葉は届いたはずだと言ってくれた。路花の目に一瞬だがひかりが宿っていたと、そう言ってくれた。
私と鮎人は、以前のように毎日路花の家を訪れた。そんな日々が二週間続いたある日のことだった。ついに路花が家から出てくれたとおばあちゃんから連絡があった。
