ご飯を食べた後、昼休みが終わるまであと十五分くらいあるからと、ついさっき鮎人が言っていた壁に書かれた文章を見に行くことにした。校舎裏にまわると既に何十人ものギャラリーがいて、携帯を手に写真をとるものまでいた。息を吸って吐くたびに濃い緑のにおいで肺が満たされていく。この高校はちいさな森に囲まれている為、校舎裏からは裏庭と呼ばれるなだらかな丘が見通せる。そこには幾つもの針葉樹林が群生しており、空高く伸びた枝葉で細切れになった陽の光が皆の制服や壁一面に影をおとしていた。私は群衆のなかに混じり、気付いた時には書かれていた文章を読み上げていた。
「いつかクジラが……ぼくの世界を壊してくれる。そしたらぼくは、お礼にぼくを含めた全員を天国に連れて行く。何故なら全員が、この世界で生きるに相応しくないないからだ」
赤いペンキで書かれたそれは、所々が重力に導かれてペンキが垂れ、まるで血で塗られたみたいにみえた。けれど、何故か私には怖くは思えなかった。文章の意味は全く理解出来なかったけれど、懐かしさすら覚えた。
「いつかクジラが、ぼくの世界を壊して、くれる」
どういう意味なんだろ。よく分からなかったが自分の目でみれて満足した。このまま外にいて、街路樹でけたたましく産声をあげる蝉たちと一緒になってかんかん照りのお日様の下で日向ぼっこをしてもいいなあとは思ったけれど、お腹も満たされてちょっと眠たくもあるから教室に戻ることにした。
私が通う星林高校には大半の生徒たちが使用する表階段と、少し風変わりな生徒が好んで使用する裏階段があり、私はその後者の方の金属製の階段を靴の踵でかんかんかんって音を鳴らしながら駆け上がっていった。踊り場の少し手前のところで足を止める。階段に背を預けるようにして本を読んでいる女の子がいた。目が合う。クラスメイトの浅川さんだった。黒く、滑らかなセミロングの髪に綺麗な輪っかが浮いていた。
「なに? 僕に何か用?」
浅川さんは自分のことを僕と呼ぶ。
「なんでこんなとこで本読んでるの。外、暑くない?」
思ったままの疑問を口にしたが浅川さんは「別に」とすっと本に視線を戻した為、私はそのまま通り過ぎることにした。本の世界に入っている時は誰だって邪魔されたくないよね。ごめん、ごめん、と、胸のなかで謝る。ドアノブに手をかけた時だった。浅川さんがなにかを言った気がした。か細くてちいさな声だった為に聴き取れなかったけれど、確かになにか言ったと振り返る。
「ごめんなにか言った?」
問いかけると、浅川さんが「戻るの」と顔だけを向けてくる。重ための前髪の隙間から綺麗な目が覗いていた。教室、とあとから付け足されたので私は頷いた。
「やめたほうがいいよ今は」
「なんで?」
「さっき教室行ったらそういう空気だったから。特に、美藤さんは」
指をさされ、私は自分の顔に指をさし「えっ私?」と問いかけた。
「いくなら止めないけどやめた方がいい」
「だからなんで?」
「だって美藤さん、今のクラスではあんまりよく思われないじゃん」
ますます意味が分からず首を傾げると、浅川さんは「本当に何も覚えてないんだね」と再び本の世界に入った。私はそれを見届けてから扉をあけた。すぐに私の身体を冷気が迎え入れくれる。廊下を渡り、『2-c』と書かれた表札のある扉を開ける。すると、寸前まで外にまで聴こえていたクラスメイト達の笑い声や話し声が、本を閉じたみたいにぴたりと止んだ。黒い目ん玉が一人に二つ。たぶん、全部で四十個くらい。あっ、もっとあるか。それが全て私に向けられている。私はその中を颯爽と歩いていく。窓際の、一番最後列。そこが私の席だ。けれど、何故かそこには先客が座っていた。周りには数人の女子たちもいる。
「そこ私の席」
指を指す。すると、私の席に座る先客──柳井さんが「知ってるよ。やっときたね犯人」と唇の端を歪めた。胸下まで流れた黒い髪は、まるで墨汁に浸した筆先みたいに艶を帯びなめらかで、白いワイシャツやプリッツスカートの先から伸びる素肌は驚く程に白い。おまけに顔はパーツパーツひとつひとつがくっきりとしており、なんだかお人形さんが座ってるみたいだった。
「犯人?」
柳井さんが一体なにを言ってるのか分からず、私はもう一度「犯人ってなに」と繰り返した。
「うちの教室に気味の悪い魚置いたのも、校舎裏の壁に落書きしたのも、あれあんたでしょ?」
思わず目を見開いてしまう。まさかついさっき鮎人から教えて貰ったばかりの事件の犯人扱いされるなんて夢にも思わなかった。
「え、違うんだけど。私やってない」
「そうなの」
「そうだよ、やってない」
「まっ、すぐには認めないか」とつめたい笑みを浮かべると、周りにいる女子たちが「だよねー」と賛同した。皆、仲良しこよしで羨ましい。
「私、どこに座ればいいかな」
問いかけると、柳井さんは指先で絡めた髪をくるくると巻きながら「さあ。私この席が居心地いいの」と唇をまた歪な角度で歪めた。周りにいる女子たちはくすくすと笑ってる。何が面白いのかは私にはわからない。
「わかった、じゃあその席あげるよ。私は柳井さんの席に座るね」
くるりと背を向けて初めて気付いたが、未だにクラスメイト達の視線は私に向けられていた。皆、そんなに私が気になるのか。へえ。って、思いながら柳井さんの席を探す。確かあそこだっけ、と歩みを進めようとした時、後ろから肩を掴まれた。
「おい、待てって! 喧嘩うってんの? 誰が私の席に座っていいって言ったよ」
思わず目を丸くしてしまう。一体この人は何を言ってるんだろう。
「え、だって柳井さんは私の席が居心地いいんでしょ? だからあげるよ! 私は柳井さんの席に座るから」
「あんたの席なんてこのクラスにないの。分かる? な、い、の」
席からふっと立ち上がった勢いのまま、柳井さんの顔が鼻先と鼻先が触れ合う距離まで近づいてくる。じゃあ私はどこに座ればいいの、と頭に浮かんだ疑問を口にしようとした時、「いい加減にしろよお前ら!」と空気を切り裂くような声を放ちながら鮎人が駆けてきた。肩に手を置かれ、柳井さんと引き離される。最初は驚いた顔をしていた柳井さんだったがみるみる内に顔が引き攣り「そいつの味方すんのかよ!」と声を張り上げた。
「皆どれだけそいつのせいで迷惑かけられてると思ってんの? 毎朝、毎朝さあ。いい加減こっちも限界なんだわ」
「私? 迷惑?」
自分の顔に人さし指を向けながら問いかけた。意味が分からなかったのだ。瞬間、柳井さんはふぅっと大きくため息をついた。
「……またそれかよ。もういいってそのとぼけた感じも。あんたはね」
柳井さんが言葉を紡ごうとした瞬間、「柳井!!!」と聞いたこともない声色で鮎人が声を張り上げた。次の瞬間には音が死んだ。だが、その数秒後、静まり返った教室のなかに息を吹き込むみたいにチャイムが鳴った。担任の白石先生が教室に入ってきたのは、そのすぐ後だった。
「いつかクジラが……ぼくの世界を壊してくれる。そしたらぼくは、お礼にぼくを含めた全員を天国に連れて行く。何故なら全員が、この世界で生きるに相応しくないないからだ」
赤いペンキで書かれたそれは、所々が重力に導かれてペンキが垂れ、まるで血で塗られたみたいにみえた。けれど、何故か私には怖くは思えなかった。文章の意味は全く理解出来なかったけれど、懐かしさすら覚えた。
「いつかクジラが、ぼくの世界を壊して、くれる」
どういう意味なんだろ。よく分からなかったが自分の目でみれて満足した。このまま外にいて、街路樹でけたたましく産声をあげる蝉たちと一緒になってかんかん照りのお日様の下で日向ぼっこをしてもいいなあとは思ったけれど、お腹も満たされてちょっと眠たくもあるから教室に戻ることにした。
私が通う星林高校には大半の生徒たちが使用する表階段と、少し風変わりな生徒が好んで使用する裏階段があり、私はその後者の方の金属製の階段を靴の踵でかんかんかんって音を鳴らしながら駆け上がっていった。踊り場の少し手前のところで足を止める。階段に背を預けるようにして本を読んでいる女の子がいた。目が合う。クラスメイトの浅川さんだった。黒く、滑らかなセミロングの髪に綺麗な輪っかが浮いていた。
「なに? 僕に何か用?」
浅川さんは自分のことを僕と呼ぶ。
「なんでこんなとこで本読んでるの。外、暑くない?」
思ったままの疑問を口にしたが浅川さんは「別に」とすっと本に視線を戻した為、私はそのまま通り過ぎることにした。本の世界に入っている時は誰だって邪魔されたくないよね。ごめん、ごめん、と、胸のなかで謝る。ドアノブに手をかけた時だった。浅川さんがなにかを言った気がした。か細くてちいさな声だった為に聴き取れなかったけれど、確かになにか言ったと振り返る。
「ごめんなにか言った?」
問いかけると、浅川さんが「戻るの」と顔だけを向けてくる。重ための前髪の隙間から綺麗な目が覗いていた。教室、とあとから付け足されたので私は頷いた。
「やめたほうがいいよ今は」
「なんで?」
「さっき教室行ったらそういう空気だったから。特に、美藤さんは」
指をさされ、私は自分の顔に指をさし「えっ私?」と問いかけた。
「いくなら止めないけどやめた方がいい」
「だからなんで?」
「だって美藤さん、今のクラスではあんまりよく思われないじゃん」
ますます意味が分からず首を傾げると、浅川さんは「本当に何も覚えてないんだね」と再び本の世界に入った。私はそれを見届けてから扉をあけた。すぐに私の身体を冷気が迎え入れくれる。廊下を渡り、『2-c』と書かれた表札のある扉を開ける。すると、寸前まで外にまで聴こえていたクラスメイト達の笑い声や話し声が、本を閉じたみたいにぴたりと止んだ。黒い目ん玉が一人に二つ。たぶん、全部で四十個くらい。あっ、もっとあるか。それが全て私に向けられている。私はその中を颯爽と歩いていく。窓際の、一番最後列。そこが私の席だ。けれど、何故かそこには先客が座っていた。周りには数人の女子たちもいる。
「そこ私の席」
指を指す。すると、私の席に座る先客──柳井さんが「知ってるよ。やっときたね犯人」と唇の端を歪めた。胸下まで流れた黒い髪は、まるで墨汁に浸した筆先みたいに艶を帯びなめらかで、白いワイシャツやプリッツスカートの先から伸びる素肌は驚く程に白い。おまけに顔はパーツパーツひとつひとつがくっきりとしており、なんだかお人形さんが座ってるみたいだった。
「犯人?」
柳井さんが一体なにを言ってるのか分からず、私はもう一度「犯人ってなに」と繰り返した。
「うちの教室に気味の悪い魚置いたのも、校舎裏の壁に落書きしたのも、あれあんたでしょ?」
思わず目を見開いてしまう。まさかついさっき鮎人から教えて貰ったばかりの事件の犯人扱いされるなんて夢にも思わなかった。
「え、違うんだけど。私やってない」
「そうなの」
「そうだよ、やってない」
「まっ、すぐには認めないか」とつめたい笑みを浮かべると、周りにいる女子たちが「だよねー」と賛同した。皆、仲良しこよしで羨ましい。
「私、どこに座ればいいかな」
問いかけると、柳井さんは指先で絡めた髪をくるくると巻きながら「さあ。私この席が居心地いいの」と唇をまた歪な角度で歪めた。周りにいる女子たちはくすくすと笑ってる。何が面白いのかは私にはわからない。
「わかった、じゃあその席あげるよ。私は柳井さんの席に座るね」
くるりと背を向けて初めて気付いたが、未だにクラスメイト達の視線は私に向けられていた。皆、そんなに私が気になるのか。へえ。って、思いながら柳井さんの席を探す。確かあそこだっけ、と歩みを進めようとした時、後ろから肩を掴まれた。
「おい、待てって! 喧嘩うってんの? 誰が私の席に座っていいって言ったよ」
思わず目を丸くしてしまう。一体この人は何を言ってるんだろう。
「え、だって柳井さんは私の席が居心地いいんでしょ? だからあげるよ! 私は柳井さんの席に座るから」
「あんたの席なんてこのクラスにないの。分かる? な、い、の」
席からふっと立ち上がった勢いのまま、柳井さんの顔が鼻先と鼻先が触れ合う距離まで近づいてくる。じゃあ私はどこに座ればいいの、と頭に浮かんだ疑問を口にしようとした時、「いい加減にしろよお前ら!」と空気を切り裂くような声を放ちながら鮎人が駆けてきた。肩に手を置かれ、柳井さんと引き離される。最初は驚いた顔をしていた柳井さんだったがみるみる内に顔が引き攣り「そいつの味方すんのかよ!」と声を張り上げた。
「皆どれだけそいつのせいで迷惑かけられてると思ってんの? 毎朝、毎朝さあ。いい加減こっちも限界なんだわ」
「私? 迷惑?」
自分の顔に人さし指を向けながら問いかけた。意味が分からなかったのだ。瞬間、柳井さんはふぅっと大きくため息をついた。
「……またそれかよ。もういいってそのとぼけた感じも。あんたはね」
柳井さんが言葉を紡ごうとした瞬間、「柳井!!!」と聞いたこともない声色で鮎人が声を張り上げた。次の瞬間には音が死んだ。だが、その数秒後、静まり返った教室のなかに息を吹き込むみたいにチャイムが鳴った。担任の白石先生が教室に入ってきたのは、そのすぐ後だった。
