透明に堕ちるわたしの輪郭

 あれから二日が経ったが、私にとってはなにも変わらない日常が続いていた。鮎人だけが心配してくれているのかいつも以上に声をかけてくる。その度に私は「大丈夫だよー。保健室登校とかむしろ楽しみ」と答えた。本心だった。食堂で揚げ物たっぷりのcランチを食べたあと、気分はるんるんで教室に戻ろうとすると浅川さんに「待って」と呼び止められた。

「なに?」
「今は入らない方がいい」

 浅川さんは心底心配そうな表情で言った。確か前にもこういうことがあった。

「なんで?」
「たぶん柳井さんたち何かしようとしてる気がするから。私、さっきまで教室にいたから聞いちゃったの。だから外で美藤さんのこと待ってて」
「私のこと助けようとしてくれてんの?」

 問いかけると、浅川さんはちいさく頷いた。私はそんな浅川さんの肩に手を置く。

「大丈夫。私、柳井さんたちに何か言われても全然気にしてないから。教えてくれてありがとね」

 するりと浅川さんの傍をすり抜け教室の扉を開ける。外にまで漏れ出ていたクラスメイト達の笑い声が一瞬で静まり返る。気にしない気にしない、と私は自分の席に腰をおろした。しばらくすると、少しずつ教室のなかに笑い声が満ちていった。

 クラス中から浮足立った空気を感じるのはきっと、明日から夏休みが始まるからだ。至るところから夏休みの予定について話し合うクラスメイト達の声が聴こえてくる。いいなあって思う。私も鮎人と凪と一緒にどこかに行ってみたい。前回は海に行ったから今度は山に行ってみるのもいいかもしれない。いやいや、水族館とか映画館なんてどうだろう。ベタ過ぎるかもしれないけど、ポップコーンを抱える鮎人を私と凪で挟んで、たまたま三人同時に手を伸ばしちゃうみたいな事があったら楽しそうだなあって思う。

 浅川さんのお勧めの本を横並びになって読むのもいいかもしれない。あんなことやこんなこと。一度考え始めると湯水のようにそれが溢れ出てきて妄想は膨らむばかりだ。あー夏休みが待ち切れない、と身体をふるふるとしながら窓の向こうに目をやった時、肩を叩かれたので振り返った。柳井さんだった。朝の私に頭突きされたという鼻の頭は青くなっていた。

「ねえ、まず一つ聞きたいんだけど何であんた学校来れんの?」
「えっ、なんか保健室登校は新学期からでいいって言われたから?」
「どいつもこいつも何でお前に甘いんだろうね。昨日とか白石が一日中張り付いてみてたからやり返す隙も無かったし。まあいいや、ようやくあんたとこうやって話せてるしね」

 柳井さんが肩を組んでくる。私の耳元のすぐ傍まで顔を寄せてくる。

「これ、なーんだ」

 視界いっぱいに携帯の画面が広がる。それ程までに近いところにあった。あまりにも近くてぼやけてみえない。携帯を手にしている柳井さんに「ちょっと貸して?」と手にとってみる。そこには大破した車が映っていた。真っ黒な車がなにかに引き裂かれたみたいに真っ二つになっている。

「な、にこれ」
「これ、なーんだ」

 歪んだ唇に目をやってからもう一度携帯に目を落とした。すると、柳井さんが肩を組むようにしながら顔を寄せてくる。

「いいこと教えてあげようか。あんたの、ひ、み、つ」

 囁き声だった。

「その記事ちゃんと読んだ?」

 私はふるふると首を横に振る。写真しか目に入ってこなかったのだ。

「あっそじゃあ読んで。ほら、この部分。亡くなったのは美藤明日美さんと、美藤隆さん。それから美藤悠くんとも書いてる。あんたと名字一緒だね」
「そうだ、ね」
「でね、そのうえで私が聞きたい事がひとつあるの。あんたの両親って今どこにいるの」

 瞬間、身体が強張った。りょうしん、と無意識に呟いていた。

「そう。お父さんとお母さん」
「私、にはお母さんしかいない。生まれた時から、ずっとそうだった」
「違うよ」
「そうだよ、だって」
「あんたさ、記憶を失ってるんだってね。だから私が手助けしてあげる」

 柳井さんが私の髪を丁寧に耳にかけ、それから囁いた。

「あんたの、お父さんとお母さんね事故で死んでるよ?」

 足先から頭の先まで一気に紐で縛られたみたいに強張った。

「あとね、弟も」
「あぁあぁぁぁぁ!!!!」

 叫んでいた。席を立ち、髪を振り乱し、叫んでいた。自分の意思ではない。無意識に声を張り上げ、両手で机を掴む。それを上下左右にガタガタと揺らし、自分の声とは思えない程の声量で声を張り上げていた。

「なんだこいつ、きも」

 柳井さんの声が水のなかから発しているかのように聴こえた。頭のなかでさっき見せられた写真が脈を打つように点滅していた。みたくない。なにこれ。なにこれ。

──今日試合が終わったらそのまま四人で飯でも食いにいくか。久しぶりにどうだ?

──いいわねえ、路花なにか食べたいものある?

 頭のなかで写真が浮かぶ。それと同時に誰かの声が私のなかから這い上がってくる。いやだ。いやだ。聴きたくないない。こんなの、私は聴きたくない。

──路花、今年の誕生日プレゼントはなにがいい? 欲しいものがあったら父さんが何でも買ってやる。聞いたんだよ母さんに。期末の成績も良かったんだってな。路花のその頭の良さは母さんから貰ったものだ。大切にしなさい。

 違うんだって。誰なんだよお前。

──うん。ほんとになんでもいいの? えーじゃあどうしようかな。なんか、透明なやつがいいんだけど、じゃあ小物系でとにかくかわいくておしゃれなやつ。お父さんのセンスに任せるよ。

 お前もお前もお前も、私のなかで勝手に喋んな。

──また透明なものか。去年もあげたじゃないか。

──だって好きなの、透明。

 いつもみていたお母さんの顔が、紙切れみたいに剥がれ落ちていった。肩が、胸が、指先が、全てめくれ上がった先で塵のように溶けていった。やがて頭のなかで輪郭をくっきりと残した女性が現れた。ロマンスグレーの髪に、花柄のチュニック。

「お、ばあ、ちゃん?」

 声に出して、更に震えが止まらくなった。その時だった。頭の中で声がした。いつも私にべったりで、私の小指を掴んでる。それから満面の笑みを浮かべ、私に呼びかけた。

──お姉ちゃん、ぼく水族館にいきたい。

「うわあぁぁぁぁ!!!」

 机を持ち上げた。引き出しに入れていた教材が雪崩みたいに足元にばらばらと落ちる中、私はそれを思い切り窓ガラスに叩きつけた。凄まじい音が教室に鳴り響き、大きな亀裂だけをガラスに残した机は私のすぐ傍で音を立てながら落ちた。誰かの悲鳴が遠くの方で聴こえる。

「なにやってんだお前ら!!」

 扉が開いた音が鼓膜に触れたのとほぼ同時に静まり返っていた教室のなかを誰かの声が切り裂いた。肩を揺すられる。路花、おい路花。何度も何度も呼びかけられようやく顔をあげた時、目の前には鮎人がいた。

「どうした、路花なにがあったんだよ。なんで泣いてるんだ」

 私はその時になって初めて自分が泣いていることに気付いた。確かに頬をなにかが流れていっている感触はあるが、もうなにも分からない。

「あ、ゆと、わ、たし、私」
「大丈夫だ。路花、俺が傍にいる。ずっと傍にいるから。なっ?」
「い、や、なの。わ、からない。いや、いやなのっ。ああぁぁぁっ!!」
「路花っ!!」

 声が、遠のいていく。息が荒い。呼吸がうまく出来ない。息の吸い方が分からない。ふっふっ、と吐き出すばかりで、それまで自分がどうやって呼吸をしていたのか思い出せない。思わず胸に手を押さえた時、鮎人が「いいか、今から全部俺が言う通りにしろ」と床に座らされた。そのまま身体を前のめりに膝を立てろ、と言われるがままにする。

「じゃあ次は楽しかったことを思い浮かべろ。誰とでもいい。とにかく頭の中をそれでいっぱいにしろ。出来るか?」

 荒ぶった息のままちいさく頷いた。

「そうだ。凪のライブ、行ったよな。その前に路花の家の縁側で食ったアイスうまかったよな? 俺さ、あのラムネのやつ好きなんだけどさ食ったら絶対腹が痛くなるんだよ」

 一体なんの話をしているのか分からなかった。

「ライブにはさ、アイスを食ったあとに行ったじゃん? だからあの時実は俺、めちゃくちゃ腹が痛くてさ、でもそんなの恥ずかしくて言えなくてずっと我慢してたんだよ。それが分かってるならじゃあ最初から食うなよって話なんだけど、でもやめられないんだよ。だって、あれがうまいから。禁断症状ってやつ? 毎年夏になるとあれを食わなくちゃ夏が始まった気がしないんだよ。あー俺何言ってんだろうな。えっと、まあなにが言いたいかって言うと、路花と一緒に食ったあの時のアイスは、今まで一番美味かったこと。それだけ」

 ずっと呼吸を整えながら耳を傾けていたが、その瞬間ふっと顔をあげた。鮎人の顔に目をやる。春の陽だまりみたいな柔らかい笑みがそこにはあった。一瞬の息の境い目にちいさく頷いた時だった。教室のどこからか「えっ、凪? なんで?」という声が聴こえた。足早に駆ける音が近づいてくる。気付いた時には目の前に凪がいた。

「路花、大丈夫?」

 灰色の瞳が、真っすぐに私の瞳を捉えていた。状況も理解できないままに頷くと「そう」と一度呟いたあとすっと立ち、ずっと私の傍に立っていた柳井さんの頬を打った。教室に悲鳴が上がる。柳井さんは「痛っい。なにすんだよお前」と声を荒らげている。凪はそんな柳井さんに真っすぐに目を向けた。

「ふざけんなよお前!!このクズ野郎が。あんた、まじで終わってるわ」
「あ?」
「私のことなんて知らないだろうけどさ、一年の時からずっとあんたのことが嫌いだった。いつも取り巻きを引き連れて、我が物顔で廊下を歩くあんたのことが。気づいてないでしょ? 周りにいる子たち、皆顔死んでたよ? 本心では違うこと考えてるのにあんたが怖いから傍にいますって顔をね、みんなしてた。そんなあんたのことが、私は大嫌いだった」

 言い切ってから、今度は鮎人に目を向けた。

「鮎人ありがとう。路花を守ってくれたんだね。やっぱりあんたは最高だわ。あとは任せて」

 私は二人のやり取りを呆然とみていた。凪がすっと腰を下ろし「路花、立てる?」と問いかけてくる。私がちいさく頷いたのを確認すると、「よしっじゃあいくよ」と手を引かれた。それから私は、凪に手を繋がれたまま教室の外へと連れ出された。