透明に堕ちるわたしの輪郭

 朝のニュースでキャスターが読み上げる「三年連続の記録的な猛暑が予想されます」という言葉にため息が漏れた時、食卓を囲んでいたお母さんが唐突に「そろそろ教えてくれないかい?」と切り出してきた。私はだし巻きに通していた箸を止め、「教えるってなにを」と聞き返した。

「ここ最近、朝の六時前に家を出ていく時があるだろう? あたしがどれだけ理由を聞いてもいつかいつかってそればかりだから、そろそろ理由を知りたいんだよ」

 言ってる意味が分からなかった。朝の六時に家を出る? そんな時間に私は家を出たことがない。

「待って、お母さんさ、それほんとに私? 夜とか昼間の私じゃないの?」
「いや、確かに路花だったよ。朝の、路花だ」
「でも私そんな記憶ないよ?」

 私たち三人は記憶の共有が出来ない。だから、日頃から自分が肉体を支配している時間帯以外のことはなにも覚えてないが、少なくとも朝の時間帯はある。私が朝の六時に家を出たことがなんてない。きっとお母さんの勘違いだろうと、「しっかりしてよ」と小馬鹿にするように笑った。だが、お母さんは途端に眉間に皺を寄せ、「大丈夫かい?」と私の腕を掴んだ。

「どうして記憶がないんだ。こないだも妙なことを言っていたし、もしかしてまた病状が悪くなってるんじゃないだろうね。里中先生に一度」

 瞬間的に怒りが湧き、「いい加減にしてよっ!」とテーブルを叩きつけた。

「私を今よりも病人扱いすんの? 確かに私は普通じゃないかもしれないけど自分でコントロール出来てるから。まじで意味わかんないことばっかり言うのやめてくれる?」

 箸を置き、その勢いで家を飛び出した。耳障りな蝉の産声を聞きながら、まっすぐにバス停へと向かった。学校に着き、昇降口で上履きに履き替えようとした時、私の靴が無いことに気付いた。またか、と思う。いつだったか、なんでもやってこいよと柳井さんに啖呵を切ったものだから、それ以来私の身の回りのものがよくなるようになった。前回はゴミ箱に捨てられていた。今回もどこからか出るだろうとは思ったが何だか今日は待つ気分にはなれなかった。靴下のまま足早に階段を駆け上がり、教室の扉を勢いよく開ける。あいつらはいなかった。だとしたらと女子トイレに駆け込むと、案の定鏡の前でいつもの五人組がぺちゃくちゃと話していた。私は真っすぐに柳井さんの元へと進み、胸ぐらを掴んだ。

「ねえ、私の上履き隠したのあんた達だよね? 出して?」
「はあ? 知らないから私。っていうか、汚い手で私に触れんなよ」

 柳井さんが大きく目を見開いている。周りにいる女子たちが私の手を引き剥がそうと身体を押さえつけてくる。

「おいっ、いいから出せって! めんどくさいんだよいい加減」
「だから知らないって言ってんだろ? っていうか、あんた何をされても文句言わないみたいな事言ってなかったっけ。あっもしかしてそれも忘れた? そうだ、こないだお母さんから聞いたんだけどあんたただのヒスかと思ったら病気らしいね。心の病。皆、知ってる? こいつってね」

 瞬間、柳井さんの顔面めがけて思い切り頭突きしていた。両腕を押さえつけられていたからそれしか無かった。私の頭にも強い痛みが走ったが、柳井さんの顔面はひどい有様だった。鼻の穴から溢れ出た血が口元まで垂れている。思わず笑ってしまう。柳井さんは痛みで身悶えている。それをみている内に更に笑いがこみ上げてきた。はははって声を上げて笑っていた時だった。「何してんだお前ら」と男性教諭が入ってきた。私は、身体を押さえつけられた。

 職員室に連れて行かれ、喧嘩の理由を聞かれた。私は答えなかった。これでは埒が明かないと思ったのか男性教師が「あなたのクラスの生徒でしょう」とどこからか白石先生を連れてきた。白石先生は私を椅子に座らせると、正面の椅子に腰をおろした。

「殴ったんだって? 柳井さんのこと」

 吐き気がした。

「どうして?」

 この世界に。私が、閉じ込められているこの世界に、反吐が出そうだった。

「美藤さん」
「先生」
「なに?」
「どうして私はこんな世界で生きなくちゃならないんですか」

 分からなくなりそうだった。私が、一体なんなのか。何のために、この世界にしがみついているのか。白石先生は懸命になにかを伝えようとしてくれたが、私は一向に理解することが出来なかった。いや、元々そのつもりもなかった。白石先生は「一度三人で話しましょう」と言った。お母さんが学校に呼ばれるみたいだった。

 一階の職員室を出て廊下を渡った先にクラスメイトの浅川さんが立っていた。謹慎が明けたらしい。昼間の私とは仲がいいらしいが私は違う。朝と同じように素通りしようとすると、「美藤さん」と声をかけられた。ボブカットの髪には綺麗な天使の輪っかが出来ていて、私は彼女の目ではなくそれに目をやりながら「なに?」と言った。

「話があるの」
「だからなに」
「僕は、僕なりに守ろうとした。水槽の魚のこと。でも、無理だった」

 浅川さんが言ってる意味が分からなかった。

「あの日、僕と会ったの覚えてない? 水槽のコードを切断したことは? 正直僕だけならなんとかなった。現にこの事を僕は親にも言ってないからね。でも、あの日にみたのは僕だけじゃなかった。隣のクラスに僕と似たような境遇の女の子がいてさ、謹慎中も本当のことを打ち明けようって何度もその子に言われた。僕は断ったんだよ? 美藤さんとは友達だからそんなこと出来ないって。でも、彼女は知ってて真実を言わないのはもう耐えきれない。やってもない罪を被るのはやっぱりおかしいって。たぶん今日中に先生に言われる」

 身体の内側から寒気が這い上がってきている気がした。

「美藤さん、一年の時に僕に話してくれたこと覚えてる?」
「いや」
「友達になろうって言ってくれたの。いじめられてた僕に救いの手を差し伸べてくれた」
「ねえ、やめて」
「今の美藤さんからしてみれば、僕たちはあの日に友達になったと思ってるのかもしれないけど実際は違う。もうずっと前から友達だった。美藤さんの病気の事も何となくは理解してる。だから心配してるの。やったことすらも記憶がない状態って大丈夫なの? もし身体が悪くなってるなら、それを先生にちゃんと言えば今回のことだって」
「やめろって言ってんだろっ!」

 浅川さんの身体を突き飛ばし、私は駆け出した。昇降口を駆け抜け外に。靴すら履いてなかった。靴下のまま、青空と強い日差しの下を走り続けた。