夕飯を食べ終えてから自分の部屋にすぐあがった。窓を開け、既に世界に充満した夜の空気をめいいっぱいに吸い込む。目の前には大通りがあり、向こう側には防波堤が、更に向こうに海が広がっているはずだがなにもみえない。そこにはただ、夜が引き連れ溶け落ちた闇が広がっているだけだった。いつも同じ。見慣れた景色。
日記を読む限り、昼間の私はいつもの男の子と凪という女の子と一緒に遊んだそうだった。友達と遊ぶ。しかも同年代の男の子と女の子と遊ぶって、一体どんな感じなんだろうか。私には想像も出来ない。なんだか、虚しくなって窓を閉めた。ベッドに身体を預け目を閉じる。閉じながら、以前みたあの夢を思い浮かべる。またみれないだろうか。あの夢をみていた私は確かに満たされていた。だから出来ればもう一度と意識が溶けるのを待った。
物音で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。時計に目をやると時刻は日付を回ったばかりだった。かつっ、かつっ、という物音がまだ聴こえる。一瞬ねずみかなにかがいるのかなとは思ったがそれにしては音が変だと耳を澄ませてみる。すると、窓の方から音がしていることに気付いた。目をやりながらベッドから身体を起こした時、なにかが窓ガラスに当たった。えっ、と一瞬身体を強張らせながらも近づくと、真っ暗な夜のなかに一人の女の子が立っていた。黒いパーカーに黒のパンツという出で立ちは完全に保護色になっていたが、近くにある街頭の薄明かりが微かに彼女の輪郭を浮かび上がらせていた。
恐らく数秒、目があった。彼女は何やらジェスチャーをしている。最初は分からなかったが窓を開けろという事だろうかと不審に思いながらも窓を開けた。すると、彼女は今度は薄く微笑みながら口元を動かした。声は発していない。なんとかその動きから読み取ると、お、り、て、き、て、と言っているような気がした。手でジェスチャーもしている。私は彼女を知らない。けれど、明らかに彼女は私を知っている様子だった。敵意は一切感じないしむしろ好意を感じる。だから、悠には「お姉ちゃん、ちょっと出てくるね」と告げてから私は部屋を出た。隣の部屋ではおばあちゃんが寝ているはずだから物音は立てられない。猫のようにゆったりと足を前に出し、極力足を立てないように階段を降りた。玄関で靴を履き、外に出た。
深夜だ。辺り一帯には闇と静寂が降りていて、通りには人っ子一人いなかった。でも、彼女はいた。私の姿に気付くと、「ごめん寝てた?」とまた笑みを浮かべた。
「あ、の」
あなたは誰ですか? そう問いかけようとは思ったがそれをしていいかどうか分からない。もしかしたら、いや恐らく確実に朝か昼間の私の友達なのに、あなたは誰なんて聞いたら不審がられてしまう。
「ああ、私ね? 凪。路花とは友達」
「えっ?」
「ちょっと今日眠れなくてさ、良かったら散歩しない? 歩ける?」
一瞬にして幾つもの疑問が浮かんだが、女の子は私の手を掴み足早に歩き出した。凪。その名前は、何度も日記で目にしてきた。私自身、窓越しに彼女の姿をみた時からなんとなくそんな気はしていた。だが、彼女はさっき、何故私に自らの名前を自分から告げてきたのだろう。そんなことを一瞬考えたがその答えを見つける間もなく、凪は次から次へと質問をぶつけてきた。最近何してるの。普段何時に寝てるの。好きなアニメは。音楽は? 最近みて面白かった動画は? 二人横並びになって歩きながら凪は私の答えを待ち時折相槌を打ってくれた。私は最初ぽつぽつと言葉を切るようにして話しながらも、気付いた時には自分から会話を繋げるようになっていた。以前、朝の私が彼女の事を日記に書いていた。一緒にいると落ち着くと。その意味が、ようやく私にも分かった。彼女が放つ空気感や綺麗な声、そのトーンのおかげか私の心をゆっくりと凪いでいくのが分かった。凪。本当に名前通りの力を相手に作用させられる女の子なんだろうなと楽しそうに話す凪の横顔を見つめた。
等間隔に並んだ街頭の薄明かりを頼りに歩き続けていると、通りの向こうの明かりが強くなる。そこまで高くない建物がひしめいていて、自分の存在を主張するかのように夜のなかでひかりを放っていた。
「ようやく駅か。やっぱり路花の家からだとちょっと遠いね」
私は行き先を知らない。どこまでいくの、と問いかけた時、明かりに照らされた凪の瞳が灰色に染まっているのに気付いた。さっきまでは暗くてよく見えなかったが、私はその瞳の美しさにぎゅっと胸が締め付けられる思いがした。凪は「ん、私のお気に入りの場所。言わなかったけ?」とあっけらかんと笑った。言ってなかったよ、と教えてあげる。
「そっか。私さ、歌手目指してんの。普段は三つ隣の駅で路上ライブしてるんだけどさ、住んでんのはこの辺りだからよく一人で海辺とか今からいく場所で練習してんだよね。家のなかで一人で歌ってても人前で歌う練習は出来ないから」
「そう、なんだ。歌を」
「そっ」
凪が歩みを進めた為、小走りでその背を追いかけた。だが、距離は開くばかりだった。明らかに凪の歩くスピードが早くなっている。ようやく追いついた時には息が切れていた。
「ちょっと、なんでいきなりそんな早く歩くの?」
「え、競争」
さも当然とでも言いたげな表情で凪が言った。思わず、「えっ」と声を漏らしてしまう。瞬間、凪が吹き出すようにして笑う。「そんな変人をみるような目しないでよ。冗談じゃん」と私の肩を叩いてくる。
「あっそうか、そうなんだ。っていうか、競争ならなんでいきなり止まったの」
問いかけると、凪が右腕を持ち上げ指を指す。視線を滑らせて納得した。
「赤」
「赤だね」
「赤は止まれ」
「だね」
私たちの掛け合いは意味不明な場所に不時着し、自然と笑いがこみ上げてきた。一体何が面白いのかも分からない。俗に言う深夜テンションという奴なのだろうか。凪も笑ってる。お腹を抑え、あははって声をあげて笑ってる。自分が自然に笑えてることに後から気付いてふいに泣きそうになった。こんなにも楽しい夜を過ごせたのは初めてだった。信号が青に変わり、再び歩き出す。それから三十分程、他愛もない話をしながら歩き続けた。会話は途切れなかった。時に上手く着地する時もあれば、さっきのように不時着する時もあった。
世界が眠りに落ちたあとの夜を歩くことは元から好きだった。孤独と退屈に耐えきれなくなった時、時折私はお母さんが寝静まった頃を見計らって悠と一緒に外出していた。誰もいない公園のブランコや、夜の道なりでひっそりと明かりを灯す自販機。それから、深夜の駐車場。日が昇ってからは気にもとめないそれらの場所や物が、深夜は特別な存在に感じる。車道の隣にある歩道を歩き続けていた時、ちょうど反対の通りに駐車場がみえた。
「ねえ、深夜の駐車場ってさ、なんか特別な感じしない?」
問いかけると、凪はぼんやりとそれを数秒みた後に首を傾げた。
「ごめん、理解してあげようって思ったけどやっぱり無理だわ。なにが特別なの」
「あの駐車場にはさ、車は4台しか止まれない。明かりはたった一本のあの街灯。あの子はさ、皆が寝静まっている間、たった一人であの場所を照らしてんの。薄明かりで、いつか誰かが来るかもって待ち続けてんの。私は車を持ってないからあの子の傍に行くことは出来ないけど、その待ち続けてる姿はみれる訳。で、私も一人で歩いてると、お互い一人だけど頑張ろうねって応援したくなる」
私なりに分かりやすく説明をしてあげたつもりだったけど、凪は怪訝な表情を浮かべたまま口をぽかんと開けていた。
「えっ、聞いてる?」
「うん。路花のあまりの異次元な世界観にびっくりしたけど私の感性を最大限に尖らせて理解してあげようとしてた」
「あっ、そうなんだ。で? 理解出来た?」
「いや、無理だったわ」
凪が吹き出すようにして笑うので、私もそれにつられて笑ってしまう。ひとしきり笑ってから「路花」と凪が言った。その声は鈴の音のように綺麗で、凪に私の名前を呼ばれると胸のなかがくすぐったいような感覚になる。
「正面からきてる車、みえる?」
通りの向こうから眩い光を放ちながら車が向かってくる。
「あの車の色を当てた方が勝ち。で、負けたらジュース奢りね。ちょっと休憩しよ」
「いいよ。あっでも私財布持ってない」
「じゃあ路花が負けたら貸しってことで」
「いいの?」
「いいよ! じゃあ、せーので言うよ」
車の走行音が鼓膜に触れる。嵐の時の荒ぶった風の音に近かった。それが、次第に近づいてくる。
「せーのっ」
二人で声を合わせた。
「赤!」
「黒!」
真横を車が通り過ぎ、少し遅れてつめたい風が吹き抜けた。私と凪の髪が持ち上がり、夜のなかでちいさく舞った。結果、車は赤色で私の勝ちだった。私はあまりに嬉しくてちいさく飛び跳ね、凪は露骨に悔しそうな表情を浮かべた。近くの自販機でジュースは買ってから少し歩いた先で凪が「ほら、あそこ」と指をさす。目の前には古びた歩道橋があった。
「ここが私のお気に入りの場所」
「風が気持ちいいね」
頬を撫でる風がひやりとつめたくて気持ちいい。凪も「最高の気候だわ」と言って炭酸飲料が入った缶のプルタブを開けた。私もそれに続いた。時折真下を通る車が、赤や黄色の光を放ちながら夜を切り裂いていくのをぼんやりとみている内に不思議な心地になった。
「今、何時?」
問いかけると、すぐに凪がポケットから携帯を取り出し指を滑らせた。眩いひかりが凪の顔を照らしてる。
「二時前だね」
ということは、凪と出会ってからまだ二時間くらい。なのに、もう小学校の時からの幼馴染みというくらいの居心地の良さがある。
「どうした? もう眠くなった?」
歩道橋の手すりに手を添えながら凪が問いかけてくる。私はちいさく首を横に振る。
「なんか」
そこまで言葉を紡いでから、先の言葉を続けることが急に恥ずかしくなって、「いや、やっぱいい」と缶のなかに入った炭酸飲料を勢いよく喉に流し込んだ。
「なに? なんか言いかけてたじゃん」
「なんでもないって」
「気になるんだけど」
「気にならないで」
言いながら、無意識に身体を寄せていた。凪は今、歩道橋の手すりの上に作った腕枕に顔をのせている。その肩に私は頭を預けた。
「なんか、落ちつく」
「私も」
「静かだね」
「うん」
凪の身体と髪の毛からは甘い匂いがした。ひかえめな花のように、意識をしなければ気付かないような微かに香り立つ匂い。時折真下を通る車が光と風を引き連れて、その匂いを私の鼻腔へと届けてくれる。落ちつく。匂いも、凪という存在も、服の下から感じるその体温も、全てが私の心をその気持ちにさせてくれた。それから少しの間、二人で身体を寄り添いながら歩道橋からの景色を眺めた。夜の闇を纏いながら、いっそのことこのまま眠ってしまおうかと思った。凪の隣で。その時だった。夏の夜風に溶けていくような、静かで、綺麗な歌が聴こえた。ふっと顔を上げると、私の隣で凪が歌っていた。伸びやかな、綺麗な高音のなかにも力強さがある声だった。
「凄いね、プロみたい」
歌い終えてから「いつもこんな風に練習してんの」と気恥ずかしそうに笑う凪に、私は心からの声を漏らしていた。
「凪っていつから歌ってるの」
深夜にもなると、七月の夜の風は適度につめたくて気持ちが良かった。真横の車道を車が走り去っていく度にそれを引き連れてきてくれる。
「7歳の頃から」
「えっそんなちいさな時から? 元から歌うことが好きだったの」
好きだった。そう呟いたあと、凪が徐ろに顔を上げた。白い肌が車のヘッドライトに染められて赤や黄色に移り変わっていく。
「っていうか、これしか無かったの。私には」
夜空に訴えかけるようにぽつりと呟いた。夜空を見上げている凪の耳から顎先にかけてのラインがあまりに綺麗なカーブを描いている為、私は一瞬なにかの絵画や有名写真家が撮った作品を眺めているような気持ちに駆られた。
「少し前に悲しいことがあってさ、私は自分の無力さを知ったの」
「悲しい、こと」
「そう。私の大切な人は、あることがきっかけで全てを失った。悲しんで苦しんでどうしようもない状態に陥ってたから、私は必死に支えようとした。でも無理だった。私は、無力だから。あの時のショックったら無かったよ。もうなにもかも一度リセットしたくなっちゃってさ高校も辞めた。こんな事、誰かに打ち明けようにも誰にも理解してもらえない。誰にも私の叫びを聞いて貰えない。孤独で、さみしくて、こうするしか無かった」
「さみ、しくて」
「でもさ、誰かに助けて欲しかった訳じゃないの。寄り添って欲しかった訳でも、私の叫びを聞いて貰いたかった訳でもない。ただ、私だってこの世界で生きてるんだっていう存在証明をなにかで表現したかったの。そうしないと生きていけないと思ったから。でも絵は描けないし、文章の才能もない。だから私には歌しかなかった」
その時、車の走行音が鼓膜に触れていなければ、私は凪を抱きしめていたかもしれなかった。何故かは分からない。でも、無性に凪の身体を強く抱きしめてあげたい気持ちに駆られた。ようやく分かった気がする。何で私が凪と一緒にいると落ち着くのか。たぶんきっと、凪は私と同じものを抱えている。なんだか深い深い海の底で仲間をみつけたような気がした。
日記を読む限り、昼間の私はいつもの男の子と凪という女の子と一緒に遊んだそうだった。友達と遊ぶ。しかも同年代の男の子と女の子と遊ぶって、一体どんな感じなんだろうか。私には想像も出来ない。なんだか、虚しくなって窓を閉めた。ベッドに身体を預け目を閉じる。閉じながら、以前みたあの夢を思い浮かべる。またみれないだろうか。あの夢をみていた私は確かに満たされていた。だから出来ればもう一度と意識が溶けるのを待った。
物音で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。時計に目をやると時刻は日付を回ったばかりだった。かつっ、かつっ、という物音がまだ聴こえる。一瞬ねずみかなにかがいるのかなとは思ったがそれにしては音が変だと耳を澄ませてみる。すると、窓の方から音がしていることに気付いた。目をやりながらベッドから身体を起こした時、なにかが窓ガラスに当たった。えっ、と一瞬身体を強張らせながらも近づくと、真っ暗な夜のなかに一人の女の子が立っていた。黒いパーカーに黒のパンツという出で立ちは完全に保護色になっていたが、近くにある街頭の薄明かりが微かに彼女の輪郭を浮かび上がらせていた。
恐らく数秒、目があった。彼女は何やらジェスチャーをしている。最初は分からなかったが窓を開けろという事だろうかと不審に思いながらも窓を開けた。すると、彼女は今度は薄く微笑みながら口元を動かした。声は発していない。なんとかその動きから読み取ると、お、り、て、き、て、と言っているような気がした。手でジェスチャーもしている。私は彼女を知らない。けれど、明らかに彼女は私を知っている様子だった。敵意は一切感じないしむしろ好意を感じる。だから、悠には「お姉ちゃん、ちょっと出てくるね」と告げてから私は部屋を出た。隣の部屋ではおばあちゃんが寝ているはずだから物音は立てられない。猫のようにゆったりと足を前に出し、極力足を立てないように階段を降りた。玄関で靴を履き、外に出た。
深夜だ。辺り一帯には闇と静寂が降りていて、通りには人っ子一人いなかった。でも、彼女はいた。私の姿に気付くと、「ごめん寝てた?」とまた笑みを浮かべた。
「あ、の」
あなたは誰ですか? そう問いかけようとは思ったがそれをしていいかどうか分からない。もしかしたら、いや恐らく確実に朝か昼間の私の友達なのに、あなたは誰なんて聞いたら不審がられてしまう。
「ああ、私ね? 凪。路花とは友達」
「えっ?」
「ちょっと今日眠れなくてさ、良かったら散歩しない? 歩ける?」
一瞬にして幾つもの疑問が浮かんだが、女の子は私の手を掴み足早に歩き出した。凪。その名前は、何度も日記で目にしてきた。私自身、窓越しに彼女の姿をみた時からなんとなくそんな気はしていた。だが、彼女はさっき、何故私に自らの名前を自分から告げてきたのだろう。そんなことを一瞬考えたがその答えを見つける間もなく、凪は次から次へと質問をぶつけてきた。最近何してるの。普段何時に寝てるの。好きなアニメは。音楽は? 最近みて面白かった動画は? 二人横並びになって歩きながら凪は私の答えを待ち時折相槌を打ってくれた。私は最初ぽつぽつと言葉を切るようにして話しながらも、気付いた時には自分から会話を繋げるようになっていた。以前、朝の私が彼女の事を日記に書いていた。一緒にいると落ち着くと。その意味が、ようやく私にも分かった。彼女が放つ空気感や綺麗な声、そのトーンのおかげか私の心をゆっくりと凪いでいくのが分かった。凪。本当に名前通りの力を相手に作用させられる女の子なんだろうなと楽しそうに話す凪の横顔を見つめた。
等間隔に並んだ街頭の薄明かりを頼りに歩き続けていると、通りの向こうの明かりが強くなる。そこまで高くない建物がひしめいていて、自分の存在を主張するかのように夜のなかでひかりを放っていた。
「ようやく駅か。やっぱり路花の家からだとちょっと遠いね」
私は行き先を知らない。どこまでいくの、と問いかけた時、明かりに照らされた凪の瞳が灰色に染まっているのに気付いた。さっきまでは暗くてよく見えなかったが、私はその瞳の美しさにぎゅっと胸が締め付けられる思いがした。凪は「ん、私のお気に入りの場所。言わなかったけ?」とあっけらかんと笑った。言ってなかったよ、と教えてあげる。
「そっか。私さ、歌手目指してんの。普段は三つ隣の駅で路上ライブしてるんだけどさ、住んでんのはこの辺りだからよく一人で海辺とか今からいく場所で練習してんだよね。家のなかで一人で歌ってても人前で歌う練習は出来ないから」
「そう、なんだ。歌を」
「そっ」
凪が歩みを進めた為、小走りでその背を追いかけた。だが、距離は開くばかりだった。明らかに凪の歩くスピードが早くなっている。ようやく追いついた時には息が切れていた。
「ちょっと、なんでいきなりそんな早く歩くの?」
「え、競争」
さも当然とでも言いたげな表情で凪が言った。思わず、「えっ」と声を漏らしてしまう。瞬間、凪が吹き出すようにして笑う。「そんな変人をみるような目しないでよ。冗談じゃん」と私の肩を叩いてくる。
「あっそうか、そうなんだ。っていうか、競争ならなんでいきなり止まったの」
問いかけると、凪が右腕を持ち上げ指を指す。視線を滑らせて納得した。
「赤」
「赤だね」
「赤は止まれ」
「だね」
私たちの掛け合いは意味不明な場所に不時着し、自然と笑いがこみ上げてきた。一体何が面白いのかも分からない。俗に言う深夜テンションという奴なのだろうか。凪も笑ってる。お腹を抑え、あははって声をあげて笑ってる。自分が自然に笑えてることに後から気付いてふいに泣きそうになった。こんなにも楽しい夜を過ごせたのは初めてだった。信号が青に変わり、再び歩き出す。それから三十分程、他愛もない話をしながら歩き続けた。会話は途切れなかった。時に上手く着地する時もあれば、さっきのように不時着する時もあった。
世界が眠りに落ちたあとの夜を歩くことは元から好きだった。孤独と退屈に耐えきれなくなった時、時折私はお母さんが寝静まった頃を見計らって悠と一緒に外出していた。誰もいない公園のブランコや、夜の道なりでひっそりと明かりを灯す自販機。それから、深夜の駐車場。日が昇ってからは気にもとめないそれらの場所や物が、深夜は特別な存在に感じる。車道の隣にある歩道を歩き続けていた時、ちょうど反対の通りに駐車場がみえた。
「ねえ、深夜の駐車場ってさ、なんか特別な感じしない?」
問いかけると、凪はぼんやりとそれを数秒みた後に首を傾げた。
「ごめん、理解してあげようって思ったけどやっぱり無理だわ。なにが特別なの」
「あの駐車場にはさ、車は4台しか止まれない。明かりはたった一本のあの街灯。あの子はさ、皆が寝静まっている間、たった一人であの場所を照らしてんの。薄明かりで、いつか誰かが来るかもって待ち続けてんの。私は車を持ってないからあの子の傍に行くことは出来ないけど、その待ち続けてる姿はみれる訳。で、私も一人で歩いてると、お互い一人だけど頑張ろうねって応援したくなる」
私なりに分かりやすく説明をしてあげたつもりだったけど、凪は怪訝な表情を浮かべたまま口をぽかんと開けていた。
「えっ、聞いてる?」
「うん。路花のあまりの異次元な世界観にびっくりしたけど私の感性を最大限に尖らせて理解してあげようとしてた」
「あっ、そうなんだ。で? 理解出来た?」
「いや、無理だったわ」
凪が吹き出すようにして笑うので、私もそれにつられて笑ってしまう。ひとしきり笑ってから「路花」と凪が言った。その声は鈴の音のように綺麗で、凪に私の名前を呼ばれると胸のなかがくすぐったいような感覚になる。
「正面からきてる車、みえる?」
通りの向こうから眩い光を放ちながら車が向かってくる。
「あの車の色を当てた方が勝ち。で、負けたらジュース奢りね。ちょっと休憩しよ」
「いいよ。あっでも私財布持ってない」
「じゃあ路花が負けたら貸しってことで」
「いいの?」
「いいよ! じゃあ、せーので言うよ」
車の走行音が鼓膜に触れる。嵐の時の荒ぶった風の音に近かった。それが、次第に近づいてくる。
「せーのっ」
二人で声を合わせた。
「赤!」
「黒!」
真横を車が通り過ぎ、少し遅れてつめたい風が吹き抜けた。私と凪の髪が持ち上がり、夜のなかでちいさく舞った。結果、車は赤色で私の勝ちだった。私はあまりに嬉しくてちいさく飛び跳ね、凪は露骨に悔しそうな表情を浮かべた。近くの自販機でジュースは買ってから少し歩いた先で凪が「ほら、あそこ」と指をさす。目の前には古びた歩道橋があった。
「ここが私のお気に入りの場所」
「風が気持ちいいね」
頬を撫でる風がひやりとつめたくて気持ちいい。凪も「最高の気候だわ」と言って炭酸飲料が入った缶のプルタブを開けた。私もそれに続いた。時折真下を通る車が、赤や黄色の光を放ちながら夜を切り裂いていくのをぼんやりとみている内に不思議な心地になった。
「今、何時?」
問いかけると、すぐに凪がポケットから携帯を取り出し指を滑らせた。眩いひかりが凪の顔を照らしてる。
「二時前だね」
ということは、凪と出会ってからまだ二時間くらい。なのに、もう小学校の時からの幼馴染みというくらいの居心地の良さがある。
「どうした? もう眠くなった?」
歩道橋の手すりに手を添えながら凪が問いかけてくる。私はちいさく首を横に振る。
「なんか」
そこまで言葉を紡いでから、先の言葉を続けることが急に恥ずかしくなって、「いや、やっぱいい」と缶のなかに入った炭酸飲料を勢いよく喉に流し込んだ。
「なに? なんか言いかけてたじゃん」
「なんでもないって」
「気になるんだけど」
「気にならないで」
言いながら、無意識に身体を寄せていた。凪は今、歩道橋の手すりの上に作った腕枕に顔をのせている。その肩に私は頭を預けた。
「なんか、落ちつく」
「私も」
「静かだね」
「うん」
凪の身体と髪の毛からは甘い匂いがした。ひかえめな花のように、意識をしなければ気付かないような微かに香り立つ匂い。時折真下を通る車が光と風を引き連れて、その匂いを私の鼻腔へと届けてくれる。落ちつく。匂いも、凪という存在も、服の下から感じるその体温も、全てが私の心をその気持ちにさせてくれた。それから少しの間、二人で身体を寄り添いながら歩道橋からの景色を眺めた。夜の闇を纏いながら、いっそのことこのまま眠ってしまおうかと思った。凪の隣で。その時だった。夏の夜風に溶けていくような、静かで、綺麗な歌が聴こえた。ふっと顔を上げると、私の隣で凪が歌っていた。伸びやかな、綺麗な高音のなかにも力強さがある声だった。
「凄いね、プロみたい」
歌い終えてから「いつもこんな風に練習してんの」と気恥ずかしそうに笑う凪に、私は心からの声を漏らしていた。
「凪っていつから歌ってるの」
深夜にもなると、七月の夜の風は適度につめたくて気持ちが良かった。真横の車道を車が走り去っていく度にそれを引き連れてきてくれる。
「7歳の頃から」
「えっそんなちいさな時から? 元から歌うことが好きだったの」
好きだった。そう呟いたあと、凪が徐ろに顔を上げた。白い肌が車のヘッドライトに染められて赤や黄色に移り変わっていく。
「っていうか、これしか無かったの。私には」
夜空に訴えかけるようにぽつりと呟いた。夜空を見上げている凪の耳から顎先にかけてのラインがあまりに綺麗なカーブを描いている為、私は一瞬なにかの絵画や有名写真家が撮った作品を眺めているような気持ちに駆られた。
「少し前に悲しいことがあってさ、私は自分の無力さを知ったの」
「悲しい、こと」
「そう。私の大切な人は、あることがきっかけで全てを失った。悲しんで苦しんでどうしようもない状態に陥ってたから、私は必死に支えようとした。でも無理だった。私は、無力だから。あの時のショックったら無かったよ。もうなにもかも一度リセットしたくなっちゃってさ高校も辞めた。こんな事、誰かに打ち明けようにも誰にも理解してもらえない。誰にも私の叫びを聞いて貰えない。孤独で、さみしくて、こうするしか無かった」
「さみ、しくて」
「でもさ、誰かに助けて欲しかった訳じゃないの。寄り添って欲しかった訳でも、私の叫びを聞いて貰いたかった訳でもない。ただ、私だってこの世界で生きてるんだっていう存在証明をなにかで表現したかったの。そうしないと生きていけないと思ったから。でも絵は描けないし、文章の才能もない。だから私には歌しかなかった」
その時、車の走行音が鼓膜に触れていなければ、私は凪を抱きしめていたかもしれなかった。何故かは分からない。でも、無性に凪の身体を強く抱きしめてあげたい気持ちに駆られた。ようやく分かった気がする。何で私が凪と一緒にいると落ち着くのか。たぶんきっと、凪は私と同じものを抱えている。なんだか深い深い海の底で仲間をみつけたような気がした。
