透明に堕ちるわたしの輪郭

 学校の食堂の喧騒は、真夏のひかりの賑やかさに似ている気がした。生徒たちの話し声や笑い声がひっきりなしに響き、食器が触れ合う音が遠慮気味にちいさく鳴っている。窓から差し込む白いひかりは、それらに共鳴するように食堂に差し込んでいた。

「Cランチの方ー」

 厨房から聴こえた女性の声に瞬時に反応した私は、窓辺からすぐに視線を滑らせた。受け取り口から出てきたCランチをトレイへと載せ、空いている席に一人腰を下ろす。テーブルに備えられているお箸立てから素早く箸を抜き取り、それと同時に鞄の中から黒の革製の日記帳を取り出す。さあ今日は何があったかな、と一番最新のところまでページをめくっていく。

 右手で箸を動かし、左手で日記帳が閉じないようにそっと抑える。大好きなCランチを食べながらそうして日記を眺めていた時、朝の私と夜の私が喧嘩していることに気付いてしまった。というより、朝の私が一方的に怒っているみたいだった。良く聞けよクソ野郎!と日記の書き出しはそんな汚い言葉から始まっている。私の大好きなCランチは毎週水曜日と金曜日だけの限定メニューで、丸皿を埋め尽くすように並べられた数多の揚げ物を、たっぷりのコレステロールと燃料満タンのカロリーと共に摂取しようと楽しみにしていたのに、これじゃあ気分が台無しだ。けれど、彼女が一体何に対して怒っているのかは気になる。私はフォークで刺したばかりのエビフライを宙でぷらぷらとさせながら再び日記に目を落とすことにした。

『あのさあ、身体を横向きにしたら寝やすいのはわかるよ? あんたの身体は私の身体でもあるからね? でも、そうやって寝られると頭の左側に絶対寝癖がつくの。櫛でといてもスプレー使っても中々とれないからまじでやめてね!あと、聞きたいんだけどあんた最近何時に寝てる? 朝起きた時、身体が鉛みたいに重いの。それで学校に行かなくちゃならないんだよ? 私の身にもなれって話! 眠れないならさ、昼間の私に頼んで里中先生に睡眠薬でも貰ったら? 肌も荒れるしとにかくその眠れないっていうやつは早急になんとかして! あっ最後にひとつ。あんたのせいで季節関係なく長袖着なくちゃならないのもいい加減だるい。以上。』

 読み終えて、「おー」と拍手をしていた。ここまで明確に自分の感情と主張を相手に提示出来るなんて。朝の私って凄い。日記を閉じ、それから大好きな揚げ物を次々に口に運んだ。エビフライに唐揚げ、白身のフライ。時折周りにいる生徒たちの笑い声や話し声に耳を傾けながら、横に添えられているキャベツをヤギみたいに頬張っていた時、「路花(みちか)」と名を呼ばれた。丸皿から顔を上げると、目の前には鮎人(あゆと)がいた。短く切り揃えた前髪を持ち上げて横に流しているような、整髪料とスプレーを用いた髪型は今日もばっちりと決まっているのに、どこか自信無さげに顔を俯き気味に気まずそうに立っている。だから「どうしたの」と優しく問い掛けた。

「あのさ、今朝のことなんだけど」
「うん」
「ごめんな。怒らせるつもりなんかなくて」

 怒らせる。鮎人の放った言葉を復唱する。少なくとも私の記憶にはないし、日記にもその旨は書いていなかった。ということは、朝の私にとってもそれ程大した事じゃ無かったということだろう。

「大丈夫。気にしないで」
「路花、俺」

 鮎人の言葉を遮り「朝の私は怒りっぽいだけ」とそこまで言いかけた時、あっと思った。だが、遅かった。鮎人の顔は夕立が降ったみたいに突如として悲しみに染まり「朝のわたし」と繰り返した。大きな目がゆっくりと細められていく。

 朝と夜と昼間の私。それぞれの時間を、ひとつの肉体で共有しながら生きるようになって随分経つが、その事は極力他人に言わないでくれと朝の私からも夜の私からも言われていたのにすっかり気を抜いてしまっていた。でも、鮎人だったから、というのが一番の理由かもしれない。鮎人は私が中学の時からの同級生で、いつも一人でいる私に唯一話しかけてくれる大切な友達だ。

「今、一人?」

 鮎人の視線がテーブルに向けられる。私のとなりには誰もいない。引かれることのなかった椅子のうえには寂しさと空気が居座ってるだけだ。

「一人だよ。いつも一人じゃん」
「そっか。じゃあ俺も腹減ったしパンでも食おうかな」

 鮎人はさっきまでの纏っていた表情を掻き消すみたいに砕けた笑みを浮かべた。

「お昼食べてないの」
「食ったよカツカレー」
「凄いね、食欲」
「お前だって揚げ物まみれのcランチ食べてるだろ?」

 自分の目の前にあるお皿めがけてフォークを向けていた私は言い返す言葉を失ってしまった。鮎人はそれを見届けると食堂内にある出張パン屋さんのところへと向かった。薄いビニール袋をさげて帰ってきたと思ったら、隣にもう一人男の子が立っていた。坊主頭の加藤くん。確か鮎人と同じ野球部だった。

「なに買ったの」
「カレーパン」

 テーブルに腰を下ろしながら鮎人がそう呟くと、よっこらせと隣の椅子に腰を下ろした加藤くんが「俺も俺も。カフェオレ買いに来たのにさーこいつが美味そうなもん買ってんの。だから買っちゃったよー今月小遣い残り少ないのに」と頬張り始めた。

「えっ、さっきカツカレー食べたって言ってなかった?」

 問いかけると、鮎人はさも当然と言うように「食ったよ」とビニールを剥いている。そんな鮎人を横目にみながら「ちなみに俺も」と加藤くんがにっと笑う。私は絶句した。

「よく食べれるね。カレーパンにカツカレー……カレー尽くしじゃん」
 
 成長期の男子の食欲って清々しい程でもあるけど、さすがにこれはどうかと思う。

「そう言えばさ、今朝の全校集会のあれ、誰がやったんだろうな。俺らの教室の魚もそうだし同一犯なのかな」

 加藤くんがふいに呟いた時、カレーパンを口にしようとしていた鮎人が手を止めた。私は一体なにを言っているのか分からず目を見開いてしまった。

「なにそれ」
「なあ加藤そろそろお前教室戻ったら?」

 鮎人がじっと加藤くんをみつめている。一秒、二秒、三秒。少しの間が空いてから加藤くんが両手をひらりとあげた。

「お、邪魔ってか?」
「そういうこと」
「はいはいじゃあ邪魔者は消えますよーっと」

 加藤くんは口いっぱいにカレーパンを詰め込むとすっと立ち上がった。路花ちゃんまたねーと手を振ってくれる。私も笑顔で振り返す。姿がみえなくなってから「ねっねっ、さっきの魚って何?」と鮎人の手をとった。

「なんでもないから気にすんな」

 鮎人は私の目をみつめながらさらりと言った。

「え、めちゃくちゃ気になるんだけど」
「だから気にすんなって」
「教えてくれないの」
「校長の話を聞いてないお前がわるい」
  
 校長、と思わず繰り返してしまう。それとさっきの加藤くんが放った今朝の全校集会という単語がようやく繋がる。そうか、そういうことかと納得する。同時に朝のわたしにちょっと怒りが湧いた。大事な事なら日記に書いててよと思う。

「え、結構大事って感じなの」
「……まあな」
「じゃあ教えてよ!」
「だから気にすん」
「もういい!」

 鮎人が言い切る前に声を張り上げてやる。「クラス中に聞いて回るからいいよ」と悪戯っぽく笑ってみせると鮎人が途端に「分かった、分かった」と眉を下げた。

 それから鮎人は丁寧に一から十まで教えてくれた。今朝は全校集会があり、校長が怒っていた。理由は生徒の誰かが壁に落書きをしたから。しかも、誰かを傷つけるような含みを持たせた文章を。おまけに私たちの教室には、目玉のところに複数の花を突き刺した魚まで置かれていたという身の毛もよだつような話をされ、私は無意識に自分の腕をさすっていた。

「……怖いねそれ。でも、そんな話初めて聞いた。今朝はめちゃくちゃ眠くてほとんど立ったまま寝てたからかな」

 無理やりにでも空気を明るくしようと茶目っ気たっぷりに首を傾げてみせると、鮎人は露骨に大きなため息をついた。それから、机のうえに置いていた私の日記に目をやった。

「每日每日その日記にせっせと何か書いてるのは忘れっぽいからじゃねえの? なら、ちゃんと書いとけよ」

 実際は違うけど、半分当たってる。でも、鮎人から聞いた今の話は日記に一切書かれていなかった。鮎人は薄いビニール袋をくしゃくしゃに丸めながら「なあ」と私の目を真っすぐにみつめた。

「前さ、友達が欲しいって言ってたじゃん? 変な目じゃなくて普通に皆にみて貰いたいって」
「うん、言った。あと三週間くらいで夏休みも始まっちゃうし、それまでに最低でも一人は女の子の友達作りたい」
「じゃあその為の努力を知ろよ。お前がそれを望むなら出来ることは何でも協力するから」

 鮎人はふっと笑みを浮かべ立ち上がると、「じゃあ先に戻るわ」と手をひらつかせ真昼の白いひかりが充満した世界へと消えていった。