透明に堕ちるわたしの輪郭



 いつからかぼくは、この世界をひとつの水槽だと思うようになりました。生きるために必要なもの、ぼくがぼくであるうえで幸せだと思わせてくれるものは全て用意されたこの世界で、ぼくはどうしてか生きづらさを感じ、同時にある種の偽物を掴まされているような不信感を拭い去ることが出来ませんでした。

 本当にこの世界がぼくの生きるべき世界なのだろうか。あの空の向こうには、ぼくがぼくであるべき世界が広がっているのではないだろうか。

 そんな風に思ったのは、ぼくが子供の頃によくお父さん疑問を投げかけていたからです。

──ねえ、お父さん。水槽のなかの魚たちは、どうしてみんな幸せじゃないはずなのに、あんなに楽しそうに泳ぐの。

 その日は家から車で一時間程の水族館に訪れていて、お母さんはちょっと疲れたから休むと園内で併設されたカフェで休んでいた為、お姉ちゃんとお父さんと一緒に水族館のなかをみてまわっていました。お父さんはぼくの目をみながら、どうしてそんな風に思うんだ、と逆に問い返してきました。

 ぼくはこう言いました。魚たちは皆、海で生まれ、仲間たちも沢山いて広い世界を知っているはずなのに、こんな狭いガラスに閉じ込められて幸せなはずがない、と。すると、お父さんはぼくの頭にそっと手を置きました。お前は優しいな。出来ればずっと、その優しさを持っていて欲しい。陽だまりみたいな笑みを浮かべながらそんな風なこと言って、でもな、と続けました。

──彼らは知らないんだ。あの水槽で生まれ、それが彼らの生きる世界だと認識しているから。本当の海の広さも、数え切れない仲間たちがいることも。

 ぼくは聞きながら泣きそうになりました。あまりにも可哀想だったからです。

──だから、俺たちみたいな飼育員がいる。本当の海の広さを教えてあげることは出来ないけれど、せめて似たような環境で少しでも幸せに過ごしていれるように。そして、お前みたいな魚が好きな人たちにその姿をみてもらう為に。

 お父さんがそう言った時、隣にいたお姉ちゃんが「そうだよ」と微笑みました。ぼくは、うん、とちいさく頷き、それから「じゃあさじゃあさ」とある提案をしました。

「クジラみたいな大きな魚の水槽も作ってあげてよ。お父さんなら作れるよね?」

 お父さんは眉をさげ、ぽりぽりと口元をかきました。半ば困ったような笑みを浮かべ「クジラは正確には魚じゃないし、今の技術ではそれは難しいんだ。お父さんたちにはクジラが幸せだと思ってくれるような居場所を提供出来ない」と言いました。だから。

「じゃあ、ぼくが作るよ」

 ぼくは目を輝かせながらそう言いました。すると、父は膝をおとし、ぼくの肩に手を添えました。

「とても難しいことだぞ。今ある常識全てを打ち破るような画期的な発明が必要だ」
「ぼくならやれるよね?」
「ああ、お前ならやれる。今ある常識を打ち破ってやれ。無理だという奴らがいたら、そいつらの世界を壊してやれ。いや、もしかしたらお前が画期的な発明をして本当にクジラが幸せだと思える世界を作れるなら、向こうから壊しにきてくれるかもしれないな」
「壊しにきてくれる?」
「ああ、絶対だ」
「じゃあ、ぼくは頑張るよ」

 ぼくたちを取り囲む水槽のなかには無数の魚がいて、皆が悠々と泳いでいました。ガラスの向こうから漏れ出た薄青いひかりがぼくたち三人をやさしく照らしてくれました。