透明に堕ちるわたしの輪郭

 放課後、お母さんの車に乗り込んだ。里中先生のクリニックの前で私を降ろすと「後で迎えにくるからね」と車を発進させた。私は手を振ってそれを見送り、檜の香りで満ちた家のなかへと足を踏み入れた。二階にあがる。里中先生は私の顔をみるなり柔らかく微笑み、前回と同じ紅茶をいれてくれた。目の前にソーサーに乗ったおしゃれな陶器のカップが置かれる。私はすぐにそれを手に取り、何度か息を吹きかけてからゆっくり啜った。甘みのある香りが鼻から抜けていく。思わずふぅっとため息をついた。

「美味しいかい?」
「はい。とっても」

 笑みを向けると、「そうか。それは良かった」と鏡に映したみたいに里中先生も微笑んだ。
 
「学校はどう?」

 そう問いかけてきた里中先生の背には今日も大きなガラス窓があり、向こう側にみえる木々や葉が揺れているのがみえた。それに目をやりながら「今日は一人友達も出来たし楽しいです。私は」と答えた。

「私は?」
「え?」
「今、どうしてあえて私はという言葉を使ったのかな」

 無意識だった。里中先生に指摘されるまで気づかなかったが、言われてみると確かにそうだ。
 
「どうしてだろ。なんか、自分でもよく分かんないですけど私は私なりに楽しく生きてるのに、やっぱり朝と夜の私は楽しく無さそうにみえるからですかね」
「どうしてそう思うの」
「朝の私はいつもなにかに怒ってるし、夜の私はいつも辛そうだからです」

 そう答えると、里中先生は「怒りと悲しみ」とぽつりと呟いた。はい、と頷く。

「ずっとなにかに怒って、ずっとなにかに悲しんでます。彼女たちは」
「朝の君は、たとえば何に怒りを抱いているのかな」
「私は彼女ではないので本当のところは分からないですけど、日記を読む限りは人間関係とか自分を取り巻く環境かな。あと、夜の私のことはとにかく嫌いみたいでずっと悪口を書いています」
「人間関係というのは友達のこと? それともお母さんとの暮らし?」
「たぶん友達の事です。鮎人っていう男の子、ああ何回も話しましたよね。とにかくその子が凄く優しくて事あるごとに気遣いをしてくれるんですけど、でも朝の私からしてみればそれはありがた迷惑というか、うっとおしいらしくて。あと、クラスメイトとも仲が悪いみたいです」
「気が合わない?」
「それは分かりません。私は彼女ではないので」

 カップに手を伸ばそうとした時、「君はどう思う」と問いかけられた。

「えっ?」
「朝と夜。君のなかで生きる二人の君が、生きていても楽しく無さそうにしてる。少なくとも君はそう感じたんだろ? それについてはどう思う」
「私は以前にも言いましたけど、皆が幸せであればそれでいいと考えなので、出来れば二人には幸せに暮らしてほしいです」

 言い切ってからカップに手を伸ばし口をつける。一瞬それに目をやって再び視線を戻した時だった。里中先生が微笑んでいた。私は意味が分からず首を傾げてみせた。

「相手を思いやる。それはこの人間社会で生きるにおいてとても大切なことだからね、特に路花ちゃんはそれが人一倍強いみたいだから大切にするといい」
「えっ、あっはい」
「ちなみに、二週間前の君にも僕は似たような質問をした。君自身もついさっき、以前にもと答えてくれたね」

 里中先生がふっと席を立つ。三角形のテーブルの一番端に置かれていたノートパソコンを手にし何やら作業を始めたかと思うと画面が私の方へと向けられる。そこには私が映っていた。白い壁を背景に、顔の左側から映された私が、確かに今さっき言ったような事と同じ言葉を口にしてる。

「これは2週間前の君」

 私はちいさく頷いた。カウンセリングの間は映像を録画し記録すると、初めてカウンセリング受ける前に告げられていた。里中先生は更にパソコンを操作すると、再び私の前へと画面を向けてきた。

「そしてこれは、もっと前の君」

 そこには確かに私が映っていた。さっきと同じような白い壁を背景に、里中先生に尋ねられことに対して受け答えしている。虚ろな目で、でもしっかりと質問に対する内容を答えている。それに目をやっていると「覚えてる?」と問われたのでふるふると首を横に振ると、里中先生が「じゃあ今日の議題は目にはみえないものにしようか」と声を放った。

「空気や電波なんかはあまりにもありきたり過ぎるから、今日はそうだなもっと抽象的なものにしてみようか。たとえばさっき会話にも出た思いやり。自分が相手に対してどんな風に思い、どれだけの気持ちを込めているか。これがなければ人間社会は成り立たないと言っても過言ではないけれど、残念ながらこれは目に見えない。気持ちを受け取った相手がどう感じるかそれ次第になる。人間が持ち得る全ての感情も同様だ。それから記憶。いつ、どこで、何があったか。僕たちの脳は瞬間瞬間で起きた出来事をある種コンピューターのように処理しそれを保存している訳だけど、全てを保存している訳ではない。脳にもキャパシティというものがあるからね。だから思い出そうにも思い出せないことや、記憶の改ざんを起こしてしまう時がある。あれ、こうじゃなかったっけって思ったこと、路花ちゃんにもあるだろ?」

 問われ、ちいさく頷いた。

「僕たちの脳にはさっきも言ったがキャパシティがある。だから古いものや本人が潜在意識のなかで必要ではないと判断したものから順に記憶から抜け落ちてしまう。これが、僕たちがあれ忘れちゃったなっていう現象の理由。でも、記憶の改ざんが起きる要因はこれとは少し違う。一つは、時の流れによる風化。そしてもう一つは、当人による感情の作用。ここまでは理解出来たかな」

 私は曖昧に頷いた。里中先生はいつも私の話の聞き手になってくれるのに今日はやけに難しい話をする。なんとなくは分かったけれど、里中先生が思い描くレベルに私が達しているかは疑問が残った。だから曖昧に頷いた。

「小難しい話をしてごめんね。ただ、映像をみる前に知って欲しかったんだ。君自身の脳の話を。僕がさっき言ったこと、それを前提にもう一度見てくれれるかな」

 言われるがままパソコンの画面に目を落とした。顔の左側から映された私は、恐らくカメラの向こう側にいる里中先生に目を向けている。最近なにかに悩みはあるかな?と問いかけられ、私の喉元が一瞬上下した。それから視線を下にやり、一秒、二秒、三秒、それくらいの間を置いてからゆっくりと顔を持ち上げた。

──怖いん、です。私のなかに、私の知らない誰かがいる。そんな気がしてとにかく怖いんです。最近気が付いたら知らない場所に立っていたり、ふっと気付いたら時計の針が数時間進んでいることがよくあります。こないだなんて、自分ではなにも覚えてないのにある日突然クラスメイトから罵声を浴びさせられたんです。私、意味が分からなくて、なにって聴き返しました。そしたらその子は最初とぼけんなって言ってきて。でも、本当に覚えてなかったから理由を教えてって言いました。彼女には笑われました。記憶喪失のフリかよって。凄く馬鹿にされました。私はそんなこと言ってないって本気で思ったから、いろんな人に聞きました。そしたら、皆から罵られて、怖がられてようやく知ったんです。最初にひどい言葉を投げかけたのは私だったって。