『夜の活動は、特に報告することがありません。』
『今日は、ここ最近で一番嬉しいことがあった!
鮎人と一緒に凪のライブをみにいって、そのあと三人でお茶をしたの! いやあ、最高だったなあ。幸せだった。
そのうえで、朝と夜の私に報告があります。来週の水曜日はなんとなんと三人で海に行くことになりました。いつ話を振られてもいいように一応報告しておくね。』
バスに揺られながら日記を読み、閉じた。凪。胸のなかだけで彼女の名を一度口にする。彼女と過ごしたあの時間は、私にとって特別なものだった。人生で初めて、四六時中私のなかで蠢く怒りの存在を感じなかった。一体彼女の何が私にそうさせてくれるのかは分からないが、最初に出会った日を思い返しているだけで心が凪いでいく。出来ればもう一度、私も彼女に会ってみたい。心からそう思った。
バスが止まった。肩から鞄を提げ、真っすぐに学校へと向かう。久しぶりだった。あれから一度も学校には行ってない。もしかしたら今日もとは思ったが、お母さんから許しが出たのは今朝のことだ。朝食に出されたハムエッグを食べていた時、「路花」と呼ばれ顔をあげた。
「そろそろ学校に行ってもいいよ。勿論、最終的な判断は路花に任せるけどね」
お母さんはいつもの如く穏やかな笑みを浮かべながらそう口にした為、私は学校にいくことを決めた。家にいても退屈この上ない事も理由のひとつではあったが、柳井さんやその他大勢のクラスメイト達と喧嘩をしたまま休むというのは何だか負けた気がして癪だった。
教室の扉の前に立ち深呼吸をする。すぐにでも臨戦態勢に入れるように息を整えておかないと。そうやって扉の前で一人立っていた時「ちょっとそこ邪魔」と肩をぶつけられた。振り返る間もなくその女子は私を追い越し教室のなかへと入っていった。ご丁寧にまだ私が残っているのに扉まで閉めてくれた。何だか笑けてくる。笑みを携えたまま扉を開けた途端、外にまで聞こえていたクラスメイト達の声が静まり返る。敵意と拒絶。それから哀れみ。いろんな感情が同居している気がした。それらが孕んだ眼差しを向けられながら、私は席についた。
鞄から教材を取り出し、机の引き出しに入れようとした時だった。手の、ちょうど甲の辺りにねちゃりとした粘着性のある感触を感じた。それを指先で触り、引き剥がした頃にはなにか分かった。ガムだ。無数のガムが私の机の引き出しに張り付けられている。思わず舌打ちをした。くそがっ。やった奴は大方検討はつく。私の前に座るこいつ、平井さんもその一人だろう。茶色に染めた綺麗な髪が目の前でさらさらと揺れている。まずは手始めにこいつから。髪を掴んで引きずり回してやる。そう思い、席を立った瞬間、凪のことを思い出した。あの日の、あの数十分。それは今の私にとっては宝物みたいなものだった。息を吐き、ゆっくりと吸う。凪との過ごした時間を頭に思い浮かべている内に怒りがゆっくり沈んでいった。まるで舞い上がった一枚の鳥の羽が、ゆらりふわりと地面に落ちていくみたいに。
そのまま教室の外に向かおうとした時、鮎人に「路花、どうした」と声をかけられた。
「別に、なんでもない。ちょっと手が汚れたから洗ってくるだけ」
目すら合わさず、そう言い残して教室をあとにした。女子トイレは廊下の突き当たりにある。入ってすぐの手洗い場ですぐに蛇口をひねり両手を水にさらした。あれがなにか分からなかったからまともに触ってしまった。指先に、ピンクや紫や白といったガムの残骸がこびりついている。気持ち悪い。液体石鹸の入ったポンプを何度も押し、念入りに手を洗う。
「偉いじゃん。今回はいつもの王子様に言いつけなかったんだ。ごめんね、あんたの机さ私たちゴミ箱だと勘違いしてたみたい」
顔を上げると、鏡に柳井さんと数人の女子たちが映っていた。
「王子様って?」
「鮎人に決まってんでしょ。あんたは、あいつに守られてんの。鮎人のキャラと人気が無かったら、今頃あんたなんかこの学校で息出来てないよ? 分かってる? 今のあんたがここにいれるのは鮎人のおかげ。あいつもさあ、何でこんな女がいいんだろうね。私、けっこう鮎人のことタイプだったのにさ、なんかこの数カ月で幻滅したわ」
柳井さんは周りにいる女子たちと意見を交えながら、また唇の端を歪めていた。気持ち悪い。向き直り、真っすぐに柳井さんの元へと足を進めた。鼻先が触れる寸前のところまで顔を近づける。
「いつ私が鮎人に助けを求めた? むしろ、こっちから願い下げだわ。鮎人の助けなんて私は要らない。正直さあ、あんた達とこうやってやり合うのもいい加減飽き飽きしてんの。だから、好きなだけあんた達がやりたいようにしていいよ。別に私は誰にも助けを求めないし、もうやり返すのもいいわ。あーテストだね、テストしてあげる。やるからにはとことんやって来いよ。あんたらがどこまで冷酷になれるのか試してあげるよ。中途半端な事をもしするようなら、所詮あんたらはその程度のレベルだって事。その時は嘲笑ってやるよ。ほら、今この瞬間から始めるからきなよ」
「あとで後悔するよ?」
「だからその口先だけの脅しはいいんだって。何してんの。早く、ほら早くきなよ。私は無防備でおまけに抵抗もしないし、チクリもしないって言ってやってんの。ほら、早く来いよ! 来いって言ってだろぉぁっ! あぁぁぁあっっ!!」
無意識に叫んでいた。「こっわっ。さすがイカれ女」と柳井さんたちがトイレから出ていく。その背中を見届けてから左胸を抑えた。痛い。心臓が早鐘のように打っているせいか、息も苦しい。手洗い場に手をついた瞬間、身体がよろめいた。くそっ、なにこれ。まるで世界が斜めに傾いてしまったかのような心地に陥り足元がおぼつかない。咄嗟に蛇口を捻り、両の手のひらに溜めた水をばしゃばしゃと顔にあてる。それでようやく楽になったが、制服はびしょびしょになった。
「美藤さん」
鏡には浅川さんが映っていた。
「なに」
「いや、凄い声が聴こえたから。柳井さんたちがトイレに入ってたのもみてたし」
「だから? あんたさあ、他人に興味無さそうな素振りをして実は構ってちゃんなの? まじで余計な御世話だから」
「ならいいよ。別に、僕には関係ないから」
浅川さんはそれだけ言い残すと消えていった。鏡には一人トイレに残された私が映っていた。そのはずなのに、髪の隙間からみえたその顔は、とても私のものだとは思えなかった。
『今日は、ここ最近で一番嬉しいことがあった!
鮎人と一緒に凪のライブをみにいって、そのあと三人でお茶をしたの! いやあ、最高だったなあ。幸せだった。
そのうえで、朝と夜の私に報告があります。来週の水曜日はなんとなんと三人で海に行くことになりました。いつ話を振られてもいいように一応報告しておくね。』
バスに揺られながら日記を読み、閉じた。凪。胸のなかだけで彼女の名を一度口にする。彼女と過ごしたあの時間は、私にとって特別なものだった。人生で初めて、四六時中私のなかで蠢く怒りの存在を感じなかった。一体彼女の何が私にそうさせてくれるのかは分からないが、最初に出会った日を思い返しているだけで心が凪いでいく。出来ればもう一度、私も彼女に会ってみたい。心からそう思った。
バスが止まった。肩から鞄を提げ、真っすぐに学校へと向かう。久しぶりだった。あれから一度も学校には行ってない。もしかしたら今日もとは思ったが、お母さんから許しが出たのは今朝のことだ。朝食に出されたハムエッグを食べていた時、「路花」と呼ばれ顔をあげた。
「そろそろ学校に行ってもいいよ。勿論、最終的な判断は路花に任せるけどね」
お母さんはいつもの如く穏やかな笑みを浮かべながらそう口にした為、私は学校にいくことを決めた。家にいても退屈この上ない事も理由のひとつではあったが、柳井さんやその他大勢のクラスメイト達と喧嘩をしたまま休むというのは何だか負けた気がして癪だった。
教室の扉の前に立ち深呼吸をする。すぐにでも臨戦態勢に入れるように息を整えておかないと。そうやって扉の前で一人立っていた時「ちょっとそこ邪魔」と肩をぶつけられた。振り返る間もなくその女子は私を追い越し教室のなかへと入っていった。ご丁寧にまだ私が残っているのに扉まで閉めてくれた。何だか笑けてくる。笑みを携えたまま扉を開けた途端、外にまで聞こえていたクラスメイト達の声が静まり返る。敵意と拒絶。それから哀れみ。いろんな感情が同居している気がした。それらが孕んだ眼差しを向けられながら、私は席についた。
鞄から教材を取り出し、机の引き出しに入れようとした時だった。手の、ちょうど甲の辺りにねちゃりとした粘着性のある感触を感じた。それを指先で触り、引き剥がした頃にはなにか分かった。ガムだ。無数のガムが私の机の引き出しに張り付けられている。思わず舌打ちをした。くそがっ。やった奴は大方検討はつく。私の前に座るこいつ、平井さんもその一人だろう。茶色に染めた綺麗な髪が目の前でさらさらと揺れている。まずは手始めにこいつから。髪を掴んで引きずり回してやる。そう思い、席を立った瞬間、凪のことを思い出した。あの日の、あの数十分。それは今の私にとっては宝物みたいなものだった。息を吐き、ゆっくりと吸う。凪との過ごした時間を頭に思い浮かべている内に怒りがゆっくり沈んでいった。まるで舞い上がった一枚の鳥の羽が、ゆらりふわりと地面に落ちていくみたいに。
そのまま教室の外に向かおうとした時、鮎人に「路花、どうした」と声をかけられた。
「別に、なんでもない。ちょっと手が汚れたから洗ってくるだけ」
目すら合わさず、そう言い残して教室をあとにした。女子トイレは廊下の突き当たりにある。入ってすぐの手洗い場ですぐに蛇口をひねり両手を水にさらした。あれがなにか分からなかったからまともに触ってしまった。指先に、ピンクや紫や白といったガムの残骸がこびりついている。気持ち悪い。液体石鹸の入ったポンプを何度も押し、念入りに手を洗う。
「偉いじゃん。今回はいつもの王子様に言いつけなかったんだ。ごめんね、あんたの机さ私たちゴミ箱だと勘違いしてたみたい」
顔を上げると、鏡に柳井さんと数人の女子たちが映っていた。
「王子様って?」
「鮎人に決まってんでしょ。あんたは、あいつに守られてんの。鮎人のキャラと人気が無かったら、今頃あんたなんかこの学校で息出来てないよ? 分かってる? 今のあんたがここにいれるのは鮎人のおかげ。あいつもさあ、何でこんな女がいいんだろうね。私、けっこう鮎人のことタイプだったのにさ、なんかこの数カ月で幻滅したわ」
柳井さんは周りにいる女子たちと意見を交えながら、また唇の端を歪めていた。気持ち悪い。向き直り、真っすぐに柳井さんの元へと足を進めた。鼻先が触れる寸前のところまで顔を近づける。
「いつ私が鮎人に助けを求めた? むしろ、こっちから願い下げだわ。鮎人の助けなんて私は要らない。正直さあ、あんた達とこうやってやり合うのもいい加減飽き飽きしてんの。だから、好きなだけあんた達がやりたいようにしていいよ。別に私は誰にも助けを求めないし、もうやり返すのもいいわ。あーテストだね、テストしてあげる。やるからにはとことんやって来いよ。あんたらがどこまで冷酷になれるのか試してあげるよ。中途半端な事をもしするようなら、所詮あんたらはその程度のレベルだって事。その時は嘲笑ってやるよ。ほら、今この瞬間から始めるからきなよ」
「あとで後悔するよ?」
「だからその口先だけの脅しはいいんだって。何してんの。早く、ほら早くきなよ。私は無防備でおまけに抵抗もしないし、チクリもしないって言ってやってんの。ほら、早く来いよ! 来いって言ってだろぉぁっ! あぁぁぁあっっ!!」
無意識に叫んでいた。「こっわっ。さすがイカれ女」と柳井さんたちがトイレから出ていく。その背中を見届けてから左胸を抑えた。痛い。心臓が早鐘のように打っているせいか、息も苦しい。手洗い場に手をついた瞬間、身体がよろめいた。くそっ、なにこれ。まるで世界が斜めに傾いてしまったかのような心地に陥り足元がおぼつかない。咄嗟に蛇口を捻り、両の手のひらに溜めた水をばしゃばしゃと顔にあてる。それでようやく楽になったが、制服はびしょびしょになった。
「美藤さん」
鏡には浅川さんが映っていた。
「なに」
「いや、凄い声が聴こえたから。柳井さんたちがトイレに入ってたのもみてたし」
「だから? あんたさあ、他人に興味無さそうな素振りをして実は構ってちゃんなの? まじで余計な御世話だから」
「ならいいよ。別に、僕には関係ないから」
浅川さんはそれだけ言い残すと消えていった。鏡には一人トイレに残された私が映っていた。そのはずなのに、髪の隙間からみえたその顔は、とても私のものだとは思えなかった。
