私と鮎人は防波堤沿いを歩いていた。直線上に伸びる大きな通りが私の家の前にあり、その防波堤の向こうでは空を抱き締められる程に大きな大海が広がっている。車道側を歩いていると「路花はこっち」と手を引かれ海側に身体を持っていかれた。
「この辺車なんてほとんど通らないよ?」
「かもしれないけど、とにかくお前はそっちなんだよ」
鮎人は白い歯をみせて笑ったあと、なんでも無かったようにまた前を向いた。優しいな、と素直に思う。優し過ぎるくらいだ。
「みて。海、光ってる」
家を出る前、時刻は午後の四時を回ったところだった。夏で、日が長くなったとはいえ、空の色は微かにオレンジ色に染まり始めていた。溶け落ちた陽の光を海が反射している。きらきらと、星みたいに瞬いている。
「ほんとだ。夏って感じするな」
「外ってやっぱり気持ちいいなあ」
潮の香りを孕んだ風を思い切り吸い込んでいた時、無意識に呟いていた。この数日間は家から一歩も出ていなかった。だから、私は嘘をついてしまった。いや、嘘という程ではないかもしれないけれど、あえて口にしなかった事がある。確か凪は夜の部は七時からだと言っていた。恐らく今から駅に出向いたところで私は日が暮れるまでには家に帰らなければならないし、恐らく凪には会えない。でも、少しでも外に出たかった私は、鮎人に付き合って貰うことにしたのだ。
凪が普段ライブしている駅は、私の最寄り駅から三つ先にある。二人で電車に乗り、その駅に着いた頃には五時を過ぎていた。構内には大勢の人が行き交っていた。スーツ姿のサラリーマン。仕事帰り風の男性、女性。制服に身を包み楽しげに笑う学生たち。子連れのお母さん。駅の中はいろんな人の匂いで満ちていて、それに意識を向けすぎていると軽い目眩がした。歌が聴こえたのは、そんな時だった。思わず、えっ、と声が漏れ、足早に歩いていた。花屋の前を通り過ぎ、連結通路に出る。その先の広場に凪がいた。ギターを抱え、あの綺麗な歌声を夕暮れ空に放っていた。
「鮎人、あの子だよ」
振り返り、指を指して教えてあげる。けれど、その時には既に鮎人は凪をみつめていた。悲しげな、それでいて嬉しそうな、不思議な眼差しを向けていた。
「あ、ゆと?」
「ああ、ごめんごめん。じゃあ、行こっか」
凪の歌には二人の女性と一人のスーツ姿の男性が聞き入っていた。私たちはその後ろに立った。お客さんが少ないから凪もすぐに気付いたようだった。目が合う。私は持ち上げた手を顔の傍に寄せ手を振った。凪は歌いながらふわりと笑みを浮かべてくれる。だが、その視線が鮎人へと流れていった時、一瞬歌が止まった。私はまだ一回しか凪のライブをみたことはないけれど、凪が音を飛ばす姿は初めてみた。どの曲を歌っている時も決して音程を外さず、尚且つその曲にいつも自分の色を出していたのに。どうしたのだろう。そんな風に思っていると、「今日は少し早いけど、これで終わりたいと思います。聞いてくださった皆様、本当にありがとうございます」とそう言ってぺこりと頭を下げていた。
周りにいた人たちが駅へと流れていったのを見計らって私は凪の元へと駆けよった。
「凪、今日のライブもすっごく良かったよ!」
「路花、来てくれてありがとう。この数日、全然来てくれないからさ私が普段ライブしてる時間だと時間が合わないのかなって思って今日はちょっと早めに始めてみたんだけど、正解だったわ」
そうだったのかと思ったのと同時に、私の為にそこまでしてくれるなんてと凪の優しさに胸がいっぱいになった。
「で、こちらの方は?」
凪の灰色の瞳が、鮎人に向けられる。以前お母さんと来た時に教えて貰ったが、凪はアーティスト活動をする時だけカラコンを入れているらしい。
「えっ、ああ俺か。朝倉鮎人っていいます。路花とは友達でその」
鮎人がいつになくぎこちない。もしかしたら凪が綺麗だから緊張しているのかもしれない。見かねたように凪が鮎人の前へと一歩身体を前に進めた。
「はじめまして。私は、神島凪。凪でいいよ。路花の友達って事は十七でしょ? 私もタメだからさ、よろしく!」
凪の、白く細い腕が差し出される。鮎人は最初ぼんやりとそれをみつめていたが、「じゃあ、よろしく。凪」と手を組み合わせた。私はその光景を微笑ましくみていた。私の友達と友達が、友達になった。こんなに嬉しい事はない。
「ねえ、あんた達時間ある?」
凪がギターを鞄に直しながら問いかけてくる。どうやら、駅の二階にカフェがあるらしく、そこでお茶をしないかという事だった。
「いや、俺たちは日が暮れるまでに帰らないと駄目なんだ。路花のお母さんと約束したから」
「大丈夫大丈夫。私もそんな長居するつもりないから。まだ五時過ぎだし、じゃあ一時間だけ。いこ?」
凪に問われ、答えを求める鮎人と目があった。私はちいさく頷いた。
「じゃあ一時間だけ」
「そうこなくっちゃ。私、もっと路花と話してみたかったから」
「えー嬉しい!」
私と凪が女子同士の会話を繰り広げる中、一瞬気になって振り返ると、鮎人は人の流れに押し流れそうになる程に弱々しくついてきていた。
「鮎人!なにしてんの? はやく!」
声をかけた。けれど、鮎人はちいさく頷くだけだった。みながら、まただと思う。あの目をしていた。今にも泣き出しそうな、悲痛な表情を浮かべて。
「この辺車なんてほとんど通らないよ?」
「かもしれないけど、とにかくお前はそっちなんだよ」
鮎人は白い歯をみせて笑ったあと、なんでも無かったようにまた前を向いた。優しいな、と素直に思う。優し過ぎるくらいだ。
「みて。海、光ってる」
家を出る前、時刻は午後の四時を回ったところだった。夏で、日が長くなったとはいえ、空の色は微かにオレンジ色に染まり始めていた。溶け落ちた陽の光を海が反射している。きらきらと、星みたいに瞬いている。
「ほんとだ。夏って感じするな」
「外ってやっぱり気持ちいいなあ」
潮の香りを孕んだ風を思い切り吸い込んでいた時、無意識に呟いていた。この数日間は家から一歩も出ていなかった。だから、私は嘘をついてしまった。いや、嘘という程ではないかもしれないけれど、あえて口にしなかった事がある。確か凪は夜の部は七時からだと言っていた。恐らく今から駅に出向いたところで私は日が暮れるまでには家に帰らなければならないし、恐らく凪には会えない。でも、少しでも外に出たかった私は、鮎人に付き合って貰うことにしたのだ。
凪が普段ライブしている駅は、私の最寄り駅から三つ先にある。二人で電車に乗り、その駅に着いた頃には五時を過ぎていた。構内には大勢の人が行き交っていた。スーツ姿のサラリーマン。仕事帰り風の男性、女性。制服に身を包み楽しげに笑う学生たち。子連れのお母さん。駅の中はいろんな人の匂いで満ちていて、それに意識を向けすぎていると軽い目眩がした。歌が聴こえたのは、そんな時だった。思わず、えっ、と声が漏れ、足早に歩いていた。花屋の前を通り過ぎ、連結通路に出る。その先の広場に凪がいた。ギターを抱え、あの綺麗な歌声を夕暮れ空に放っていた。
「鮎人、あの子だよ」
振り返り、指を指して教えてあげる。けれど、その時には既に鮎人は凪をみつめていた。悲しげな、それでいて嬉しそうな、不思議な眼差しを向けていた。
「あ、ゆと?」
「ああ、ごめんごめん。じゃあ、行こっか」
凪の歌には二人の女性と一人のスーツ姿の男性が聞き入っていた。私たちはその後ろに立った。お客さんが少ないから凪もすぐに気付いたようだった。目が合う。私は持ち上げた手を顔の傍に寄せ手を振った。凪は歌いながらふわりと笑みを浮かべてくれる。だが、その視線が鮎人へと流れていった時、一瞬歌が止まった。私はまだ一回しか凪のライブをみたことはないけれど、凪が音を飛ばす姿は初めてみた。どの曲を歌っている時も決して音程を外さず、尚且つその曲にいつも自分の色を出していたのに。どうしたのだろう。そんな風に思っていると、「今日は少し早いけど、これで終わりたいと思います。聞いてくださった皆様、本当にありがとうございます」とそう言ってぺこりと頭を下げていた。
周りにいた人たちが駅へと流れていったのを見計らって私は凪の元へと駆けよった。
「凪、今日のライブもすっごく良かったよ!」
「路花、来てくれてありがとう。この数日、全然来てくれないからさ私が普段ライブしてる時間だと時間が合わないのかなって思って今日はちょっと早めに始めてみたんだけど、正解だったわ」
そうだったのかと思ったのと同時に、私の為にそこまでしてくれるなんてと凪の優しさに胸がいっぱいになった。
「で、こちらの方は?」
凪の灰色の瞳が、鮎人に向けられる。以前お母さんと来た時に教えて貰ったが、凪はアーティスト活動をする時だけカラコンを入れているらしい。
「えっ、ああ俺か。朝倉鮎人っていいます。路花とは友達でその」
鮎人がいつになくぎこちない。もしかしたら凪が綺麗だから緊張しているのかもしれない。見かねたように凪が鮎人の前へと一歩身体を前に進めた。
「はじめまして。私は、神島凪。凪でいいよ。路花の友達って事は十七でしょ? 私もタメだからさ、よろしく!」
凪の、白く細い腕が差し出される。鮎人は最初ぼんやりとそれをみつめていたが、「じゃあ、よろしく。凪」と手を組み合わせた。私はその光景を微笑ましくみていた。私の友達と友達が、友達になった。こんなに嬉しい事はない。
「ねえ、あんた達時間ある?」
凪がギターを鞄に直しながら問いかけてくる。どうやら、駅の二階にカフェがあるらしく、そこでお茶をしないかという事だった。
「いや、俺たちは日が暮れるまでに帰らないと駄目なんだ。路花のお母さんと約束したから」
「大丈夫大丈夫。私もそんな長居するつもりないから。まだ五時過ぎだし、じゃあ一時間だけ。いこ?」
凪に問われ、答えを求める鮎人と目があった。私はちいさく頷いた。
「じゃあ一時間だけ」
「そうこなくっちゃ。私、もっと路花と話してみたかったから」
「えー嬉しい!」
私と凪が女子同士の会話を繰り広げる中、一瞬気になって振り返ると、鮎人は人の流れに押し流れそうになる程に弱々しくついてきていた。
「鮎人!なにしてんの? はやく!」
声をかけた。けれど、鮎人はちいさく頷くだけだった。みながら、まただと思う。あの目をしていた。今にも泣き出しそうな、悲痛な表情を浮かべて。
