透明に堕ちるわたしの輪郭

 最初は一日だけという話だったけれど、結局学校は三日も休むことになった。お母さんが許してくれなかったそうだった。今はもう少し休んでみようか。路花の身体の調子が良くなったらね。そんな風のことを言われたと、朝の私の日記には書いてあった。

 夕暮れ時。なにもすることがないからと、私は自分の部屋の掃除をしていた。六畳程の、ちいさな部屋だ。壁際に設けられたベッドと勉強机、部屋の中央には最近買って貰ったばかりのラメが入った灰色のラグとそのうえにはガラス張りのテーブル。私の部屋にある家具と言えばそれくらいだけど、机のうえにはこれまで私が集めてきた透明な置き物たちがあり、今日は意識が目覚めてからずっとそれをタオルで拭いていた。

 昔から何故か、私は無性に透明なものにひかれる。小物、筆記道具、机、インテリア。形状は何でもいい。元々部屋に物が少ないのも理由の一つでもあるけれど、私の部屋にあるものは、ベッドや布団などを除いてそのほとんどが透明だ。小鳥のかたちの置物や、百合の花びらをかたどったもの、それからシャコ貝のかたちの小物入れ。

 それらを手に取って、陽の光にかざすのが好きだった。透明なものはひかりを通すと、更に透明になるような気がする。輪郭が薄くなり、存在すらもあやふやになる。でも、確かに私の目の前に存在している。その美しさと歪さがいつも私のなかを満たしてくれた。

 今日はもう一通り拭き終えてしまった。なにもすることがない。

「あー暇だなあ」

 部屋の中でベッドに身体を預けながらそう呟き腕を伸ばした時、手首の辺りに針で刺されたような痛みが走った。痛っと思わず声をあげた。こないだ目覚めた時に、また左の手首に線が増えていた。だから私は念入りに包帯を巻いた。夜の私はいつもしんどそうだ。私が励ますことが出来ればいいのに。そんなことを考えていたら、家のチャイムが鳴った。宅急便の人だろうか。下の階からお母さんの声がする。ああ、良く来てくれたねえ。良かった、良かった。そんな声が聴こえてきて誰かお客さんでも来たのだろうかと思い、ベッドから身体を起こした。この家に来客なんて滅多にない為、珍しいなと思っていると、「路花ーこっちにいらっしゃいな」と呼ばれた。不審に思いながらも階段を降りていくと、玄関に鮎人が立っていた。制服姿の鮎人は何やら右手に袋を提げていた。目が合うといつもの如く「よっ」と白い歯をみせて笑った。

「路花のことを心配してくれてね。鮎人くんが様子を見に来てくれたんだよ。ほら、何ボサッとしてるの。お客さんを玄関で待たせたままじゃ失礼だろ? 早くあがってもらいなさい」

 お母さんに促され、「えっと、じゃあ狭い家ですけど良ければどうぞ」と持ち上げた手のひらを家のなかへと向けた。すると、「狭い家は余計だよ」とお母さんが笑いながら引っ込んでいった。鮎人もそれにつられるように笑みを溢し、「じゃあ、遠慮なくあがらせてもらいます。路花、アイス買ってきたから一緒に食おうぜ」と袋を持ち上げる。瞬間、私は天にも昇る気分になった。

 お母さんから小ぶりのスプーンを二つ受け取り、私は鮎人が座る縁側に腰を下ろした。袋のなかにはカップのアイスが二つと棒付きのアイスが二つ入っていて、私はカップを鮎人は棒付きのやつを選んだ。庭先には松の木と色とりどりの花が植えられている。秋にはケイトウという真っ赤な花が咲くのだけれど、それが私の一番のお気に入りだ。お母さんが毎日草引きをしてくれてるから見栄えもよく、私たちはそれに目をやりながらアイスを口にした。外は暑かったけれど、スプーンにのせたアイスを口にいれると柔らかいミルクの甘みとつめたさが口いっぱいに広がり、それが喉を通って私のなかへと降りてくるのが気持ち良かった。食べながら、鮎人が普段仲良くしている男子たちのバカな話を聞かせてくれた。私は久しぶりに声をあげて笑った。私の笑い声に共鳴するように、時折庭先で鳴いている蝉の声が大きくなる。

「あっそうそう。鮎人がしてくれたから私も近況報告するね? 私、友達が出来たの」
「えっまじ? 良かったじゃん! 女の子?」

 鮎人が手にしていたラムネ味のアイスを頬張りながら問いかけてくる。しゃりっ、と氷の崩れる音がした。「そうなの。凪っていう名前の女の子なんだけどね」と口にした時、鮎人がそれを繰り返すように「な、ぎ」と宙を見上げた。

「そう、変わった名前でしょ? 将来歌手を目指してるらしくてさ、駅前でいっつもライブしてるんだよね。で、その子がもうびっくりするくらい歌が上手なの。ねえ、お母さん」

 キッチンにいるお母さんに声を張り上げて呼びかける。先週末、私は新しい友達が出来たから紹介したいとお母さん連れて凪のライブを観に行っていた。行ってから、凄まじいと思った。凪の歌声は綺麗で、透明感があって、直接心に触れられているようにぐっとくるものがあった。ライブ終わり私はすぐに凪の元に駆け寄って、興奮冷めやらぬままにここが良かった、あの歌詞がいいと思ったと、凪の手を取って告げた。隣にいたお母さんも本当に良かったと朗らかに笑みを浮かべ、凪自身も「ありがとうございます」と目に水の膜が張っていたから喜んでくれていたのだと思う。

 ずっと友達が欲しかった。同性で、気兼ねなくなんでも打ち明けられるような、心を許せる友達が。凪と出会ったのは偶然だったけれど、運命のようなものを私は感じていた。同い年で、同性でかわいくて、尚且つ話しやすい。私は、初めて凪とあった日からずっと、友達になりたいと心から願っていた。お母さんも凪の事を心から気に入ってくれたようで「あの子は将来大物になるかもねえ」と目を細めて言っていたのだ。

「でさ、私その子と……どうしたの」

 鮎人が庭先に、いやそれよりももっと遠いどこかに目をやっているような気がしたのだ。手にしている棒付きのアイスは、あと二口程というところで放置されている。溶けたアイスの汁が鮎人の指の付け根のところにたまっていた。私の送る視線に気付いた鮎人は「いや、何でもない」と口にする。でも、それから程なくして思い直したように私の目を見つめてきた。

「なあ路花、その凪っていう子、俺にも紹介して貰えないかな? ほら、路花の友達とは俺も仲良くしときたいし」
「私は別にいいけど」
「いつ会える?」
「凪はいつも月、水、金ライブしてるから……今日って何曜日だっけ。私、最近学校行ってないから分かんないや」

 問いかけると、鮎人は残っていたアイスを一気に頬張り、それを呑み込んでから「今日は水曜」とぽつり呟いた。

「だから今日いこう」
「えっ今日?」
「うん、こういうのは早い方がいいんだって」

 鮎人がふっと縁側から立ち上がっていた。でも、今の私は外出するにはお母さんの許可がいる。事情を説明してから許可を求めると、お母さんも鮎人が一緒ならと渋々納得してくれた。

「路花、日が暮れるまでには絶対に戻るんだよ? それは絶対に守ってね」

 私がちいさく頷くと、隣にいる鮎人が「僕が必ず責任持って路花を送り届けますから」と目に強いひかりを宿しながら言った。お母さんもそれに満足そうに頷いた。ここでいいよ、と言ったのに結局外まで送ってくれた。「じゃあ行ってくるね」と手を振って背を向けた時、「鮎人くん」とお母さんが呼び止めた。

「路花のこと、よろしくお願いします」

 お母さんは、深く深く頭をさげていた。

「はい。必ず」

 そう呟いた鮎人の目は、夏のひかりを吸い込んだせいかきらきらと水の膜が張っているようにみえた。