透明に堕ちるわたしの輪郭

 夜を好きになる事は、どれだけそれに身を預けても出来そうになかった。太陽が水平線の先へと沈んだあとの、静寂と闇が降りた世界。わたしはその世界でしか息が出来ない。例えるならばそう、金魚鉢に入れられた金魚のようなものだろうか。水が干上がってしまえば、わたしは窒息してしまう。

 この世界で、この暗闇で、それでもめいいっぱい幸せに手を伸ばし夜を愛そうとはしてみた。でも、無理だった。夜はいつも、静寂と闇を引き連れてわたしを孤独で殺そうとしてくるからだ。わたしは、毎日死にたいと考えている。いっそのこと、このまま眠りにおちている間に心臓の動きが止まったらと何度も考えている。けれど、そんなものは所詮はわたしの幻想で、わたしはいつも自分が最も嫌いな夜に産み落とされる。いつからこんな風に。それすらも分からない。わたしには、半年くらい前からの記憶がない。何も思い出せず、自分がそれまでどんな風に生きてきたのかも分からない。唯一、わたしが生きていた痕跡を証明してくれるものは手首に真横にひかれた無数の線だけだった。傷つけられ、苦しめられているはずなのに、それでもわたしの身体は生きようとしてかさぶたでその傷口を塞ぎ、やがては肉が盛り上がり、修復しようとしてくる。それを目にするだけでいつも吐き気がこみ上げてくる。生への執着を、わたし自身の身体にまじまじと見せつけられている気がするのだ。 

 お母さんは最近になってわたしがおかしな行動をしないようにと、壁を挟んだ隣の部屋で眠るようになった。微かに聴こえるちいさな寝息に耳を澄ませながら、ついさっきまた手首に線を足した。カッターナイフでゆっくりと裂き、そこから湧き出た赤く膨れあがったちいさな粒たちが、連なって手首に垂れていくのをじっとみてた。ベッドに腰掛けながら壁に背を預けていた時、心が次第に凪いでいくのを感じた。今なら眠れるかもしれない。電気を消してから、素早くティッシュで手首についた血を拭き取り、横になった。目を閉じる。眠れない。自分の鼓動がうるさくてしょうがない。

 少し、頭を冷やそう。顔を洗う為に一階へと降りていった。お母さんを起こさないように足を出来るだけ抑え、手すりに手を添えながら闇のなかへと一本ずつ足を進めた。洗面所に辿り着き電気をつける。わたしが映った。白くて、細い。いつものわたし。後ろには洗濯機が映ってる。音という音が死んだ夜の世界で、蛍光灯のたてるじーっという音のせいで耳鳴りがする。蛇口をひねり、ばしゃばしゃと顔を洗っていた時、腹減ったんならなんか食いなよ、と声がした。うるさい、と言い返す。すると、強がるなってと、なかにいるわたしが嘲笑ってくる。お前はわたしで、お前の身体はわたしの身体でもあるんだから隠したって分かるよって。

 ため息をついた時、太りなくないから食べないでよ、と鏡の向こうのわたしが睨みつけるようにみていた。なにか食べたい。耳元で、か細くてちいさな声がしたのはそんな時だった。振り返ると、悠が立っていた。起きてたの、と声をかける。すると悠は目を擦りながら「お腹すいたから」と呟いた。

「じゃあ、今チンしてあげるから待っててね」

 悠に微笑みかけ、それから鏡の中で未だに睨みつけているわたしに心配しなくてもわたしの体内には入れないから、と冷蔵庫から昨夜の残り物を冷蔵庫から取り出した。それを電子レンジで温め箸を二本取る。

 自分の部屋に戻ってからお皿のラップを外した。アジフライの放つ油のにおいが立ちのぼる湯気と一緒に部屋に充満していく。

「さあ、食べて」

 声をかけると、悠はちいさく頷いた。ちいさな手で上手に箸を使ってアジフライを食べてる。ガラス張りのテーブルに腕枕を作り、ほほ笑ましくみているといつのまにか意識を手放していた。またあの夢をみた。木々や草花は私の頭の上から垂れ下がり、太陽は私の足元で透明なひかりを放っている。行き交う車はまるで重力を無視するかのように道路にぴったりと車輪をつけ逆さまに走っている。わたしはそれをいつも水槽のなかからみていた。無数にヒビが入ったガラス窓から、わたしはその世界の美しさに息を呑む。だから、手を伸ばした。届かないと知りながら、あの透明なひかりを放つ太陽に。