透明に堕ちるわたしの輪郭

 「よっ路花」

 教室に入ると、鮎人に何のためらいもない、自然な笑みを向けられる。私はそれに返さず、すっと視線を落とし自分の席に向かった。いつもそうだった。鮎人また無視されてんじゃん。お前もこりないねえ。と、男子の誰かが言うと、数人の笑い声が聴こえた。それをきっかけに波紋が起きたみたいにクラスメイトたちが口々に話し始めた。

 席についてぼんやり窓の向こうを眺めていたら、私のひとつ前の席の平井さんが女の子に寄り添われながら歩いてきた。彼女は柳井さんのグループに属している一人で、いつもぎこちない人工的な笑みを貼り付けたまま学校で過ごしている為、一緒にいて楽しくないならそのグループから抜けたらいいのに、と以前から私は思っていた。かわいそうに。柳井さんと喧嘩でもしたのかな、と私が気にかけたのは彼女が涙を流していたからだ。綺麗に後ろで束ねた髪がちいさく揺れ、音もなく透明な涙が頬を伝っていた。傍にいる女の子は「大丈夫だよ」と背中を擦っている。そこに数人の女の子たちを引き連れて柳井さんがやってきた。何で泣いてるの、と誰かが口にした疑問に女の子が背中をさすりながら平井さんの代わりに答えた。

 私はそれを聞きながら、鼻で笑ってしまった。ついさっき、ほんの一瞬でもかわいそうだと思ってしまった自分を殴りたくなった。何故なら、彼女が涙を流していたのは単にかわいがっていたペットの魚が死んだからというだけの理由だったのだ。

「ねえ、あんた今笑わなかった?」

 柳井さんが私に怒りを孕んだ目を向けてくる。

「うん、笑ったよ」

 正直に答えた。瞬間、空気が一瞬にしてひりついたものになる。どすの利いた「なんで」という声が鼓膜に触れる。

「それに答える前に平井さんにひとつ聞きたいんだけど、平井さんって魚食べたことある?」

 問いかけると、平井さんはちいさく頷いた。私はもう笑いが止まらなかった。

「ほらやっぱり思った通りだ。魚が死んで悲しいなら、この先一生魚食べんなよって私は思うんだけど。違う?」
「それとこれとは話が違うでしょ」

 柳井さんが机を叩きつけ、私の席まで詰めよってくる。見下されるようなかたちで目があった。

「どこが?」
「由奈はその魚をペットとして飼ってたの。ペットが死んだら悲しくなるに決まってんじゃん」
「だからそれがムカつくだって。あんたは今、その魚が死んだことに思いやりを持てよみたいなこと言ってきたけどさ、じゃあお前は今まで食べてきた魚たちに対して思いやりを持ってたのかよ」
「……持ってるよ」
「嘘でしょそんなの。今の間、なに? いや、私だって犬や猫が死んでそれを言われたならまだ分かるよ? 食べないからね? でも、それまでに一匹でも魚を食べた事があるなら、それって魚殺してるじゃん。直接的にではなくても間接的に殺してる訳じゃん? なのにペットの魚が死んだ時だけ悲しいの?」
「食べる魚とペットの魚は別でしょ?」
「そうそう、これを言うと今のあんたみたいに普段食べてる魚は生きる為に命を頂いているんですって言い返してくる奴いるの。まじで吐き気するわ。別に大豆からでもタンパク質は摂取出来るじゃん。 それをわざわざ脳があって、痛みも感じる魚や肉からそれを摂取するのは、自分が食べたいからじゃん。あー魚食べたい、あー肉食べたいって欲に負けてるからでしょ? イコールそれって殺してるじゃん。だって、食べてる訳だから。で、これを言うと今度は私たちが殺した訳じゃないですって言うやついるけどさ、スーパーや百貨店に並んでる肉や魚って鮮度が命じゃん。皆、新鮮じゃないと買わないじゃん。古くなったそれはどうなるかって廃棄されるんだよ。簡単に、ごみ箱にポイッて。いつだったかな、現にあんただって学校に持ってきてたフィッシュバーガー、半分食べたくらいでこれ以上は太るからってゴミ箱に捨てたでしょ? あれ、何か知ってる? 魚なの。あんたが今思いやりを持てって言ってきた魚なの。別に私はさ、命を粗末にするなとか食べ物を粗末にするなとか言うつもりないよ。あんな綺麗事、私は絶対口にしない。だってさ、本気でそんな風に思うならごみ箱から拾い上げてでもそれ食べろよって私は思う訳。お腹が痛くなるとか、体調を壊すからとか御託を抜かすかもしれないけど、そんなの動物たちからしたら知るかって話でしょ? だって人間に食べられる前提で殺されてる訳なんだから。まさか捨てられるなんて思ってない訳じゃん」 
「あんた、なんの話してんの」
「私はさ別に食べるなって言ってないんだよ。実際私だって今まで生きてきて何匹も食べてるし。私が言いたいのはね、わざわざ遠回しに自分が欲に負けたことを正当化すんなって言いたいの。食べたいなら食べたいですでいいじゃん。大豆からも摂取出来ますけど、私は肉や魚が食べたいから食べますでいいじゃん。だから可哀想だとは思いません、でいいと思う訳。魚が死んで可哀想だとは思うけど、私は魚が食べたいから魚を食べますってさ、めちゃくちゃ矛盾してない? 平井さんもそう。今日死んだ魚と、これまで食べてきた魚。それの違いってペットにしてたかどうかでしょ? その線引きってさ、要するに全部自分が主観じゃん? 殺すも殺さまいも、悲しむのも悲しまないのも全部自分の価値観でしょ? お前はじゃあ、たとえばアジフライを食べる時、サバの味噌煮を食べる時、私が食べるせいで殺してしまいましたがすみませんって涙流すのかよって私は言いたいの。私にくそみたいな気色の悪い価値観を押し付けてくる前に、じゃあお前もこれまで自分が食べてきた魚の為にも、これから先に食べる魚の為にも涙流せよ」

 言い切った頃には身体が熱された石みたいに熱くなっていた。感情が高まったせいで心做しか目に水の膜が張っている。何度か瞬きして、それを抑え込んでいた時、ぱん、と手のひらを打ち鳴らす乾いた音が鳴った。みると、鮎人が両手を合わせたまま「終わり終わり」とこちらに目を向けてきていた。その時になって気付いた。教室は静まり返っており、中にいる全員の視線が私に向けられていた。ふいに、あーあと柳井さんがため息を溢す。

「話になんないわ。論点ずらしもいいとこじゃない? 私たち、今そんな話してないから。あんたやっぱりイカれてるわ」
「柳井」
「そりゃ友達も出来ない訳だよね? LINEの友達何人いんの? あっそもそも携帯すら持ってないんだっけ。あんたのおばあちゃんにおねだりしなよいい加減。それか、お父さんとお母さんか。ああ、それも」
「柳井っ!!」

 鮎人が声を張り上げたその瞬間、けたたましい音が響いた。蹴り倒された机が教科書を撒き散らしながら床に倒れた。それに目を向けた時、ちょうど白石先生が教室に入ってきた。柳井さんがすぐさま「先生、もうこいついい加減どうにかしてよ! 毎朝毎朝こいつのヒスに付き合わされるのもうんざりなんだって」と声をあげる。白石先生はゆっくりと目を閉じ、ふぅっと息を吐いた。それから瞼を開いた時には瞳に光が宿っていた。

「事情は大体知ってる。外で聞いてたから。美藤さん、ちょっといい?」

 有無を言わさぬような力強い目を向けられ、私は教室の外に出た。廊下にはまだ生徒たちが数人残っていた為、階段の踊り場に連れていかれた。

「美藤さん、柳井さんとまた言い合ってみたいだけど何かあった?」
「いえ、なにも」
「確か、ペットの話してわたよね? それから魚に対する思いやりとか命を頂くことについて言い合ってたように先生には聴こえたけど」

 聞いてたなら、何かあった?なんていちいち聞いてくんなよクソが、と思わず口にしてしまいそうになり、ぐっと抑えた。

「じゃあ、先生はどう思いますか」

 問いかけると、「命を頂くことに対してって事?」と聞き返された。ちいさく頷く。先生は一瞬宙に目をやったが、すぐに私の瞳へと視線を滑らせた。

「確かにね美藤さんが言う事も勿論そうだと思うし、皆が皆食べ物に感謝してる訳じゃないとは私も思う。でもね感謝してる人だっているの。それも、心からね。肉とか魚とかの命を頂くことって、勿論感謝するのは大前提なんだけど、人として生まれてこの世界で生きる限りはそれはもう受け入れていかなくちゃならない事なんじゃないかな? だって、私たちが生まれるよりずっと前からそうで、人はもう、そうやって命を頂かないと社会が成り立たないようになってしまってるから。それはもう受け入れていかなくちゃならない事だと思う。だからこそ、食べること、命を頂いて私たちが生かせてもらってる事には心の底から感謝しなくちゃならないんじゃない?」

 問いかけられた時、チャイムが鳴った。始業の時間だ。先生は私に優しげな目を向けながら更に続けた。
 
「それにね、困ったことにその感謝をするって気持ちは目にはみえないものなの。誰がどんな風に、どんな感情を持って日々命を頂くことと向き合っているかなんて、そんなの深く人と接してみないと分からないものなの。だから、決めつけちゃ駄目。たとえばさっきの平井さんの話もそう。美藤さんはさっき、まるで平井さんや柳井さんが魚を食べることに感謝していないはずだって決めつけて話してしまっていたけど、平井さんもそんな風に社会が成り立っているって理解しているからこそ、その上でペットの魚のことを特別視してたんだと思う。その子が亡くなって辛い、悲しい、って思うのは人として普通のことなの。ねえ美藤さん、もう少しだけでいいから相手の気持ちにも歩み寄ってあげて?」

 気付いた時には、両の手に拳を作っていた。手のひらの肉が爪の間にくい込むまで強く強く握りしめていた。

「わかっ、てるよ」
「えっ?」
「分かってんだよそんな事は。私はただ、綺麗事が嫌いなだけ。そんなの全部人間目線の都合じゃんか。だれが自分から望んで食べられたいと思うの。だれが自分から殺されたいと思うんだよ。辛くて、怖くて、痛くて、そのうえで動物たちが死んでるっていう事実を、全部人間のエゴでねじ伏せてるだけじゃんか!」

 感情の赴くままにひと思いに叫んだ時、先生が「美藤さんは凄く繊細なのね。生き物の死に。でも、その感性は」とふいに言葉を放った瞬間、私は踵を返し駆け出していた。廊下を走り抜け、教室に飛び込む。鞄を手にし再び廊下へと飛び出した。

「美藤さん!!」

 先生の声が背中に突き刺さったが私は振り返らなかった。