透明に堕ちるわたしの輪郭

 始業時間の三十分前になると理沙は風にのるたんぽぽの綿毛みたいに行ってしまう。手をひらりと振り「じゃ、また明日ね」って。見届けてからスカートについた砂を払い、教室に向かった。まだ誰もいない。この時間はテスト期間中でもない限り、来ても数人だ。地味で、真面目な子ばかり。彼ら、彼女たちは同じ属性の子たちと笑顔で話を弾ませ、楽しそうだった。けれど、始業時間が迫るにつれてカースト上位の子たちが登校してくると、巣に戻るみたいに引っ込んでしまう。髪をワックスで固め我神なりみたいに自信たっぷりの男子や、おしゃれや美意識、理由は様々だがただただ足をみせたいという承認欲求を満たしたいが為に極限までスカートをおる女子たち。匂いで分かる。柳井さんたちのグループが登校してくると、いつも教室はあまったるい匂いで満たされる。それまで楽しげに話していた真面目な子たちは途端に本を読み始めたり、声を落として話し始める。代わりに教室に響き渡るのはバカみたいな女子の笑い声や男子のくだらない話ばかりだ。賑やかになる。いつもの、かたち。毎朝、こうやって僕たちが生きる世界が構成されていくのをみてる。

 始業時間の五分程前に美藤路花が登校してきた。風を切るような速さで教室を突っ切っていき、進行方向に邪魔な生徒たちがいると舌打ちをする。された側は黙って何も言わない子と、露骨に苛ついた表情をみせる子で二極化していた。少なくとも僕が友達だった頃の彼女は、あんなに荒々しくは無かった。慈悲に満ち、思いやりに溢れた女神みたいな子だった。僕が思ううつくしさとは彼女の為にあるのではないかと思う程に。

 昼休み。僕はいつものように裏階段に腰を下ろし本を読んでいた。夏だ。暑くない訳がない。朝方とは違って日は出ているし、おまけに蝉もうるさい。だが物語に入り込んでいく内に僕はその世界の住人になる。いつしか暑さは引いていき、蝉の声は意識の外側に消える。ページをめくっていると、「浅川」と声がした。低く、凪いだ海みたいな落ち着いた声。現実に引っ張り上げられる。

「なに」

 顔をあげると、朝倉くんと加藤くんが立っていた。朝倉くんとは一年の時に同じクラスだった。

「路花見てないか?」
「みてないよ」

 そう呟くと、「あいつどこ行ったんだろ。いつもは馬鹿みたいに揚げ物食ってんのに今日は食堂にいなかったんだよな」と階段から真下に目をやったりしている。その目から優しさが滲み出ていた。彼と彼女は恐らく両思いなのだと思う。いや、正確にはだったか。彼女はあの日からもう既に二回も記憶を失っている。彼とそんな風に気持ちを通じ合わせたていたこともどうやら覚えていないようだった。勿論、僕と友達だった事も。

「もういいじゃん。飯も食ったしグラウンドにサッカーやりに行こうぜ。皆待ってるって」

 頭の後ろに手をやりながら「ってか、あっつ。もう涼みてえわ」呆れた様子で加藤くんが呟く。坊主頭にうっすら汗が浮いていた。

「だから先に行ってろって言ったろ?」
「なんで鮎人はいつも路花路花なんだよ。もういいじゃん。腹が痛くてトイレに行ってるとかじゃねえの?」

 彼の言う通り、あの日以来朝倉くんの意識の中には常に美藤路花がいる気がした。僕はいつもクラスを俯瞰でみてたからよく分かる。友達と馬鹿みたいに騒いでいる時も授業中も、彼の送る視線の先にはいつも美藤路花がいた。常に気にかけ、あらゆる障害から彼女を守ろうとしている。まるで物語に出てくる守護者みたいだ。

「もっかい食堂行ってみるわ。浅川、ありがとう!」

 そう言って、朝倉くんは階段を駆け下りていった。その背をみている内に「ねえ」と自然に声をかけていた。

「あの校舎裏に書かれた落書き、朝倉くんはあれをやったのが美藤さんだとは思わないの」

 目があって、朝倉くんの目が一瞬かなしみに染まった。「……思わない」とちいさく呟く。ついには顔を俯いたかと思えば、すぐに向き直る。

「ってか仮にそうだったとしても俺は路花の友達だから。変なことをしようとしてるなら俺が止める」
「どうして」
「え?」
「どうして他人の為にそこまで頑張れんの」

 純粋な疑問だった。この世界はクソで、なかで生きる人間は嘘と偽善ばかり。そんな世界を、そんな人間を、守る価値なんてあるのだろうか。

「あいつは特別だから」

 陽だまりみたいな笑みを浮かべながら、迷いのない目を向けられる。特別、と繰り返してしまう。じゃあな、と加藤くんと共に階段を駆け下りていく彼の背中が一瞬ひかり輝いてみえた。