まだ夜が明けたばかりだというのに、玄関で靴を履いていると母が起きてきた。琴音、と呼ばれる。
「また早いのね」
母は、どこに行くの、とは決して聞いてこない。僕に興味が無いから。靴を履き終え「人と会うから」と背を向けながら言った。
「あなたが誰と会おうが勝手だけど近所の人に顔向け出来ない出来ない事は」
聞き終える前に扉を閉めた。見上げた空はまだうっすらと青く、夜が取り残されていた。家には一秒でもいたくなくて、始発が動き始めてから僕は家を出る。向かう先は学校だ。正門も裏門も閉まっている為、坂の上のガードレールを乗り越えてから学校裏の林を抜ける。それから普段はほとんど人が寄り付かない裏階段へと向かう。階段下に目をやると、既に先客がいた。僕に気付くと、顔の横でちいさく手を振ってくれたので振り返した。
「おはよ」
隣に腰を下ろす。彼女は鞄から本を取り出しながら「まだ本を読むには暗いね」と笑った。彼女は物語に浸るのが好きだった。僕と同じ。
「まあ明るくなるまで何か話して待ってようよ」
彼女は隣のクラスの女の子で、名前は理沙という。出会ったのも、友達になったのもつい最近だ。今と同じくらいの時間に、この場所で出会った。彼女と僕は家庭環境がよく似ていた。家のどこにも居場所がない。お母さんに会いたくない。だから目が覚める前に家を出てる、と出会った日に聞いた。その目に満ちた悲しみや痛みが痛いほどに僕には理解出来た。親の期待に応えようと死に物狂いで頑張ったのに、親が提示する理想は手の届かない場所にある。それでも激励される。頑張れ、頑張れ。だから手を伸ばす。無様に、不格好な姿で背伸びをしたりして。そうやって親の掲げた理想を真下から眺めてる内に自分がとてつもなく無力で、無価値な人間に思えてしまう。深くまで話した訳では無かったけれど、僕は少し話しただけで分かってしまった。理沙と僕は、同じ匂いがしたから。
「また切ったの」
世界はまだ薄暗いままだったけれど、理沙の左腕が少し赤に染まっていることに気付いた。理沙は、うん、とちいさく頷く。
「やめなって。そんな事してもいいことなんかないよ?」
「でも、切ると落ち着くから」
彼女がふいに空を見上げた。僕はその横顔に気付いたら見とれてしまっていた。細く高い鼻、綺麗な曲線を描いた顔の輪郭。髪は肩のあたりで切り揃えていて、「そんなことよりさ」と彼女が声を放った時、ちいさく揺れた。
「あれの犯人って、まだ見つかってないの?」
「あれって壁の落書き? それとも教室の魚?」
「教室の方に決まってんじゃん。だって第一発見者本当は理沙達だもんね。だから、何か気になって」
そう。あれを、最初に見つけたのは僕たちだった。皆は朝練に来たサッカー部の子たちが最初だと思っているが、本当は違う。その日、僕は理沙に貸すはずだった本を机に入れっぱなしにしていた為、担任が教室の鍵を開けたであろう時間に二人で教室に向かった。理沙は放課後や学校で一人で過ごす自分に美学を感じているタイプの女子で、執拗に孤独に取り憑かれている為人前で誰かと仲良くしてる素振りを一切見せたくないらしく、二人で会うのも話すのもこの朝の時間帯だけだった。だから本の貸し借りをしている姿も誰かに見られる訳にはいかなかった。
幸い、時間も時間な為に廊下に人はいなかった。電気がついていた為に担任が鍵を空けてくれたことは外からでも分かった。窓から覗くが中には誰もいない。いないよ、と声をかけ、二人で教室の扉を開けた。瞬間、すぐに異変に気付いた。まず匂い。生臭く、吐き気を催す匂いだった。だが、その数秒後にはあいつが目に入った。黒板の、ちょうど黒板消しを置くところに置かれた魚が。その魚の目には、無数の花が突き刺さっていた。理沙がひっと声を上げ、「いやゃあああ」と廊下を走っていった。僕はしばらくその場から足を動かせなくて、その背を見送ることしか出来なかった。
「あれさあ、美藤さんって子が犯人に思われてるじゃん」
当時のことを思い出していると、ふいに理沙が言った。僕はちいさく頷いた。あの日以来、クラスのカースト上位に位置する柳井さんのグループがそれを言いふらしたせいで、今やそれは学年全体に広がっている。
「でも、たぶん違うよね。だってあの子って今そんな事を出来る状態にいないでしょ。ころころ人が変わるし皆怖いって言ってるよ? 家族が……あんな事になっちゃったから誰も言えないけどさ」
「僕もそう思う」
言ってから、いや違うと、ひとり胸のなかで否定した。思う、じゃなくて僕は思いたいのだ。少なからず僕は、いじめから救ってくれた彼女に恩義を感じていた。なのに、あんな子を、と空を睨みつける。つくづく思う。この世界は、クソだって。
「ってかさ、理由知りたくない? なんで魚? なんで目に花なの?」
「魚は分かんないけど、目を潰したのは何となく分かるかも」
理沙が「え、なに?」と顔を寄せてくる。いつの間にか顔の輪郭がくっきりとみえるようになっていた。空が明るくなり始めたのがよく分かる。
「みたくなかったんじゃない?」
「なにを?」
「こんなクソみたいな世界を。それを犯人は魚で表現したのかなあって」
理沙は跳ねるように一度頷き、「あーね」と笑う。
「誰がやったかは知らないけどちょっと気持ちが分かった気がする。理沙、その犯人と友達になれそう」
言いながら、肩に頭を寄せてくる。花みたいな甘い匂い。それが顔の前でふわりと広がる。肌が柔らかいのが服越しにでも分かり、同性なのに変に緊張してしまう。どこに視線を置いたらいいのか分からなくなって空を見上げた。理沙が何か言ったのはそんな時だった。
「ごめん何て言った?」
ちいさくて聞き取れなかった。
「だからあ」
理沙が身体を起こす。目が合った。
「琴音が犯人だったらいいのになって言ったの」
薄く伸びた陽の光を吸い込んだその目の真ん中に、特別にはなれなかった僕がいた。
「また早いのね」
母は、どこに行くの、とは決して聞いてこない。僕に興味が無いから。靴を履き終え「人と会うから」と背を向けながら言った。
「あなたが誰と会おうが勝手だけど近所の人に顔向け出来ない出来ない事は」
聞き終える前に扉を閉めた。見上げた空はまだうっすらと青く、夜が取り残されていた。家には一秒でもいたくなくて、始発が動き始めてから僕は家を出る。向かう先は学校だ。正門も裏門も閉まっている為、坂の上のガードレールを乗り越えてから学校裏の林を抜ける。それから普段はほとんど人が寄り付かない裏階段へと向かう。階段下に目をやると、既に先客がいた。僕に気付くと、顔の横でちいさく手を振ってくれたので振り返した。
「おはよ」
隣に腰を下ろす。彼女は鞄から本を取り出しながら「まだ本を読むには暗いね」と笑った。彼女は物語に浸るのが好きだった。僕と同じ。
「まあ明るくなるまで何か話して待ってようよ」
彼女は隣のクラスの女の子で、名前は理沙という。出会ったのも、友達になったのもつい最近だ。今と同じくらいの時間に、この場所で出会った。彼女と僕は家庭環境がよく似ていた。家のどこにも居場所がない。お母さんに会いたくない。だから目が覚める前に家を出てる、と出会った日に聞いた。その目に満ちた悲しみや痛みが痛いほどに僕には理解出来た。親の期待に応えようと死に物狂いで頑張ったのに、親が提示する理想は手の届かない場所にある。それでも激励される。頑張れ、頑張れ。だから手を伸ばす。無様に、不格好な姿で背伸びをしたりして。そうやって親の掲げた理想を真下から眺めてる内に自分がとてつもなく無力で、無価値な人間に思えてしまう。深くまで話した訳では無かったけれど、僕は少し話しただけで分かってしまった。理沙と僕は、同じ匂いがしたから。
「また切ったの」
世界はまだ薄暗いままだったけれど、理沙の左腕が少し赤に染まっていることに気付いた。理沙は、うん、とちいさく頷く。
「やめなって。そんな事してもいいことなんかないよ?」
「でも、切ると落ち着くから」
彼女がふいに空を見上げた。僕はその横顔に気付いたら見とれてしまっていた。細く高い鼻、綺麗な曲線を描いた顔の輪郭。髪は肩のあたりで切り揃えていて、「そんなことよりさ」と彼女が声を放った時、ちいさく揺れた。
「あれの犯人って、まだ見つかってないの?」
「あれって壁の落書き? それとも教室の魚?」
「教室の方に決まってんじゃん。だって第一発見者本当は理沙達だもんね。だから、何か気になって」
そう。あれを、最初に見つけたのは僕たちだった。皆は朝練に来たサッカー部の子たちが最初だと思っているが、本当は違う。その日、僕は理沙に貸すはずだった本を机に入れっぱなしにしていた為、担任が教室の鍵を開けたであろう時間に二人で教室に向かった。理沙は放課後や学校で一人で過ごす自分に美学を感じているタイプの女子で、執拗に孤独に取り憑かれている為人前で誰かと仲良くしてる素振りを一切見せたくないらしく、二人で会うのも話すのもこの朝の時間帯だけだった。だから本の貸し借りをしている姿も誰かに見られる訳にはいかなかった。
幸い、時間も時間な為に廊下に人はいなかった。電気がついていた為に担任が鍵を空けてくれたことは外からでも分かった。窓から覗くが中には誰もいない。いないよ、と声をかけ、二人で教室の扉を開けた。瞬間、すぐに異変に気付いた。まず匂い。生臭く、吐き気を催す匂いだった。だが、その数秒後にはあいつが目に入った。黒板の、ちょうど黒板消しを置くところに置かれた魚が。その魚の目には、無数の花が突き刺さっていた。理沙がひっと声を上げ、「いやゃあああ」と廊下を走っていった。僕はしばらくその場から足を動かせなくて、その背を見送ることしか出来なかった。
「あれさあ、美藤さんって子が犯人に思われてるじゃん」
当時のことを思い出していると、ふいに理沙が言った。僕はちいさく頷いた。あの日以来、クラスのカースト上位に位置する柳井さんのグループがそれを言いふらしたせいで、今やそれは学年全体に広がっている。
「でも、たぶん違うよね。だってあの子って今そんな事を出来る状態にいないでしょ。ころころ人が変わるし皆怖いって言ってるよ? 家族が……あんな事になっちゃったから誰も言えないけどさ」
「僕もそう思う」
言ってから、いや違うと、ひとり胸のなかで否定した。思う、じゃなくて僕は思いたいのだ。少なからず僕は、いじめから救ってくれた彼女に恩義を感じていた。なのに、あんな子を、と空を睨みつける。つくづく思う。この世界は、クソだって。
「ってかさ、理由知りたくない? なんで魚? なんで目に花なの?」
「魚は分かんないけど、目を潰したのは何となく分かるかも」
理沙が「え、なに?」と顔を寄せてくる。いつの間にか顔の輪郭がくっきりとみえるようになっていた。空が明るくなり始めたのがよく分かる。
「みたくなかったんじゃない?」
「なにを?」
「こんなクソみたいな世界を。それを犯人は魚で表現したのかなあって」
理沙は跳ねるように一度頷き、「あーね」と笑う。
「誰がやったかは知らないけどちょっと気持ちが分かった気がする。理沙、その犯人と友達になれそう」
言いながら、肩に頭を寄せてくる。花みたいな甘い匂い。それが顔の前でふわりと広がる。肌が柔らかいのが服越しにでも分かり、同性なのに変に緊張してしまう。どこに視線を置いたらいいのか分からなくなって空を見上げた。理沙が何か言ったのはそんな時だった。
「ごめん何て言った?」
ちいさくて聞き取れなかった。
「だからあ」
理沙が身体を起こす。目が合った。
「琴音が犯人だったらいいのになって言ったの」
薄く伸びた陽の光を吸い込んだその目の真ん中に、特別にはなれなかった僕がいた。
