物心ついた頃には、僕はきっと生まれる場所を間違えたのだと思っていた。たとえば家族。たとえば、この世界。それらをひとつの円だとするならば、僕はいつもその輪の外側にいた。自分なりに努力はしてみたけれど、輪の内側には入ろうとすればする程に耐え難い苦痛を伴った。
父は市議会議員で母はバレー教室のオーナーをしている。家は地域では一等地といわれる場所に立っていて、庭も大きければ家はもっと大きい。地上三階、地下には健康志向の父専用のジムがある。親は二人とも固い仕事。屋敷みたいな大きな家。あと、弟は容姿がいい上に成績優秀という三段構え。近所の住民からは理想な家族と評判だった。父と母はそんな風に他者からみえる視線を何よりも大事にした。僕には五歳からバレーを、弟にはピアノを習わせた。容姿端麗で成績優秀。おまけに人より秀でた特技もある。それが、両親が僕たちに求める理想だったのだと思う。
お前たちには他の子供たちよりもより多くの大金を払ってる。だから頑張りなさい。特別になって貰わなければ困るの。幼い頃から何度も言われた父と母の口癖は僕の頭に呪いのようにこびりついていた。バレエのレッスンには週五日で参加したし、家に帰ってからは勉強に明け暮れた。父と母の期待に応えないと。そんな生活を送る内に、まるで自分がプランターに植えられた植物みたいだと思った。僕に注がれたお金の分だけ僕は父と母が望むかたちに成長する。より多くの葉を、よりうつくしい花を。それが幸せなことだとはどうしても思えなくて、隣のプランターで生きる弟にそれとなく聞いてみた。
「ねえ、普通の人生の方が良かったって思ったことない?」
問いかけると、弟は心底分からないという表情で「なに普通って。これが普通じゃんか」と言った。瞬間、ああそうかおかしいのは僕の方なのか、と悟った。この世界に生まれ、この家で育った。父と母、それから僕と弟。この輪のなかで生きなければならないということに疑問を持つことすらいけないことなんだと。
僕は自分の心に蓋をすることにした。望んでというより、自然とそうなっていった。僕はこの家族の一員として生まれた。この家のルールに従い、この輪のなかにいなければ他に行き場がないのだ。
けれど、そんな風に感情を押し殺して生きている内にいつしか僕は心を失ってしまっていた。失ったことにすら気づかなかった。あの日までは。
その日、中学に入学したばかりの僕はバレエの発表会があった。練習の積み重ねでトーシューズは数え切れないくらい履き潰したし、この日の為に泣きながら母のレッスンに耐えた。だが、発表会が終わったあと帰りの車で母が言った。
「琴音、もう明日からレッスンには来なくていいわ。ここまでだと思うの。あなたには才能がない。何よりも容姿で劣ってる。他の子よりも幾分輝きが足りない。酷なようだけどこれがバレエの世界なの。だから、あなたはせめて勉強を頑張りなさい」
僕の顔をみてすらくれなかった。これまで積み上げてきた日々が、まるで波打ち際に作った砂のお城みたいに音もなく崩れ落ちていった時、正面の信号が赤い光を放っていた為に車がゆっくりと止まった。ようやく、母と目が合う。
「何かひとつでも特別にならないとね? あなたは容姿も悪いし、バレエも駄目。今のままじゃお父さんに顔向け出来ないでしょ? 高いお金を沢山払って貰ったんだから。ねっ?」
白い歯をみせて笑う母の顔をみながら、僕はちいさく頷いていた。悲しくは無かった。辛くも無かった。涙は一粒も流れ落ちなかった。ただ、自分のなかで蠢く感情の名前が分からなくて、どうしようもなくやるせない気持ちに駆られた。その時になって初めて気付いたのだ。僕の心はもう随分前から枯れ果てた沼地みたいに干からびていたことを。
父は市議会議員で母はバレー教室のオーナーをしている。家は地域では一等地といわれる場所に立っていて、庭も大きければ家はもっと大きい。地上三階、地下には健康志向の父専用のジムがある。親は二人とも固い仕事。屋敷みたいな大きな家。あと、弟は容姿がいい上に成績優秀という三段構え。近所の住民からは理想な家族と評判だった。父と母はそんな風に他者からみえる視線を何よりも大事にした。僕には五歳からバレーを、弟にはピアノを習わせた。容姿端麗で成績優秀。おまけに人より秀でた特技もある。それが、両親が僕たちに求める理想だったのだと思う。
お前たちには他の子供たちよりもより多くの大金を払ってる。だから頑張りなさい。特別になって貰わなければ困るの。幼い頃から何度も言われた父と母の口癖は僕の頭に呪いのようにこびりついていた。バレエのレッスンには週五日で参加したし、家に帰ってからは勉強に明け暮れた。父と母の期待に応えないと。そんな生活を送る内に、まるで自分がプランターに植えられた植物みたいだと思った。僕に注がれたお金の分だけ僕は父と母が望むかたちに成長する。より多くの葉を、よりうつくしい花を。それが幸せなことだとはどうしても思えなくて、隣のプランターで生きる弟にそれとなく聞いてみた。
「ねえ、普通の人生の方が良かったって思ったことない?」
問いかけると、弟は心底分からないという表情で「なに普通って。これが普通じゃんか」と言った。瞬間、ああそうかおかしいのは僕の方なのか、と悟った。この世界に生まれ、この家で育った。父と母、それから僕と弟。この輪のなかで生きなければならないということに疑問を持つことすらいけないことなんだと。
僕は自分の心に蓋をすることにした。望んでというより、自然とそうなっていった。僕はこの家族の一員として生まれた。この家のルールに従い、この輪のなかにいなければ他に行き場がないのだ。
けれど、そんな風に感情を押し殺して生きている内にいつしか僕は心を失ってしまっていた。失ったことにすら気づかなかった。あの日までは。
その日、中学に入学したばかりの僕はバレエの発表会があった。練習の積み重ねでトーシューズは数え切れないくらい履き潰したし、この日の為に泣きながら母のレッスンに耐えた。だが、発表会が終わったあと帰りの車で母が言った。
「琴音、もう明日からレッスンには来なくていいわ。ここまでだと思うの。あなたには才能がない。何よりも容姿で劣ってる。他の子よりも幾分輝きが足りない。酷なようだけどこれがバレエの世界なの。だから、あなたはせめて勉強を頑張りなさい」
僕の顔をみてすらくれなかった。これまで積み上げてきた日々が、まるで波打ち際に作った砂のお城みたいに音もなく崩れ落ちていった時、正面の信号が赤い光を放っていた為に車がゆっくりと止まった。ようやく、母と目が合う。
「何かひとつでも特別にならないとね? あなたは容姿も悪いし、バレエも駄目。今のままじゃお父さんに顔向け出来ないでしょ? 高いお金を沢山払って貰ったんだから。ねっ?」
白い歯をみせて笑う母の顔をみながら、僕はちいさく頷いていた。悲しくは無かった。辛くも無かった。涙は一粒も流れ落ちなかった。ただ、自分のなかで蠢く感情の名前が分からなくて、どうしようもなくやるせない気持ちに駆られた。その時になって初めて気付いたのだ。僕の心はもう随分前から枯れ果てた沼地みたいに干からびていたことを。
