放課後のジントニック、美術室の魔法

言われるがまま試着室の重いカーテンの奥にこもり、制服のシャツを脱ぎ捨ててそれを羽織る。しかし、前ボタンをどこまで留めればいいのかすらわからない。全部留めると息が詰まるし、開けすぎるとチャラく見える気がする。
恐る恐るカーテンを開けると、腕を組んで待っていた大輝が吹き出した。
「ぶっ…! お前、なんだその直立不動は。修学旅行の集合写真かよ」
「笑うなよ! 正解がわからないんだよ!」
「ボタンは一番上だけ外すんだよ。ほら、鏡見てみろ。肩の力を抜け」
大輝に言われて姿見の前に立つ。前髪を少し上げ、大輝から借りたワックスを雑に揉み込んでみる。黒縁の伊達メガネをかけると、鏡の中にいたのは、いつもの泥臭いサッカー部員ではなかった。どこか影のある、自分の知らない『少し落ち着いた大学生』の姿がそこにあった。
胸の奥が、どくんと跳ねる。この服を着て、あのドアを開ければ、あの人の隣に座れるかもしれない。倉庫の深夜バイトの辛さも、店内の居心地の悪さも、その瞬間にすべてが報われたような気がした。
「…まぁ、合格じゃん? 結構サマになってるよ、航平先輩」
大輝がニカッと白い歯を見せて、俺の肩を叩いた。その不器用な優しさに、俺は心から救われたんだ。
そんな半年前の記憶に、ほんの少しだけ浸っていた時だった。
パシッと、今度は少し強めに肩を小突かれた。
ハッと顔を上げると、目の前にいたのはセレクトショップの試着室ではなく、給水ボトルを持ってニヤニヤしている現在の大輝だった。部員たちの賑やかな声と、夕暮れのグラウンドの土の匂いが一瞬で鼻腔を満たす。
「健気だねぇ。…でもさ、航平。嘘をつく相手が『学校の先生』ってこと、忘れんなよ。バレたらマジで出禁じゃ済まないからな」
大輝の言葉に、俺は冷や水を浴びせられたように、小さく唾を飲んだ。
「分かってる。だからこそ、絶対にバレるわけにはいかないんだ」
「その気だ。……あ、そういや今週の木曜日、またあっちの高校と練習試合組まれてるからな。お前また、上の空でシュート外すなよ?」
「え――」
大輝の口から飛び出した言葉に、俺の思考が一瞬でフリーズした。
今週の木曜日。つまり、あと三日後。
あの人が「部活に来なくなっちゃった」と悩んでいた、あの生意気な部員がいる美術部のある、彼女の勤務先の高校へ、俺たちは再び遠征することになる。