放課後のジントニック、美術室の魔法

俺は一歩踏み出し、結衣さんの震える手を、薄暗いスロープの陰でそっと包み込んだ。一瞬だけ驚いたように目を見開いた彼女の体温が、俺の手のひらにダイレクトに伝わってくる。
「困ってなんか、いません。……俺も、結衣さんが好きです。初めてこの店で隣に座った時から、ずっと、結衣さんのことしか見えていませんでした。…俺でよければ、よろしくお願いします。」
嘘の沼へ、完全に足踏み入れた瞬間だった。
俺の言葉を聞いた結衣さんは、じわじわを目元を潤ませて、そこからパッと花が咲いたような、世界で一番美しい笑顔を浮かべた。
「……うん。よろしくね、航平くん」
呆気ないほど簡単に、俺たちは恋人同士になった。夕暮れの水族館の出口で、結衣さんは嬉しそうに涙を拭い、俺の手を今度は彼女のほうからぎゅっと握りしめてくれた。

***

恋人になって初めて迎えた、金曜日の夜。
駅の公衆便所でいつものようにチャコールグレーのシャツに着替え、黒縁の伊達メガネをかけた俺は、いつも以上に激しい緊張で指先を震わせながらバーのドアを押し開けた。
カラン、と繊細な鈴の音が響く。
カウンターのいつもの席に座り、辛口のジンジャーエールを口に含んでも、喉の渇きは一向に収まらない。恋人になった。あの水族館の夕暮れ、確かに俺たちは手を繋いだ。
だけど、俺は今夜も、結衣さんの隣で『大学生の藤代航平』を演じ続けなければいけない。
「こんばんは、航平くん」
柑橘系の甘い香りと共に、結衣さんが俺の右隣の席に滑り込んできた。オフィスカジュアルのブラウスから覗く細い肩が、いつもよりほんの少しだけ近い気がして、俺はジンジャーエールのグラスを握る手にぐっと力を込めた。
「こんばんは、結衣さん。今週も、お疲れ様です」
いつもの落ち着いた大学生のトーン。だけど、シャツの奥の心臓は、今にもリブを突き破りそうなほどのビートを刻んでいる。
結衣さんはマスターからジントニックのグラスを受け取ると、一口飲む前に、カウンターの下でそっと俺のほうへと手を伸ばしてきた。
トン、と柔らかい指先が、俺のチャコールグレーのシャツの袖口に触れる。
「……なんだか、不思議だね」
結衣さんは少しだけ耳の裏を赤くして、恥ずかしそうにグラスの縁を見つめた。