放課後のジントニック、美術室の魔法

けれど、近づけば近づくほど、俺たちが立っている『現実』の断崖絶壁が、すぐ目の前まで迫ってきていることを、今の俺はまだ、忘れたいと願っていた。

***


月曜日の朝。
校門へと続くいつもの並木道を、俺はどこまでも思い足取りで歩いていた。
土曜日の隠れ家カフェで結衣さんと過ごした、あの夢のような時間。それを思い出すだけで胸の奥が熱くなるのに、学校に近づくにつれて、別の重苦しい感覚がじわじわと身体を蝕んでいく。
「おい、航平」
背後からぽんと肩を叩かれ、心臓が跳ね上がった。振り返ると、エナメルバッグを肩にかけた大輝が、いつもと変わらない呆れたような顔で立っていた。
「……なんだよ、大輝。驚かすなよ」
「お前が上の空すぎるんだろ。で?土曜日はどうだったわけ、ライトグレーのサマーニット先輩」
大輝は声を潜め、ニヤニヤしながら俺の脇腹を小突いてきた。
「……だから、声がでかいって。普通に、お茶しただけ…」
「お茶ねぇ。先週に続いて、今週も居残りサボって夏海との約束も破ったんだ。夏海があの後どんな顔して俺のところ来たか知ってるか?」
大輝の言葉に、俺の喉の奥が気まづさで詰まった。
先週の美術館の時も、お洒落して駅へと急ぐ俺を、夏海は強い不信感で見つめていた。その時「今度パフェ食べに行こ!」と約束して機嫌を直してくれたばかりだったのに、俺は二週連続で、その約束を放り出して結衣さんの元へ走ってしまったのだ。
「夏海、何か言ってたか……?」
「いや、何も。ただ『航平、本当に急な用事だったんだね』って、それだけ。…航平、嘘つくならもう少し上手くやれよ。二週続けてお洒落して消えりゃ、誰だって気づくわ」
大輝は歩きながらそれ以上何も言わず、前を見据えた。だけど、その横顔には親友としての心配と、どこか複雑な色が混ざっている。
「おはよう、二人とも」
その時、背後から静かな声がした。
振り返ると、スクールバッグを両手に抱えるように持った夏海が、少し離れたところから歩調を合わせてきた。
いつもなら「おーい!」と大声をあげて小走りで駆け寄ってくるはずの夏海が、今日は俺たちと少し距離を置いたまま、ただ静かに歩いている。先週、怒ったり拗ねたりしていた時のエネルギーすら、今の彼女からは消えているように見えた。
「あ…夏海。おはよう」