放課後のジントニック、美術室の魔法

いつもより少し早く職員室で美術室の鍵を借り、誰もいない特別棟の階段を上がった。
重い木製のドアを押し開けると、夜の間にこもっていた油絵の具と独特な溶剤の匂いが鼻腔をくすぐる。私はすぐにいくつかの窓を大きく開け放ち、秋の少し冷えたい、澄んだ涼しい風を部屋へと迎え入れた。
運動部のような義務的な朝練こそ、うちの美術部にはない。けれど、先週ようやく部活に戻ってきてくれた立花くんは、創作意欲が爆発しているのか「家だと集中できないから、朝もここで描かせてほしい」と最近は授業前のこの時間から自主的にやってくるようになっていた。
そして、その立花くんの凄まじい熱量に引っ張られるようにして、最近では他の部員たちも「私も朝から描こうかな」「居残りだけじゃ時間が足りないし」と、一人、また一人と自主的に朝練のようなものを始めるようになっていた。
ガタゴトと椅子を引く音がして、朝の光が差し込む美術室に部員たちが集まっていく。それぞれが自分の作品に向かい、黙々と鉛筆や木炭を走らせる心地よい摩擦音が部屋を満たしていく。
「先生の描き方、教科書通りでつまんない」とあんなに反発して部活をサボっていた生徒が、今、こうして誰よりも熱心に、剥き出しの熱量で絵と向き合っている。そして、その背中が部活全体の空気を変えてくれた。
教卓に腰掛け、活気を取り戻した美術室をそっと見守りながら、私は教師としてこれ以上ないほどの愛おしさと喜びを感じていた。
(……全部、あの日、偶然立花くんに声をかけてくれた、他校のサッカー部の子のおかげなんだよね)
その事実に感謝すると同時に、私の頭の中には、すぐに別の『サッカーをやっている男の子』の顔が思い浮かんでしまった。
(…あ。でも、そんな風に私が生徒の心に寄り添う勇気を持てたのは、航平くんがあの本音を教えてくれたからだ)
出席簿を机に置いた瞬間、小さく漏れたため息と一緒に、一昨日見たあのひんやりとした美術館の光景が頭の真ん中を占領した。
学校指定の地味なポロシャツに、きっちりと一つに結んだ髪。鏡に映る私は、どこからどう見ても『しっかり者の二年目教師』だ。それなのに、私の頭の中は、一昨日、隣を歩いていたあの人の姿ばかりを追いかけていた。
金曜日の夜、バーの薄暗いネオンの中で見る航平くんはいつも、落ち着いたチャコールグレーのシャツを着ていて、どこか影のある大人の雰囲気をまとっている。
けれど、土曜日の昼下がりに駅前の広場に現れた彼は、爽やかなネイビーのカーディガンにクリーンな白のカットソーを合わせていた。夜の大人びた空気とは違う、眩しいほどに軽やかで、優しい私服姿。
――私のために、一生懸命にお洒落してきてくれたのかな。
そんな自惚れた過程が頭をよぎるだけで、ポロシャツの胸の奥がじんわり熱くなってしまう。
時計の針が八時を回り、他の生徒たちが少しずつ登校し始めた頃、立花くんがキリのいいところで筆を置いた。
「立花くん、お疲れ様。授業遅れないようにね」と声をかけると、彼は「うっす」と小さく生返事をして美術室を出ていく。
それと入れ替わるように、賑やかな笑い声とともに美術部の女子部員二人組が、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて私の教卓を囲んできた。
「――ねぇねぇ、佐倉せんせー」
「ふふ、なに?二人とも、早く片づけないとホームルーム遅れちゃうよ?」