放課後のジントニック、美術室の魔法

「そうなの。もう意味がわからなくて。でもね、そのスケッチブックに描かれてた絵が、本当にすごかったの。泥臭くて、荒削りなんだけど、今までのあの子の絵の中で一番熱量があって…。私、言葉失っちゃって、ただ『凄いね』って呟くことしかできなかった」
結衣さんは少しだけ耳の裏を赤くして、恥ずかしそうに微笑んだ。
「あ、そうだ。言葉で説明するより、見てもらえた方が早いよね」
結衣さんは思い出したように声を上げると、小さい革のバッグからスマートフォンを取り出した。画面を数回タップして、「これなんだけど」と俺の目の前に差し出してくる。
液晶画面に映し出されたのは、スケッチブックの一ページを撮影したものだった。
「――っ」
俺は思わず息を呑み、グラスを持つ手が僅かに震えた。
画面の向こうにあるのは、あの薄暗いデッドスペースで、その子が死に物狂いで描き殴っていたあの絵だった。スマホの画面越しでも、パステルの生々しい筆跡と、挑発するような色彩の熱量がダイレクトに伝わってくる。
だけど、俺が本当に硬直したのは、その絵に対してではなかった。
「凄いでしょ?この絵のタイトル、あの子、なんて言ったと思う?」
結衣さんはスマホを少し俺に近づけ、悪戯っぽく微笑んだ。
「『他校のクソ真面目サッカー部を黙らせる絵』だって。机に絵を突きつけたまま、そう言って睨んでくるの。理由を聞いても『別に……』ってフイっと横向いて、それ以上のことは何も教えてくれないんだけどね」
結衣さんは楽しそうに笑いながら、ジントニックのグラスを傾けた。
「でもね、うちの高校、ちょうど木曜日に練習試合があったらしいの。きっとその相手の学校の子に、何か刺激されたんだろうね。何があったのかは私にはさっぱり分からないけど」
クスクスと可笑しそうに笑う結衣さんとは対照的に、俺の背中にはドッと冷や汗が流れた。
結衣さんの口から飛び出した、その『タイトル』。
まさに今、チャコールグレーのシャツを着て、大人びた大学生のフリをしている俺の「本当の姿」そのものだ。
もし、その子が今度うちの学校との練習試合で、グラウンドにいる俺の顔を見て「あ、こいつだ」と気づいてしまったら。
もし、その子が結衣さんに「この前のサッカー部、あいつですよ」と話してしまったら。
バクバクと、シャツの奥で鼓動が痛いほど暴れる。
変装の黒縁メガネを指先で少し押し上げながら、俺は引き攣りそうになる頬を必死に固定して、大学生のトーンを保つのが精一杯だった。
「へ、へぇ…。面白い生徒さんですね」
「うん。でも、そのサッカー部の子のおかげで、私ももう一度あの子と向き合う勇気をもらえたの。航平くんが先週、高校生の本音を教えてくれたおかげだよ。本当にありがとう」
結衣さんは嬉しそうに微笑み、ジントニックを口に運んだ。
正体がバレる恐怖と、自分のしたことが彼女を救ったという切ないほどの嬉しさが混ざり合い、俺の頭の中はぐちゃぐちゃだった。