揺蕩う世界の狭間で、君がいいと思ったことだけは確かだった。

 ふわふわ。
「————」
 ぷかぷか。
「——————?」
 ぼんやり。
「————、よね」
 ぼんやり。
 土曜の駅前は賑やかだ。
 喧騒に紛れて、高く弾んだ声が聞こえる。
 でも、途切れ途切れに聞こえるだけで、聞いてはいない。
 何を言われているのかは理解していない。
 脳が情報として処理しないから。
 あくまでBGM。
 音の切れ目にあわせて、適当に相槌だけは打っておく。
「……歩?」
 ————あ、駆塁だ。
 はっきりと聞こえた。
 俺の耳も、脳も素早く反応する。
 俺はすぐさま後ろを振り返った。
 そこには思った通り、駆塁がいた。
 黒いTシャツとスウェット生地のボトムスを合わせた私服姿。
 俺と目が合うと、嬉しそうに笑って、こちらに駆けてきた。
「やっぱり歩だ——……って、デート、か。ごめん、邪魔した」
 すぐにバツの悪そうな表情を浮かべた。
 そんな顔する必要なんてないのに。
 俺は駆塁と会えて嬉しいし。
「いや、大丈夫。駆塁は部活帰り——でもないか」
「うん。今日練習休みだから、映画でも観ようかなって。そっちは?」
 問われて、
「えっと……そっち?」
 俺は首を傾げた。
「え?」
 正面と右横から同時に声が上がる。
 ん?
 右横……?
 見ると、俺の肩ぐらいの高さに黒髪の頭頂部。
 そうだ、この子いたんだった。
——デート、か。ごめん、邪魔した。
 そうだ。デート中だった。
 駆塁に会えて、すっかり頭から抜けていた。
 視界の中の頭頂部の位置がずれ、今度は黒目が現れる。
 俺を見上げる瞳は、上目遣いでもなんでもなくて。
 ただ俺を睨んでいた。
「……私たちも映画館に向かってるでしょ?昨日から始まった映画観ようって話してたじゃん」
 言われて、俺はさっきとは逆方向に首を傾げた。
「あー、そうだっけ……?」
「そうだよ……。なら、映画の後行こうって言ったカフェの話は?覚えてる?」
「……なんとなく?」
「じゃあ、今度行きたいねって話したショッピングモールの話は?」
「……うーん」
 ぼんやりと、話題の輪郭は記憶にある気もする。
 でも、詳細を訊かれたら答えられない。
 何度も首を傾げ、曖昧な回答を繰り返す俺に、相手はどんどん顔を曇らせる。
「——なら、私の名前は……?」
「名前……」
 言葉に詰まる。
「……まさか、覚えてないの?」
 そう問う声は震えている。
 怒り。
 悲しみ。
 驚き。
 全部ごちゃ混ぜの声。
 まさか、覚えてるに決まってる。
 そう、言えたらいいのだけど。
「……ごめん。メッセージアプリの名前も絵文字だったし」
「こら、歩——」
 駆塁の叱る声を遮って、
「最っ低‼︎」
 女子の甲高い罵声と乾いた破裂音が響く。
 道ゆく人が俺たちに窺う視線を向けてくる。
 打たれた頬が熱を持つ。
 じんじんと痛むが、別に構わない。
 だって全てが想定内だから。
 だけど、こんなこと想定していない駆塁は見るからに狼狽えている。
「名前すら覚えてないってなに⁉︎私彼女だよね⁉︎」
 声も全身も震わせ、怒りを剥き出しにする。
「ごめん」
 俺は謝るしかできない。
 最低。
 俺も、自分でそう思う。
「私が話してる間、相槌打ってたけど、ずっと何考えてたの⁉︎」
「……何も。ただぼうっとしてただけ」
「なっ、なにそれ……‼︎ほんと最低最悪‼︎」
 俺の正直な答えは、案の定火に油を注いでしまった。
 やっぱり、この答えで笑うのは駆塁だけなんだ。
「……もういい‼︎別れるからっ‼︎」
 叫ぶような宣言に、
「うん。ごめん」
 もう一度謝ると、もう一発平手打ちをされた。
 ……これは、ちょっと想定外だったな。
 ま、一発も二発も変わらないか。打たれた場所も同じだし。
「……歩。流石に今のはない」
 去っていった女子が完全に見えなくなってから、駆塁はため息と共に言った。
「……まあね」
 同意すれば、駆塁は訝しむように眉を顰めた。
「……もしかして、今のわざと?」
 言われて、俺は頷いた。
「だって、あの子にはまったく非がないから。俺が振るのも違うかなって。だから丁度よかった」
 もうそろそろ、限界は近かったから。
 1ヶ月付き合ってみたものの、やっぱり彼女に興味を抱けなかった。
 今日じゃなくても、その内こうなってた。
「付き合うって決めたけど、頑張るのも違うなって」
 ずっと義務感だけが付き纏う交際は、自分には無理だった。
 付き合うなら、やっぱり自分が付き合いたい相手がいい。
「……ほんと、歩はどういう子だったら付き合えるんだろうね」
 やれやれといったふうに大袈裟なため息をついてみせる駆塁に、
「だから、駆塁だって」
 俺はその答えを教えた。
「……え?」
 駆塁は目を丸くして固まった。
 やっぱり、あの日言ったことは何も受け止められていなかったのか。
「前にも俺言ったけど?『恋人は駆塁がいい』って」
「いや……それは冗談でしょ?」
「真剣に言ってたつもりだったんだけど?」
「何言って……」
 顔を赤くして焦り始めた駆塁に一歩近づく。
 俺を見下ろす茶色い瞳をじっと見つめた。
「駆塁は俺が『駆塁がいい』って言うと、すぐ顔赤くなる。今も。前も。あのとき駆塁が——『歩が好きです。付き合って』って言ったの、あれほんとに例文?」
「……例文だよ」
 ふいっと視線を俺から外す。
 でも、すぐにまた駆塁の茶色の瞳に俺が映り込む。
「……言って、歩の反応見て、今後どうしようかって考えるために言った」
「つまり」
「……例文だけど、例文じゃない。俺は、歩が、好きだよ」
 普段の溌剌とした声と違う。
 至近距離にいる俺にしか聞こえないような小さな声。
 それでも、俺の耳はその全てを逃さず聞き取った。
 前からちょっと思ってはいたけど、俺の聴覚は駆塁にだけ強く反応するらしい。
 真っ赤になった駆塁の両頬を俺の両掌で包み込んで、ぎゅうぎゅうと押した。
 ずっと誤魔化され、俺の気持ちも受け取ってもらえていなかった不満を押し付けて。
「最初からそう言えよ」
「い、言えるわけないじゃん……!」
「なんで」
 両手首を駆塁の手に捕まえられ、駆塁の頬から外されてしまった。
「なんでって……」
「俺がいつもぼうっとしてるから?」
「それは関係ないって……」
「でも、駆塁。いまいち俺の言葉信じてない」
 不満を口にすると、駆塁は困ったように眉を下げた。
「そりゃあ……だって……。歩、ちゃんと恋人とか付き合うとかの意味わかってる、よね?」
「当たり前だろ」
 いくらぼうっとしてるからといって、流石にそこまでぼんやりしてない。
「一緒に休日出かけたり、とか。夜に電話したり、とか。そういうことだけじゃないんだよ?」
「うん」
「俺は、それ以上の……手繋いだり、キスしたり、その他諸々……そういうのも歩としたいわけで」
「うん。だから——」
 駆塁の両肩に手を置き、背伸びをする。
 顔を傾け、いまだ真っ赤なままの駆塁の頬に、俺は唇を押し当てた。
「——こういうの、だろ?」
 背伸びをしたまま、同じ高さにある駆塁の茶色の瞳を見た。
「ちょ、ちょちょちょちょちょちょっと……!ここ街中!人目!何してんの⁉︎」
 肩を押し返され、勢いよく身体を離される。
 ……なんか、すごく不満。
「駆塁が信じないから。ほっぺだし、別にいいだろ」
 口にしたわけじゃあるまいし。
 ふんと鼻を鳴らせば、駆塁はますます慌てた。
「いや、だめだって!」
 人目を気にしてるだけだとはわかるけど、なんか俺が駆塁を好きな気持ちまで否定されてる気になってきた。
 ……なんか、ものすごーく不満。
「俺は駆塁と付き合いたいんだけど。それも、だめ?」
 上目で問えば、駆塁は声にならない叫びを上げ、
「………………だめじゃ、ない……です」
 遂に、折れた。
 その姿に俺の口角が珍しく上がるのがわかった。
「なら、いいよな?」
「は?なにが——」
 了承を待たず、また顔を近づければ、
「——って、だからだめだって‼︎」
 夏めいてきた青空に、駆塁の照れた叫び声が溶けていった。
 ふわふわ。
 ぷかぷか。
 ぼんやり。
 ——……いや、ぼんやりすることは減りそうだ。
 駆塁と一緒にいると、そんな時間が勿体無いと思えるから。
 ひとりで真っ赤になっている駆塁の頬に、俺はもう一度キスをした。