揺蕩う世界の狭間で、君がいいと思ったことだけは確かだった。

 ふわふわ。
「————、——す」
 ぷかぷか。
「——————か?」
 ぼんやり。
「——え⁉︎いいんですか⁉︎」
 突然はっきり聞こえた、女子の高い声。
 それが俺のスイッチを押した。
 ただ視界に映っていただけのものが、少しずつ情報として処理される。
 学校の最寄り駅。
 2番線ホーム。
 いつも並ぶ先頭車両の列。
 目の前に女子がひとり。
 他校の制服。
 毛先が巻かれた長い黒髪。
 嬉しそうな表情。
 …………ん?
 ……嬉し、そう?
「付き合ってくれるなんて夢見たい!思い切って告白してよかったです……!」
 ん?
 告、白……?
「これからよろしくお願いします!」
 向けられた満面の笑み。
「これ、私の連絡先です」
 どんどん話は進んでいく。
 今更訊き返すことも、断ることもできない。
「……あ、ああ」
 ………………ごめん、駆塁。
 どうやら……、俺は遂にやってしまったらしい。
 ——ぼうっとしてるときに訊かれたことに簡単に頷いちゃだめ。
 駆塁に忠告された日から、まだ1週間も経っていなかった。



「————はあ⁉︎気づいたら付き合うことになってたあ⁉︎」
 遂にやらかした翌日の放課後。
 部活が休みの駆塁を引き留め、教室に誰もいなくなったタイミングで白状した。
 叫び声に驚いて、反射で耳を塞ぐ。
 だけど、怒った駆塁にすぐさまその手を外された。
「だから言ったじゃん!ぼうっとしてるときに訊かれたことに簡単に頷いちゃだめだって!」
「……うん、言われた。覚えてた」
 正確には、思い出した、だけど。
「ならなんで頷くの⁉︎」
「……ぼうっと、してたから」
「ああああああ〜〜〜〜っもう!」
 駆塁が天井を仰いで、さっきより大きな声で叫んだ。
 でも、真正面から俺方向に叫ばれてるわけではないから、今度はうるさくない。
 駆塁の配慮のおかげで、耳は塞がずに済んだ。
 こんなときまで、駆塁は優しい。
 出来た男だ。
「……で、どうすんの」
 顔をこちらに戻した駆塁に問われる。
「どう……って」
「このまま付き合うの?」
「まあ……頷いたらしいし?」
 もう仕方がないと諦めている。
 自分で蒔いた種は、自分で刈り取るしかないのだ。
 俺の髪色だって、美容院でぼうっとしてたらいつの間にか出来上がっていた産物だ。
 まあ、赤と言っても彩度低めだったし、赤自体がわりと好きな色だったから今も継続しているが。
 今回も運が良ければそうなるかもしれないし。
 様子見。
 検討。
 断るのはそれからでもいいだろう。
「……悪い。忠告してくれてたのに。次は気をつける」
「次、ねえ……」
 駆塁は遠い目をした。
 次も絶対頷くだろうなとでも思っているのだろう。
 なんとなく、俺もそう思う。
「……その子、どんな子?」
 不意に振られた質問に、俺は首を傾げた。
「まだわからない。直接話したの、その時だけだったし」
「それもそっか。昨日の今日だもんね。メッセージは?来てるんでしょ?」
「来てるけど……。面倒であんま返してない」
「こら」
 言葉は俺を叱っているけど、口許がちょっと笑ってる。
 たぶん、そんなことだろうと思ってましたって感じなんだろう。
「でも、駆塁みたいな子だったらいいな、と思う」
「……なにそれ。どういう意味」
 呟いた希望に、駆塁が訝しんで俺を見る。
「駆塁は俺がぼうっとしてても受け入れて笑ってくれるから。居心地がいい」
「…………なにそれ」
 駆塁が渋い顔で言う。
 感謝を込めつつ褒めたつもりだったのだけれど。
 伝わらなかったか。
 ならもう一回。
 もと短く。
 わかりやすく。
「恋人は駆塁がいい」
「……ッな」
 駆塁が絶句して固まった。
 みるみる顔が赤く染まっていく。
 けど、返事がないから。
 ……また、だめだったか?
 ふむ、今度は短くまとめすぎたのかもしれないな。
 ならもう少し補足をして……。
「だから、俺は——」
「あああああもういい!もういいって!わかった!わかったから!」
 少し前の俺みたいに、駆塁は耳を塞ぐ。
 さらに目までぎゅっと瞑り、机に突っ伏した。
 うるさくしてないのに、何故だ。
 ……まあ、わかってもらえたならいいか。
 うー、うーと唸る駆塁をぼんやりと見つめる。
 この状態の駆塁とは話ができない。
 ……暇だ。
 その時、駆塁の呻き声と共鳴するように机の上に置いていたスマホが短く震えた。
 見れば、件の子からのメッセージ。
 自分の表情が一瞬で曇るのがわかった。
 付き合うとは決めたものの……。
 あくまで仕方なくというスタンスになってしまうし、本意ではないので、つい面倒だと思ってしまう。
 よくないとは思うのだけれど。
 ——こら。
 駆塁の優しさを含んだ叱る声を思い出し、俺は渋々アプリを立ち上げる。
 あえてフリック入力は使わずに、まさに人差し指で打って返信を打つ。
「歩」
 呼ばれて顔を上げると、駆塁が俺の手元をじっと見つめていた。
「ん?」
「右の人差し指、切れてる」
「……あらま」
 教科書を鞄にしまったとき、おや?と思ったけど、まさか切れていたとは。
 血がじんわり滲んだ傷口。
 見ていたら、なんだか痛くなってきた気もする。
 だけど、
「……はい、これでよし」
 気づいたら絆創膏で覆われていた。
 駆塁が貼ってくれた絆創膏をまじまじと見る。
 それはよく見る無地じゃないくて。
 紫色の下地に、薄茶色で描かれた何かの柄。
 ……生き物か?
「……これ、ナマケモノ?」
「うん。歩っぽいでしょ。これ、歩専用で買ったんだ」
「……俺専用?」
「だって気づくとどっか怪我してるし。歩の世話係としては備えとかないと」
「世話係……。俺一応人間なんだけど」
「なら、怪我を減らしてください」
「っす」
 俺が殊勝な態度で頭を下げると、駆塁は楽しそうに声を上げて笑った。
 駆塁が選んでくれた俺専用の絆創膏。
 丁寧に指に巻かれたそれをそっと撫でる。
 これをまた貼ってもらえるなら、怪我してもいいかも……なんて思ったのは、駆塁には内緒だ。
 机の上でスマホが再び揺れる。
 いまだ笑い続けている駆塁に気づかれないように。
 俺は画面も見ずに、スマホを鞄の外ポケットに突っ込んだ。
 ——今は駆塁の笑顔だけを見ていたい。
 そう、思ったから。