揺蕩う世界の狭間で、君がいいと思ったことだけは確かだった。

「——(あゆむ)〜!ひやひやさせんなよなぁ!俺めっちゃ焦ったんだからな!」
 時田先生の授業が終わるとすぐ、前の席の駆塁が振り返ってきた。
「駆塁が焦る必要ないだろ」
「それはそうなんだけどさぁ!」
 駆塁は頭を乱暴にかき混ぜた後、俺の机に突っ伏した。うー、うーっと唸っている。
 こちらに向けられた駆塁のプリン頭。
 俺より背が高い駆塁のてっぺんを見られるなんて、今日はラッキーだ。
 金に限りなく近い茶色と地毛の黒色。その境目を突っつきたくなって指を伸ばす。
 だけど、駆塁がむくりと顔を上げてしまった。
 ……つまらん。
「……俺、心配だよ。歩が」
「なんで」
「……ぼうっとしてる間に、変な契約とか結んじゃってそう」
「……それはない」
「何今の間」
「可能性を考えた間」
「……やっぱ心配だ」
 また突っ伏した駆塁の頭を今度こそ突く。
 何してんだよ〜、やめろ〜、ハゲる〜と柔らかな抗議の声が上がる。
 でも俺の手を止めようとはしない。
 だから俺は好きなだけ突ついて遊ぶ。
 ……楽しい。
「歩、さっきは何考えてぼうっとしてたの?」
 駆塁が顔を伏せたまま訊いてくる。
「あー……、なんだっけ」
「……覚えてないの?」
 また駆塁が顔を上げた。眉間に皺を寄せている。
「まあ。何も考えてないから、ぼうっとなるわけで」
「考えてたら、ぼうっとではないと?」
「そう」
 頷くと、駆塁が噴き出した。そのまま腹を抱えて笑い出す。
「ほんとさぁ、歩って面白いよね。いつも予想の斜めいくっていうか。あー……もう、笑いすぎて腹筋なくなりそう」
「面白がるのは駆塁だけだ」
 大抵の人は時田先生みたいに怒るか、俺の両親みたいに呆れて諦めるかの二択だ。
 面白いなんて、駆塁に出会ってから初めて言われた。
「俺的には全部ツボなんだよね」
「それはよかったな」
「うん」
 駆塁がニカっと笑う。
 俺はこの笑顔が好きだ。
 春先の太陽みたいに、無条件で包み込んでくれる安心感がある。
佐木(さき)ー、客来てるぞー」
 教室の出入り口付近に居たクラスメイトから声が飛んでくる。
 見れば、駆塁と同じバスケ部の仲間がこちらに手を振っている。話したことはないが、こうやって訪ねてくるから顔を覚えてしまった。
「ごめん、ちょっと行ってくる」
「ああ」
 駆塁が行ってしまえば、またひとりの時間。
 窓の向こうに視線を移し、空に浮かぶ雲を眺める。
 風に流された雲がゆっくりと移動して、徐々に形を変えていく。
 それをただ、見つめる。
 少しすると、意識がふわっと宙に浮く感覚。
 ただ、寝ているわけではない。
 だから目は開いているし、景色も見えている。
 でも、情報としては入ってこない。
 聞こえてくる音もBGMでしかない。
 ねえ、間野屋くんひとりになったよ。
 え、話しかけてみる?
 でも勇気出ないって。
 間野屋くんクールだもんね。
 さっき時田に当てられたときもかっこよかった。
 パッと答えててね。
 頭いいし、なんか難しいこと考えてるのかな。
 物思いに耽ってる間野屋くんの横顔最高。
 マジで顔いい。
 あの赤髪似合うの間野屋くんくらいだって。
 とりあえず今の内に眺めとこ。
 眼福、眼福。
「————。————。歩、いい?」
 あ、駆塁の声だ。
「いいよ」
 反射的に答えた。
 視線を動かし、俺の席の前に立つ駆塁を見上げた。
 何故か駆塁は怒ったような、呆れたような、でも心配しているような複雑な表情を浮かべていた。
「今、なんで『いいよ』って言ったの」
「……駆塁に『歩、いい?』って訊かれたから」
「じゃあ、何を『いい?』って言われたかは?」
「…………さあ?」
 首を傾げる。
 なんて言われたかなんて、わからない。
 聞こえてはいたが、聞いていなかった。
 脳が情報として処理していなかったから。
 俺の答えに、駆塁は脱力するようにため息をついた。
「ほんと、心配」
「なんて言ったの?」
 尋ねると、駆塁は一瞬言葉を詰まらせ、視線を不自然に泳がせた。
 ……おや?
 そんなに言いづらいことを俺に訊いたのか。
 なら、教えてくれないかもしれないな。
 まあ、そんときはそんときか。
 だけど、駆塁は着席してから、すごく小さな声で教えてくれた。
「……『歩が好きです。俺と付き合って』って」
「あ、そう。いいよ」
 今の俺はぼんやりしていないから、今度は聞き逃さなかった。
 そのうえで、即答する。
 駆塁とだったら付き合ってもいい。
 瞬間的に、そう思った。
 だけど、俺の答えは間違いだったらしい。
 駆塁の顔は渋くなった。
「うん、だから『いいよ』じゃなくてさ」
「ん?うん」
「こういうふうに、ぼうっとしてるときに訊かれたことに簡単に頷いちゃだめ」
「ああ……なるほど」
 理解した。
 さっきの告白の返事は、俺が考えなしに答えたと思われているのか。
 だから駆塁は受け止めないのだ。
「こら。わかってないのに頷かない」
 駆塁が人差し指で俺の額を軽く小突いてきた。
 その指先が帰る前に捕まえる。
「それより、俺は今ちゃんと駆塁の話を聞いてる」
「……う、うん?」
 困惑する駆塁に、俺は言葉を続けた。
「俺は駆塁と付き合ってもいいけど」
 真剣に答えたつもりだった。
 だけど、
「冗談を真顔で言うなって」
 駆塁は俺の言葉をまともに受け取ろうとしなかった。
「それに、あれは例文だから……忘れて」
「そうか……例文、だったのか」
 なら、そもそも答えを求められていなかったということか。
 ふむ……それは、失敗したな。
 俺は駆塁の人差し指を捕らえていた手の力を緩めた。
 するりと、指先が抜ける。
 と同時に、そこにあった駆塁の体温が去っていった。
 ……何故だろう。
 それが妙に名残惜しく感じたのは。
「ほんとに、気にしないで」
 そう言い残して、駆塁は前を向いてしまった。
 気にしないで、そう言われると逆に気になる。
 だけど、探るわけにもいかない。
 気になって。
 でも、気にしちゃだめで。
 気になって。
 でも、駆塁が気にするなって言うなら、やっぱりだめで。
 前を向くとき、駆塁の頬がいつもより赤い気がしたのも。
 ……きっと、気にしちゃいけない。
 俺はまた窓の向こうの空を眺めた。
 ぼんやり。
 ぼんやり。
 いつの間にか、何も気にならなくなっていた。