記憶の無い過去の未来人

 どのくらい、泣いていただろう。
 ケヤキの木に寄り掛かり、涙を流し続けた。途中からは鼻が詰まって、緑の匂いも感じることができなくなっていた。
 ただただ、頼りがいのある太い幹に身を委ね、感情を吐露する。言葉は無く、獣のように嗚咽を繰り返すだけだった。
 ――ビーッ、ビーッ。
 僕を我に返したのは、車のクラクション。顔を幹から離すと、公園の入口に一台のミニバンが止まっていた。
「おい、何してんねん! もう始まっとるぞ、早よしろ!」
 運転席から、まっつんが叫ぶ。後部座席では、ノブが手を振っていた。二人共、三十七歳の見た目で、青い服を着てマスクをしている。
「……はっ?」
 友人二人の顔を見たからだろうか、少し落ち着きを取り戻した。涙を拭い、ゆっくりと車に歩を進める。
 放心状態で助手席に乗り込むと、まっつんが不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
「お前、泣いてる?」
「いや、別に」
 僕は顔を伏せた。恐らく、目が真っ赤だったのだろう。
「あれ、マスクは?」
 まっつんに言われ、慌てて鞄からマスクを出して装着する。同時に、車が発車した。
「おいノブ。ちゃんとこいつにも説明しとけよ」
「大ちゃんはええやろ。お前とは違うんやぞ」
「アホか。こういう奴が一番ハイエナやねん」
 二人の会話は意味が分からなかった。しかし割って入る勇気も無く、僕はただ耳を傾けた。
 ノブが後部座席から身を乗り出し、僕の横手から顔を出す。
「ええか、大ちゃん。今から行くのは、神聖なトークショーや。決して、合コンではない」
「はっ……? 今から僕ら、合コンに行くの?」
 反射的に驚いてしまった。まっつんがハンドルを切りながら、ケラケラと笑う。
「な。ハイエナやろ」
「お前、どういうキャラやねん」
 ノブが頭を抱える。まっつんが運転に集中しながらも、「そうか」とハンドルを叩いた。
「大ちゃん、あれやろ。昔やってた、〈記憶喪失ごっこ〉。あれをして、記憶の無い振りをして、こっそりお持ち帰りしようとしてんのやろ」
「いや、えっと……どういう、意味?」
 僕はたどたどしく答えた。記憶を辿っても、まだ脳内の書き換えはほとんど終わっておらず、何も分からない。
 そのまま二の句が継げなくなった僕を見て、まっつんがまたケラケラと笑う。
「おい、こいつ演技派やぞ。ノブも負けんなよ。ほら、お前、あれに憧れてんのやろ。こういうヤバイ奴を相手にする、何とか心理士」
「臨床心理士、な。お前な、今の時代に精神病患者を〈ヤバイ奴〉なんて言うたら、コンプライアンス的にアウトやで」
「はいはい。とにかくここに、記憶喪失の患者がおるんやで、お前の出番や」
 ノブが溜息をつき、後部座席に深く腰掛ける。自分の膝に両肘を置き、胸の前で手を組んだ。
「宮川、大介さん」
 ノブが突如、慇懃な口調になった。まっつんが一段と大声で笑った。
「いつからの、記憶が無いのですか」
 僕は訳が分からないなりに、頭を回転させていた。このどさくさに紛れて、聞きたいことをすべて聞いてみよう。
「えっ……と、W杯、日本対ロシア戦の、十七のときですかね」
「おお、リアルな設定やな」
 まっつんが褒めてくれた。しかし全く嬉しくない。
「確かにあの時は、色んなことがありましたね。では、一つずつ説明していきます。どこかで、記憶が戻るかもしれません」
 車が赤信号で止まる。ノブが虚空を見つめ、「えっと」と呟いた。その場で記憶を呼び起こし、整理しているようだった。
「大丈夫か、ノブ。二十年前のことやで」
「おお。かなり記憶に残ってる、濃い一年やったからな」
 信号が青に変わる。車と同時に、ノブの話もスタートした。
「宮川大介さん。まず貴方はその時、大事なものを無くしました。あの、何でしたっけ。歯に関係する……」
「いきなりあやふややんけ」
 まっつんが横槍を入れる。僕は助け船を出した。
「マウスピース」
「そうです。マウスピースです。それを無くした貴方は、あれだけ楽しみにしていたW杯の試合を見ずに、マウスピースを探しにいく決断をしました。そしてそのマウスピースを、見知らぬおじさんが届けてくれたのです」
「今聞いても信じられへんわ。ホンマに奇跡やよなぁ」
 まっつんが前を見ながら、しみじみと語る。
「しかし、奇跡はそれだけでは終わりません。そのおじさんらしき人が、元カノの梨花さんにも会いに行っていたことが判明。そのおじさんの名前……まではさすがに覚えていませんが、とにかく当時の貴方がその名前を調べたところ、凄いお医者さんと同姓同名であることが判明したのです。当時、進路に悩んでいた貴方は、これは運命だと悟った。そして、ヨリを戻した梨花さんに相談を持ち掛けたのです」
「ヨリを戻したって、じゃあ僕は、梨花と結婚したんか?」
 僕が目を見開くと、二人は一瞬の間の後、どっと爆笑した。
「それは面白すぎる。大ちゃん、絶好調やなぁ」
 まっつんがハンドルをバンバン叩く。ノブはお腹を抱え、ヒーヒー言っている。
 おどおどする僕を見ながら、ノブが徐々に呼吸を整える。大きく息を吐き、先ほどのポーズに戻った。
「宮川大介さん、安心してください。色々あって、梨花は私の妻になりました」
「えぇっ」
 体が固まる。どこまでが事実か分からない。ゆっくりノブの顔を見やると、にっこりと微笑んできた。
「今から、その色々を説明しますね。この運命を何とか進路に活かしたいと思った貴方は、梨花さんに相談を持ち掛けました。というのも梨花さんは昔から病弱で、その経験から看護師さんになりたいと思っていたのです。だから貴方は、自分も医療関係の仕事に進みたい、と梨花さんに相談したのです」
「僕が医療関係って、何ができんねん。全部無理やろ」
「いいえ、一つあったのです。それは〈看護師さん〉でした。時は2002年……やったよな? 女性のイメージが強い〈看護婦〉という言葉を〈看護師〉と改め、男女差別を無くそうとしている真っ最中だったのです。そのため、全国の看護学校で、男の生徒を大量募集していました。そう、貴方のようなポンコツでも、合格になるくらいにね」
「おい、何とか心理士のキャラが崩れてきてるぞ」
 まっつんの突っ込みに、ノブが頭を下げて反省の意を示す。僕はただ、呆然とするしか無かった。
「しかし、男がどれくらい入学してくるか分からず不安だった貴方は、友達のノブを巻き添えにしました。そして宮川大介さんより賢かったノブは、同じ看護学校に通う梨花さんの悩み相談に乗ってあげたことで、仲を深めていきました。結果、貴方と別れた梨花さんは、私と結婚することになったのです」
「それは、ええんやけど……じゃあ僕は今、看護師さん、なの?」
 自分でその単語を口にした途端、脳内に看護師として働いている記憶があることに気付いた。さまざまな選択の変化によって、〈まっつんとイオンモールで働く人生〉から〈ノブと病院で働く人生〉へと変換が起こったようだ。
 しかし、それ以上の詳細についてはまだ分からない。記憶の書き換えはそこまでしか完了していないようだった。
「はい。ちなみに宮川大介さん、それとは別に、あのことは覚えていますか。貴方、それと同時期に、犯罪者に疑われたのですよ」
「おお。あったな、そんなこと」
 まっつんが前を向いたまま、昔を思い出すように遠い目をする。
「何やっけ。ホテルかどっかで、警官が襲われたやつやろ。それで犯人が〈宮川大介〉って名乗ったから、一応捜査に来たんやったな」
「その通り。同姓同名だったため、一応、警察が我々の高校にやってきたのです。しかし年齢が全く違うし、見た目も似ていたけれど同一人物とは言えない。そもそも貴方には、アリバイがあった。そのため、潔白が証明されました。ホテルの帳簿に書いた住所などもデタラメだったため、警察は〈宮川大介〉という名前も偽名だろうと結論付けました。いかにも偽名っぽい、ありきたりな名前だと」
 まっつんがブッと噴き出す。
「その偽名っぽいのが本名の奴が、隣におるんやけどな」そのまま首を少し動かし、
「ところでノブ、よう覚えてんなぁ」
「当たり前やろ。僕、人生で唯一の経験やで。校長室に呼ばれて警察と話すなんて。〈確かにその日その時間、僕は宮川大介くんと遊んでいました〉って、直立不動で答えたわ。その後気になって、ネットで色々調べたんよ。小さい事件やから、テレビじゃ全然せぇへんし」
「ちなみにその犯人、捕まったっけ」
「いやぁ、そこまでは分からん」
 しばしの沈黙。急にカーナビが、〈目的地まで五百メートルです〉と喋りだした。
「あっ、そうや」
 ノブが思い出したように口を開く。
「本題がまだやんけ。ええか。それで今日は、僕の働いている病院の看護師さんと、トークショーに出掛けるんや」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。さっきも言っとったけど、〈トークショー〉って何やねん。誰が何を喋んねん」
 ノブが頭を抱える。まっつんはまた大声で笑った。
「設定がブレへんなぁ。大ちゃん、役者になったらどうや」
「……いいでしょう。そこまで言うなら、思い出させてあげましょう」
 ノブが体を回転させ、僕に背中を見せる。青い服に白いワッペンで、〈AKAHORI〉と書いてあり、その下に〈7〉の数字が刻まれている。
 ――これは……サッカー日本代表の、レプリカユニフォーム?
「……サッカーの日本代表、赤堀(あかほり)選手のトークショーに、今から行くんか?」
 僕が恐る恐る尋ねると、ノブは満足そうに微笑んだ。そんな選手は知らないし、なぜこんな田舎でトークショーをするのか、疑問だらけだったが、それ以上は詮索しないでおこうと思った。
「当然、トークショーの後には飯を食いに行く。でもな、それは決して合コンではない。離婚して落ち込んでいる加茂ちゃんを、励ます会や」
「加茂、ちゃん?」
 その名前に、聞き覚えがあった。ノブに差し出されたチケットを受け取りながら、記憶の糸を辿る。
「そもそもこのチケットも、最近サッカーに興味を持ち始めた加茂ちゃんのために取ったんや。それはひとえに、加茂ちゃんに元気になってもらうためであって、決して、記憶喪失の振りをして合コンやと思い込んで、お持ち帰りするためやない」
「ところでさ。その加茂ちゃんって、何で離婚したん」
「何でってそりゃ、価値観の違いとかやろ。加茂先生、めっちゃ面倒臭そうやもん」
 僕が思案している間、まっつんとノブが会話を続ける。
「でもまぁ、そんな男の本性に気付かず結婚するほうもアホやで」
「そんなこと無いって。加茂先生、昔はスラッとして茶髪で、めちゃめちゃ格好良かったもん。確か昔、加茂ちゃんに対するイジメも先生の鶴の一声で収まったらしいし、誰でも騙されるわ、あんなん」
「じゃあ今は?」
「ハゲでデブ。趣味は、コーラを飲みながら糖尿病の患者に説教すること」
 まっつんが「ギャハハ」と大笑いしながら、またハンドルをバンバンと叩いた。
「最悪やけど、俺、その先生と友達になれそうやわ」
 二人の会話を聞きながら、僕の中には一つの仮説が生まれていた。
「でもさ、加茂ちゃんはもう離婚したんやろ? 旧姓に戻ったんちゃうの」
「ああ、そうやな。もう〈加茂ちゃん〉って呼んだらアカンのやな」
 ノブが顎に手を置き、少し表情を曇らせた。
「あれ。加茂ちゃんの旧姓って、何やっけ」
「忘れたんかい! 一番大事なとこやで」
「しゃあないやろ。何年も加茂ちゃんって呼んでたんやから」
 カーナビが〈目的地周辺です。運転、お疲れ様でした〉と告げた。車が左に曲がり、大きなイベントホールらしき建物の敷地に入っていく。一瞬だが、〈サオリーナ〉という看板が目に入った。
「……田丸」
 久しぶりに口を開いた僕を、二人が「えっ」と言いながら見つめた。少しして、ノブが軽く手を叩く。
「ああ、そうや。〈田丸〉や」
「あれ、大ちゃんは違う病院やろ? 何で知ってんねん」
「ちなみに下の名前は――」
 刹那、僕はシートベルトを外し、まだ動いている車から飛び降りた。
「おい! 何してんねん!」
 まっつんの怒号を無視し、僕は走った。足首を激痛が襲う。しかし関係ない。全速力で駆け、そのまま大きなゲートを潜る。受付の人にチケットを渡し、奪い取るように半券を返してもらう。手を消毒してくれとか何とか言われたが、知ったことではない。
 会場内では、すでにトークショーが始まっていた。スーツを着た男性――恐らく赤堀選手と、司会者らしき女性が何やら揉めていた。

 ――だから、本当なんですって!
 ――いやぁ、さすがにそれは、赤堀選手の言うことでも信じられないですねぇ。

 僕はステージ上には目もくれず、客席を進んだ。席と席の間の狭い通路を進み、チケットに書いてある自分の席へと直行。途中、反対側から来た人と肩がぶつかったが、謝罪する余裕も無い。どう思われても関係ない。とにかく前へ進みたかった。
 H列、G列、F列……。
 そして、満席の会場内で、唯一空いていた三つの席。その隣に座っていたのは。
 僕の脳の、最前列にこびり付いている顔だった。

 ――本当に本当なんですって! 僕、子供のころに熱が出たんですけど、呼んでないのに救急車が来たんですよ! この世界ってね、本気で何かを求めたら、向こうから自然に寄ってきてくれる、そういう風にできているんですよ!