記憶の無い過去の未来人

 何分ほどだろう。その場から、動けなかった。四つん這いになり、自分の吐瀉物を眺めながら、呼吸を整えていた。
 少し落ち着いたところでゆっくりと立ち上がり、とりあえずコンビニへ入る。トイレの洗面台で口を濯ぐ。鏡に映る自分は、酷く疲れているように見えた。
 記憶が戻ったことで、分かったことがいくつもある。一年後の自分が言っていた通り、確かに僕は、NASAのタイムマシンではなく、ケヤキの木の力でタイムスリップしていた。
 脳内に、数々の記憶が星空のように点在している。僕はそれを、他人事のように眺めていた。
 何から考えればいいのだろう。どの記憶から向き合うべきなのだろう。
 記憶がありすぎて、頭が真っ白になった。健常者の脳というのは、普段からこんな量の記憶を管理しているのか。僕も十七歳までは当たり前のようにしていたことだけど、とてつもなく大変な仕事だと思った。
 とにかくまずは、現状を理解しなくてはいけない。落ち着いて、一番鮮明に残っている、昨日の記憶から遡ってみよう。
 昨日、〈6月8日〉の自分は、目覚めてすぐに自分の現状を理解した。その後、昔のノートの最終ページに記されたあの事実を読んだ。やはり僕の予想通り、〈事故を防ぐとエミリさんと出会えなくなる〉ということが書かれていた。
 そして昨日の自分は、一日中、〈事故を防いだうえでエミリさんと出会う方法〉を模索していた。求人情報誌に付いていた赤い丸。カフェとコンビニ、清掃業者とクリーニング店。あれらはすべて、病院内にあるもの、もしくは病院に出入りする職業だ。それらの仕事に就いて、何とかエミリさんと出会えないか、ずっと考えていた。
 しかし、上手くいかなかった。そもそも、高校生の自分にどう伝えればいいのか。いきなり不審者に「お前は将来、カフェかコンビニか清掃業者かクリーニング店で働け」と言われて、誰が従うのか。仮に伝わったとして、それでエミリさんと仲良くなれる保証も無い。やはり確実なのは、事故に遭って担当看護婦になってもらうことだ。
 試しに、エミリさんの働く病院にも行ってみた。ノートには〈会いに行くな〉と書いてあったが、どうしても気持ちを抑えることができなかった。しかし土曜日で開いておらず、どうしようか思案していたところ、ちょうど出社してきた受付のおばさんと遭遇してしまった。
 何も知らない昨日の自分は、そのおばさんに「宮川エミリという看護婦と、会いたいんですけど」と懇願してしまった。そして向こうに、
「貴方、白木さんですよね。次来たら、警察に通報しますよ!」
 と怒鳴られ、意味が分からないまま、慌てて逃げ帰った。
 ――事故を防ぐか、エミリさんか。
 結局、昨日の自分はその選択ができなかった。自暴自棄になり、ガストでフライドポテトをつまみに、酒を浴びるほど飲んだ。初体験で、美味しさは全く感じなかった。どうして大人はこんなものを好き好んで飲むのだろうと、悶え苦しんだ。しかし、現実から目を逸らすため、とにかく胃に流し込んだ。
 僕は酔っ払った未来の自分を馬鹿にしていたが、すでに過去の自分も酔っ払いになっていたのだ。だから今日、〈6月9日〉の朝、目覚めたときに体調が悪く、水のような便が出た。
 そして昨日、〈6月8日〉の僕は、その足で梨花の家へ向かった。やはり昨日の自分も、梨花と結婚してしまう可能性を危惧して、マウスピースを返してもらおうとしていたのだ。さらに「大介には新しい彼女がいる」と告げて、復縁の芽を完全に潰してしまおうと考えた。そこまでは、今日の僕と全く同じ考え方だった。
 しかし。昨日の僕は、酔っ払っていた。
 突然、去年ビンタされて振られたときの怒りが湧き上がってきて、僕は必要の無いことまで口走ってしまった。酔っ払いの情緒が、安定しているわけが無かった。
「大介には新しい彼女がいる。お前みたいな喘息持ちの面倒な女じゃなくて、ちゃんとした綺麗な大人の女性。だから、大介はお前と二度と関わりたくないって言っていたよ」
 梨花は、号泣しながらマウスピースをこちらに投げつけてきた。その瞬間、再び歯列矯正が中止になる未来となり、僕の口元も、再び出っ歯になってしまったのだ。
 そりゃ、そんな奴が二日連続で来たら怒鳴られる。警察も呼ばれる。
 その後、僕はサークルKへと赴いた。そこで店員さん、つまり真一君のお母さんに「本当にこのお弁当が好きなんですね」と驚かれた。普段であれば、相手にしない。適当な相槌で終わらせるべき場面だ。しかし、何度も言うように、昨日の僕は酔っ払っていた。
 梨花のことを忘れる意味も含めて、僕は、普段の自分なら絶対にしない、〈世間話〉というものをしてしまった。
 自分の名前はもちろん、ここから徒歩二十分くらいのホテルに滞在していること、過去にサッカーをしていたことなどを、ベラベラと喋ってしまった。店員さんの息子もサッカーが好きなことが判明し、さらに話は大盛り上がり。温め終わったトンカツ弁当を受け取った後も、会話は続いた。
 昨日、僕と真一君のお母さんは〈知り合い〉になっていたのだ。だから今日、道端で苦しんでいる僕を心配してくれたんだ。しかし、昨日の段階では車までは見ておらず、まさか彼女が事故の犯人だとは知る由も無かった。
 そしてホテルに戻った僕は、アルコールの回った脳味噌で懸命に考えた。
 ――やっぱり僕には、エミリさんが必要だ。
 そう結論付けた昨日の自分は、明日、つまり今日の僕への対策を考えた。もしかしたら、明日の自分は、どれだけ説得しても〈事故を防ぐ〉という未来を選ぶかもしれない。だから確実に、そうならないようにしないといけない。
 まず、過去のノートと求人情報誌をロビーのゴミ箱に捨てた。〈障害を無くしたいという思いもあるんじゃないか〉なんて文章を読まれたら、迷いが生じる可能性がある。そしてボイスレコーダーにエミリさんへの愛を吹き込み、それを10時にアラームセット。最後に雑な字でノートに〈朝10時に病院へ行けばエミリさんに会える〉と嘘を書けば仕込み終了。
 そんな作戦が本当に正しいのか、考える気力は残っておらず、そのまますべてを放り投げて眠りに就いた。
 昨日の自分は、明日の自分が警察に逮捕されればいいと考えたのだ。逮捕されて拘留されれば、絶対に事故を防ぐことはできない。
 実に馬鹿だと思う。本当に馬鹿だ。そんな作戦が成功するわけ無いし、仮に成功したとしても、絶対にもっと、いい作戦があるはずだ。酔っ払いというのは、本当に面倒臭い。
 これが昨日の、〈6月8日〉の自分の顛末。今日、〈6月9日〉の自分に起こった数々の不可解な出来事のすべてが、線になった。
 そして次に、僕が考えなければならないことは。
 なぜ、いきなり健忘症が治ったか、ということである。
 マウスピースを盗んだことで、僕は出っ歯になった。過去を変えれば、今の自分にも影響が出るということだ。つまり、この時代の僕に、何らかの変化があったのだろう。
 店内の時計を見ると、夜七時前だった。
 とにかく、自分に会いに行こう。何が起こっているのか、自分の目で確かめてみよう。
 
   *

 江戸橋駅へやって来た僕は、二択を迫られた。今は一分一秒が惜しい。こんな、一時間に数本しか来ない田舎の電車を待っている余裕は無い。慣れてはいないが、もう一つの交通手段を使うしかなかった。
 帰宅ラッシュのサラリーマンたちを掻き分け、僕はタクシー乗り場へと急いだ。タクシーはすでに数台が停車しており、その中から無作為に選んだ助手席の窓をノックする。
「すみません」
 制帽を顔に乗せていた運転手が、飛び起きる。五十代くらいの男性。寝ていたようだ。
「はい、どうぞ」
 慌てた様子で目を擦りながら、スイッチで後部のドアを開けてくれた。
「どちらまで?」
 後部座席に腰掛けた僕は、「えっと」と逡巡。どう言えば伝わるだろう。
「ケヤキ公園か松下デンキって、分かりますか」
「いやぁ、ちょっと」
「ケヤキ公園って、別に公園の名前じゃないんです。ただ、めちゃくちゃ大きなケヤキの木がある公園で」
「ああ! あの、高茶屋からちょっと行ったところの」
「そうです、そこです! お願いします」
「了解しましたぁ」
 運転手の小気味良い操作で、タクシーが発車。僕は流れる景色を眺めながら、物思いに耽った。
 先ほど、脳内に溢れ出た数々の記憶。そのどれから向き合うべきか分からず、僕はとりあえず、最も大事であろう昨日の記憶から向き合った。しかし僕には、それと同じくらい大事な、向き合いたい記憶が二つあった。ある程度落ち着いた今こそ、向き合うべきだろう。
 まず、一つ目。あの事故の真相である。
 事故から数週間経った日の昼間。僕の病室に、真一君のお母さんが来訪した。婦警さんに連れられてやって来た彼女は、数時間前に会った人間と同一だとは思えないほど、やつれていた。その時に自己紹介してくれたのだが、当時の僕は彼女に対して怒りの感情しか持っていなかった。だから、こんな奴の名前を覚えても仕方ない、憎しみが増すだけだと、意図的にその情報を遮断した。
 彼女の話では、あの日の夜、日本対ロシア戦を見終わった直後に、真一君が「しんどい」と言ってきたらしい。熱を計ったところ、四十度近くあり、大慌て。自分で病院へ連れていくか、救急車を呼ぶかの二択を迫られた。しかし彼女は飲酒していたため、実質、選択肢は一つだった……はずなのだが。
 こんな時間に救急車を呼んだら、近所の人に迷惑が掛からないだろうか。
 そういった、〈必要のない配慮〉が頭をもたげた。結果、彼女は、〈自分で連れていく〉という間違った選択をしてしまった。
 そして運転している最中、後部座席で寝かせていた真一君が突然嘔吐したため、パニックになり、手元が狂って慌ててハンドルを切った。そして、いつもなら絶対にこんなことにはならないのだが、アルコールのせいだろうか。急ブレーキを掛けようとして、アクセルとブレーキを踏み間違えた。そして――。
 ――この罪は、一生をかけて償います。償えるものではないけれど、それでも、私のすべてをかけて、償います。
 彼女は僕と会話している最中、しきりにその言葉を挟んだ。涙は間断なく流れ続け、こけた頬に伝って膝上のハンカチに水たまりを作っていた。婦警さんが体を支えていないと倒れてしまいそうで、どちらが被害者なのか分からなかった。
 はっきり言って、同情の余地は大いにある。当時の僕には怒りの感情しか無かったが、今は違う。僕は彼女と出会い、彼女が普通の、息子思いのお母さんだと知っている。その事故だって、周囲の人を慮った〈優しさ〉が生んだ悲劇である。
 しかし、それでも。
 僕はどうしても、事故を防いで彼女を救ってあげる気にはなれなかった。その理由は、ひとえに、もう一つの向き合いたい記憶のせいであった。
 ――僕は、童貞では無かった。
 この十数年間、僕はエミリさんと、何回か夜を共にしていたのだ。
 健忘症のときから、エミリさんに関する記憶はぼんやりとあった。しかし、すべてが首から上の記憶で、その時のエミリさんの服装、もっと言えば裸かどうかまでは分からなかった。
 僕からすれば、毎日エミリさんとは初対面で、出会った当日に交わっていることになる。しかし、気持ちは分かる。エミリさんであれば、出会ってすぐに心も体も許せる。
 直近の記憶は、一か月ほど前。2022年の5月中旬。僕たちは毎回、「初めてなんやけど」「初めてとちゃうよ」という会話をして笑い合っていた。そしてこれも、〈手続き記憶〉と呼べるのだろうか。確かに僕は、初めてとは思えないほど上手にできたような、手応えを感じていた。
 エミリさんの、清流のような体のラインを指と舌でなぞり、そのまま胸へと辿り着く。まっつんとよく「巨乳最高!」と話していたけど、もうサイズなんて関係ない。目の前の、程よい大きさのエミリさんの胸が、この上なく愛おしかった。
 この感触を、この匂いを、この味を、この音を、この景色を、独り占めしたい。誰にも渡したくない。
 そう思った僕は、生意気にも、ベッドの上でだけエミリさんを呼び捨てにしていた。〈男〉を出し、エミリさんを支配しようとした。交わる際には、必ず避妊具を着けていたのだが、いつかそれも無い状態で交わりたいなと、身分不相応なことも考えていた。
 僕が果てた後、エミリさんは必ず部屋を出ていってくれた。僕に対する配慮だ。明日の朝、目覚めた僕は、記憶が無くなっている。いくらエミリさんが愛おしいからと言って、いきなり隣に見知らぬ女性がいる朝は、僕に不要な混乱をもたらす。
 営みの余韻と、口内にほのかに残る夕食のロールキャベツの香りを味わいながら、僕は眠りに就いた。
 できることならもう一度、いや、何度でも、エミリさんと夜を共にしたい。そのためならば、他人がどれだけ不幸になろうとも、知ったことではない。
 しかし、そう考えようと思っても、知らぬ間に涙が頬を伝う。開き直ろうと思ったが、やはりあの親子に対する罪悪感が芽生えていた。だけど僕に、泣く資格などない。〈悪いことをする〉と決めたのだから、泣いて同情を買ってはいけない。自分の罪を軽くしようとしてはいけない。自分は最低な人間だという自覚を持ち、真一くんとお母さんに、一生恨まれる覚悟を持たなければいけない。
 僕はそう誓い、双眸を力いっぱい擦った。
 そしてふと、自分の中に、存在しないはずの記憶があることに気付いた。僕とまっつんが、並んでイオンモールで働いている。障碍者ではなく、健常者の僕が働いている記憶が、おぼろげながら確かにあったのだ。
 そうか、と膝を打つ。
 僕は今、健常者だ。つまり、何らかの理由で〈事故に遭わなくなった世界線〉の自分だ。今の自分は、〈二十年間、健常者として生きた人間〉になっている。だから、脳内で記憶の書き換えが起こっているのだ。
 一年後の自分が言っていた、〈記憶の変換〉とはこのことか。完全に記憶の変換が終ってしまうと、自分が健忘症だったこと、そして何よりエミリさんのことも忘れてしまう。そうなる前に、何とかしてもう一度タイムスリップして自分自身に忠告する必要があったのだ。
 本来であれば、歯並びと同じように、すぐに体(脳)に変化が起きないといけない。しかし、歯並びとは違って膨大なデータ量だ。何ギガバイトもあるパソコンのデータを転送するときみたいに、完全移行に時間を要しているんだ。
 今、僕の脳内では、〈健忘症として生きた二十年間〉の記憶と〈健常者として生きた二十年間〉の記憶がせめぎ合っている。具体的な数字なんてもちろん提示できないけど、恐らく、二十年間のうちの数か月分くらいの記憶が、すでに書き換わっている感覚があった。
「お兄さんも、帰ってサッカー見るの?」
 運転手が、不意に話しかけてきた。そうか。この年代の人から見れば、今の僕も〈おじさん〉ではなく〈お兄さん〉なのか。
「ええ、まあ」
「皆そうやよねぇ。僕は仕事で見られないんですけど」
「それは残念ですね」
 僕は一応、どうでもいい世間話に相槌を打った。
「お兄さんは、どっちが勝つと思います?」
「そりゃ、日本でしょ。日本人ならそう言わんと」
「ははは、確かにね。じゃあ、誰がゴール決めますか?」
「僕は、稲本やと思いますね」
「あれ。稲本って確か、攻撃の人じゃないよね。真ん中のほうにいる、あの……」
「ミッドフィルダー、ですね」
 そんな基本的なことすら知らないなら、試合を見られなくてもいいだろうと思ったのだが、この時期はこういった〈にわかファン〉が急増していたのだ。
「おお、そうや。そんな人が、ゴール決められるの?」
「はい。ベルギー戦でも決めましたし、それに僕も決めたことあるんで」
「えっ、お兄さんもサッカーを?」
「そうですね、昔ちょっと」
 そこで、ケヤキ公園の近くに到着。世間話は強制的に終了となった。
 お会計は四千円ほどで、自分からくすねた五千円が、ここに来て有効活用できた。僕は運転手に「ありがとうございました」と伝え、ケヤキの木が見下ろす路上に降り立った。

   *

「はっ?」
 暗闇の中、松下デンキに到着した僕は、思わず声を漏らした。
「いくら何でも早すぎたよな」
「大丈夫やわ。どうせテレビはずっとこの話題やし、どんだけでも暇は潰せるわ」
 まっつんとノブが、二人で街頭テレビを眺めていたのだ。この時点でおかしい。
 日本対ロシア戦は八時半キックオフなのだが、待ち切れなかった僕たち三人は、試合開始の一時間以上前に松下デンキへ集合していた。
 ――じゃあなぜ、僕だけいないのだ。
 恐る恐る二人に近づき、「すみません」と声を掛ける。街頭テレビに照らされた二人の顔が、怪訝そうに歪んだ。
「えっと、私ね。宮川大介の親戚の白木と申します」
 自己紹介すると、二人の警戒心が少し解けたような気がした。ノブがきょとんとしながら、「そう言われたら似とるな」と呟いた。
「ちょっと聞きたいんやけど、ウチの大介はどこ? 君ら、いつも三人でいるよね」
 まっつんとノブが、顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。まっつんはそのままテレビ画面に視線を戻した。ノブが呆れたように溜息をつく。こういう面倒臭い対応は、すべてノブ任せのようだ。
「さっきまで、あいつもいたんですけどね。ちょっと用事ができたみたいで」
「用事? どういうことやねん」
 思わず、強い口調が出た。正体がバレるとか警戒されるとか、そんなことを気にしている余裕は無かった。ノブが怯みながら口を開く。
「あの、何て言うか」
 ノブが松下デンキの店内を一瞥する。店の奥で松下店長が段ボールを運んでいた。
「何十分か前、店にイタズラ電話が掛かってきたみたいなんです。店長が出た瞬間に切られたらしくて。それで店長、今はもう大丈夫なんですけど、すごく不機嫌になってしもて。僕らに、『客じゃないなら帰れ!』って八つ当たりしてきたんです。それでチャンネルを、サッカーから別のチャンネルに変えられたんです。それが何か、美容特集みたいな番組やって、それを見た瞬間、大ちゃんの顔が青ざめていって」
「何で、そんなもんで青ざめるねん」
「その番組で、歯列矯正用のマウスピースを特集してたんですよ。あいつも、同じようなもので歯の矯正をしてたんですけど、それを無くしてしもて」
「なんや、ぶつぶつ言っとったな。『嘘やろ。めっちゃ高いやん。やばいって……』とか何とか」
 テレビを見つめながら、まっつんが補足を加える。
「それで、ガストへ行ってしまったんです」
「ガストって、どういう……いつ、戻ってくるんや」
「マウスピースを見つけるまで帰って来ん、って言ってましたけど」
 ノブが眉根を寄せる。僕は絶句し、二の句が継げなかった。
 しかし、すべてに合点がいった。僕が一時間ほど前に松下デンキへ電話したせいで、未来が変わってしまったのだ。僕がコンビニの駐車場でおにぎりを齧った瞬間、この時代の僕は〈サッカーよりもマウスピース〉と決断した。恐らく、テレビでマウスピースの具体的な値段を見て、その想像以上の高さに驚愕したのだ。さすがにこんな高価なものを無くすのは不味い。一度は諦めたけど、やっぱり探しにいこう、と。
 松下デンキでサッカーを見ない選択をすれば、当然、事故に遭わない未来になる。そのため、僕がいきなり健常者になったのだ。
「おい、出てきたで」
 まっつんの指摘で、ノブの視線もテレビ画面へと戻る。日本代表のウォーミングアップが流れていた。すでに僕のことは、眼中に無いようだった。
 二人の背中を見ながら、思案する。
 運命を戻さなければならない。事故に遭わせなければならない。どうすれば、自分を松下デンキに連れ戻せるか。
 まっつんとノブが、事故に遭ったと嘘を吐くか。さすがに、マウスピースより友達の安否のほうが大事だろう。しかし、それが嘘だと分かったら、すぐにガストへ戻ってしまう。
 だとしたら、やはり。
 マウスピースを、本人に届けるしかない。確実にガストを離れるのは、マウスピースが見つかったときだけだ。
 そして今、マウスピースは。
 僕は記憶を辿った。酔っ払っていたから判然としない部分もあるが、そこに関する昨日の、〈6月8日〉の記憶は確かにあった。
 梨花に投げつけられたマウスピースを拾い、僕はホテルへと戻った。そこではたと冷静になり、梨花に言い過ぎたと、遅すぎる後悔をした。マウスピースのケースを壁に叩きつけて、一人で意味も無く暴れた。
 マウスピースは、今、部屋のベッドと壁の僅かな隙間。そこに落ちている。間違いない。
 ホテルへ戻って、マウスピースを取ってこよう。それしか無いと、確信した。
「どっち勝つと思う?」
「そら日本やろ、って言いたいけど、ムズイかもなぁ」
 二人に倣ってテレビ画面を見ると、日本のスタメンを発表しているところだった。僕はようやく二人に「ありがとう」と告げ、その場を走り去った。
 僕にとっての人生を賭けた大勝負が、日本代表よりも早く始まった。

   *

 走る、走る、走る。
 その道中。僕は、違う世界線の自分、つまり、トイレで会話した一年後の自分の行動を推察した。
 違う世界線の自分は、〈コーポ南が丘〉で真一君のお母さんに「夜間の運転をしないでください」とお願いした。恐らく、「サッカーの影響で数日間渋滞がすごい」とか、それらしい嘘を吐いたのだろう。そしてその瞬間、自分が健常者に戻ったことで、事故を未然に防げることが確定。自分とあの親子、両方を救ったうえで、エミリさんとも結婚できたらいいなと、あまりに都合のいい結論を出したのだ。そんな雲一つ無い青写真、描けるわけがないのに。
 これもある意味、僕の〈優しさ〉が生んだ悲劇と言えるだろう。
 しかし、この世界線の僕は違う。
 一年後の自分が、その選択は間違いだと教えてくれたから。絶対的に、障碍のない脳よりも、他人の人生よりも、エミリさんのほうが大事だと、教えてくれたから。
 ここからは本当に推察だけど、違う世界線の自分は、2022年に戻った後、何とかしてエミリさんと出会おうとしたのではないだろうか。変換されていく記憶の中にエミリさんは現れず、こちらの世界ではやはり、出会っていないと確信した。恐らく、無理やり怪我をして病院に行ったりして、エミリさんと出会おうとした。しかしそんなことが上手くいくわけがなく、それで痺れを切らして、一年後の2023年6月9日に、駄目元でケヤキ公園へ赴いたのだ。
 何度も言うが、これはただの推察、何の根拠もない決めつけだ。しかし、自分のことであるためか、やけに生々しく妄想することができた。
 そして、走り始めて十数分。僕はついに、目的地に到着した。
 漆黒の闇に溶け込むように、どす黒く見える建物が聳え立っていた。窓からはいくつかの光が漏れていて、宿泊客の存在を思わせる。その人たちにとっては、ただの宿泊施設なのだろう。しかし僕には、テレビゲームの魔王が潜む伏魔殿に思えた。
 ホテルに近づきながら、まずは様子を観察した。一見、何の変哲もない。不気味なほどに静まり返っている。しかしあそこは、数時間前に警察官が催涙スプレーで襲われた事件現場だ。何もないわけが無かった。
 付け焼刃かもしれないが、来る途中に、ホームセンターで伊達眼鏡と作業着を購入。僕は変装をしていた。本当は催涙スプレーも購入したかったのだが、残念ながら売っていなかった。確かに、そんなものが普通に市販されていたら、犯罪に使いたい放題だ。両親は海外から取り寄せたみたいだし、日本で購入できるわけが無かった。
 コソコソすると逆に怪しまれると思ったので、僕はあえて胸を張って歩き、ホテルへと近づいた。さすがに正面から入るのは危険なので、裏手へと回る。僕の記憶が確かなら、裏口があるはずだ。
 岩のような壁に左手を付きながら、ホテルの右側を進む。コンクリートのアプローチがあり、砂利を踏む心配は無い。それでも一歩一歩慎重に進み、少しでも足音を殺そうと試みる。
「あーもう、まだ痛いやんけ!」
 唐突な大声に、足を止める。ゆっくり角から顔を出し、裏口付近を覗く。下水か何かの配管があり、壁とその隙間から覗くような形になった。
 今日の昼、ホテルの部屋に訪ねてきた警官――確か名前は磯山と日永――が、タバコを吸っていた。磯山は手で目を擦りながら、文句を言っている。
「早よ来てくれへんかなぁ」
 磯山の貧乏ゆすりが止まらない。日永が煙を吐きながら、笑顔を取り繕った。
「仕方ないですよ。今日はただでさえ人手不足なんですから」
「パブリックビューイングとか、アホちゃうか。そんなもんに、警察の貴重な人員を使うなよ」
「確かに多すぎる気もしますけど、初めてのことですからねぇ。やっぱり、もう一回帰りましょうよ」
「アホ。俺らは被害者本人やぞ」
「でも、この調子だと明日になると思いますよ」
 二人の会話は、終わる気配が無かった。時間が無い。どうする。
 磯山がタバコを地面に捨て、足で火を消す。タバコの箱をポケットから取り出して中を覗くが、首を傾げた。
「あれ、無い。すまんけど、買ってきてくれ」
「分かりました。マルボロでしたよね」
 日永が同じようにタバコを地面に捨てて、足で火を消した。
「上のほうの階に、自販機あったよな。頼むわ」
 磯山が差し出したお札を受け取り、日永が裏口から中へと入っていく。
 チャンスだ。日永が帰ってくる前に、何とかしなくては。
 考えろ。しかし、考えている時間は無い。
 僕は顔を引っ込め、鞄からスマホを取り出した。画面上方の電池マークに、〈4%〉と書いてある。数日間、充電をしてこなかったのだから、当然だ。こいつに最後の仕事をしてもらおう。
 一応、〈電話帳〉と〈フォト〉のデータを全消去した後、アラームを最大音量で二分後にセットして地面に放置。すぐさまその場を去った。
 片仮名の〈コ〉のように迂回して、反対側に周る。ゴミ袋が山積みになっている通路を進みながら二階を見上げると、そこだけ少し、窓が揺れているような気がした。
 改めて、裏口付近を監視。一人になった磯山が、ぶつぶつと文句を言いながら、ハンカチで目を拭いている。
「あああぁぁぁぁ!」
 突然の奇妙な絶叫に、磯山の体が強張る。僕はバレないように、一度顔を伏せた。
「エミリさぁん! 愛してるよぉ! 結婚してよぉ!」
 僕の絶叫が、反対側の路地で鳴り続ける。
「おい、何や! 誰や!」
 磯山の歩く音が聞こえてくる。僕が再び顔を覗かせると、磯山がスマホのほうへと歩を進めていた。角を曲がり、磯山が見えなくなる。
 瞬間、僕は走って裏口へと向かった。スマホに近づいた磯山の耳には、恐らく僕の砂利を踏む足音は聞こえていない。
「なんじゃこりゃ! ……これ、どうやって、止めるんや?」
 エミリさんへの告白に混じって、困惑する声が聞こえてきた。それを尻目にドアを開け、音が出ないようにノブを回したまま慎重に閉める。想定より簡単に、ホテル内へ侵入することができた。ここも本来であれば、鍵が掛かっている可能性が高かった。警官が自由に出入りできるように、今だけ開放していたのかもしれない。
 ちなみに、ホテル内で誰かに見られたとしても、怪しまれないように保険は掛けている。
 今の僕は、作業着姿に〈キンシャチクリーン〉の帽子を被っている。ホテルの清掃に来た人間だと思われるだけだ。
 エレベーターだと逃げ場が無いため、僕は階段を使って〈308号室〉へと向かった。以前と違い、疲労を感じても立ち止まる余裕は無かった。
 僕は、一つの仮説を立てていた。先ほどの二人の会話。あそこから察するに、まだ、本格的な調査は始まっていないのではないだろうか。ドラマからの浅い知識しか無いが、部屋の中をくまなく捜索する、〈現場検証〉とか〈実況見分〉というやつが、パブリックビューイングの警備による人手不足で、少し遅れているのではないか。
 三重県内で、数万人が集まるイベントなんてそうそうない。東京や大阪で行なわれた数日前のパブリックビューイングでは、結構な数の暴徒が生まれたとニュースで言っていた。だから三重県の警察も、今回のイベントにはかなりの人数を駆り出しているはずだ。
 もしそうだとしたら、チャンスが残っている。まだ、マウスピースは見つかっていない可能性がある。
 三階へ到着した僕は、慎重に歩を進めた。鼓動が高鳴っている。呼吸も荒い。しかし落ち着いて、冷静に行動しなければならない。
 薄暗い廊下。身を潜めるのに丁度いい。泥棒のような、抜き足差し足。しかしこんな姿を誰かに見られたら怪しまれるため、胸だけは張って堂々と歩く。
 僕の部屋がある通路の、一つ前の曲がり角。そこから顔を覗かせる。角に消火器が置いてあり、それと壁の間から目を出した。
 やはり、いた。僕の予想通りに。
〈308号室〉の前に、警官の制服を着た男が仁王立ちしていた。門番のように、というより、本当の意味での門番だろう。
 しかし、その男以外に人の姿は無かった。やはり、まだ本格的な調査は始まっていないようだ。恐らく彼は、その時間まで部屋を見張る係なのだろう。
 普通であれば、ここで万策尽きる。あんな見張りのいる部屋に、入れるわけが無い。しかし僕には、一つの光明があった。
 門番の警官は、部屋の前に立ち、じっと前を見据えている。しかしそれは、仕事に集中しているわけではなかった。
 向かいの部屋、確か〈314号室〉だったと思う。そこのドアを開け、中を見ている。室内からは、微かにだが、サッカーの実況が聞こえてきている。
 警官は、日本対ロシア戦を見ていた。どうせ立っているだけの仕事だし、犯人が戻ってくる可能性も極めて低い。気持ちは分かる。恐らく、ホテルの従業員に頼み、空室だった向かいの部屋の鍵を借りたのだろう。
 そしてあの、〈試合を見ている〉という事実が、僕にとっての、唯一の、絶対的なアドバンテージだった。
 なぜなら僕は、あの試合で最も盛り上がる場面を、事前に知っている。
 後半六分、稲本のゴールシーンだ。
 部屋に侵入するのは、警官の仕事に対する集中力が最も切れる瞬間、後半六分しかない。
 それでも、成功確率は数パーセント程度かもしれない。でも、ゼロよりマシだ。催涙スプレーはもう無いけど、ここまで来たら、清掃員の振りをして背後から殴っても構わない。消火器だってある。撒き散らし方は分からないけど、思い切り振りかぶって殴れば、充分な武器になる。
 自分を松下デンキに連れていくのは、最悪、試合終了後でもいい。どうせあのゴールシーンは、何回もリプレイされる。それさえ見せることができれば、自分はケヤキ公園に立ち寄るだろう。もし寄らなければ、もうここまで来たんだ。あの警官と同じように、抑えつけるなり殴るなりすればいい。とにかく事故に遭わせさえすれば、こちらの勝ちだ。
 周囲は、空調と実況の音しか聞こえない。時たまエレベーターの開閉音も聞こえるので、三階で誰か降りないか、いちいち振り向く必要があった。
 額から汗が滴り落ちる。まだ六月なので、空調はそこまで強くなかった。首元の汗を手で拭い、ついでに痒くなった体も掻く。着慣れない新品の作業着は、チクチクして擽ったい。
 警官が足元の黒い板を取った。〈314号室〉に向けてボタンを押す。音量が上がった。テレビリモコンだったらしい。あくまで仕事中だから、その場から動けない。苦肉の策として、リモコンだけ、床に置いて音量を変えられるようにしているのだろう。
「日本代表、今は我慢の時間帯です!」
 実況が、身に染みた。今の僕も、じっと息を殺すしかない。鞄の中を確認する。しまった、と思った。スマホが無くなったせいで、時間の確認ができない。恐らくだけど、今は前半二十分くらいだろうか。
 まだ時間がある。今見つかったら元も子も無い。僕は一度、顔を引っ込めた。改めて鞄の中をチェック。武器になりそうなものは無い。先ほどのホームセンターで木刀か何かを購入しようと思ったのだが、僕の財布にはもう、缶ジュース一本分くらいの小銭しか残っていなかった。
 唐突に電話の着信音が鳴り響く。思わず声が出そうになったが、慌てて口を押さえた。
「はい、丸山(まるやま)です」
 焦る気持ちを抑えつつ、ゆっくりと壁と消火器の間から目を出す。門番の警官が、携帯で会話をしていた。彼の名前が〈丸山〉だという無駄な知識が増えた。
「はい、大丈夫です。トイレは、はい。三十分くらい前に行ったので。そうですね、十一時くらいまでなら。はい。また、何かあったら連絡します」
 そこで電話を切った。僕は再び顔を引っ込めた。
 今の電話から察するに、トイレ休憩へ行くことは無いだろう。また、「十一時くらいまで」というのは、あの警官が門番を交代する時間ではないだろうか。気持ちは分かる。試合の途中で門番を交代したら、決定的なシーンを見逃す可能性がある。憶測でしかないが、試合終了までは門番を続けたいという本音があったのではないだろうか。
 時間に少しだけ猶予ができたため、僕は周りへの警戒心を維持したまま、再び自身の記憶と向き合った。記憶の変換がまた進み、少しずつ〈健常者として生きた二十年間〉が紐解かれていく。
 僕は高校卒業と同時に、まっつんと〈イオン株式会社〉に就職した。しかし、実家が問屋で「こういうところで働きたい」という明確な意思を持っていたまっつんと違い、僕はただ〈何となくまっつんに付いていった〉だけであった。その熱意の差は仕事にも表れ、まっつんのほうがとんとん拍子で出世していった。
 しかし、僕の中に劣等感のようなものは特に無く、二人の関係は良好だった。学生時代の延長線のような感覚で、同僚の障碍者がどんなミスをするか、賭けの対象にして遊んだりもしていた。
 健忘症だった僕は、まっつんに賭けの対象にされて酷く傷ついていたが、結局は自分も同じ穴のムジナであった。
 そして、何よりも。
 今のところ、変換された記憶の中に、エミリさんの姿は無かった。当然といえば当然だ。脳の不調で病院へ行くことなんて、普通の人生ではなかなか無いことだ。
 一年後からやってきた自分も、徐々に書き換わっていく記憶の中で、エミリさんの姿がいつまで経っても現れないことに焦りを感じていただろう。しかし、それは2022年に戻ってから何とかしようと、何とかなるだろうと、そんな甘いことを考えていたのだ。
 自分自身の尻拭いは、自分自身でするしかない。その間違った選択を、正すのだ。
 僕は大きく息を吐き、再度、自分に気合を入れた。手の平にはじっとりと汗が滲む。
 程なくして、薄っすらと長いホイッスルが聞こえてきた。前半戦が終わったのだ。ハーフタイムを経由して、ついに運命の後半戦が始まる。

   *

 電話の内容通り、警官はハーフタイムもトイレへ行かなかった。
 先ほどよりも大きな音量で、ホイッスルが聞こえてきた。慌てて僕は、消火器と壁の間から目を出した。警官が、リモコンでさらに音量を上げている。
 後半戦が始まった。もう躊躇している時間は無い。あと六分ですべてが決まる。心臓が口から出そうなくらい暴れ、思わず嘔吐きそうになるが、必死に口を押さえた。
 音が出てしまう恐れがあるため、鞄をその場に下ろす。消火器の横に置き、自分は肩を回して筋肉をほぐす。再度、周囲を見回す。人影は無い。何度も何度も深呼吸。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせてから、再度、消火器と壁の間から目を出した。
 僕は、この上なく集中していた。実況の音が、より鮮明に聞こえてくる。この流れは、覚えがあった。僕が試合後、ケヤキ公園で一人でサッカーごっこをしていたとき、ぶつぶつ一人で呟いていた、あの実況だ。
 ――戸田。中田浩二、ロングボール。正確さがあります。中へ入れてきた! 低いボール、稲本だ――。
 瞬間、大歓声が聞こえてきた。警官も万歳して飛び跳ねた。ゴールが決まったのだ。
 その時だった。
 警官が、吸い込まれるように、〈314号室〉に入っていった。
 強運、僥倖、好機。
 今しかない。思考より先に足が動いた。
 ホテルの廊下がカーペットなのは、足音を消すため。僕は、前屈みのまま、忍者のように無音で〈308号室〉へと侵入した。興奮しすぎて脳が沸騰し、永遠とも一瞬とも思える数秒だった。一瞥して確認した〈314号室〉では、警官が仕事を忘れ、テレビ画面に齧り付いていた。
 室内に入った僕は、一目散に直進。迷う暇も無く、入口から死角になるベッドの上へ移動した。転がるようにシーツに乗り、最小限の物音で済ます。そこで一旦、呼吸を整える。壁一面に、〈部屋を出る前に、必ず机の上のノートを見ろ!〉と書かれた貼り紙がある。僕が今日、部屋を出たときそのまま。やはり、まだ本格的な調査は始まっていない。
 壁沿いに手を下ろしていき、ベッドの溝に指を這わせる。ワイパーのように左右に腕を動かすと、指先に硬いものが当たる感触があった。
 総毛立つ。この瞬間まで、もし無かったらどうしようという不安があった。その硬いものを人差し指と中指二本で挟み、クレーンゲームのように慎重に持ち上げる。
 水色のケースだった。僕が探し求めていた、今、一番欲しかったもの。一応中を確認すると、マウスピースもしっかりと入っていた。
 それをポケットに仕舞い、小さくガッツポーズ。ベッド脇から外の様子を窺うと、警官は相も変わらず、〈314号室〉でテレビ画面に釘付けだった。逡巡している暇は無い。このまま立ち去らなくては。
 僕は再び、前屈みの忍び足で部屋を出た。
 しかし。
 部屋を出た途端、何かが靴の先端に当たった。僕に蹴飛ばされた黒い物体が、カーペットを滑っていく。
 ――テレビリモコンだ。
 気付いた瞬間、僕はその行方を確認することも無く、廊下を全速力で駆け出した。
 コン、という、リモコンが壁に当たる小さな音が、背中に聞こえた。その数秒後、
「おいっ!」
 後ろは確認できない。でも、僕を追いかけてくる足音は、間断なく聞こえてくる。さすがに全速力の足音は、カーペットでも消せないらしい。
 角を曲がり、鞄を拾い、階段を駆け下りる。一段飛ばし、二段飛ばし、足を挫く。痛い。でも、痛がっている余裕は無い。
 油断した。焦っていたのもある。しかしそれ以上に、浮かれていた。マウスピースを見つけた時点で、緊張の糸が切れていた。どうして足元を確認しなかったんだ。
 ズキズキと痛む足首とともに、僕は後悔していた。
 しかし、落ち込むのと同時に、僕の中には、大きな安堵感も存在していた。
 ――記憶があるって、何て素晴らしいことなのだろう。
 そんなことを、脳の片隅で思い、感動していた。
 二階に下りてきた僕は、そのまま一階、ではなく、あえてフロアのほうへと進んだ。
 警官に気付かれる前に走り出したから、僕と警官の間にはまだ距離があるはずだ。恐らく相手は、そのまま一階へ僕を追いかけていくだろう。逃げている犯人が、二階という袋小路に留まるわけが無い。
 しかし、今の僕には記憶がある。
 二階の廊下の、その奥。そこには僕の記憶通り、三角コーンが置かれていた。〈窓、修理中! 近づくな危険!〉という貼り紙が、外からの風で揺れている。
 僕は一切の躊躇い無く、その窓を体でこじ開け、ポケットをしっかり押さえながら外へ飛び出した。
 落下する。視界が一瞬スローモーションになり、真っ暗な街の街灯が点々と見えた。
 僕の体は、ゴミ袋の山に着地した。ボフン、という音が、静寂に響く。
 空気が生ゴミ臭い。体が痛い。でも、大怪我はしていない。鞄とマウスピースも無事だ。伊達眼鏡は無くしたが、どうでもいい。
「何や?」という声が、遠くから聞こえてくる。磯山の声に思えた。
 僕はすぐさま立ち上がり、再び全速力で走り出した。
 途中、街頭の時計で時間を確認する。午後十時前。しかし、眠気は全く無かった。

   *

 闇夜の大通りを走る。車もほとんどすれ違わない。時折、どこからか歓声や悲鳴が聞こえてくる。恐らく、サッカーを見ている近くの民家から発せられたものだ。僕は少しでも時間と足の痛みを減らすために、駐輪場へと向かった。
 小さな駐輪場で、ほとんど誰も使用していない。つまりここに置かれている自転車のほとんどが、放置自転車だ。これなら盗んでも大丈夫だろう、という自分勝手な思考で、鍵の掛かっていない自転車を発見。僕は遠慮なくそれに跨って漕ぎだした。
 ペダルを回すたびに、錆の鈍い音がする。前に進んでいる感じがしない。それでも徒歩よりはマシだと自分に言い聞かせる。まだ進み始めたばかりなのに、すでに息が荒い。高校時代は、上り坂を立ち漕ぎ無しで上れていたというのに。
 交差点の前。ガチャン、と、不穏な音が辺りに響いた。ペダルが一気に軽くなり、空回りを始める。チェーンか何かが外れたのだ。しかし、記憶を辿っても、僕に自転車修理の知識は無かった。
 でも、とにかく、何とかしなくては。僕はチェーンを掴み、闇雲にギアへと引っ掛けた。しかし、漕がなくても間違いだと分かるほど不格好で、天を仰ぐ。手の平を見ると真っ黒で、それが自分の未来を暗示しているようだった。
「ちょっと、何やっとんの!」
 唐突な大声に、体が跳ね上がる。交差点のほうを見ると、一台のタクシーが止まっていた。窓を開け、見覚えのある運転手が声を張り上げている。
「お兄さん、まだ家に帰ってへんの? サッカー、凄いよ! 稲本が決めたらしいんよ、お兄さんの予言通り! さっきラジオでね――」
「乗せてください!」
 僕は、運転手の大声を掻き消すほどの大声を出した。運転手は一瞬固まった後、「お、おう!」と力強く返事をして後部座席のドアを開けてくれた。
「この先のガストまで」
「えぇっ、家じゃないの?」
「ガストで、友達とパブリックビューイングするんです」
「ああ、なるほど。そりゃ急がないとね」
 タクシーが発車する。そこで僕は、不味いことに気付いた。
「すみません。お金、無いんですけど」
「いいよ、そんなの。お兄さんの予言が当たって、こっちも興奮してるから。サービスするよ」
 僕は心の底から「ありがとうございます」と感謝の意を述べた。
 タクシーはその後、ものの数分でガスト近くの交差点に到着した。しかし、目の前の信号が赤で、徐々に速度を落としていく。僕は「ここでいいです」と告げた。
「そうだ、運転手さん」
「はい?」
「ロシア戦はこのまま1対0で勝ちますけど、日本は決勝リーグのトルコ戦で0対1で負けます。では!」
 タクシーが完全に停止した瞬間、僕は颯爽と降り去った。運転手はぽかんとしていた。

   *

 ガストに到着すると、店内にはほとんど人がいなかった。夜も遅いし、多くの国民が家でテレビを見ているからだろう。
 静寂の中、店内の明かりに照らされた外の街路樹。そこに彼はいた。
 しゃがみ込んで、〈N504i〉の明かりで地面を頼りなく照らしている。
「ふざけんなよ。絶対にある。絶対にあるから」
 ぶつぶつと、自分に言い聞かせているようだった。僕は一応、鞄の中からマスクを取り出して装着。その後、目の前の小さな背中に声を掛けた。
「ちょっと、君」
 男が振り返る。今にも泣きだしそうな表情の、宮川大介と目が合った。当時持っていたドクロマークのTシャツを着ていたが、誰よりも彼本人が痩せこけているように見えた。
「これ」
 僕がポケットから水色のケースを取り出すと、宮川大介はぎょっとし、「えっ」と声にならない声を出した。
 何の確認も無いまま、僕の手からケースを奪い去る。
「あっ、すみません! あの、えっと、これを、どこで?」
「そこで拾ったんやけど、君、なんか探し物しとるみたいやし、君のなんかなぁと思ったんよ」
「は、はいっ、僕のです! ありがとうございますっ!」
 自分が自分に、何度も頭を下げる。でも僕は、事故に遭わせるためにこれを届けたのだ。心の中で、僕は謝った。
 宮川大介がケースの中を見て、マウスピースが無事なことを確認。「良かったぁ」と溜息をつき、張り詰めていた神経が一気に弛緩したようにその場へしゃがみ込んだ。
 瞬間、マスクの中で、ガリ、ゴリ、ボリと異音が響く。運命が変わったのだ。歯列矯正が再開され、僕の出っ歯が治った。
 だけど僕は、安堵感だけではなく、若干の焦燥感も覚えていた。
「ところで君さ、サッカーは見やんてええんか。もうすぐ終わるで」
「あっ、そうや! 松下デンキ……間に合いますかね?」
「現役サッカー部の足で自転車を漕げば、余裕や」
「えっ、何でサッカー部って」
「そんな気がしただけや。ほれ、さっさと行きなさい」
 つい、失言をしてしまった。それほどまでに、僕の焦りは加速していた。
 ――なぜ、まだ記憶があるのだろう。
 マウスピースを渡した時点で、事故に遭う未来に変わったはずだ。だから今の僕は、再び健忘症になっていないとおかしい。
 まさか、まだ事故に遭わない可能性があるのか。
 どうしてだ。考えろ、考えろ。
 今から松下デンキに行けば、テレビ中継の終了までには到着できる。その後のハイライトで稲本のシュートを見た自分は、絶対にケヤキ公園でサッカーごっこを始める。ここまでは、間違いない。自分のことだから、断言ができる。
 だったら、なぜ?
 さらに思考を進めた僕は、一つの可能性に辿り着く。元の世界線の僕は、足を捻挫していた。もしかして、足を怪我していないから、突っ込んできた車を避けることができてしまったのだろうか。
 その仮説が正しいかどうかは分からない。しかし、疑っている時間も無い。とにかく、こいつに怪我をさせなければ。
 僕は、目の前で蹲っている自分に腕を振り上げた。狙って足だけ捻挫させるなんてできるだろうか。最悪、一年後の自分と同じように、自分で自分の頭を殴ってしまうしかない。
「あっ、そうや」
 蹲っていた自分が、思い出したように顔を上げた。慌てて、振り上げた腕を下ろす。
「おーい、見つかったよぉ!」
 遠くに向かって、自分がやにわに叫んだ。店の裏手から、慌ただしい足音が聞こえてくる。
「ホンマか」
「どこにあったん」
 現れたのは、宮川大介の、僕の、父さんと母さんだった。
 僕の記憶通りの、いつも見ている姿。しかし、懐かしさが体内で爆発し、胸が張り裂けそうになった。
 店内の明かりに照らされ、その姿がより鮮明になる。
 父さんは薄くなってきた頭頂部がより光り、団子鼻の先に玉のような汗をかいていた。身長は高一のときに抜いたため、やけに小さく見えた。母さんは珍しく化粧をしておらず、息子でさえも見慣れないほど目が小さかった。僕が着なくなったお古のシャツを着ていて、やけにダサい。さらによく観察すると、二人共、体中が黒ずんでいた。ゴミ置き場か何かを、必死に漁っていたのだろうか。お金が掛かるから、見つからないほうがいいはずなのに、二人して、僕のマウスピース探しを手伝ってくれていたのか。
「この人が見つけてくれたんよ」
 自分が僕を指差す。両親は刮目し、僕に何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「いやぁ、良かったぁ。本当に、ありがとうございますぅ」
 母さんが、赤くなった目元を拭う。その瞬間、僕の脳内に、一つの記憶が閃光のように広がった。

   *

 階段を、ゆっくり下りている。音を立てないように、慎重に、慎重に。
 嗚咽混じりの、泣き声が聞こえてくる。泣き声と言っても、赤ちゃんのそれとは違う、野太く汚い声だった。
 階段を下り終えた僕は、ゆっくり廊下を進む。半開きのドアから恐る恐る中を覗くと、両親とエミリさんがいた。
「すまんなぁ、すまんなぁ」
 父さんが泣きながら、エミリさんに謝っている。母さんも涙を流しているが、全く声が出ない様子だった。
 エミリさんは二人を諭すように、ただ微笑んでいる。母さんの背中を擦り、ゆっくりと頷いている。エミリさんは相も変わらず美しく、女神のように思えた。
「すまんなぁ……!」
 父さんの慟哭に呼応するように、母さんも涙を零し続ける。顔を手で覆うが、抑えきれない。
 そうだ。これは五年くらい前、2017年ごろの記憶だ。僕とエミリさんの家に、両親が来ていた。
 両親が、僕の幼少期の変な思い出ばかりをエミリさんに話すので、僕は恥ずかしくなった。それで夜九時過ぎに「もう寝る」と告げて自分の部屋へと戻った。しかし眠れず、一階へ下りてきたとき、この泣き声が聞こえてきたのだ。
 テーブルの上には、ビールの缶がいくつか並んでいた。三人共、少なからず酔っているらしい。
「エミリちゃん、俺にはこんな変なことしか言えへんけどさぁ。生まれ変わったら、もっと普通の人と結婚して、普通の人生を歩んでなぁ」
「何を言っているんですか。私は今でも充分、普通やと思っていますよ」
 エミリさんが説き伏せるように、涙が止まらない父さんに語り掛ける。父さんはエミリさんを見つめながら、目頭を押さえた。
「でもねぇ、エミリちゃん。私、知ってるの。エミリちゃん、大介を仕事に送っていくとき、エレベーターを使わへんのやろ?」
「それは……私が、閉所恐怖症やから」
「嘘やろ、それ」
 母さんが、真っ赤な目でエミリさんを睨みつける。エミリさんの表情が強張った。
「閉所恐怖症の人が、どうやって病院で働くの? 車椅子の患者さんを、エレベーターに乗せないかんときもあるでしょ」
「……」
「あそこのジャスコ、エレベーターの近くに赤ちゃん用品店があるから、避けてるんでしょ? ねぇ。本当は子供が欲しいのに、我慢してるんでしょ?」
 二人の慟哭が、さらに激しくなる。僕は真顔のまま、顔が熱くなっていくのを感じていた。頬が擽ったい。視界が滲む。気付くと、涙が流れていた。
「すまんなぁ、本当にすまん。どれだけ強がっても、世間から見たら、やっぱり不幸な夫婦やで」
 父さんの謝罪に、エミリさんが強張っていた顔を引き締めた。父さんを真っすぐ見据え、睨みつける。
「いいえ、違います。私は、大介さんと幸せになるために結婚したわけではありません。〈この人となら、どんな苦労も耐えられる〉と思ったから、結婚したんです」
 エミリさんの意志に呼応したのか、真っ赤な目の二人が顔を上げた。
「……私は新人のころ、一部の同僚に虐められていました。院内で、一番人気のある医師に好かれていたからです。だから、些細なミスでもすぐ上司にチクられ、怒られていました。それである日、大介さんの病室で、そのことを愚痴ってしまったんです。そしたら大介さん、こう言ってくれたんです」
 ――じゃあ、これから毎日、僕にだけ愚痴や悩みをすべて打ち明けてください。安心してください。僕は、絶対にチクったりしません。だって、明日になったら全部忘れていますから。エミリさんは僕にとって代わりのいない存在ですけど、僕もエミリさんにとって代わりのいない存在になりたいんです。
「それから毎日、お話しました。悲しかったことも、大介さんに話せば傷が癒えていくのが分かりました。あの日々があったから、あの数年間があったから、私は今日まで、看護師を続けて来られたんです。大介さんは私無しでは生きていけませんが、私も、大介さん無しでは生きていけないんです」
 エミリさんが、胸元の銀色のネックレスを指差した。
「これ、覚えていますか。私がその、人気のある医師に貰ったものです。でも、〈貴方と付き合う気は無い〉と言った途端、〈じゃあそれ返せよ!〉と言われて引き千切られました。大介さんは、障碍があるにもかかわらず、それをずっと覚えていてくれました。そして私の誕生日に、同じネックレスをプレゼントしてくれたんです。自分さえ忘れていた私の誕生日を、記憶が保てない人が覚えていてくれたんです」
 エミリさんが、そのネックレスを力強く握った。雪のように白いエミリさんの手に、朱が差した。
「せやから、後悔なんてありません。私は、何度生まれ変わっても、大介さんと結婚します」
 エミリさんの力強い眼差しから、涙が流れていた。涙というものは、人が弱っているときに出るものだと思っていた。しかしその涙には、強い意志が込められているように感じた。
 僕は涙が止まらなくなり、呼吸が荒くなっていった。このままでは気付かれると、口元を押さえながら慌てて自室へと戻った。

   *

 決意が、固まった。
 僕は頭を下げる両親に軽く低頭した後、視線を移して自分に声を掛けた。
「なぁ。君、津山高校の生徒やろ」
 声が震えている。涙だけ零れないように、必死に耐えた。
「えっ、あ、はい」
 自分は困惑しながらも、素直に肯定してくれた。
「そしたらさ、梨花ちゃんに謝っといてくれ」
「えっ?」
「梨花ちゃんな、お前とヨリを戻したいらしいで。でもおじさん、変な事を言ってしまったんや。〈僕に新しい彼女なんかおらん〉って、ちゃんと言うて誤解を解いてくれ」
「えっと……何で貴方が、梨花のことを?」
「ちょっとした知り合いや。まぁとにかく、君には、僕みたいな人間になって欲しくないねん」
「えっ」
 自分が、呆けたように口を開けたまま僕を見つめる。
「あと、一応やけどな。試合が終わったら、すぐに帰ったほうがええで。櫛田先生が、松下デンキの近くを見回りしとるらしいからな」
「えっ、マジですか」
「ああ、マジや。呼び止めてすまんかった。さっさと行かな、試合終わってまうで」
「えっ……と、はい!」
 まだぽかんとしながらも、自分が踵を返し、駐車場に走っていく。
「ちょっと、大介!」
「お前、礼は言ったんか!」
 僕たちの会話を何となく聞いていた様子の両親が、正気に戻って口を開いた。
 その注意を一顧だにせず、自転車に跨った自分はすぐに見えなくなった。
 息子を見ていた視線を僕に戻し、父さんと母さんが再び頭を下げる。
「すみません、あんな奴で。改めて、本当にありがとうございました」
「ところで失礼ですけど、どこかでお会いしたこと無いですか?」
「あれっ、確かに」
 母さんの疑問に、父さんも賛同する。慌てて顔を伏せた。
「あの、僕ちょっと用事があるので。これで失礼します」
 僕も踵を返し、その場を走り去った。もっと両親と喋りたい気持ちもあったが、仕方ない。
「ちょっと! お名前は?」
「お礼をしたいんですけど」
 両親の呼び止める声を歯牙にも掛けず、僕は走り続けた。少し行ったところの路地裏を通り、反対側に出る。辺りを見回し、公衆電話を発見。十円玉を入れて、番号を押した。
「あの、救急車を一台、お願いします。子供が熱を出しまして。えっと、真一という子供です。……いえ、僕はその家の者じゃないので、苗字とか住所は分からないんですけど……〈サークルK津市松本店〉の裏にある〈コーポ南が丘〉の104号室です。……はい。イタズラではないので、とにかく、お願いします」
 電話を切り、マスクを外してゆっくりと深呼吸。僕は心の中で、謝罪した。
 ――過去と未来の自分、ごめん。
 これで良かった。間違いなく正解だと、言い切れる。もし、不正解だとしても、それは正解より価値のある不正解だ。
 ――僕が、優柔不断な理由が分かった。
 僕はいつも、自分の基準で何もかもを決めていた。
 しかし、優柔不断な自分を基準にしたら、迷うに決まっている。そうではなく、他人を基準にすれば良かったのだ。絶対に揺るがない、絶対に大切だと言い切れる人物を。
 僕は、エミリさんが好きだ。もちろん、両親も。
 エミリさんと両親には、絶対に幸せになってほしい。これ以上泣いてほしくない。
 その思いは、世界が引っ繰り返っても変わることはない。断言できる。
 自分の幸せではなく、他人の幸せを基準にして考えれば、迷うことは無いのだ。
 まず、はっきりと分かったことがある。障碍や子供の有無は、幸せには関係がない。それは、蘇ったこの二十年間の記憶が、何よりも雄弁に物語っている。この二十年間、僕とエミリさんは、本当に幸せだった。人生の豊かさは、障碍や子供の有無ではなく、自分を理解してくれる人がいるかどうかで決まる。そういう意味で、僕はこの二十年間、最高に幸せだったと断言できる。
 しかし、やはり。
 エミリさんの〈最高の幸せ〉のためには、〈子供〉が必要だ。子供がいなくても幸せな夫婦は世の中に沢山いると思うが、エミリさんにとって、それは必須なのだろう。僕と出会う前から持っていた、本当の夢なのだから。
 僕と出会うと、エミリさんは子供を諦めてしまう。だったら、出会わなければいい。僕も記憶の変換が進めば、エミリさんのことを忘れる。お互い、知り合わなければ、別れる悲しさも無くなる。僕がいなくても、エミリさんの授かる新しい命が、新たな〈エミリさんの理解者〉となってくれるだろう。
 今まで、エミリさんには沢山の夢を見させてもらった。だから今度こそ、エミリさんに夢を見てもらいたい。泣きながら「幸せ」という人生ではなく、笑いながら「最悪」という人生を送ってもらいたい。
 病院で子育てについて語っていた、思わず一目惚れしてしまった、あの笑顔が、忘れられない。そして、テレビのインタビューで涙を流していたあの顔も、ずっと脳裏に焼き付いている。
 やっぱり、事故は起こさせない。エミリさんを諦める。それが僕の願い、最終結論だった。
 それが、三十七歳としての正しい結論なのか、十七歳としての自分勝手な結論なのかは、分からない。でも、心が十七歳の僕はやっぱり子供で、どうしても泣いている顔より笑っている顔のほうが幸せに見える。
 だから、今の僕に、これ以上の結論を出すのは無理だと思った。
 目を閉じて、ゆっくりともう一度深呼吸。瞬間、フッと風が吹き抜けた。吸い込む空気が、懐かしくない、都会のような匂いに支配される。
 目を開けると、眼前には大きな木の幹があった。周囲を見回す。潰れた松下デンキ、マスクをした通行人、鉄筋コンクリートの住宅街。
 ――戻って来た。2022年に。
 瞬時に理解した。左手を見ると、薬指に指輪がある。しかし、それは何の証明にもならない。物質も一緒にタイムスリップすることは、実証済みだから。
 広い幹を一周、くまなく確認する。相合傘どころか、傷そのものが見つからなかった。
 自分の選択に、後悔は無い。優柔不断な自分が、人生で初めて、自信を持って下した決断だ。もう一度やり直しても、同じ決断をすると、断言できる。
 では、なぜなのだろう。
 涙が、止まらないのは。