放心したまま席を立ち、ドアの覗き穴を見る。警備員のような格好をした男が、二人立っていた。無視するわけにもいかず、僕は破れかぶれでドアを開けた。
「はい」
「いきなりすみません。私ね、津警察署の磯山と申します」
「同じく、日永です」
思わず、息を呑む。警備員どころか、本物の警察官だった。
男二人が、軽く会釈。頭を下げながらも、僕から視線を外すことは無かった。磯山のほうはエラが張った強面な男で、日永のほうは眼鏡を掛けた細身の男だった。
「宮川大介さん、で間違いないですね」
「はい」
僕は機械のように答えた。動揺はしているが、悪いことは一切していない、はずだ。とにかくここは、堂々としていていい。
「ちょっと、見てもらいたいものがあるんですよ」
磯山がおもむろに、二枚の茶色い紙を取り出す。紙幣だった。
「宮川さんね。ここのホテルでお金払ったとき、この一万円札を出したでしょ。三枚も。でもね、この一万円札、流通しているものとデザインが違うんですよ。分かりますか」
二枚の一万円札を裏返す磯山。一枚は現実的な鳥が二羽描かれているが、もう一枚には漫画のような鳥が一羽描かれている。
「宮川さん。この一万円札、どこで手に入れました?」
瞬間、二人の眼光が鋭くなる。人を見下しつつ威嚇するように、口角も上がった。
「お……お店で、貰いました」
僕はすでに、頭が真っ白になっていた。喉が乾燥し、鼓動が速くなる。
「お店で、ってことは、何か買い物したとき、お釣りで貰ったってことですか」
「はい」
「お釣りで一万円札を貰うって、あり得ないですよね」
磯山が、さらに口角を上げる。自分の勝利を確信したような、余裕のある笑みだった。
僕は絶句した。何も言えない。真っ白だった頭が、さらに漂白される。もうこのまま、何も考えず、絶叫しながらどこかに走り去りたい気分だった。
「しかも貴方、自分のノートを最初、〈自分のじゃない〉と言ったそうですね。もしよろしければ、そのノートも見せていただけませんか」
磯山の背後にいた日永が、追い打ちを掛ける。僕は喉の奥から絞り出した声で、「いや、あの、はい」と答えた。
踵を返し、室内へと戻る。時間は無い。僕はこの数十秒で、すべてを決断しないといけない。
「あと、もう一つよろしいですか」
焦る僕の背中に、磯山が話し掛ける。僕が立ち止まって振り向くと、「あ。別にそんな、集中して聞いてもらわなくてもいいことなんですけど」と言われたので、再度背中を向けて部屋の奥へと進んだ。
「数日前から宿泊されているようですが、このホテルへはなぜ来たんですか」
「旅行です」
「えっ? でも、チェックインのときは〈出張〉って答えてますよね」
「そんな、昔のことを言われても」
「昔って、貴方、数日前の記憶が無いんですか」
「はい。僕は障碍者なんです」
磯山の鼻で笑う声が、背中に聞こえる。しかしそのやり取りがあったからこそ、部屋に散らばっていたすべての持ち物を鞄へ入れる時間ができた。
心は、驚くほど冷静になっていた。いや、混乱しすぎて冷静になるしかない、という表現のほうが正しいだろう。
僕は「お待たせしました」と言いながら鞄を胸に抱え、警官二人に近づいた。そして。
催涙スプレーを、振り撒いた。
「おいっ!」
警官二人の怒号が響く。しかし関係ない。僕は全速力で走った。僕自身は目を瞑っていたが、それでも涙が止まらない。不意打ちで食らった二人は、しばらく動けないだろう。
走る、走る、走る。
太ももが、ふくらはぎが、足全体が痛い。でもそんなことどうでもいい。ここで止まったら、人生が終わる。体力とか年齢とか、そんなものは関係なく突っ走った。
途中、催涙スプレーを鞄の中に戻そうとして、失敗。缶を床に落としてしまう。しかし、後悔している暇も拾っている暇も無かった。
ホテルの玄関を勢いよく出た僕は、方向も確認せず、とにかく走り続けた。肺はすでに爆発寸前だが、いっそのこと爆発してもいいとさえ思った。
ビルとビルの間にある、野良猫しか通らないような路地に逃げ込み、息を整える。荒い息が収まらない。胃の奥から何かが込み上げてくるのを感じ、手を膝に当てる。地面を見ながら嗚咽すると、昼食を食べていなかったせいか、胃液だけが少し出た。
酸味のある口内を味わい、少しだけ落ち着きを取り戻す。僕は、改めて思案した。
過去の自分は、一万円札だけ人物が変わっていなかったため、安心して会計時に出した。しかし実際は、デザインが変わっていたのだ。お年玉も減額されて五千円だったし、2002年と2022年の一万円札の細かな違いに気付くなんて、僕には無理な芸当だ。
しかしそれを受け取ったホテルの人は、違和感を覚えた。断言はできないけど、何となくおかしい。でも、こんな田舎に偽札なんて出回るわけがない。無理やり納得して一応受け取ったが、不信感は募り続けた。
そしてノートの受け取り方が不自然だったため、不信感が臨界点を超えた。僕はめでたく、不審者確定。警察へ通報されたのだ。
恐らく警察は、僕を偽札作りの犯罪グループの一員だと思い、ノートには仲間やアジトの手がかりが書いてあると思ったのだろう。そしてあんな逃げ方をした以上、その容疑はさらに大きくなっているはずだ。
これから、どうする。色んな問題が山積みだ。そのどれもが、直視したくない。僕は自他共に認める優柔不断だが、そんな単純な性格判断で説明できないほど、答えの出せない問題が脳内で山積している。
再び気持ち悪くなり、口を押さえながら路地を出る。大通りの片隅で、しゃがみ込んで呼吸を整えていると。
「ちょっとぉ! 大丈夫ぅ?」
と、突然の大声が響いた。
見ると、軽自動車の運転席の窓が開き、四十代くらいの女性が叫んでいた。薄っすらと、後部座席に子供の影も見える。
「宮川さんやろ? ちょっとおいで! 乗りない」
どうして、僕の名前を知っているのだろう。どうして、僕を車に誘うのだろう。分からないことが多かったが、とにかくこの場を一刻も早く離れたかった。僕は警戒心を維持しつつも、手招きに導かれるように、車へと近づいていった。
*
「どうしたん? 何があったん?」
僕が助手席に乗り込んだ直後、運転手の女性が問いかけてきた。色々と質問したいのはこちらのほうなのだが、僕はとりあえず、「ちょっと、気分が悪くなっちゃって」と苦笑いで答えた。
ハンドルを握るその女性は恰幅がよく、美味しいおにぎりを握ってくれそうな風貌だった。ただ、男目にも分かるほど髪の手入れが行き届いておらず、学校の箒みたいな髪質だな、と失礼なことも思ってしまった。
「お母さん、この人誰ぇ?」
運転席と助手席の間から、男の子が顔を覗かせる。小学校中学年程度だろうか。好奇心で大きくなった目が、不思議そうに瞬いている。
「この人はな、お母さんのお客さん。ほれ、真一。挨拶しなさい」
「こんにちはぁ」
こちらも作り笑顔でお辞儀する。真一君は満面の笑みになって、後部座席へと戻った。
車が発車する。しかし、すぐに信号で止まった。
「で、どこまで送って行けばいいんかな?」
「あっ、えっと、そうですね……」
「確か、ホテル住まいやったよな。そのホテルでええ?」
「いや! ホテルは、ちょっと。あの、できれば、近くの駅……高茶屋駅にでも行ってくれたら、有難いんですけど」
「全然ええよ。体調はもう大丈夫なん?」
「はい、かなり楽になりました」
信号が青に変わり、車が再度発車。直後、お母さんが「あっ」と呟いた。
「そうや真一。この人、サッカーしとったんやって。良かったら、教えてもらい」
「えっ、本当?」
後部座席で漫画を読んでいた真一君が、もう一度身を乗り出してきた。ただでさえ大きな目をさらに見開き、こちらを見てくる。
どうしてこの人は、僕がホテル住まいでサッカー部だったことを知っているのだろう。先ほど〈お客さん〉と言っていたけど、いつ僕は、この人と知り合ったのだろう。しかし、そんなことを直接聞くことはできない。
「じゃあ、上手くなる秘訣を教えて」
「教えてください、やろ」
お母さんに注意され、苦笑する真一君。しかし決して言い直さない辺りが、実に子供らしかった。
「秘訣って言うてもなぁ。とにかく練習して、とにかく食べてとにかく寝る、それだけとちゃうかなぁ」
「食べるっていうのは、もちろんトンカツ弁当やよな?」
突然お母さんがそう言い、自分の言葉に大笑いし始めた。僕も真一君も訳が分からず、二人でぽかんと顔を見合わせた。
「ごめんごめん。いやな、真一。実はこの人、私の店で、三日連続でトンカツ弁当買ってんねん。せやから、サッカーが上手くなるには、トンカツ弁当を食べないかんのやで」
お母さんに釣られ、真一君も笑い出す。その言葉を聞いて、疑問の一端が解消したような気がした。
この人は、僕がホテルで食べる夕飯を買いに行っている、スーパーかコンビニの店員さんだ。あのホテルから一番近いのはサークルKだから、十中八九、そこの店員さんだろう。
しかしだからと言って、こちらの名前を知っている理由にはならないのだが……。
「だって、あのトンカツ弁当、美味しいんですもん。ちなみに、あそこで働き始めてどれくらいになるんですか」
「もう、何年やろなぁ。五年になるか、ならんかくらいかなぁ」
「結構長いですね。そんなに居心地がいいんですか?」
「別に、そんないい職場じゃないよ。ただ、めちゃくちゃ家が近いから便利なんよ。ほれ、あそこのサークルKのすぐ裏に、ピンク色のアパートあるでしょ。あそこが家なん」
「すっげぇオンボロだから、すぐ分かるよ」
「コラッ! そんなこと人に言わんてええの!」
僕の鎌掛けが成功し、お母さんの職業が確定した。ついでに自宅まで判明したのだが、その犠牲として真一君が怒られてしまった。
「今日は、どうして二人でお出掛けを?」
「ちょっと職場にね。私らももう帰るところやったし、全然迷惑じゃないから安心して」
「あんなぁ。店長にお願いして、シフトを増やしてもらったんやよ。お金がいっぱい必要になったから」
「だからぁ! そんなこと人に言わんてええの!」
「なぁ。日本とロシア、どっち勝つと思う?」
真一君が母親の叱責を無視して、唐突に質問してきた。子供というのは、会話の流れを無視して、平気で話の腰を折ってくる。
「そりゃ、日本やろ。日本人ならそう言わんと」
「あんなぁ、僕もなぁ、もうすぐ、サッカーを習い始めるん」
「ああ。だから、サッカーが上手くなる秘訣を聞いてきたんか」
「本当はなぁ、小学校に入ってすぐに習い始める予定やったんやけど、ウチは〈しんぐるまざぁ〉やで、お金が無かったん」
「真一。本当に、いい加減にしなさいよ」
本気の声音で注意したお母さんが、苦笑しながらこちらに「すみません」と会釈。僕も愛想笑いで会釈を返した。
真一君は不貞腐れたのか、後部座席にもたれ掛かり、漫画の続きを読み始めた。お母さんは「もぉ」と一度大きく息を吐いた後、笑みを湛えながら口を開いた。
「真一ぃ。真一のサッカーのお金が沢山要るで、またウチ貧乏やで。明日から、夜ご飯がコンビニの廃棄弁当ばっかりになるけど、ええか?」
「ええよ。お母さんの作った料理より美味しいし」
「はぁ? やし」
思わず、僕は噴き出した。今度は愛想笑いではない、本気の笑いだった。自分の子供時代の母親とのやり取りを思い出し、妙に懐かしい気分になった。
「それよりさぁ、お母さんのお酒を減らしたらええやん」
「アホか。お母さん、お酒だけが癒しなんやで、奪わんといてよ」
その後も二人の漫才のようなやり取りを聞きながら、車に揺られること十数分。目的地である高茶屋駅に到着した。
「何か急に、本当に、ありがとうございました」
と告げ、車を降りる。お母さんが「いえいえ」と笑顔で低頭し、真一君が後部座席から手を振ってくれた。お母さんがもう一度「では」と頭を下げ、車が発車。振り返った真一君が、リアガラス越しに手を振り続けてくれた。
――しかし。
僕が注目したのは、手を振っている真一君では無かった。そうではなく、その下。車のナンバープレート、〈921〉という数列だった。
921……9、2、1……?
瞬間、頭が熱くなる。眩暈がする。脳の奥から、勝手に記憶が溢れてくる。
耳をつんざく車のブレーキ音、目を焼くヘッドライトの明かり、921――。
食道を駆け上がってくる胃液を無理やり嚥下し、深呼吸する。俯いていた視線を前へ向けると、車が角を曲がって見えなくなるところだった。
こんな偶然が、あり得るだろうか。
改めて深呼吸。顔面中の汗を拭いながら、僕は、一つの事実を事実として受け入れる覚悟を決めた。
――僕は、あの車に、轢かれたんだ。
*
せっかくあのお母さんが送ってくれた道を、僕は逆走していた。高茶屋駅を離れて十数分。〈サークルK津市松本店〉へと、僕は辿り着いた。自ら事件現場であるホテルに近づいていく不安はあったものの、ホテルからはそれなりに距離があるし、警官らしき姿やパトカーは一切確認できなかった。
僕は自分が毎日トンカツ弁当を買っているであろうその店の、さらに奥を見つめた。コンビニを見下ろすように、不気味な背後霊のように、そのピンク色のアパート、〈コーポ南が丘〉は存在していた。
より近づいてみる。ピンク色と言うよりはくすんだ紫色で、雨の影響だろうか、至るところに黒い染みが垂れていた。階段も本来の色合いよりも錆の色が強く出ており、真一君の言う通り、〈オンボロ〉という表現が似合うアパートだった。
「いってきまーす」
突然、一階の中央付近にあった部屋のドアが開いた。慌てて電柱の陰に身を隠す。真一君だった。彼はドアの横に置いてあった自転車に跨ると、そのまま立ち漕ぎで僕に気付くことなく去っていった。
どうやら、僕を駅まで送った後、あの親子もすぐに帰宅していたらしい。
改めて、真一君が出てきたドアを見つめる。104号室。表札は筆記体のローマ字で書かれており、ここからでは読めない。真一君は室内へ向かって「いってきます」と言っていたから、ほぼ確実に、お母さんは今、家の中にいる。
――しかし、それが分かったからと言って、どうする。
とりあえずアパートまで来てみたものの、実を言うと僕は、その後どうするかは決めていなかった。
偶発的にだが、部屋が分かった。あそこへ行って、口八丁手八丁で「明日の夜、車を運転しないでください」とお願いできれば、それで事故は未然に防げる。それだけで、明日の夜、自分自身に忠告するという、多少のリスクがある選択肢を取る必要が無くなる。
しかし。
事故を未然に防いでしまった場合、僕は、エミリさんと夫婦になれないかもしれない。事故を防ぐこと自体が、正しくないかもしれないのだ。だから、今からあそこの部屋のインターフォンを押して、お母さんと話すことが、正しいことなのか間違ったことなのかが分からない。
頭を抱える。どうする。
そして優柔不断な僕を悩ませる、もう一つの要因があった。もはやこれは、自分だけの問題ではない。真一君とお母さんに、僕は出会ってしまったのだ。
明日の夜、あのお母さんは僕を車で轢く。赤の他人に、取り返しのつかない障碍を与える。自分たちだって、ある程度の怪我、もっと言えば命を落とすかもしれない。しかも、一命を取り留めたら取り留めたで、死んだほうがマシだったと言いたくなるような地獄が待っている。
警察のお世話になるのはもちろん、恐らく、とんでもない額の賠償金を支払わされることになる。それは、オンボロアパートに住むシングルマザーにとって、どの程度の負担、苦悩なのだろう。
今の部屋、今の職場に、今後も居続けられるのか? 間違いなく、近所の人たちから白い目で見られる。そして何より、真一君はサッカーを習い始めることができるのか?
あの親子の人生と運命も、僕が握っているのだ。
そして、さらにもう一つ。僕には根本的な思いがあった。
僕の脳内にある、泣いているエミリさんの顔。なぜ泣いているのか、詳細は分からない。でも、この顔だけは絶対にもうさせてはいけない、という本能が僕の中に存在していた。そしてそのためには、絶対に事故を防がなければいけない、という直感も。
事故を防がなければ、確かにエミリさんと確実に結婚できるかもしれない。しかし結局、エミリさんを泣かせてしまう未来にまたなってしまう……と、思う。だったら、事故を防いだうえで、エミリさんと結婚できる道筋を考えればいい。
――よし、決めた。
意を決した僕は、アパートへと歩を進めた。
しかし、その、三歩目だった。
ガンっ。
突然の衝撃。視界が歪む。瞬間、後頭部に激痛が走る。地面とキスするように急接近。僕は、倒れているのだ。
――誰かに、殴られた。
そう気付いた瞬間、意識が遠のいた。
*
階段を、ゆっくり下りている。音を立てないように、慎重に、慎重に。そもそもこれは、どこの階段だ?
嗚咽混じりの、泣き声が聞こえてくる。泣き声と言っても、赤ちゃんのそれとは違う、野太く汚い声だった。
一体、何なんだ。どういう状況だ。
階段を下り終えた僕は、ゆっくり廊下を進む。半開きのドアから恐る恐る中を覗くと、両親と見知らぬ女性がいた。
「すまんなぁ、すまんなぁ」
父さんが泣きながら、女性に謝っている。母さんも涙を流しながら、顔を手で覆っていた。記憶にある父さんと母さんより、少し老けた印象だった。
女性は二人を諭すように、ただ微笑んでいる。母さんの背中を擦り、ゆっくりと頷いている。女性はとても美しく、女神のように思えた。
いや、僕は、あの女性を知っている。エ、ミ……。
「すまんなぁ……!」
僕の思考を、父さんの慟哭が掻き消す。母さんは相変わらず、顔を手で覆っている。
――ねぇ。父さん、母さん。どうしてそんな、泣いているの?
*
目覚めたら、知らない部屋だった。
全く、意味が分からない。
夢……。夢を、見た。綺麗な女の人が両親を慰める夢だった気がするが、はっきり思い出せない。ただ、今はそんなことどうでもいい。
横になったまま、狭い室内を一周見回す。恐らくだが、ここは、病院? ドラマの記憶しかないけど、病室で間違いないと、思った。しかし一つだけ、僕のイメージする病室とは異なる部分があった。
〈起きたら、手元にあるスイッチでナースコールを押してください!〉
部屋中の壁、至るところに、脅迫めいた赤字でそう書かれた貼り紙があった。
真っ白なシーツを握りしめながら、呼吸が荒くなる。
何だこれは。何で僕は、病院にいるのだ。これは、入院しているということか。確かに体全体がだるい、気がする。起き上がれないというよりは、全く動きたくない。でもこれは、ただの怠惰であって、病気や事故が原因ではないと思う。
……事故?
瞬間、脳内にいくつかの映像がぶつ切りで浮かぶ。
耳をつんざく車のブレーキ音、目を焼くヘッドライトの明かり――。
僕は、事故に遭ったのだ、昨日。それで入院しているんだ。
いや、本当に昨日か? 昨日のような気もするし、遥か昔のような気もする。そもそも、事故に遭ったこと自体、本当に真実なのか?
混乱、混乱、そして混乱。
ゆっくりと深呼吸。まず、落ち着こう。一人で考えても、答えは出ない。
耳を澄ますと、遠くから女性の話し声が聞こえてきた。何とか液だとか、何とか処置だとか、医療に関する単語を言っているような気がする。
やはり、ここは間違いなく病院だ。部屋全体が殺菌されているような、つんとする香りが充満している。とりあえず指示通り、ナースコールをして問題ないだろう。
僕が手元のコントローラーでボタンを押すと、遠くから軽快なメロディが流れてきた。その直後、激しい足音も聞こえてくる。
「大丈夫ですか! 分かりますか? 私の顔、見えますか?」
慌てて駆けつけた看護婦が、僕の手を握る。脈でも計っているのだろうか。まだ朦朧とする意識の中、その看護婦の顔を認識する。途端、体中に電気が流れたような衝撃を覚えた。
吸い込まれるような大きな瞳から流れるようにスッとした鼻筋が続き、丸みを帯びたピンクの唇がその下で半円を描いている。
「エ、ミ、リ、さん……」
僕は上半身を起こし、看護婦の、エミリさんの胸に、顔を埋めた。自然に、涙が零れる。
自分でも、何でそんなことをしたのか分からない。ただとにかく、生き別れた家族と数十年ぶりに再会したような、そんな高揚感があった。今、僕の脈はどうなっているだろう。
「えっ……えぇっ?」
エミリさんは困惑しながらも、僕を突き飛ばすこともなく、ただ頭を撫でてくれた。
*
「こんにちは。医師の大泉です」
エミリさんからの連絡でやって来た医師は、開口一番、僕に名乗った。初老の男性だった。僕もぼんやりしたまま、黙礼する。
「ちょっと失礼しますね」
僕の目に、大泉医師がライトを当てる。エミリさんは医師の後ろで、不安げな表情のまま佇んでいた。
「うん、大丈夫そうやね。では改めまして、名前、分かりますか」
「大泉さん」
「僕やなくて、自分のです」
「えっと、ミ……ノリカワ、ノリオです」
咄嗟に、偽名を使った。なぜかは分からないけど、脳のどこかで、本名を言わないほうがいいと、警告されているような気がした。
「ミノリカワノリオさん。変わった名前やね」
大泉医師とエミリさんが顔を見合わせて微笑む。
「ミノリカワさん。ちょっとお話したいことがあります」
「はい、何ですか」
大泉医師が辺りを見回す。病室の前を、点滴を引いた一人の老人が歩いていった。
「ここは人通りもありますし、見せたいものもあるので。一階に来てもらえますか」
僕は「分かりました」と答えつつ、少し不安だった。人前で話せないような、重い内容だということだろうか。
大泉医師は、エミリさんにぼそぼそと指示を出し、病室を去っていった。
エミリさんが一度、廊下に出てからすぐに室内へ戻ってくる。車椅子を押していた。
「ミノリカワさん。これに座ることはできますか」
僕はベッドから足を下した。少しふらふらする。慌ててエミリさんが僕の体を支える。眼前にエミリさんの体が近づいてきて、いい香りがした。
「大丈夫ですか。せーの、で行きますよ」
エミリさんに抱き抱えられるような状態で、ようやく僕は車椅子に腰を落ち着ける。廊下へ出ると、病院内は驚くほど静かだった。病院なのだから当たり前かもしれないけど、それにしても静かすぎると思った。ナースステーションの前を通る。看護婦二人が、暇そうに世間話をしていた。
それにしても、この景色は初めての体験だった。病院そのものではなく、車椅子に乗った目線の話だ。自分はただ座っているだけなのに、どんどん前に進んでいく。まるで王様になったような気分だった。エミリさんは重たさを感じていないだろうか。
「あの、すみません。運んでもらって」
「いえ、大丈夫ですよ。仕事ですし」
少し、息が荒い気がした。先ほども僕の体を支えてくれたし、多少なりとも体力を消耗しているのだろう。こんなことなら、ダイエットしておけば良かった。
自分の腕を見る。しかし、違和感を覚える。ダイエットしなくても、すでに痩せている。筋肉が無くなり、張りも無くなって染みも増えている。
「ミノリカワさんって、私のストーカーですか」
「はい?」
突然の質問に、思考が遮断される。〈ストーカー〉って、あのストーカーのことだろうか。「どっ、どういう意味ですか」と尋ねると、エミリさんはプッと噴き出した。
「冗談ですよ。ただ最近、〈白木さん〉って人が私によく会いに来るそうです。まぁ、エミリって名前の看護婦は他にもいるので、私じゃないかもしれないですけど」
「そう、なんですか」
僕はその白木に怒りを覚えつつ、共感もしていた。もちろんストーカー行為は許せない。しかし、こんなに美しくて優しい人なら、そりゃ付き纏いたくもなるよな、と思った。
「受付の人が、一応警戒するようにって教えてくれたんです。それでミノリカワさん、目覚めた瞬間に私の名前を言ったでしょ。だから怪しいなって」
「あっ、いや、それは」
どぎまぎする僕を、試すような目つきで背後から覗き込むエミリさん。しかしすぐさま、またプッと噴き出した。
「だから冗談ですって。私の名札が見えたんですよね」
僕は咄嗟に頷いた。しかし、釈然としない。エミリさん本人が納得してくれたからそれでいいのだけど、僕自身がどうしても納得できなかった。
僕はどうして、初対面の女性の名前を知っていたのだろう。そして、どうしてこの人の声は、僕の心をこんなにも落ち着かせるのだろう。
赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、無意識に視線を移す。毛布に包まれた赤ちゃんを母親が抱き、周囲をその関係者が取り囲んでいた。赤ちゃんは泣いているが、大人たちは皆、幸せそうな笑顔だった。
気付くと、車椅子は止まっていた。エミリさんのほうを一瞥すると、エミリさんはぼんやりと赤ちゃんを見つめていた。
「あっ、すみません」と謝罪され、車椅子が再び動き出す。少しの沈黙の後、掲示板に貼られた七夕イベントのポスターを見て、エミリさんがおもむろに口を開いた。
「ミノリカワさんって、夢とかあります?」
「夢、ですか」
場を繋ぐためのただの世間話なのだろうけど、僕はふと、真剣に考えた。
僕は自他共に認める優柔不断だ。何かやりたいことを見つけても、それが無理な理由をすぐさま見つけ、〈やりたくないこと〉に変換してしまう。だから結局、僕みたいな何の取り柄もない人間は、普通の会社に就職して普通の人生を歩むのだろうな、と思っていた。しかし最近、その〈普通〉というのが何よりも難しいのではないかと、そう思い始めてもいた。そのため僕は、夢どころか現実的な進路さえ、まだ決めていなかった。
「ちなみに、看護婦さんは?」
僕は質問に質問で返すという、逃げの一手を取った。しかしエミリさんは僕を責めることもなく、快活な笑顔で答えてくれた。
「私ね、赤ちゃん大好きなんです。だから、笑われちゃうかもしれませんけど、普通に結婚して赤ちゃんを産んで、そういう、普通のお嫁さんになれたらなぁ、って思ってます」
「そうですか。結局それが、一番の幸せですよね」
僕にとってその〈普通〉は難易度の高いものだが、エミリさんなら簡単だろう。こんな綺麗な女性が、結婚できないわけがない。僕はその未来の相手に、嫉妬を覚えた。
「この前なんて、赤ちゃん用品店で未来の赤ちゃんに着せる服を妄想していたら、店員さんに『お子さんは何歳ですか?』って接客されちゃって」
エレベーターの前に到着し、エミリさんが僕の横に立つ。こちらを向き、これ以上ないくらいに頬を綻ばせ、
「もう、最悪でしたよ」
そんな彼女と思いがけず目が合った瞬間、僕は息ができなくなった。こんなに幸せな呼吸困難は、初めてだった。その笑顔が、僕の人生で見たものの中で、一番綺麗だったからだ。
僕は、生まれて初めて、〈一目惚れ〉というものを経験した。
その後も、エミリさんは理想の子育てについて一人で喋り続けたが、僕は目を伏せて呼吸を整えることに必死だった。
到着したエレベーターに乗ると、目の前に鏡があった。鏡の中の自分と目が合った瞬間、ぎょっと目が見開く。向こうの自分も同じように目を見開いていた。
「あの、えっと、看護婦さん」
「何ですか」
「僕は、その、何年くらい、眠っていたんですか」
エミリさんがプッと噴き出し、僕の肩を叩く。
「大丈夫ですよ。二時間くらいです」
しかし、今回ばかりはエミリさんの言葉も意味を成さなかった。彼女の澄んだ声が、僕の耳を素通りする。先ほどの彼女の笑顔がまだ脳内に残っていたため、かろうじて理性は保てているが、動揺は全く消えなかった。
人は、二時間でこんなに老けるものだろうか。
*
一階へ到着し、ロビーを進む。院内はどこもかしこもがらんとしていて、〈外来受付〉と書かれたカウンターには誰も並んでいなかった。そこでようやく気付く。今日は休日なのだ。だから、病院全体がこんなに静かなのだ。
しかし、おかしい。昨日は確か日曜日だったはずだ。学校が休みで、まっつんとノブと一日中遊んだ後、松下デンキで日本対ロシア戦を見た。ということは、今日は月曜日だ。病院が休みであるわけがない。創立記念日か何かだろうか。
エミリさんに連れられ、〈外来診察室3〉に入っていく。車椅子のまま、大泉医師と向き合った。室内には小さなベッドが置いてあり、病院特有の消毒液のような匂いがより強まった気がした。幼いころ、腹痛で来院したときにこの硬いベッドに寝かされた、嫌な記憶が蘇った。
「改めまして、こんにちは。早速ですがミノリカワさん、こちらを見てください」
大泉医師が、ホワイトボードにレントゲン写真のようなものを貼りつけた。それは、脳味噌のように見えた。
「貴方が意識を失っている間、色々と検査させていただきました。こちらのCTを見て頂きたいのですが、ほらここ。分かりますか」
大泉医師が、脳味噌の一部分を指差す。そこだけ黒ずんでいるように見えた。
「脳の一部に、欠損があります」
「けっ、欠損?」
僕は瞠目した。僕はそんな、とんでもない事故に巻き込まれたのか。
「そもそもですが、ミノリカワさんはどうして病院へ運ばれたか、覚えていますか」
「いえ、全く」
即答した。その疑問は、目覚めたときからずっと考えていた。しかし、どれだけ考えても結論が出なかった。脳の中から記憶を引っ張り出そうとしたが、そもそもの記憶が無いような、そんな違和感を覚えた。
「道端で倒れていたところを、発見されたのです。どうやら、誰かに殴られた可能性が高いようです」
「それで僕は、脳に欠損を?」
「いえ、それと今回の件は全くの無関係です。その欠損は、もっと前からあったようです」
大泉医師が、身を乗り出して僕を見据える。
「ミノリカワさん。失礼ですが、過去に事故に遭って障碍を負ったとか、そういった経験はありますか」
息を呑む。そんな質問をしてくるということは、僕に障碍がある可能性が高いということだ。しかし僕は、ただ実直に本当のことを答えるしかない。
「障碍って言われても、別に。サッカーをしているので、多少なりとも怪我はしますけど」
「サッカーというのは、趣味で?」
「いえ、部活です」
瞬間、大泉医師の表情が強張った。後ろのエミリさんも、目を瞬かせている。
「ミノリカワさん。失礼ですけど、おいくつですか」
「十七です」
僕は真剣に答えた。しかし大泉医師とエミリさんが顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。
「ちなみに、他に自分に関する記憶は何かありますか」
自分に関する記憶、という言葉に違和感を覚えた。そりゃ、自分は自分なんだから、自分に関する記憶なんて沢山あるに決まっている。でも、そのどれを答えればいいのか分からない。ここでいきなり、「去年、彼女に無理やりキスをしてビンタされました」とカミングアウトすればいいのか。
「例えばですけど、結婚指輪をされていますよね。ご結婚、なされているんですか」
指摘され、僕は初めて自分が指輪をしていることに気付いた。何だこれは。僕はこういったアクセサリーに全く興味がない。もちろん、結婚なんて以ての外。僕はまだ童貞だ。
しかし。
大泉医師に結婚の質問をされたとき、なぜかエミリさんの顔が頭に浮かんだ。僕は彼女と結婚しているのではないかという、あり得ない妄想が脳の最前列にこびり付いている。
エミリさんを見る。エミリさんは僕に、愛想笑いのようなものを向けた。
結婚なんて、しているわけがない。でも、しているとしか思えない。意味が分からない。僕の頭は、記憶は、どうなってしまったんだ。
何も言葉を発せられない。頭を抱えると、大泉医師が大きく息を吐いた。
「分かりました、ミノリカワさん。まだ記憶の混濁があるようですし、とりあえず部屋に戻って休んでください」
「休めって言われても、何て言うか、全く意味が分からない状況なんですけど」
縋るように、エミリさんを見つめる。エミリさんが微笑み、助け船を出してくれた。
「大丈夫ですよ。すぐに、警察の方が来てくれます」
「けっ、警察?」
僕はまた瞠目した。瞬間、大泉医師がエミリさんを睨みつける。エミリさんの表情が曇り、俯いた。恐らく、今のは僕に言ってはいけない情報だったのではないだろうか。
大泉医師が表情を笑顔に戻し、こちらを見る。
「ミノリカワさん。実はね、貴方が眠っている間に、こちらで警察に電話しておいたんですよ。貴方は、身分を証明するものを全く持っていなかった。殴られた形跡もありますし、我々としても、警察に通報するのが義務でして」
反論できず、僕は沈黙した。大泉医師の言いたいことは分かる。分かるどころか、百パーセント正しい。しかし、〈警察〉という単語を聞いた瞬間、とてつもない息苦しさを感じた。
警察が怖い、というのは当たり前のことかもしれない。しかし、そういった普通の恐怖を凌駕するほどの恐怖心が芽生えていた。悪いことをしたわけではないのだから、堂々としていればいい。警察に調べてもらえば、僕の現状も少しは分かるだろう。得しかない。
それは分かっているのだが、それ以上に僕の中には、絶対に警察に連れて行かれてはならない、という根拠不明の確信があった。
「先ほど、貴方が目覚めたことを連絡したんですけど、ちょっと時間が掛かるみたいです。警察のほうも、今日はパブリックビューイングの警備とかで忙しいらしくて」
大泉医師の言葉に、僕は顔を上げた。理解できない部分があったからだ。
「パブリックビューイングって、何のですか?」
「何って、サッカーに決まってるじゃないですか。日本対ロシアの」
「……何で、終わった試合のパブリックビューイングをするんですか」
またもや、大泉医師とエミリさんが顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。
「いえ、試合は今日ですよ」
僕は、自分の顔が熱くなっていくのを感じた。怒りと困惑が、沸々と湧き上がる。
「いやいや、おかしいですって! 1対0で、日本が勝ったじゃないですか!」
大泉医師に食って掛かったが、彼は歯牙にも掛けず優しく微笑んだ。
「そうですか。本当に、そうなるといいですね」
「いや、嘘じゃ――」
大泉医師の貼りつけたような笑顔。そこには一切の感情が無く、僕は言葉を発する気力を失った。もう、何を言っても信じてもらえない。話すだけ無駄だ。
「まあ、貴方が未来からタイムスリップしてきたかどうかはともかく」
「……えっ」
またもや、大泉医師の言葉に顔を上げる。大泉医師はぽかんとしながら僕を見た。
「いや、冗談ですよ」
「あ、えっと、そうですよね、はい」
再び俯く。大泉医師が大きく手を叩いた。
「じゃ、部屋で休んでいてください。田丸さん、連れていってあげて」
「はい」
エミリさんが僕の背後に回り、車椅子を押し始める。このままでは不味い。絶対に部屋に戻ってはいけない。警察と会ってはいけない。もう理屈はどうでもいい。僕の脳がそう警告を発しているのだから、それに従うだけだ。
「すみません。ちょっとトイレに」
廊下を進んでいる最中、エミリさんにお願いする。エミリさんは「はい、いいですよ」と言い、車椅子を近場の男子トイレ前へ止めた。当たり前のように一緒に入って来ようとする彼女を、慌てて制止する。
「いや、大丈夫です。一人で行けます」
僕は車椅子からやおら立ち上がり、一人でトイレへの歩を進めた。
「本当に大丈夫ですか」
「はい。ちょっと不安ですけど、さすがに恥ずかしいので」
「分かりました。私はここで待っています。何かあったら、中の呼び出しボタンを押してください」
「ただ、すみません。大きいほうなんで、ちょっと時間が掛かるかもしれませんけど」
僕はわざとらしく頭を掻いた。エミリさんが噴き出す。そのままの笑顔で、
「はい、分かりました。いつまでも待っています」
「いつまでも?」
「はい。何時間でも、何年でも。貴方と再び出会える瞬間を、楽しみに待っています」
間違いなく冗談なのだろうけど、なぜか僕は、その言葉が胸に詰まった。泣きそうになるのを堪えながら、トイレへ入っていく。もう、足はふら付かなかった。ドアを閉めた僕は、一度大きく息を吐き、個室ではなく窓際へと一目散に進んだ。
窓を開けてみる。しかし、窓の向こうに格子があり、外へ出ることはできない。とりあえず本当に小便はしたかったので、小便器で用を足す。どうしたものかと思案し、恐る恐る入口のドアに手を掛けた。スライド式だったため、一切音を立てずに一センチだけ開けることができた。
外の様子を窺うと、少し離れたところで、エミリさんが白衣を着た男性と会話していた。茶髪のロングヘアーで、スラッとした体型。まさしくエミリさんとは美男美女といった感じで、僕とは正反対の男だった。
男がおもむろに、エミリさんへ小箱を差し出す。受け取った彼女が中から取り出したのは、銀色のネックレスだった。満面の笑みで、すぐさまエミリさんは首に装着した。
それ以上、その光景を見ていられなかった。悔しさと悲しさと苛立ちと切なさと、様々な感情がない交ぜになった何かが、腹の中で蠢いている。
ふと視線を逸らす。清掃員が、大きなコンテナを持ってこちらへ近づいてくるのが見えた。
あれしかない。そう思い、心の中で、エミリさんに別れと謝罪の言葉を告げる。コンテナがトイレの前を通った瞬間に僕も前屈みになり、コンテナの動きに合わせてトイレを出た。
エミリさんと離れたくない。でも、離れなければならない。今、離れることで、後でずっと一緒にいられるのだから。自分でも言っている意味が分からない。でも、そんな気がしてならない。思考と脳味噌が、一致していない。今はこれ以上考えても仕方ない。混乱するだけだ。とにかく、本能に従って、逃げることだけ考えよう。
コンテナの陰に隠れて数メートル進む。清掃員には怪訝そうに見られたが、気にしない。エミリさんから完全に見えなくなったところでコンテナから離れ、走り出す。今日は病院が休みなので、正面入口が開いていない。出られる場所を探さないと。
小走りで院内を捜索すると、〈時間外出入口〉を発見。そこから出ると、警備員が笑顔で会釈してきた。
「あれ、渡し忘れですか」
意味が全く分からなかったが、空笑いで「はい」とだけ言い、その場を去った。
外へ出て、辺りを見回す。この景色は見覚えがある。ここは、僕の知っている津市の大学病院だ。その事実にまず、安堵する。しかし、ここからどうする。とりあえず、この近くから離れなければならない。色々と考えるのは、その後だ。
僕は十分ほど歩き、公園を見つけた。とりあえず中のベンチに腰掛ける。途端に風が吹き抜け、少し寒さを感じる。辺りは薄暗く、園内の時計を見ると午後六時過ぎだった。
逃亡に成功したのはいい。だが、これからどうする。僕は、この世の中は、一体どうなっているのだ。
今日は、西暦2002年の6月10日、月曜日ではないのか。大泉医師は自信満々に、日本対ロシア戦の当日、つまり6月9日だと言っていた。日付の勘違いは、誰にでもある。しかし、〈日本対ロシア戦がまだ終わっていない〉なんて勘違いが、あり得るだろうか。今日の朝、一度でもテレビを点けたら、そのニュースで持ち切りになっているはずだ。普通、そこで自分の勘違いにも気付くはずだ。
ニュースで持ち切り……?
ふと、自分の言った言葉に違和感を覚える。そういえば、僕は今日、学校でその話題を友達と話したか? もし学校へ行っていたら、間違いなくその話をしているはずだけど、記憶が全く無い。ということは、僕は通学途中で意識を失ったのか? しかし、今の自分は制服姿ではなく、見たことのない私服姿だ。
頭を抱える。考えれば考えるほど、訳が分からない。しかし厳密に言えば、一つだけ、思い当たる節があった。だけど僕の理性が、その可能性と向き合うことを拒否している。
――タイムスリップ。
そう。大泉医師が冗談で言ったあの言葉。僕はあの言葉を聞いたとき、思わず「はい、そうです」と言ってしまいそうになった。脳のどこかで、それが事実であると認めてしまいそうな、そんな感覚があった。
僕は本当に、未来からタイムスリップしてきたのではないだろうか。だから、今日の試合結果も知っているのではないだろうか。
馬鹿げている。本当に馬鹿げている。しかし、そう考えると不思議なくらい腑に落ちた。とてつもなく納得している自分がいる。理屈とか根拠を超えた安心感だった。
「えっ?」
突如、腕に強い衝撃を受ける。驚いて見ると、腕を掴まれていた。
「おい、行くで」
腕から視線を伝い、顔を見る。そこにいたのは。
「……えっ?」
僕自身だった。
髪はボサボサで出っ歯。しかし、紛れもなくエレベーターの鏡で見た、あの顔。
宮川大介、そのものだった。
*
自分自身に連れて来られたのは、公園内にあるトイレだった。男二人で個室に入り、ドアを閉める。何週間も清掃していないであろう和式便所。充満する強烈な芳香剤とアンモニアの臭いに、思わず嘔吐く。
「何で、こんなところに?」
「そりゃお前、同じ顔の奴が会話してるところを見られるわけにはいかんやろ」
「まぁ確かに」
その部分に関しては納得した。しかし、それ以外に分からないことが多すぎる。
「えっと、貴方は」
僕は怖ず怖ずと聞いた。狭い個室内で、数十センチの距離で見ても、やはり自分自身にしか思えない。
「俺は、一年後のお前や」
僕はその答えに、さほど驚かなかった。〈タイムスリップ〉という可能性がある以上、そうとしか考えられなかったし、逆にそうじゃないほうが怖かった。
「一年後ってことは、2003年の?」
「アホか。2023年じゃ。何ボケてんねん」
さっきから、言葉遣いが荒い。いくら一歳年上とはいえ、自分自身に対して〈お前〉と言うのはどうなのだろう。あと、一人称も〈俺〉になっている。
ただこちらも、自分自身だと分かった以上、そこまで気を遣う必要は無い。
「いやいや、何で2002年の一年後が、2023年やねん。ボケてんのはそっちやろ」
一年後の自分は、目を皿にして僕を見た。数秒後、何か合点がいったようで、
「そうか。俺が殴って、数時間眠ってしまったせいで、記憶が断片的に……」
「ちょ、ちょっと待て。殴ったってどういうことやねん」
「そっちこそ、ちょっと待て。そうなってくると、話が変わってくる。どこから説明すればええのか……」
一年後の自分は斜め下を見て、何やら思案しているようだった。ところで気のせいかもしれないけど、一年後の自分が喋る度に、変な匂いが鼻に届いてくる。まるで深夜の父さんみたいな、気持ち悪い匂い。
「なぁ、何か臭ない?」
「そりゃトイレやからな」
「じゃなくて、お前の口や」
「嘘やろ。こっちに来てからは飲んでへんで」
「お前まさか、酒飲んでたんか」
僕は侮蔑の視線を向けた。途端に、一年後の自分の顔が紅潮して色をなした。
「そりゃ飲むやろお前! お前のせいでこの一年間、どれだけ苦しかったか……酒でごまかすしかないやろうが!」
思わず、後退る。タイルのひんやりとした感触が背中に伝わる。こいつが、ずっと横柄な態度だった理由が分かった。酔っ払いというのは、こんなに情緒が不安定なのか。
一年後の自分は、背負っていたリュックを乱暴に下ろし、中から一冊のノートを取り出した。
「とりあえず、このノートの三ページ目まで読め。話はそれからや」
僕は差し出されたノートを受け取った。恐る恐る、一ページ目を開く。
「言っとくけど、そこに書いてあることはすべて事実や。反論したりせず、とにかくまずは全部受け入れろ」
一年後の自分の忠告を聞き流し、僕はノートの文章に没頭した。
そこに書かれていたのは、衝撃的な内容だった。
2022年の僕はエミリさんと結婚していて、そこから2002年にタイムスリップした。明日の事故を未然に防ぎ、エミリさんと結婚し直すためだ。僕は健忘症という障碍を持っていて、眠る度に記憶がリセットされる。
信じられないけど信じられる。そう思った。ここに書いてあることがすべて事実なら、今の状況がすべて納得できるし、何より、〈エミリさんと結婚している〉という事実を否定したくなかった。
文章を読んだことで、断片的ながら数々の記憶が蘇ってきた。
笑顔のエミリさんや泣いているエミリさん。そして、耳をつんざく車のブレーキ音、目を焼くヘッドライトの明かり――。
僕は一年後の自分を真っすぐ見据え、小さく頷いた。
「理解した、ってことでええな。結局お前……というか俺は、悩んだ挙句にそのノートの指示通り、事故を防いだんや」
「悩む? どういうことや。事故は防いだほうがいいに決まってるやろ」
「待て。その大事な部分に関しては、ノートの最後のほうに書いた。俺も馬鹿やない。お前の意識が無くなっている間に、文章でまとめておいた」
僕は慌ててノートのページを捲った。しかし。
「待て! そこはまだ読むな」
体がびくっと固まる。そのまま一年後の自分を睨みつけた。
「何でやねん、気になるやろが。ていうか、何で口で言わへんねん。回りくどいなぁ」
「今、そこのページを読まれたら、恐らくお前はパニックになって、俺と口論になる。そんな意味無いことはしたくないんや。あとな。実を言うと、今の俺は酔っ払っとる」
「知っとるわ!」
「そんな状態で、上手くこの状況を説明する自信が無い。せやから、何度も直しながらノートに書いていったんや。なるべく落ち着いた状態で、お前に現状を理解して欲しくてな」
一年後の自分は、リュックを僕に差し出してきた。見たことの無い、白い十字とハートマークが描いてある赤いキーホルダーが付いていた。
「これも返しとくわ。お前が気を失ったとき、誰かに見られんように俺が盗んだんや」
リュックを受け取る。トイレの床に置くことはできず、戸惑いながらも背負う。僕はそのまま、眉間に皺を寄せた。
「そや、大事なことをまだ聞いてない。何で俺を殴ったんや」
僕の眼光を真っすぐ見据えながら、一年後の自分が大きく息を吐く。彼なりに、落ち着いて説明しようとしている努力が伺えた。
「俺はこの一年間、本当に苦しんだ。記憶の変換が進んで、エミリさんと出会う前に、すべてのことを忘れてしまいそうやった」
「記憶の変換?」
「ちょっと待て。とりあえず俺の話を最後まで聞け」
「……」
「だから、改めて2023年の6月9日に公園へ行って、ケヤキの木に頭突きしたんや。本当に何となくや。そしたら、気付いたときには2002年の6月9日におった。俺も初めて知ったことやけど、ケヤキの木は、同じ日付にしかタイムスリップさせられへんみたいやな。お前も、6月6日に頭突きして、6月6日にタイムスリップしたやろ、って、覚えてへんか。……あっ、ちなみにな。あのケヤキの木は、2022年でちょうど樹齢三百年やったらしいで。せやから、不思議な力が溜まって、タイムスリップさせられたんやな」
「あのさ。さっきから言ってる、ケヤキの木って――」
「だから待てって! 頼むから、まずは俺に最後まで話させてくれ。それでとにかく、一年前の自分に忠告するチャンスができたんやけど、こっちの世界でお前を見つけた瞬間、頭に血が上ってしもてな。俺が一年間苦しんだのはこいつのせいなんや、って」
そこで一年後の自分は言葉を区切った。どうやら、話が一段落したらしい。聞きたいことだらけだが、とりあえず一言文句を言ってやらないと気が済まない。
「結局、イライラして殴った、ってだけのことか」
「酔ってたんやから仕方ないやろ! いきなりタイムスリップさせられて、いきなりお前を見つけて、冷静な判断なんてできるわけないわ! ていうか、障碍者の頭って弱すぎるやろ! あれくらいで倒れんなや! そもそもな、俺はそのままお前を警察に突き出すこともできたんやぞ! でも、こっちの世界でこれ以上イレギュラーなことをしたくなくて、それでこうやって、自分で説明するっていう選択を取ったんや。それについて、まずは感謝してくれよ!」
僕は、興奮する一年後の自分を白眼視した。
思えば、父さんも何か失敗したとき、〈酔っているから〉とよく言い訳していた。絶対こんな人間にはなりたくない。自分は何があっても酒なんて飲まないと、心に誓った。
「それで結局さ。僕は、いつこのノートを最後まで読めんねん」
「それは、安心しろ。俺はもうすぐ消える。せやから、その後に読んでくれ」
「きっ、消える?」
「あのな。2023年には、ケヤキの木の力もそんな残ってなかったんや。せやから、本当に僅かな時間しか、こっちの世界にはおられへんって、語りかけられたんや」
「だから、それが意味分からんのやって! 何やねん、木とか語りかけるとか記憶の変換とか。僕は、NASAのタイムマシンでタイムスリップしたんちゃうんか! このノートにはそう書いてあったで」
一年後の自分は、面倒臭そうに頭を掻きむしった。粉雪のようにフケが落ちる。
「ああ、そうか。そういう設定やったな。何度も言うけど、俺には時間が無い。せやから、その部分に関してはもう突っ込まんといてくれ。説明すんのも面倒やわ」
「いやいや、ちゃんと説明してくれよ!」
一年後の自分に詰め寄る。その瞬間、僕の手からノートが落ちた。黒ずんだタイルの床に、ぺちゃ、と音を立てて着地した。
「おい! 大事なノートやぞ、汚いなぁ!」
一年後の自分が、慌てて屈む。少し落ち着きを取り戻した僕は、気になっていることを聞いた。
「なあ。消えるって、どういうことや。仮に本当やとして、後どのくらいなんや」
「それが分からんねん。向こうも残っている力で、できる限りのことはしてくれるみたいやけど。その不安もあって、いつ消えてもいいように、先にノートへ全部書いといたんや」
言いながら、一年後の自分がノートを拾い上げ、手で汚れを払う。
「酔っ払いなりに、色々考えてんのやな」
「当たり前や、俺はお前の味方なんやから。ちょっと鞄の中、見せてみ」
僕がリュックのチャックを開けると、一年後の自分がもう一冊ノートを取り出した。〈35〉と表紙に書かれた、使い古されたものだった。
「こっちは、この二十年間の思い出が書いてあるノートや。余裕があれば、こっちも読んでくれ。この二十年間、自分がどれほど頑張って、エミリさんを愛してき――」
「……はっ?」
僕は、硬直した。頭が真っ白になった。
消えたのだ。突如、一年後の自分が。本当に唐突に、忽然と消えた。
勝手なイメージだけど、もっと徐々に薄くなっていくものだと思った。消える直前に、別れの挨拶もしようと思っていた。しかし、そんな暇も無く、一年後の自分は、イリュージョンのように消え去った。
「……」
数秒間の沈黙。直立不動のまま、無理やり現状を整理し、意識を戻す。
そうだ。とにかく、ノートを拾わなければ。
しかし。
ノートが、無い。二冊とも。また、頭が真っ白になる。
無駄だと分かりつつ、辺りを見回す。しゃがんで下を覗き、隣の個室に滑り込んでいないかを確認する。
やはり、無い。僕は一つの結論を出した。
ノートは、二冊とも一年後の自分が手に持っていた。そのまま一緒に、未来へ持って帰ってしまったのだ。
もちろん僕に、タイムスリップのルールなんて分からない。でも、予測はできる。
タイムスリップするときに、その人物が身に着けているものや手に持っているもの。それらはすべて、一緒にタイムスリップするのではないだろうか。実際、SF小説でも、タイムスリップしたけど本当に本人だけタイムスリップしたので、服が無くなって全裸になりました、なんて設定はほとんど無い。
しかし、そんな奇跡が、偶然が、あり得るか? 恐らく、一年後の自分が運命を託すために、すべてを賭けて書いた、僕への渾身のメッセージ。それが、一瞬の油断のせいで無くなるなんて。
想像でしかないけど、一年後の自分は今ごろ、激高しているのではないだろうか。NASA……ではなくケヤキの木、とやらに、もう一度タイムスリップさせろ、いくら何でもタイミングが悪すぎると、抗議しているのではないだろうか。
呻吟しながらも、はたと我に返る。もう、こんな場所にいる必要はないんだ。
放心状態のまま軋むドアを開け、僕はトイレを後にした。
*
公園のベンチに腰掛け、僕は再び頭を抱える。
落ち着け。とにかく、考えろ。
背負っていたリュックを下ろし、中を確認した。
一番大きな収納スペースには、ボールペンと修正液と大量のマスクと障碍者手帳、着替えとダサい帽子と財布が入っていて、小さいほうのポケットには、鍵と残り少ないポケットティッシュ、そして用途不明の黒い板が入っていた。
なぜかは分からないが、まず、その黒い板を触りたくなった。何気なく画面にタッチすると、画面全体が光り輝いた。「うおっ」と自然に声が漏れ、畏怖する。
しかし恐怖心とは別に、好奇心も芽生えていた。無意識に画面をスライドさせ、〈フォト〉というマークをタッチする。どうしてこんなに扱い慣れているのかは、やはり分からなかった。
画面に表示されたのは、僕とエミリさんの思い出の写真。自然と目頭が熱くなり、涙が溢れ出た。改めて確信した。僕は彼女を愛している。ほとんど面識は無いけれど、世界で一番大切で、世界で一番必要な人。
根拠なんてどうでもいい。僕の脳が、そう叫んでいるのだから。
改めて、絶対に事故を防がなければならないと、心に誓った。
だが、しかし。
だとしたら、一年後の僕は、なぜやってきたのだろう。自分のすべてを賭けて、何を伝えに来たのだろう。あのノートには、何が書かれていたのだろう。
それを、この不安定な脳味噌で推理しなければならない。
一年後の自分は、とにかく苦しんでいた。その原因を排除しに来たらしい。つまり僕は、こっちの世界で、何らかのミスをしたのだ。
わざわざ、タイムスリップをしてまで忠告したいこと。その内容は何か。
それは十中八九、エミリさんに関することだと思う。今の僕にとって、エミリさん以上に大切なことなど無い。
再度、黒い板を手に取る。〈フォト〉をタッチし、写真を眺める。とにかく、エミリさんとの思い出を遡ろう。そこに何か、手がかりがあるかもしれない。
恐らく、一番上の写真が、直近に撮った写真だろう。画面を下へとスライドしていき、エミリさんとの最古の思い出を確認する。
僕とエミリさんがツーショットで写っている最も古い写真は、病院で撮られたものだった。僕がベッドで横になり、看護婦のエミリさんがピースをしている。エミリさんはもちろん笑顔で、僕の顔は強張っていたけど、なぜかリラックスしているようにも見えた。
そうだ。やっぱり僕は、エミリさんと病院で知り合って、そこから関係を深めていったのだ。そして今度こそ、事故を防いで、エミリさんと出会って――。
……あれ?
ふと、疑問が頭をもたげる。事故を未然に防いだ場合、僕は当然、病院へは行かない。そのタイミングで、エミリさんと出会うことは無くなる。じゃあその後で、何らかの怪我をしてエミリさんと出会うのか? しかし、そんなのどうやってコントロールするんだ。仮に病院へ行く理由ができたとして、そこでエミリさんが担当看護婦になって、親しくなってくれる保証なんてあるのか。
途端に、背筋が寒くなる。呼吸が荒くなり、じんわりと脂汗が額に滲む。
一年後の自分が伝えたかったのは、まさにこれじゃないのか。
あっちの世界線の僕は、〈迷った挙句〉事故を未然に防いだ。事故を未然に防ぐか、エミリさんと出会うか、その二択を迫られたんだ。そして結局、事故を防いだ。障碍を無くすことを選んだ。
しかしそのせいでエミリさんを失った僕は、自暴自棄になり、アルコール中毒になった。一年間、記憶は失わないが、エミリさんを失った人生を歩んできた。僕にとって、エミリさんがいない人生は、記憶の無くなる人生よりも辛い。それは断言できる。
あいつが持って帰ったノートの最終ページには、〈絶対に事故を防ぐな。エミリさんと出会えなくなるぞ〉と書かれていたのではないだろうか。ただの推測だが、最も腑に落ちる。
そして僕には、もう一つ気になっていることがあった。
あのノートを読んで確信したが、やはり今日は〈6月9日〉だ。僕はタイムスリップして、再び日本対ロシア戦の当日に戻って来たのだ。大泉医師とエミリさんに、あれ以上食って掛からなくて本当に良かった。下手をすれば、強制的に警察送りにされていた。
そしてあのノートの一ページ目には、〈6月10日に事故に遭った〉と書いてあった。僕の脳の奥深くにも、断片的ながら確かに、〈明日〉〈事故〉〈防ぐ〉と刻み込まれている。
しかし、少し前に思考した通り、僕は試合の翌日、友達と日本対ロシア戦について学校で語った記憶が無い。本当に事故に遭ったのは〈10日〉なのか。その疑惑があった。
僕は公園で、稲本のシュートを真似しているときに事故に遭った。しかし、いくら興奮していたとはいえ、試合の翌日、しかも夜遅くにそんなことをするだろうか。やはり、当日、つまり〈9日〉にしていたと考えるほうが自然だ。
僕が本当に事故に遭ったのは今日〈9日〉だけど、過去の自分が細工して〈10日〉に書き直したのではないか。そういう疑念が渦巻いていた。
もしそうだとした場合、なぜ、過去の自分はそんな細工をしたのか。それではまるで、事故を未然に防がないほうがいいと判断し、日付を改竄したみたいではないか。
そう結論付けた途端、恐ろしいくらいに心が落ち着いた。まるで、何度も脳が頷いているようだった。
間違いなくそうだ。仮定の積み重ねでしかないが、はっきりとした確信が芽生えた。
つまり、過去の自分も未来の自分も、〈事故を防がないほうがいい〉と結論付けたのだ。障碍は残ってもいい。でも、エミリさんと出会えなくなるのは絶対に駄目だ、と。
しかし、あくまでこの世界線の決断は〈今の自分〉がしなければならない。
僕は今まで、すべての決断や努力を、後回しにして生きてきた。テスト勉強だってそうだ。何も努力しなかった昨日の自分を恨みつつ、きっと明日の自分は頑張ってくれるだろうと期待する。そこに、〈今の自分〉は存在しない。そして明日になったらまた、何も努力しなかった昨日の自分を恨み、明日の自分に期待する。
過去の自分と未来の自分にすべて投げ出し、今の自分は逃げの一手。
それが僕という人間の生き方だった。優柔不断というより、ただのクズだ。
しかし、今この瞬間のこの問題は、今の自分が結論を出さないといけない。過去の自分と未来の自分の思いを背負い、今の自分が責任を取らなければならない。
優柔不断な人間にとって、〈責任〉という言葉は最も聞きたくないものだ。できるだけ責任を負いたくないからこそ、とにかく間違えないように、何度も何度も迷うのだ。
だけど。
今の僕は、その言葉に、そこまでの重圧を感じていなかった。
もう、答えが決まっていたからだ。奇しくも、僕は数分前に自分で答えを言っていた。
――今の僕にとって、エミリさん以上に大切なことなど無い。
事故は防がない。それ以外に選択肢が無かった。僕がどれだけ優柔不断でも、〈エミリさんが好き〉という気持ちだけは不変である。過去の自分と未来の自分の思いを受け継ぐ意味でも、この選択は絶対に変わらない。
当然、罪悪感はある。僕の脳内に住み着いている、泣いているエミリさんの顔。その涙を止めるのが僕の役割なのに、恐らく僕はまた、彼女を泣かせる選択を取ろうとしている。散々、〈エミリさんが好き〉と言っておきながら、結局僕は、自分のことが好きなだけのクズなのではないかと、そう思わずにはいられない。
しかしそれ以上に、過去と未来と現在の自分が満場一致で決めた結論を変えてはいけないと、優柔不断な自分とは思えないほどの強い決意が、自分勝手な結論が、心と脳内に渦巻いていた。
なぜなら、僕は出会ってしまった。もしかしたら、気を失う前の僕は、〈事故を防ぐ〉という選択を選んだかもしれない。しかし、気を失った僕は、こちらの世界で、エミリさんと出会ってしまった。その瞬間、この人を絶対に失ってはいけないと、確信してしまったのだ。
病院で格好良い医師とエミリさんが会話していたとき、胸が張り裂けそうになった。自分が障碍を持っていると知ったときより、何倍も苦しかった。僕は、障碍があっても生きていけるけど、エミリさん無しでは生きていけない人間なのだ。
これ以上考えると、自分のクズさ加減に押し潰されそうだったので、僕はあえて思考を停止して立ち上がった。途端に、お腹が空いていることに気付く。しかし、何かを食べる余裕など無い。
僕には、時間が無いのだ。
明日の事故を防げばいいと思っていたときは、まだ余裕があった。しかし、事故が今日の出来事となると、話は別だ。あと数時間で、すべてを解決しないといけない。突然、タイムリミットが二十四時間短縮された。
どうする。悠長にしている暇はない。急いで、何かをしないと。
慌てて駆け出す。とにかく、松下デンキに向かわなければ。しかし、すぐさま足が止まる。コンビニ前の公衆電話が目に入ったのだ。
直接行くより、とりあえず松下デンキに電話してみるか。もう高校時代の自分たちも来ているはずだ。とにもかくにも、急いで何かアクションを起こさなければならない。
焦りとともに、僕はコンビニ前の公衆電話へ向かった。松下デンキの電話番号は、簡単な語呂合わせでできているため暗記していた。
――電話して、松下店長が出たら、えっと、とりあえず……って、あれ?
しかし、ボタンを押して数秒後。自分の勘違いに気付いて、受話器を置いた。
何をしているんだ、僕は。違うだろ。さすがに思考を停止させすぎた。もう〈事故は防がない〉と決めたのだから、何もする必要は無いのだ。タイムリミットなど無い。あと数時間だらだらしていれば、あいつは運命通り、勝手に事故に遭ってくれる。
一気に肩の力が抜けた僕は、コンビニの店内へと赴いた。おにぎりとお茶を買い、駐車場でそのまま開封。海苔が千切れないようにビニールを剥がし、一口齧る。
空の薄暮が漆黒になり、本格的な夜の到来を告げる。
――その、瞬間。
視界が歪んだ。足元がふらつく。気持ちが悪い。頭の中が、バーナーで炙られているようだった。爆発する。
コンビニの外壁に手を付き、その場にしゃがみ込む。
様々な映像、音、匂い、味、感情が、脳内で暴れ回っている。いきなり仕事が増えた脳味噌が、悲鳴を上げるように熱くなっていくのを感じた。
僕の脳に、突然、雪崩のように記憶が流れ込んできた。気を失う前の記憶だけではない。
昨日の、一週間前の、一か月前の、一年前の、十年前の。
一分前に食べたおにぎりが胃から込み上げてくる。僕はコンビニの裏手にある茂みに走り、嘔吐した。
そこで、ゆっくりと、本当にゆっくりと、現状を理解する。
――僕は、突然、健常者になったのだ。
でも、今、こんな奇跡は、誰も望んでいない。
「はい」
「いきなりすみません。私ね、津警察署の磯山と申します」
「同じく、日永です」
思わず、息を呑む。警備員どころか、本物の警察官だった。
男二人が、軽く会釈。頭を下げながらも、僕から視線を外すことは無かった。磯山のほうはエラが張った強面な男で、日永のほうは眼鏡を掛けた細身の男だった。
「宮川大介さん、で間違いないですね」
「はい」
僕は機械のように答えた。動揺はしているが、悪いことは一切していない、はずだ。とにかくここは、堂々としていていい。
「ちょっと、見てもらいたいものがあるんですよ」
磯山がおもむろに、二枚の茶色い紙を取り出す。紙幣だった。
「宮川さんね。ここのホテルでお金払ったとき、この一万円札を出したでしょ。三枚も。でもね、この一万円札、流通しているものとデザインが違うんですよ。分かりますか」
二枚の一万円札を裏返す磯山。一枚は現実的な鳥が二羽描かれているが、もう一枚には漫画のような鳥が一羽描かれている。
「宮川さん。この一万円札、どこで手に入れました?」
瞬間、二人の眼光が鋭くなる。人を見下しつつ威嚇するように、口角も上がった。
「お……お店で、貰いました」
僕はすでに、頭が真っ白になっていた。喉が乾燥し、鼓動が速くなる。
「お店で、ってことは、何か買い物したとき、お釣りで貰ったってことですか」
「はい」
「お釣りで一万円札を貰うって、あり得ないですよね」
磯山が、さらに口角を上げる。自分の勝利を確信したような、余裕のある笑みだった。
僕は絶句した。何も言えない。真っ白だった頭が、さらに漂白される。もうこのまま、何も考えず、絶叫しながらどこかに走り去りたい気分だった。
「しかも貴方、自分のノートを最初、〈自分のじゃない〉と言ったそうですね。もしよろしければ、そのノートも見せていただけませんか」
磯山の背後にいた日永が、追い打ちを掛ける。僕は喉の奥から絞り出した声で、「いや、あの、はい」と答えた。
踵を返し、室内へと戻る。時間は無い。僕はこの数十秒で、すべてを決断しないといけない。
「あと、もう一つよろしいですか」
焦る僕の背中に、磯山が話し掛ける。僕が立ち止まって振り向くと、「あ。別にそんな、集中して聞いてもらわなくてもいいことなんですけど」と言われたので、再度背中を向けて部屋の奥へと進んだ。
「数日前から宿泊されているようですが、このホテルへはなぜ来たんですか」
「旅行です」
「えっ? でも、チェックインのときは〈出張〉って答えてますよね」
「そんな、昔のことを言われても」
「昔って、貴方、数日前の記憶が無いんですか」
「はい。僕は障碍者なんです」
磯山の鼻で笑う声が、背中に聞こえる。しかしそのやり取りがあったからこそ、部屋に散らばっていたすべての持ち物を鞄へ入れる時間ができた。
心は、驚くほど冷静になっていた。いや、混乱しすぎて冷静になるしかない、という表現のほうが正しいだろう。
僕は「お待たせしました」と言いながら鞄を胸に抱え、警官二人に近づいた。そして。
催涙スプレーを、振り撒いた。
「おいっ!」
警官二人の怒号が響く。しかし関係ない。僕は全速力で走った。僕自身は目を瞑っていたが、それでも涙が止まらない。不意打ちで食らった二人は、しばらく動けないだろう。
走る、走る、走る。
太ももが、ふくらはぎが、足全体が痛い。でもそんなことどうでもいい。ここで止まったら、人生が終わる。体力とか年齢とか、そんなものは関係なく突っ走った。
途中、催涙スプレーを鞄の中に戻そうとして、失敗。缶を床に落としてしまう。しかし、後悔している暇も拾っている暇も無かった。
ホテルの玄関を勢いよく出た僕は、方向も確認せず、とにかく走り続けた。肺はすでに爆発寸前だが、いっそのこと爆発してもいいとさえ思った。
ビルとビルの間にある、野良猫しか通らないような路地に逃げ込み、息を整える。荒い息が収まらない。胃の奥から何かが込み上げてくるのを感じ、手を膝に当てる。地面を見ながら嗚咽すると、昼食を食べていなかったせいか、胃液だけが少し出た。
酸味のある口内を味わい、少しだけ落ち着きを取り戻す。僕は、改めて思案した。
過去の自分は、一万円札だけ人物が変わっていなかったため、安心して会計時に出した。しかし実際は、デザインが変わっていたのだ。お年玉も減額されて五千円だったし、2002年と2022年の一万円札の細かな違いに気付くなんて、僕には無理な芸当だ。
しかしそれを受け取ったホテルの人は、違和感を覚えた。断言はできないけど、何となくおかしい。でも、こんな田舎に偽札なんて出回るわけがない。無理やり納得して一応受け取ったが、不信感は募り続けた。
そしてノートの受け取り方が不自然だったため、不信感が臨界点を超えた。僕はめでたく、不審者確定。警察へ通報されたのだ。
恐らく警察は、僕を偽札作りの犯罪グループの一員だと思い、ノートには仲間やアジトの手がかりが書いてあると思ったのだろう。そしてあんな逃げ方をした以上、その容疑はさらに大きくなっているはずだ。
これから、どうする。色んな問題が山積みだ。そのどれもが、直視したくない。僕は自他共に認める優柔不断だが、そんな単純な性格判断で説明できないほど、答えの出せない問題が脳内で山積している。
再び気持ち悪くなり、口を押さえながら路地を出る。大通りの片隅で、しゃがみ込んで呼吸を整えていると。
「ちょっとぉ! 大丈夫ぅ?」
と、突然の大声が響いた。
見ると、軽自動車の運転席の窓が開き、四十代くらいの女性が叫んでいた。薄っすらと、後部座席に子供の影も見える。
「宮川さんやろ? ちょっとおいで! 乗りない」
どうして、僕の名前を知っているのだろう。どうして、僕を車に誘うのだろう。分からないことが多かったが、とにかくこの場を一刻も早く離れたかった。僕は警戒心を維持しつつも、手招きに導かれるように、車へと近づいていった。
*
「どうしたん? 何があったん?」
僕が助手席に乗り込んだ直後、運転手の女性が問いかけてきた。色々と質問したいのはこちらのほうなのだが、僕はとりあえず、「ちょっと、気分が悪くなっちゃって」と苦笑いで答えた。
ハンドルを握るその女性は恰幅がよく、美味しいおにぎりを握ってくれそうな風貌だった。ただ、男目にも分かるほど髪の手入れが行き届いておらず、学校の箒みたいな髪質だな、と失礼なことも思ってしまった。
「お母さん、この人誰ぇ?」
運転席と助手席の間から、男の子が顔を覗かせる。小学校中学年程度だろうか。好奇心で大きくなった目が、不思議そうに瞬いている。
「この人はな、お母さんのお客さん。ほれ、真一。挨拶しなさい」
「こんにちはぁ」
こちらも作り笑顔でお辞儀する。真一君は満面の笑みになって、後部座席へと戻った。
車が発車する。しかし、すぐに信号で止まった。
「で、どこまで送って行けばいいんかな?」
「あっ、えっと、そうですね……」
「確か、ホテル住まいやったよな。そのホテルでええ?」
「いや! ホテルは、ちょっと。あの、できれば、近くの駅……高茶屋駅にでも行ってくれたら、有難いんですけど」
「全然ええよ。体調はもう大丈夫なん?」
「はい、かなり楽になりました」
信号が青に変わり、車が再度発車。直後、お母さんが「あっ」と呟いた。
「そうや真一。この人、サッカーしとったんやって。良かったら、教えてもらい」
「えっ、本当?」
後部座席で漫画を読んでいた真一君が、もう一度身を乗り出してきた。ただでさえ大きな目をさらに見開き、こちらを見てくる。
どうしてこの人は、僕がホテル住まいでサッカー部だったことを知っているのだろう。先ほど〈お客さん〉と言っていたけど、いつ僕は、この人と知り合ったのだろう。しかし、そんなことを直接聞くことはできない。
「じゃあ、上手くなる秘訣を教えて」
「教えてください、やろ」
お母さんに注意され、苦笑する真一君。しかし決して言い直さない辺りが、実に子供らしかった。
「秘訣って言うてもなぁ。とにかく練習して、とにかく食べてとにかく寝る、それだけとちゃうかなぁ」
「食べるっていうのは、もちろんトンカツ弁当やよな?」
突然お母さんがそう言い、自分の言葉に大笑いし始めた。僕も真一君も訳が分からず、二人でぽかんと顔を見合わせた。
「ごめんごめん。いやな、真一。実はこの人、私の店で、三日連続でトンカツ弁当買ってんねん。せやから、サッカーが上手くなるには、トンカツ弁当を食べないかんのやで」
お母さんに釣られ、真一君も笑い出す。その言葉を聞いて、疑問の一端が解消したような気がした。
この人は、僕がホテルで食べる夕飯を買いに行っている、スーパーかコンビニの店員さんだ。あのホテルから一番近いのはサークルKだから、十中八九、そこの店員さんだろう。
しかしだからと言って、こちらの名前を知っている理由にはならないのだが……。
「だって、あのトンカツ弁当、美味しいんですもん。ちなみに、あそこで働き始めてどれくらいになるんですか」
「もう、何年やろなぁ。五年になるか、ならんかくらいかなぁ」
「結構長いですね。そんなに居心地がいいんですか?」
「別に、そんないい職場じゃないよ。ただ、めちゃくちゃ家が近いから便利なんよ。ほれ、あそこのサークルKのすぐ裏に、ピンク色のアパートあるでしょ。あそこが家なん」
「すっげぇオンボロだから、すぐ分かるよ」
「コラッ! そんなこと人に言わんてええの!」
僕の鎌掛けが成功し、お母さんの職業が確定した。ついでに自宅まで判明したのだが、その犠牲として真一君が怒られてしまった。
「今日は、どうして二人でお出掛けを?」
「ちょっと職場にね。私らももう帰るところやったし、全然迷惑じゃないから安心して」
「あんなぁ。店長にお願いして、シフトを増やしてもらったんやよ。お金がいっぱい必要になったから」
「だからぁ! そんなこと人に言わんてええの!」
「なぁ。日本とロシア、どっち勝つと思う?」
真一君が母親の叱責を無視して、唐突に質問してきた。子供というのは、会話の流れを無視して、平気で話の腰を折ってくる。
「そりゃ、日本やろ。日本人ならそう言わんと」
「あんなぁ、僕もなぁ、もうすぐ、サッカーを習い始めるん」
「ああ。だから、サッカーが上手くなる秘訣を聞いてきたんか」
「本当はなぁ、小学校に入ってすぐに習い始める予定やったんやけど、ウチは〈しんぐるまざぁ〉やで、お金が無かったん」
「真一。本当に、いい加減にしなさいよ」
本気の声音で注意したお母さんが、苦笑しながらこちらに「すみません」と会釈。僕も愛想笑いで会釈を返した。
真一君は不貞腐れたのか、後部座席にもたれ掛かり、漫画の続きを読み始めた。お母さんは「もぉ」と一度大きく息を吐いた後、笑みを湛えながら口を開いた。
「真一ぃ。真一のサッカーのお金が沢山要るで、またウチ貧乏やで。明日から、夜ご飯がコンビニの廃棄弁当ばっかりになるけど、ええか?」
「ええよ。お母さんの作った料理より美味しいし」
「はぁ? やし」
思わず、僕は噴き出した。今度は愛想笑いではない、本気の笑いだった。自分の子供時代の母親とのやり取りを思い出し、妙に懐かしい気分になった。
「それよりさぁ、お母さんのお酒を減らしたらええやん」
「アホか。お母さん、お酒だけが癒しなんやで、奪わんといてよ」
その後も二人の漫才のようなやり取りを聞きながら、車に揺られること十数分。目的地である高茶屋駅に到着した。
「何か急に、本当に、ありがとうございました」
と告げ、車を降りる。お母さんが「いえいえ」と笑顔で低頭し、真一君が後部座席から手を振ってくれた。お母さんがもう一度「では」と頭を下げ、車が発車。振り返った真一君が、リアガラス越しに手を振り続けてくれた。
――しかし。
僕が注目したのは、手を振っている真一君では無かった。そうではなく、その下。車のナンバープレート、〈921〉という数列だった。
921……9、2、1……?
瞬間、頭が熱くなる。眩暈がする。脳の奥から、勝手に記憶が溢れてくる。
耳をつんざく車のブレーキ音、目を焼くヘッドライトの明かり、921――。
食道を駆け上がってくる胃液を無理やり嚥下し、深呼吸する。俯いていた視線を前へ向けると、車が角を曲がって見えなくなるところだった。
こんな偶然が、あり得るだろうか。
改めて深呼吸。顔面中の汗を拭いながら、僕は、一つの事実を事実として受け入れる覚悟を決めた。
――僕は、あの車に、轢かれたんだ。
*
せっかくあのお母さんが送ってくれた道を、僕は逆走していた。高茶屋駅を離れて十数分。〈サークルK津市松本店〉へと、僕は辿り着いた。自ら事件現場であるホテルに近づいていく不安はあったものの、ホテルからはそれなりに距離があるし、警官らしき姿やパトカーは一切確認できなかった。
僕は自分が毎日トンカツ弁当を買っているであろうその店の、さらに奥を見つめた。コンビニを見下ろすように、不気味な背後霊のように、そのピンク色のアパート、〈コーポ南が丘〉は存在していた。
より近づいてみる。ピンク色と言うよりはくすんだ紫色で、雨の影響だろうか、至るところに黒い染みが垂れていた。階段も本来の色合いよりも錆の色が強く出ており、真一君の言う通り、〈オンボロ〉という表現が似合うアパートだった。
「いってきまーす」
突然、一階の中央付近にあった部屋のドアが開いた。慌てて電柱の陰に身を隠す。真一君だった。彼はドアの横に置いてあった自転車に跨ると、そのまま立ち漕ぎで僕に気付くことなく去っていった。
どうやら、僕を駅まで送った後、あの親子もすぐに帰宅していたらしい。
改めて、真一君が出てきたドアを見つめる。104号室。表札は筆記体のローマ字で書かれており、ここからでは読めない。真一君は室内へ向かって「いってきます」と言っていたから、ほぼ確実に、お母さんは今、家の中にいる。
――しかし、それが分かったからと言って、どうする。
とりあえずアパートまで来てみたものの、実を言うと僕は、その後どうするかは決めていなかった。
偶発的にだが、部屋が分かった。あそこへ行って、口八丁手八丁で「明日の夜、車を運転しないでください」とお願いできれば、それで事故は未然に防げる。それだけで、明日の夜、自分自身に忠告するという、多少のリスクがある選択肢を取る必要が無くなる。
しかし。
事故を未然に防いでしまった場合、僕は、エミリさんと夫婦になれないかもしれない。事故を防ぐこと自体が、正しくないかもしれないのだ。だから、今からあそこの部屋のインターフォンを押して、お母さんと話すことが、正しいことなのか間違ったことなのかが分からない。
頭を抱える。どうする。
そして優柔不断な僕を悩ませる、もう一つの要因があった。もはやこれは、自分だけの問題ではない。真一君とお母さんに、僕は出会ってしまったのだ。
明日の夜、あのお母さんは僕を車で轢く。赤の他人に、取り返しのつかない障碍を与える。自分たちだって、ある程度の怪我、もっと言えば命を落とすかもしれない。しかも、一命を取り留めたら取り留めたで、死んだほうがマシだったと言いたくなるような地獄が待っている。
警察のお世話になるのはもちろん、恐らく、とんでもない額の賠償金を支払わされることになる。それは、オンボロアパートに住むシングルマザーにとって、どの程度の負担、苦悩なのだろう。
今の部屋、今の職場に、今後も居続けられるのか? 間違いなく、近所の人たちから白い目で見られる。そして何より、真一君はサッカーを習い始めることができるのか?
あの親子の人生と運命も、僕が握っているのだ。
そして、さらにもう一つ。僕には根本的な思いがあった。
僕の脳内にある、泣いているエミリさんの顔。なぜ泣いているのか、詳細は分からない。でも、この顔だけは絶対にもうさせてはいけない、という本能が僕の中に存在していた。そしてそのためには、絶対に事故を防がなければいけない、という直感も。
事故を防がなければ、確かにエミリさんと確実に結婚できるかもしれない。しかし結局、エミリさんを泣かせてしまう未来にまたなってしまう……と、思う。だったら、事故を防いだうえで、エミリさんと結婚できる道筋を考えればいい。
――よし、決めた。
意を決した僕は、アパートへと歩を進めた。
しかし、その、三歩目だった。
ガンっ。
突然の衝撃。視界が歪む。瞬間、後頭部に激痛が走る。地面とキスするように急接近。僕は、倒れているのだ。
――誰かに、殴られた。
そう気付いた瞬間、意識が遠のいた。
*
階段を、ゆっくり下りている。音を立てないように、慎重に、慎重に。そもそもこれは、どこの階段だ?
嗚咽混じりの、泣き声が聞こえてくる。泣き声と言っても、赤ちゃんのそれとは違う、野太く汚い声だった。
一体、何なんだ。どういう状況だ。
階段を下り終えた僕は、ゆっくり廊下を進む。半開きのドアから恐る恐る中を覗くと、両親と見知らぬ女性がいた。
「すまんなぁ、すまんなぁ」
父さんが泣きながら、女性に謝っている。母さんも涙を流しながら、顔を手で覆っていた。記憶にある父さんと母さんより、少し老けた印象だった。
女性は二人を諭すように、ただ微笑んでいる。母さんの背中を擦り、ゆっくりと頷いている。女性はとても美しく、女神のように思えた。
いや、僕は、あの女性を知っている。エ、ミ……。
「すまんなぁ……!」
僕の思考を、父さんの慟哭が掻き消す。母さんは相変わらず、顔を手で覆っている。
――ねぇ。父さん、母さん。どうしてそんな、泣いているの?
*
目覚めたら、知らない部屋だった。
全く、意味が分からない。
夢……。夢を、見た。綺麗な女の人が両親を慰める夢だった気がするが、はっきり思い出せない。ただ、今はそんなことどうでもいい。
横になったまま、狭い室内を一周見回す。恐らくだが、ここは、病院? ドラマの記憶しかないけど、病室で間違いないと、思った。しかし一つだけ、僕のイメージする病室とは異なる部分があった。
〈起きたら、手元にあるスイッチでナースコールを押してください!〉
部屋中の壁、至るところに、脅迫めいた赤字でそう書かれた貼り紙があった。
真っ白なシーツを握りしめながら、呼吸が荒くなる。
何だこれは。何で僕は、病院にいるのだ。これは、入院しているということか。確かに体全体がだるい、気がする。起き上がれないというよりは、全く動きたくない。でもこれは、ただの怠惰であって、病気や事故が原因ではないと思う。
……事故?
瞬間、脳内にいくつかの映像がぶつ切りで浮かぶ。
耳をつんざく車のブレーキ音、目を焼くヘッドライトの明かり――。
僕は、事故に遭ったのだ、昨日。それで入院しているんだ。
いや、本当に昨日か? 昨日のような気もするし、遥か昔のような気もする。そもそも、事故に遭ったこと自体、本当に真実なのか?
混乱、混乱、そして混乱。
ゆっくりと深呼吸。まず、落ち着こう。一人で考えても、答えは出ない。
耳を澄ますと、遠くから女性の話し声が聞こえてきた。何とか液だとか、何とか処置だとか、医療に関する単語を言っているような気がする。
やはり、ここは間違いなく病院だ。部屋全体が殺菌されているような、つんとする香りが充満している。とりあえず指示通り、ナースコールをして問題ないだろう。
僕が手元のコントローラーでボタンを押すと、遠くから軽快なメロディが流れてきた。その直後、激しい足音も聞こえてくる。
「大丈夫ですか! 分かりますか? 私の顔、見えますか?」
慌てて駆けつけた看護婦が、僕の手を握る。脈でも計っているのだろうか。まだ朦朧とする意識の中、その看護婦の顔を認識する。途端、体中に電気が流れたような衝撃を覚えた。
吸い込まれるような大きな瞳から流れるようにスッとした鼻筋が続き、丸みを帯びたピンクの唇がその下で半円を描いている。
「エ、ミ、リ、さん……」
僕は上半身を起こし、看護婦の、エミリさんの胸に、顔を埋めた。自然に、涙が零れる。
自分でも、何でそんなことをしたのか分からない。ただとにかく、生き別れた家族と数十年ぶりに再会したような、そんな高揚感があった。今、僕の脈はどうなっているだろう。
「えっ……えぇっ?」
エミリさんは困惑しながらも、僕を突き飛ばすこともなく、ただ頭を撫でてくれた。
*
「こんにちは。医師の大泉です」
エミリさんからの連絡でやって来た医師は、開口一番、僕に名乗った。初老の男性だった。僕もぼんやりしたまま、黙礼する。
「ちょっと失礼しますね」
僕の目に、大泉医師がライトを当てる。エミリさんは医師の後ろで、不安げな表情のまま佇んでいた。
「うん、大丈夫そうやね。では改めまして、名前、分かりますか」
「大泉さん」
「僕やなくて、自分のです」
「えっと、ミ……ノリカワ、ノリオです」
咄嗟に、偽名を使った。なぜかは分からないけど、脳のどこかで、本名を言わないほうがいいと、警告されているような気がした。
「ミノリカワノリオさん。変わった名前やね」
大泉医師とエミリさんが顔を見合わせて微笑む。
「ミノリカワさん。ちょっとお話したいことがあります」
「はい、何ですか」
大泉医師が辺りを見回す。病室の前を、点滴を引いた一人の老人が歩いていった。
「ここは人通りもありますし、見せたいものもあるので。一階に来てもらえますか」
僕は「分かりました」と答えつつ、少し不安だった。人前で話せないような、重い内容だということだろうか。
大泉医師は、エミリさんにぼそぼそと指示を出し、病室を去っていった。
エミリさんが一度、廊下に出てからすぐに室内へ戻ってくる。車椅子を押していた。
「ミノリカワさん。これに座ることはできますか」
僕はベッドから足を下した。少しふらふらする。慌ててエミリさんが僕の体を支える。眼前にエミリさんの体が近づいてきて、いい香りがした。
「大丈夫ですか。せーの、で行きますよ」
エミリさんに抱き抱えられるような状態で、ようやく僕は車椅子に腰を落ち着ける。廊下へ出ると、病院内は驚くほど静かだった。病院なのだから当たり前かもしれないけど、それにしても静かすぎると思った。ナースステーションの前を通る。看護婦二人が、暇そうに世間話をしていた。
それにしても、この景色は初めての体験だった。病院そのものではなく、車椅子に乗った目線の話だ。自分はただ座っているだけなのに、どんどん前に進んでいく。まるで王様になったような気分だった。エミリさんは重たさを感じていないだろうか。
「あの、すみません。運んでもらって」
「いえ、大丈夫ですよ。仕事ですし」
少し、息が荒い気がした。先ほども僕の体を支えてくれたし、多少なりとも体力を消耗しているのだろう。こんなことなら、ダイエットしておけば良かった。
自分の腕を見る。しかし、違和感を覚える。ダイエットしなくても、すでに痩せている。筋肉が無くなり、張りも無くなって染みも増えている。
「ミノリカワさんって、私のストーカーですか」
「はい?」
突然の質問に、思考が遮断される。〈ストーカー〉って、あのストーカーのことだろうか。「どっ、どういう意味ですか」と尋ねると、エミリさんはプッと噴き出した。
「冗談ですよ。ただ最近、〈白木さん〉って人が私によく会いに来るそうです。まぁ、エミリって名前の看護婦は他にもいるので、私じゃないかもしれないですけど」
「そう、なんですか」
僕はその白木に怒りを覚えつつ、共感もしていた。もちろんストーカー行為は許せない。しかし、こんなに美しくて優しい人なら、そりゃ付き纏いたくもなるよな、と思った。
「受付の人が、一応警戒するようにって教えてくれたんです。それでミノリカワさん、目覚めた瞬間に私の名前を言ったでしょ。だから怪しいなって」
「あっ、いや、それは」
どぎまぎする僕を、試すような目つきで背後から覗き込むエミリさん。しかしすぐさま、またプッと噴き出した。
「だから冗談ですって。私の名札が見えたんですよね」
僕は咄嗟に頷いた。しかし、釈然としない。エミリさん本人が納得してくれたからそれでいいのだけど、僕自身がどうしても納得できなかった。
僕はどうして、初対面の女性の名前を知っていたのだろう。そして、どうしてこの人の声は、僕の心をこんなにも落ち着かせるのだろう。
赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、無意識に視線を移す。毛布に包まれた赤ちゃんを母親が抱き、周囲をその関係者が取り囲んでいた。赤ちゃんは泣いているが、大人たちは皆、幸せそうな笑顔だった。
気付くと、車椅子は止まっていた。エミリさんのほうを一瞥すると、エミリさんはぼんやりと赤ちゃんを見つめていた。
「あっ、すみません」と謝罪され、車椅子が再び動き出す。少しの沈黙の後、掲示板に貼られた七夕イベントのポスターを見て、エミリさんがおもむろに口を開いた。
「ミノリカワさんって、夢とかあります?」
「夢、ですか」
場を繋ぐためのただの世間話なのだろうけど、僕はふと、真剣に考えた。
僕は自他共に認める優柔不断だ。何かやりたいことを見つけても、それが無理な理由をすぐさま見つけ、〈やりたくないこと〉に変換してしまう。だから結局、僕みたいな何の取り柄もない人間は、普通の会社に就職して普通の人生を歩むのだろうな、と思っていた。しかし最近、その〈普通〉というのが何よりも難しいのではないかと、そう思い始めてもいた。そのため僕は、夢どころか現実的な進路さえ、まだ決めていなかった。
「ちなみに、看護婦さんは?」
僕は質問に質問で返すという、逃げの一手を取った。しかしエミリさんは僕を責めることもなく、快活な笑顔で答えてくれた。
「私ね、赤ちゃん大好きなんです。だから、笑われちゃうかもしれませんけど、普通に結婚して赤ちゃんを産んで、そういう、普通のお嫁さんになれたらなぁ、って思ってます」
「そうですか。結局それが、一番の幸せですよね」
僕にとってその〈普通〉は難易度の高いものだが、エミリさんなら簡単だろう。こんな綺麗な女性が、結婚できないわけがない。僕はその未来の相手に、嫉妬を覚えた。
「この前なんて、赤ちゃん用品店で未来の赤ちゃんに着せる服を妄想していたら、店員さんに『お子さんは何歳ですか?』って接客されちゃって」
エレベーターの前に到着し、エミリさんが僕の横に立つ。こちらを向き、これ以上ないくらいに頬を綻ばせ、
「もう、最悪でしたよ」
そんな彼女と思いがけず目が合った瞬間、僕は息ができなくなった。こんなに幸せな呼吸困難は、初めてだった。その笑顔が、僕の人生で見たものの中で、一番綺麗だったからだ。
僕は、生まれて初めて、〈一目惚れ〉というものを経験した。
その後も、エミリさんは理想の子育てについて一人で喋り続けたが、僕は目を伏せて呼吸を整えることに必死だった。
到着したエレベーターに乗ると、目の前に鏡があった。鏡の中の自分と目が合った瞬間、ぎょっと目が見開く。向こうの自分も同じように目を見開いていた。
「あの、えっと、看護婦さん」
「何ですか」
「僕は、その、何年くらい、眠っていたんですか」
エミリさんがプッと噴き出し、僕の肩を叩く。
「大丈夫ですよ。二時間くらいです」
しかし、今回ばかりはエミリさんの言葉も意味を成さなかった。彼女の澄んだ声が、僕の耳を素通りする。先ほどの彼女の笑顔がまだ脳内に残っていたため、かろうじて理性は保てているが、動揺は全く消えなかった。
人は、二時間でこんなに老けるものだろうか。
*
一階へ到着し、ロビーを進む。院内はどこもかしこもがらんとしていて、〈外来受付〉と書かれたカウンターには誰も並んでいなかった。そこでようやく気付く。今日は休日なのだ。だから、病院全体がこんなに静かなのだ。
しかし、おかしい。昨日は確か日曜日だったはずだ。学校が休みで、まっつんとノブと一日中遊んだ後、松下デンキで日本対ロシア戦を見た。ということは、今日は月曜日だ。病院が休みであるわけがない。創立記念日か何かだろうか。
エミリさんに連れられ、〈外来診察室3〉に入っていく。車椅子のまま、大泉医師と向き合った。室内には小さなベッドが置いてあり、病院特有の消毒液のような匂いがより強まった気がした。幼いころ、腹痛で来院したときにこの硬いベッドに寝かされた、嫌な記憶が蘇った。
「改めまして、こんにちは。早速ですがミノリカワさん、こちらを見てください」
大泉医師が、ホワイトボードにレントゲン写真のようなものを貼りつけた。それは、脳味噌のように見えた。
「貴方が意識を失っている間、色々と検査させていただきました。こちらのCTを見て頂きたいのですが、ほらここ。分かりますか」
大泉医師が、脳味噌の一部分を指差す。そこだけ黒ずんでいるように見えた。
「脳の一部に、欠損があります」
「けっ、欠損?」
僕は瞠目した。僕はそんな、とんでもない事故に巻き込まれたのか。
「そもそもですが、ミノリカワさんはどうして病院へ運ばれたか、覚えていますか」
「いえ、全く」
即答した。その疑問は、目覚めたときからずっと考えていた。しかし、どれだけ考えても結論が出なかった。脳の中から記憶を引っ張り出そうとしたが、そもそもの記憶が無いような、そんな違和感を覚えた。
「道端で倒れていたところを、発見されたのです。どうやら、誰かに殴られた可能性が高いようです」
「それで僕は、脳に欠損を?」
「いえ、それと今回の件は全くの無関係です。その欠損は、もっと前からあったようです」
大泉医師が、身を乗り出して僕を見据える。
「ミノリカワさん。失礼ですが、過去に事故に遭って障碍を負ったとか、そういった経験はありますか」
息を呑む。そんな質問をしてくるということは、僕に障碍がある可能性が高いということだ。しかし僕は、ただ実直に本当のことを答えるしかない。
「障碍って言われても、別に。サッカーをしているので、多少なりとも怪我はしますけど」
「サッカーというのは、趣味で?」
「いえ、部活です」
瞬間、大泉医師の表情が強張った。後ろのエミリさんも、目を瞬かせている。
「ミノリカワさん。失礼ですけど、おいくつですか」
「十七です」
僕は真剣に答えた。しかし大泉医師とエミリさんが顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。
「ちなみに、他に自分に関する記憶は何かありますか」
自分に関する記憶、という言葉に違和感を覚えた。そりゃ、自分は自分なんだから、自分に関する記憶なんて沢山あるに決まっている。でも、そのどれを答えればいいのか分からない。ここでいきなり、「去年、彼女に無理やりキスをしてビンタされました」とカミングアウトすればいいのか。
「例えばですけど、結婚指輪をされていますよね。ご結婚、なされているんですか」
指摘され、僕は初めて自分が指輪をしていることに気付いた。何だこれは。僕はこういったアクセサリーに全く興味がない。もちろん、結婚なんて以ての外。僕はまだ童貞だ。
しかし。
大泉医師に結婚の質問をされたとき、なぜかエミリさんの顔が頭に浮かんだ。僕は彼女と結婚しているのではないかという、あり得ない妄想が脳の最前列にこびり付いている。
エミリさんを見る。エミリさんは僕に、愛想笑いのようなものを向けた。
結婚なんて、しているわけがない。でも、しているとしか思えない。意味が分からない。僕の頭は、記憶は、どうなってしまったんだ。
何も言葉を発せられない。頭を抱えると、大泉医師が大きく息を吐いた。
「分かりました、ミノリカワさん。まだ記憶の混濁があるようですし、とりあえず部屋に戻って休んでください」
「休めって言われても、何て言うか、全く意味が分からない状況なんですけど」
縋るように、エミリさんを見つめる。エミリさんが微笑み、助け船を出してくれた。
「大丈夫ですよ。すぐに、警察の方が来てくれます」
「けっ、警察?」
僕はまた瞠目した。瞬間、大泉医師がエミリさんを睨みつける。エミリさんの表情が曇り、俯いた。恐らく、今のは僕に言ってはいけない情報だったのではないだろうか。
大泉医師が表情を笑顔に戻し、こちらを見る。
「ミノリカワさん。実はね、貴方が眠っている間に、こちらで警察に電話しておいたんですよ。貴方は、身分を証明するものを全く持っていなかった。殴られた形跡もありますし、我々としても、警察に通報するのが義務でして」
反論できず、僕は沈黙した。大泉医師の言いたいことは分かる。分かるどころか、百パーセント正しい。しかし、〈警察〉という単語を聞いた瞬間、とてつもない息苦しさを感じた。
警察が怖い、というのは当たり前のことかもしれない。しかし、そういった普通の恐怖を凌駕するほどの恐怖心が芽生えていた。悪いことをしたわけではないのだから、堂々としていればいい。警察に調べてもらえば、僕の現状も少しは分かるだろう。得しかない。
それは分かっているのだが、それ以上に僕の中には、絶対に警察に連れて行かれてはならない、という根拠不明の確信があった。
「先ほど、貴方が目覚めたことを連絡したんですけど、ちょっと時間が掛かるみたいです。警察のほうも、今日はパブリックビューイングの警備とかで忙しいらしくて」
大泉医師の言葉に、僕は顔を上げた。理解できない部分があったからだ。
「パブリックビューイングって、何のですか?」
「何って、サッカーに決まってるじゃないですか。日本対ロシアの」
「……何で、終わった試合のパブリックビューイングをするんですか」
またもや、大泉医師とエミリさんが顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。
「いえ、試合は今日ですよ」
僕は、自分の顔が熱くなっていくのを感じた。怒りと困惑が、沸々と湧き上がる。
「いやいや、おかしいですって! 1対0で、日本が勝ったじゃないですか!」
大泉医師に食って掛かったが、彼は歯牙にも掛けず優しく微笑んだ。
「そうですか。本当に、そうなるといいですね」
「いや、嘘じゃ――」
大泉医師の貼りつけたような笑顔。そこには一切の感情が無く、僕は言葉を発する気力を失った。もう、何を言っても信じてもらえない。話すだけ無駄だ。
「まあ、貴方が未来からタイムスリップしてきたかどうかはともかく」
「……えっ」
またもや、大泉医師の言葉に顔を上げる。大泉医師はぽかんとしながら僕を見た。
「いや、冗談ですよ」
「あ、えっと、そうですよね、はい」
再び俯く。大泉医師が大きく手を叩いた。
「じゃ、部屋で休んでいてください。田丸さん、連れていってあげて」
「はい」
エミリさんが僕の背後に回り、車椅子を押し始める。このままでは不味い。絶対に部屋に戻ってはいけない。警察と会ってはいけない。もう理屈はどうでもいい。僕の脳がそう警告を発しているのだから、それに従うだけだ。
「すみません。ちょっとトイレに」
廊下を進んでいる最中、エミリさんにお願いする。エミリさんは「はい、いいですよ」と言い、車椅子を近場の男子トイレ前へ止めた。当たり前のように一緒に入って来ようとする彼女を、慌てて制止する。
「いや、大丈夫です。一人で行けます」
僕は車椅子からやおら立ち上がり、一人でトイレへの歩を進めた。
「本当に大丈夫ですか」
「はい。ちょっと不安ですけど、さすがに恥ずかしいので」
「分かりました。私はここで待っています。何かあったら、中の呼び出しボタンを押してください」
「ただ、すみません。大きいほうなんで、ちょっと時間が掛かるかもしれませんけど」
僕はわざとらしく頭を掻いた。エミリさんが噴き出す。そのままの笑顔で、
「はい、分かりました。いつまでも待っています」
「いつまでも?」
「はい。何時間でも、何年でも。貴方と再び出会える瞬間を、楽しみに待っています」
間違いなく冗談なのだろうけど、なぜか僕は、その言葉が胸に詰まった。泣きそうになるのを堪えながら、トイレへ入っていく。もう、足はふら付かなかった。ドアを閉めた僕は、一度大きく息を吐き、個室ではなく窓際へと一目散に進んだ。
窓を開けてみる。しかし、窓の向こうに格子があり、外へ出ることはできない。とりあえず本当に小便はしたかったので、小便器で用を足す。どうしたものかと思案し、恐る恐る入口のドアに手を掛けた。スライド式だったため、一切音を立てずに一センチだけ開けることができた。
外の様子を窺うと、少し離れたところで、エミリさんが白衣を着た男性と会話していた。茶髪のロングヘアーで、スラッとした体型。まさしくエミリさんとは美男美女といった感じで、僕とは正反対の男だった。
男がおもむろに、エミリさんへ小箱を差し出す。受け取った彼女が中から取り出したのは、銀色のネックレスだった。満面の笑みで、すぐさまエミリさんは首に装着した。
それ以上、その光景を見ていられなかった。悔しさと悲しさと苛立ちと切なさと、様々な感情がない交ぜになった何かが、腹の中で蠢いている。
ふと視線を逸らす。清掃員が、大きなコンテナを持ってこちらへ近づいてくるのが見えた。
あれしかない。そう思い、心の中で、エミリさんに別れと謝罪の言葉を告げる。コンテナがトイレの前を通った瞬間に僕も前屈みになり、コンテナの動きに合わせてトイレを出た。
エミリさんと離れたくない。でも、離れなければならない。今、離れることで、後でずっと一緒にいられるのだから。自分でも言っている意味が分からない。でも、そんな気がしてならない。思考と脳味噌が、一致していない。今はこれ以上考えても仕方ない。混乱するだけだ。とにかく、本能に従って、逃げることだけ考えよう。
コンテナの陰に隠れて数メートル進む。清掃員には怪訝そうに見られたが、気にしない。エミリさんから完全に見えなくなったところでコンテナから離れ、走り出す。今日は病院が休みなので、正面入口が開いていない。出られる場所を探さないと。
小走りで院内を捜索すると、〈時間外出入口〉を発見。そこから出ると、警備員が笑顔で会釈してきた。
「あれ、渡し忘れですか」
意味が全く分からなかったが、空笑いで「はい」とだけ言い、その場を去った。
外へ出て、辺りを見回す。この景色は見覚えがある。ここは、僕の知っている津市の大学病院だ。その事実にまず、安堵する。しかし、ここからどうする。とりあえず、この近くから離れなければならない。色々と考えるのは、その後だ。
僕は十分ほど歩き、公園を見つけた。とりあえず中のベンチに腰掛ける。途端に風が吹き抜け、少し寒さを感じる。辺りは薄暗く、園内の時計を見ると午後六時過ぎだった。
逃亡に成功したのはいい。だが、これからどうする。僕は、この世の中は、一体どうなっているのだ。
今日は、西暦2002年の6月10日、月曜日ではないのか。大泉医師は自信満々に、日本対ロシア戦の当日、つまり6月9日だと言っていた。日付の勘違いは、誰にでもある。しかし、〈日本対ロシア戦がまだ終わっていない〉なんて勘違いが、あり得るだろうか。今日の朝、一度でもテレビを点けたら、そのニュースで持ち切りになっているはずだ。普通、そこで自分の勘違いにも気付くはずだ。
ニュースで持ち切り……?
ふと、自分の言った言葉に違和感を覚える。そういえば、僕は今日、学校でその話題を友達と話したか? もし学校へ行っていたら、間違いなくその話をしているはずだけど、記憶が全く無い。ということは、僕は通学途中で意識を失ったのか? しかし、今の自分は制服姿ではなく、見たことのない私服姿だ。
頭を抱える。考えれば考えるほど、訳が分からない。しかし厳密に言えば、一つだけ、思い当たる節があった。だけど僕の理性が、その可能性と向き合うことを拒否している。
――タイムスリップ。
そう。大泉医師が冗談で言ったあの言葉。僕はあの言葉を聞いたとき、思わず「はい、そうです」と言ってしまいそうになった。脳のどこかで、それが事実であると認めてしまいそうな、そんな感覚があった。
僕は本当に、未来からタイムスリップしてきたのではないだろうか。だから、今日の試合結果も知っているのではないだろうか。
馬鹿げている。本当に馬鹿げている。しかし、そう考えると不思議なくらい腑に落ちた。とてつもなく納得している自分がいる。理屈とか根拠を超えた安心感だった。
「えっ?」
突如、腕に強い衝撃を受ける。驚いて見ると、腕を掴まれていた。
「おい、行くで」
腕から視線を伝い、顔を見る。そこにいたのは。
「……えっ?」
僕自身だった。
髪はボサボサで出っ歯。しかし、紛れもなくエレベーターの鏡で見た、あの顔。
宮川大介、そのものだった。
*
自分自身に連れて来られたのは、公園内にあるトイレだった。男二人で個室に入り、ドアを閉める。何週間も清掃していないであろう和式便所。充満する強烈な芳香剤とアンモニアの臭いに、思わず嘔吐く。
「何で、こんなところに?」
「そりゃお前、同じ顔の奴が会話してるところを見られるわけにはいかんやろ」
「まぁ確かに」
その部分に関しては納得した。しかし、それ以外に分からないことが多すぎる。
「えっと、貴方は」
僕は怖ず怖ずと聞いた。狭い個室内で、数十センチの距離で見ても、やはり自分自身にしか思えない。
「俺は、一年後のお前や」
僕はその答えに、さほど驚かなかった。〈タイムスリップ〉という可能性がある以上、そうとしか考えられなかったし、逆にそうじゃないほうが怖かった。
「一年後ってことは、2003年の?」
「アホか。2023年じゃ。何ボケてんねん」
さっきから、言葉遣いが荒い。いくら一歳年上とはいえ、自分自身に対して〈お前〉と言うのはどうなのだろう。あと、一人称も〈俺〉になっている。
ただこちらも、自分自身だと分かった以上、そこまで気を遣う必要は無い。
「いやいや、何で2002年の一年後が、2023年やねん。ボケてんのはそっちやろ」
一年後の自分は、目を皿にして僕を見た。数秒後、何か合点がいったようで、
「そうか。俺が殴って、数時間眠ってしまったせいで、記憶が断片的に……」
「ちょ、ちょっと待て。殴ったってどういうことやねん」
「そっちこそ、ちょっと待て。そうなってくると、話が変わってくる。どこから説明すればええのか……」
一年後の自分は斜め下を見て、何やら思案しているようだった。ところで気のせいかもしれないけど、一年後の自分が喋る度に、変な匂いが鼻に届いてくる。まるで深夜の父さんみたいな、気持ち悪い匂い。
「なぁ、何か臭ない?」
「そりゃトイレやからな」
「じゃなくて、お前の口や」
「嘘やろ。こっちに来てからは飲んでへんで」
「お前まさか、酒飲んでたんか」
僕は侮蔑の視線を向けた。途端に、一年後の自分の顔が紅潮して色をなした。
「そりゃ飲むやろお前! お前のせいでこの一年間、どれだけ苦しかったか……酒でごまかすしかないやろうが!」
思わず、後退る。タイルのひんやりとした感触が背中に伝わる。こいつが、ずっと横柄な態度だった理由が分かった。酔っ払いというのは、こんなに情緒が不安定なのか。
一年後の自分は、背負っていたリュックを乱暴に下ろし、中から一冊のノートを取り出した。
「とりあえず、このノートの三ページ目まで読め。話はそれからや」
僕は差し出されたノートを受け取った。恐る恐る、一ページ目を開く。
「言っとくけど、そこに書いてあることはすべて事実や。反論したりせず、とにかくまずは全部受け入れろ」
一年後の自分の忠告を聞き流し、僕はノートの文章に没頭した。
そこに書かれていたのは、衝撃的な内容だった。
2022年の僕はエミリさんと結婚していて、そこから2002年にタイムスリップした。明日の事故を未然に防ぎ、エミリさんと結婚し直すためだ。僕は健忘症という障碍を持っていて、眠る度に記憶がリセットされる。
信じられないけど信じられる。そう思った。ここに書いてあることがすべて事実なら、今の状況がすべて納得できるし、何より、〈エミリさんと結婚している〉という事実を否定したくなかった。
文章を読んだことで、断片的ながら数々の記憶が蘇ってきた。
笑顔のエミリさんや泣いているエミリさん。そして、耳をつんざく車のブレーキ音、目を焼くヘッドライトの明かり――。
僕は一年後の自分を真っすぐ見据え、小さく頷いた。
「理解した、ってことでええな。結局お前……というか俺は、悩んだ挙句にそのノートの指示通り、事故を防いだんや」
「悩む? どういうことや。事故は防いだほうがいいに決まってるやろ」
「待て。その大事な部分に関しては、ノートの最後のほうに書いた。俺も馬鹿やない。お前の意識が無くなっている間に、文章でまとめておいた」
僕は慌ててノートのページを捲った。しかし。
「待て! そこはまだ読むな」
体がびくっと固まる。そのまま一年後の自分を睨みつけた。
「何でやねん、気になるやろが。ていうか、何で口で言わへんねん。回りくどいなぁ」
「今、そこのページを読まれたら、恐らくお前はパニックになって、俺と口論になる。そんな意味無いことはしたくないんや。あとな。実を言うと、今の俺は酔っ払っとる」
「知っとるわ!」
「そんな状態で、上手くこの状況を説明する自信が無い。せやから、何度も直しながらノートに書いていったんや。なるべく落ち着いた状態で、お前に現状を理解して欲しくてな」
一年後の自分は、リュックを僕に差し出してきた。見たことの無い、白い十字とハートマークが描いてある赤いキーホルダーが付いていた。
「これも返しとくわ。お前が気を失ったとき、誰かに見られんように俺が盗んだんや」
リュックを受け取る。トイレの床に置くことはできず、戸惑いながらも背負う。僕はそのまま、眉間に皺を寄せた。
「そや、大事なことをまだ聞いてない。何で俺を殴ったんや」
僕の眼光を真っすぐ見据えながら、一年後の自分が大きく息を吐く。彼なりに、落ち着いて説明しようとしている努力が伺えた。
「俺はこの一年間、本当に苦しんだ。記憶の変換が進んで、エミリさんと出会う前に、すべてのことを忘れてしまいそうやった」
「記憶の変換?」
「ちょっと待て。とりあえず俺の話を最後まで聞け」
「……」
「だから、改めて2023年の6月9日に公園へ行って、ケヤキの木に頭突きしたんや。本当に何となくや。そしたら、気付いたときには2002年の6月9日におった。俺も初めて知ったことやけど、ケヤキの木は、同じ日付にしかタイムスリップさせられへんみたいやな。お前も、6月6日に頭突きして、6月6日にタイムスリップしたやろ、って、覚えてへんか。……あっ、ちなみにな。あのケヤキの木は、2022年でちょうど樹齢三百年やったらしいで。せやから、不思議な力が溜まって、タイムスリップさせられたんやな」
「あのさ。さっきから言ってる、ケヤキの木って――」
「だから待てって! 頼むから、まずは俺に最後まで話させてくれ。それでとにかく、一年前の自分に忠告するチャンスができたんやけど、こっちの世界でお前を見つけた瞬間、頭に血が上ってしもてな。俺が一年間苦しんだのはこいつのせいなんや、って」
そこで一年後の自分は言葉を区切った。どうやら、話が一段落したらしい。聞きたいことだらけだが、とりあえず一言文句を言ってやらないと気が済まない。
「結局、イライラして殴った、ってだけのことか」
「酔ってたんやから仕方ないやろ! いきなりタイムスリップさせられて、いきなりお前を見つけて、冷静な判断なんてできるわけないわ! ていうか、障碍者の頭って弱すぎるやろ! あれくらいで倒れんなや! そもそもな、俺はそのままお前を警察に突き出すこともできたんやぞ! でも、こっちの世界でこれ以上イレギュラーなことをしたくなくて、それでこうやって、自分で説明するっていう選択を取ったんや。それについて、まずは感謝してくれよ!」
僕は、興奮する一年後の自分を白眼視した。
思えば、父さんも何か失敗したとき、〈酔っているから〉とよく言い訳していた。絶対こんな人間にはなりたくない。自分は何があっても酒なんて飲まないと、心に誓った。
「それで結局さ。僕は、いつこのノートを最後まで読めんねん」
「それは、安心しろ。俺はもうすぐ消える。せやから、その後に読んでくれ」
「きっ、消える?」
「あのな。2023年には、ケヤキの木の力もそんな残ってなかったんや。せやから、本当に僅かな時間しか、こっちの世界にはおられへんって、語りかけられたんや」
「だから、それが意味分からんのやって! 何やねん、木とか語りかけるとか記憶の変換とか。僕は、NASAのタイムマシンでタイムスリップしたんちゃうんか! このノートにはそう書いてあったで」
一年後の自分は、面倒臭そうに頭を掻きむしった。粉雪のようにフケが落ちる。
「ああ、そうか。そういう設定やったな。何度も言うけど、俺には時間が無い。せやから、その部分に関してはもう突っ込まんといてくれ。説明すんのも面倒やわ」
「いやいや、ちゃんと説明してくれよ!」
一年後の自分に詰め寄る。その瞬間、僕の手からノートが落ちた。黒ずんだタイルの床に、ぺちゃ、と音を立てて着地した。
「おい! 大事なノートやぞ、汚いなぁ!」
一年後の自分が、慌てて屈む。少し落ち着きを取り戻した僕は、気になっていることを聞いた。
「なあ。消えるって、どういうことや。仮に本当やとして、後どのくらいなんや」
「それが分からんねん。向こうも残っている力で、できる限りのことはしてくれるみたいやけど。その不安もあって、いつ消えてもいいように、先にノートへ全部書いといたんや」
言いながら、一年後の自分がノートを拾い上げ、手で汚れを払う。
「酔っ払いなりに、色々考えてんのやな」
「当たり前や、俺はお前の味方なんやから。ちょっと鞄の中、見せてみ」
僕がリュックのチャックを開けると、一年後の自分がもう一冊ノートを取り出した。〈35〉と表紙に書かれた、使い古されたものだった。
「こっちは、この二十年間の思い出が書いてあるノートや。余裕があれば、こっちも読んでくれ。この二十年間、自分がどれほど頑張って、エミリさんを愛してき――」
「……はっ?」
僕は、硬直した。頭が真っ白になった。
消えたのだ。突如、一年後の自分が。本当に唐突に、忽然と消えた。
勝手なイメージだけど、もっと徐々に薄くなっていくものだと思った。消える直前に、別れの挨拶もしようと思っていた。しかし、そんな暇も無く、一年後の自分は、イリュージョンのように消え去った。
「……」
数秒間の沈黙。直立不動のまま、無理やり現状を整理し、意識を戻す。
そうだ。とにかく、ノートを拾わなければ。
しかし。
ノートが、無い。二冊とも。また、頭が真っ白になる。
無駄だと分かりつつ、辺りを見回す。しゃがんで下を覗き、隣の個室に滑り込んでいないかを確認する。
やはり、無い。僕は一つの結論を出した。
ノートは、二冊とも一年後の自分が手に持っていた。そのまま一緒に、未来へ持って帰ってしまったのだ。
もちろん僕に、タイムスリップのルールなんて分からない。でも、予測はできる。
タイムスリップするときに、その人物が身に着けているものや手に持っているもの。それらはすべて、一緒にタイムスリップするのではないだろうか。実際、SF小説でも、タイムスリップしたけど本当に本人だけタイムスリップしたので、服が無くなって全裸になりました、なんて設定はほとんど無い。
しかし、そんな奇跡が、偶然が、あり得るか? 恐らく、一年後の自分が運命を託すために、すべてを賭けて書いた、僕への渾身のメッセージ。それが、一瞬の油断のせいで無くなるなんて。
想像でしかないけど、一年後の自分は今ごろ、激高しているのではないだろうか。NASA……ではなくケヤキの木、とやらに、もう一度タイムスリップさせろ、いくら何でもタイミングが悪すぎると、抗議しているのではないだろうか。
呻吟しながらも、はたと我に返る。もう、こんな場所にいる必要はないんだ。
放心状態のまま軋むドアを開け、僕はトイレを後にした。
*
公園のベンチに腰掛け、僕は再び頭を抱える。
落ち着け。とにかく、考えろ。
背負っていたリュックを下ろし、中を確認した。
一番大きな収納スペースには、ボールペンと修正液と大量のマスクと障碍者手帳、着替えとダサい帽子と財布が入っていて、小さいほうのポケットには、鍵と残り少ないポケットティッシュ、そして用途不明の黒い板が入っていた。
なぜかは分からないが、まず、その黒い板を触りたくなった。何気なく画面にタッチすると、画面全体が光り輝いた。「うおっ」と自然に声が漏れ、畏怖する。
しかし恐怖心とは別に、好奇心も芽生えていた。無意識に画面をスライドさせ、〈フォト〉というマークをタッチする。どうしてこんなに扱い慣れているのかは、やはり分からなかった。
画面に表示されたのは、僕とエミリさんの思い出の写真。自然と目頭が熱くなり、涙が溢れ出た。改めて確信した。僕は彼女を愛している。ほとんど面識は無いけれど、世界で一番大切で、世界で一番必要な人。
根拠なんてどうでもいい。僕の脳が、そう叫んでいるのだから。
改めて、絶対に事故を防がなければならないと、心に誓った。
だが、しかし。
だとしたら、一年後の僕は、なぜやってきたのだろう。自分のすべてを賭けて、何を伝えに来たのだろう。あのノートには、何が書かれていたのだろう。
それを、この不安定な脳味噌で推理しなければならない。
一年後の自分は、とにかく苦しんでいた。その原因を排除しに来たらしい。つまり僕は、こっちの世界で、何らかのミスをしたのだ。
わざわざ、タイムスリップをしてまで忠告したいこと。その内容は何か。
それは十中八九、エミリさんに関することだと思う。今の僕にとって、エミリさん以上に大切なことなど無い。
再度、黒い板を手に取る。〈フォト〉をタッチし、写真を眺める。とにかく、エミリさんとの思い出を遡ろう。そこに何か、手がかりがあるかもしれない。
恐らく、一番上の写真が、直近に撮った写真だろう。画面を下へとスライドしていき、エミリさんとの最古の思い出を確認する。
僕とエミリさんがツーショットで写っている最も古い写真は、病院で撮られたものだった。僕がベッドで横になり、看護婦のエミリさんがピースをしている。エミリさんはもちろん笑顔で、僕の顔は強張っていたけど、なぜかリラックスしているようにも見えた。
そうだ。やっぱり僕は、エミリさんと病院で知り合って、そこから関係を深めていったのだ。そして今度こそ、事故を防いで、エミリさんと出会って――。
……あれ?
ふと、疑問が頭をもたげる。事故を未然に防いだ場合、僕は当然、病院へは行かない。そのタイミングで、エミリさんと出会うことは無くなる。じゃあその後で、何らかの怪我をしてエミリさんと出会うのか? しかし、そんなのどうやってコントロールするんだ。仮に病院へ行く理由ができたとして、そこでエミリさんが担当看護婦になって、親しくなってくれる保証なんてあるのか。
途端に、背筋が寒くなる。呼吸が荒くなり、じんわりと脂汗が額に滲む。
一年後の自分が伝えたかったのは、まさにこれじゃないのか。
あっちの世界線の僕は、〈迷った挙句〉事故を未然に防いだ。事故を未然に防ぐか、エミリさんと出会うか、その二択を迫られたんだ。そして結局、事故を防いだ。障碍を無くすことを選んだ。
しかしそのせいでエミリさんを失った僕は、自暴自棄になり、アルコール中毒になった。一年間、記憶は失わないが、エミリさんを失った人生を歩んできた。僕にとって、エミリさんがいない人生は、記憶の無くなる人生よりも辛い。それは断言できる。
あいつが持って帰ったノートの最終ページには、〈絶対に事故を防ぐな。エミリさんと出会えなくなるぞ〉と書かれていたのではないだろうか。ただの推測だが、最も腑に落ちる。
そして僕には、もう一つ気になっていることがあった。
あのノートを読んで確信したが、やはり今日は〈6月9日〉だ。僕はタイムスリップして、再び日本対ロシア戦の当日に戻って来たのだ。大泉医師とエミリさんに、あれ以上食って掛からなくて本当に良かった。下手をすれば、強制的に警察送りにされていた。
そしてあのノートの一ページ目には、〈6月10日に事故に遭った〉と書いてあった。僕の脳の奥深くにも、断片的ながら確かに、〈明日〉〈事故〉〈防ぐ〉と刻み込まれている。
しかし、少し前に思考した通り、僕は試合の翌日、友達と日本対ロシア戦について学校で語った記憶が無い。本当に事故に遭ったのは〈10日〉なのか。その疑惑があった。
僕は公園で、稲本のシュートを真似しているときに事故に遭った。しかし、いくら興奮していたとはいえ、試合の翌日、しかも夜遅くにそんなことをするだろうか。やはり、当日、つまり〈9日〉にしていたと考えるほうが自然だ。
僕が本当に事故に遭ったのは今日〈9日〉だけど、過去の自分が細工して〈10日〉に書き直したのではないか。そういう疑念が渦巻いていた。
もしそうだとした場合、なぜ、過去の自分はそんな細工をしたのか。それではまるで、事故を未然に防がないほうがいいと判断し、日付を改竄したみたいではないか。
そう結論付けた途端、恐ろしいくらいに心が落ち着いた。まるで、何度も脳が頷いているようだった。
間違いなくそうだ。仮定の積み重ねでしかないが、はっきりとした確信が芽生えた。
つまり、過去の自分も未来の自分も、〈事故を防がないほうがいい〉と結論付けたのだ。障碍は残ってもいい。でも、エミリさんと出会えなくなるのは絶対に駄目だ、と。
しかし、あくまでこの世界線の決断は〈今の自分〉がしなければならない。
僕は今まで、すべての決断や努力を、後回しにして生きてきた。テスト勉強だってそうだ。何も努力しなかった昨日の自分を恨みつつ、きっと明日の自分は頑張ってくれるだろうと期待する。そこに、〈今の自分〉は存在しない。そして明日になったらまた、何も努力しなかった昨日の自分を恨み、明日の自分に期待する。
過去の自分と未来の自分にすべて投げ出し、今の自分は逃げの一手。
それが僕という人間の生き方だった。優柔不断というより、ただのクズだ。
しかし、今この瞬間のこの問題は、今の自分が結論を出さないといけない。過去の自分と未来の自分の思いを背負い、今の自分が責任を取らなければならない。
優柔不断な人間にとって、〈責任〉という言葉は最も聞きたくないものだ。できるだけ責任を負いたくないからこそ、とにかく間違えないように、何度も何度も迷うのだ。
だけど。
今の僕は、その言葉に、そこまでの重圧を感じていなかった。
もう、答えが決まっていたからだ。奇しくも、僕は数分前に自分で答えを言っていた。
――今の僕にとって、エミリさん以上に大切なことなど無い。
事故は防がない。それ以外に選択肢が無かった。僕がどれだけ優柔不断でも、〈エミリさんが好き〉という気持ちだけは不変である。過去の自分と未来の自分の思いを受け継ぐ意味でも、この選択は絶対に変わらない。
当然、罪悪感はある。僕の脳内に住み着いている、泣いているエミリさんの顔。その涙を止めるのが僕の役割なのに、恐らく僕はまた、彼女を泣かせる選択を取ろうとしている。散々、〈エミリさんが好き〉と言っておきながら、結局僕は、自分のことが好きなだけのクズなのではないかと、そう思わずにはいられない。
しかしそれ以上に、過去と未来と現在の自分が満場一致で決めた結論を変えてはいけないと、優柔不断な自分とは思えないほどの強い決意が、自分勝手な結論が、心と脳内に渦巻いていた。
なぜなら、僕は出会ってしまった。もしかしたら、気を失う前の僕は、〈事故を防ぐ〉という選択を選んだかもしれない。しかし、気を失った僕は、こちらの世界で、エミリさんと出会ってしまった。その瞬間、この人を絶対に失ってはいけないと、確信してしまったのだ。
病院で格好良い医師とエミリさんが会話していたとき、胸が張り裂けそうになった。自分が障碍を持っていると知ったときより、何倍も苦しかった。僕は、障碍があっても生きていけるけど、エミリさん無しでは生きていけない人間なのだ。
これ以上考えると、自分のクズさ加減に押し潰されそうだったので、僕はあえて思考を停止して立ち上がった。途端に、お腹が空いていることに気付く。しかし、何かを食べる余裕など無い。
僕には、時間が無いのだ。
明日の事故を防げばいいと思っていたときは、まだ余裕があった。しかし、事故が今日の出来事となると、話は別だ。あと数時間で、すべてを解決しないといけない。突然、タイムリミットが二十四時間短縮された。
どうする。悠長にしている暇はない。急いで、何かをしないと。
慌てて駆け出す。とにかく、松下デンキに向かわなければ。しかし、すぐさま足が止まる。コンビニ前の公衆電話が目に入ったのだ。
直接行くより、とりあえず松下デンキに電話してみるか。もう高校時代の自分たちも来ているはずだ。とにもかくにも、急いで何かアクションを起こさなければならない。
焦りとともに、僕はコンビニ前の公衆電話へ向かった。松下デンキの電話番号は、簡単な語呂合わせでできているため暗記していた。
――電話して、松下店長が出たら、えっと、とりあえず……って、あれ?
しかし、ボタンを押して数秒後。自分の勘違いに気付いて、受話器を置いた。
何をしているんだ、僕は。違うだろ。さすがに思考を停止させすぎた。もう〈事故は防がない〉と決めたのだから、何もする必要は無いのだ。タイムリミットなど無い。あと数時間だらだらしていれば、あいつは運命通り、勝手に事故に遭ってくれる。
一気に肩の力が抜けた僕は、コンビニの店内へと赴いた。おにぎりとお茶を買い、駐車場でそのまま開封。海苔が千切れないようにビニールを剥がし、一口齧る。
空の薄暮が漆黒になり、本格的な夜の到来を告げる。
――その、瞬間。
視界が歪んだ。足元がふらつく。気持ちが悪い。頭の中が、バーナーで炙られているようだった。爆発する。
コンビニの外壁に手を付き、その場にしゃがみ込む。
様々な映像、音、匂い、味、感情が、脳内で暴れ回っている。いきなり仕事が増えた脳味噌が、悲鳴を上げるように熱くなっていくのを感じた。
僕の脳に、突然、雪崩のように記憶が流れ込んできた。気を失う前の記憶だけではない。
昨日の、一週間前の、一か月前の、一年前の、十年前の。
一分前に食べたおにぎりが胃から込み上げてくる。僕はコンビニの裏手にある茂みに走り、嘔吐した。
そこで、ゆっくりと、本当にゆっくりと、現状を理解する。
――僕は、突然、健常者になったのだ。
でも、今、こんな奇跡は、誰も望んでいない。
