目覚めたら、知らない部屋だった。
全く、意味が分からない。
狭い室内を一周見回す。恐らくだが、ここは、ホテル? 昔の家族旅行とドラマの記憶しかないけど、ホテルの部屋で間違いないと、思った。しかし一つだけ、僕のイメージするホテルとは異なる部分があった。
〈部屋を出る前に、必ず机の上のノートを見ろ!〉
部屋中の壁、至るところに、脅迫めいた赤字でそう書かれた貼り紙があった。
落ち着け。何だこれは。何がどうなっている。確か昨日は、まっつんとノブと、松下デンキで日本対ロシア戦を見たんだ。その後、その後は――何も覚えていない。それが、最後の記憶だった。
でも、なぜだろう。最新の記憶なのに、脳の奥深くに仕舞われた、大昔の記憶のように感じる。
一度目を瞑り、深呼吸をする。もう一度「落ち着け」と心の中で念じ、ある程度の平静を取り戻す。そもそも、部屋中に貼られた紙の文字は、間違いなく自分の文字だ。つまり、この紙を書いたのは自分自身であり、おかしな奴に誘拐されたわけではない、はずだ。
だからここは、命令通り机のノートを見るのが正解だ。
僕はベッドからやおら立ち上がり、歩き出した。その瞬間、凄まじい痛みが脳に響く。割れるような頭痛。頭に手を当てながらよくよく観察すると、胃の辺りに不快感もある。気持ち悪い。風邪だろうか。よろめきながら、トイレへと向かう。便座に座った瞬間、水のような便が出た。少しスッキリしたが、体調が悪いことに変わりない。
用を足し終え、部屋の椅子へと腰かける。そこでふと、自分の手に違和感を覚えた。左手の薬指に、指輪がある。何だこれは。僕はこういったアクセサリーには全く興味がない。怖くなって、外して机の隅へと置いた。
机上にポツンと置かれたノートには全く折れ目がなく、新品のようだった。僕はその一ページ目を恐る恐る開き、深呼吸を挟みながら読んでいった。
三ページ目までを読み終えた僕は、放心状態になった。おもむろにテレビリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。
「運命のロシア戦、その時が刻一刻と近づいています! 早速、今日の日本代表の様子を見てみましょう! 現地の、富田アナー?」
すべてのチャンネルが、その話題で持ち切りだった。どうやら、このノートに書かれていることはすべて事実らしい。そうやって考えると、自分が老けている理由、そして足の捻挫が治っている理由と出っ歯になっている理由にも説明がついた。
しかし、こんな絶望的な状況にもかかわらず、僕は意外にも落ち着いていた。それはひとえに、一人の女性のお陰だった。
「エミリ、さん……」
無意識に、名前を呟いた。瞬間、知らないはずのその女性の顔が、次々に脳内に浮かんできた。
エミリさんの笑っている顔、澄ました顔、そして最後に、泣いている顔――。
おぼろげだけど、間違いない。僕は、この女性を知っている。そして、愛している。これこそが、僕の脳の最前列にこびり付いている、絶対に取れない最新の記憶だと確信した。
この女性の存在を脳が認識した途端、嘘のように現状を理解でき、受け入れることができた。とにかく自分は大丈夫だと、そう思えたのだ。
慌てて、机上の指輪を再度付ける。これは結婚指輪だ。これは僕とエミリさんの繋がりを示すもので、絶対に外してはならない。
ノートの次のページからは、様々な細かい注意点と今日の自分にしてほしいことが書かれていた。僕は朝七時に起きて夜十時に眠たくなる体質で、机の引き出しには昔のノートが入っているらしい。しかし、そちらは昔の思い出ばかりが書いてあり、読んでいるとそれだけで一日が終わってしまうので、興味がある場合のみ読めばいいとのこと。
だが、首を捻る。引き出しを開けても、昔のノートが入っていない。昨日の自分が、何か勘違いをしたのだろうか。
探すのは後回しにして、ノートに書いてあった指示に従い鞄の中をチェック。見たことの無い鞄で、白い十字とハートマークが描いてある赤いキーホルダーが付いていた。
障碍者手帳に驚きながらも、深呼吸して落ち着く。一番大きな収納スペースには、ボールペンと修正液と大量のマスクと障碍者手帳、着替えとダサい帽子と財布が入っていて、小さいほうのポケットには、鍵と残り少ないポケットティッシュ、そしてノートの記載通り、催涙スプレーと未来の携帯〈スマホ〉が入っていた。
次に、財布の中を確認する。六千八百円ほど入っていた。さらに未来から来た証拠として、見たことの無いお札や〈令和〉という刻印のある硬貨が入っていた。
最後に、スマホを触ってみる。何気なく画面にタッチすると、画面全体が光り輝いた。「うおっ」と自然に声が漏れ、感嘆する。
何でも、〈手続き記憶〉というもので、ぼんやりとだがスマホの使い方を理解しているらしい。実際、いきなり画面にタッチして起動できたし、さらに指をスライドさせて画面を動かすこともできた。
〈フォト〉というマークをタッチすると、僕とエミリさんの思い出の写真が溢れ出た。自然と目頭が熱くなる。改めて確信した。僕は彼女を愛している。一度も会ったことは無いけれど、何度も出会って愛を育んでいる。間違いなく僕と彼女は夫婦で、どんなに離れていても心が繋がっている。論理では説明できない、絶対的な自信があった。
僕にとって、エミリさんという存在は本当に大きいようだ。記憶にないはずの二十年間が、確かに脳内に住み着いている。僕の脳には障碍があるようだけど、そんなハンデをものともせず、それよりも強い〈愛〉で覆われている。物心の前に、〈エミリ心〉が付いていたのではないかと思うほどだった。
タイムスリップしてきた自分は、とんでもない大役を担っている。しかし、実際は大したことをする必要はない。とにかく、明日の事故を防げばそれでいいのだ。ノートにも書いてあったが、サッカーの試合が終わった後に「櫛田先生が見回りに来ている」と告げれば、ケヤキ公園に寄らず帰るだろう。
現状が整理できた僕は、鞄に荷物を戻して着替えた後、部屋を出た。昨日の自分に託された使命があるのだが、それより先に、やりたいことがあった。
*
部屋でノートを読んでいるときから、違和感があった。先日の僕は恐らく、昔の恋人に同情して、チャンスを与えた。マウスピースを託して、復縁の切っ掛けを作ってあげた。気持ちは分かる。目の前にいる元恋人を無下にはできない。むしろ、助けたいと思う。その場限りの優しさで、便宜を図ってあげたのだろう。
しかし、それは本当に、正しいことだったのだろうか。
万が一、本当に復縁してしまった場合、そのまま結婚してしまい、〈エミリさんと結婚する〉という未来に辿り着けなくなるかもしれない。梨花には申し訳ないが、その可能性だけは摘んでおかなければいけない。
やはり、マウスピースは返してもらおう。そして、復縁のチャンスは無いと、はっきり告げてしまおう。嘘でも何でもいい。「すでに新しい恋人がいる」とか、適当に言えばいいだけだ。
まだ昇り切っていない太陽を背に、大通りを歩く。半袖だと少し肌寒かった。路地を折れ、住宅街へ。数十メートル進むと、見慣れた木造の一軒家があった。
〈山城〉という表札が掲げられた、梨花の家。洒落た花模様が描かれた門柱のインターフォンを、ゆっくりと押す。
「はい、どちら様でしょうか」
鷹揚とした声が、機械越しに聞こえてきた。これは、梨花の母親だ。
「朝早くにすみません。あの、私、白木と申します」
僕はノートに書いてあった偽名を名乗った。どうしてこんな名前にしたのか、理由は書いていなかった。
「どういった御用でしょうか」
「梨花さん、いらっしゃいますでしょうか。今日、学校はお休みですよね」
「いますけど、梨花とどういったご関係で」
明らかに、声に不信感が込もった。このインターフォンは恐らく、こちらの顔が見えるタイプのものだ。向こうからすれば、休日の朝に、見知らぬおっさんが女子高生の娘に会いに来ているようにしか見えない。
「えっとですね。実は私、お宅の梨花さんと同じ高校の、宮川大介の親戚でして。それで梨花さんと面識があります。ちょっと大介について話したいことがあるのですが」
「はぁ。少々お待ちください」
ブッ、と通信が切れる。三十秒ほど待つと、ゆっくりと玄関のドアが開いた。
「何ですか」
顔だけを出した梨花が、こちらを睨みつけてくる。顔はやつれている印象で、目も虚ろだった。持病の喘息が出ているのだろうか。
「あのさ。この前、マウスピースを渡したよね。やっぱりあれ、かえ――」
「いい加減にしてください!」
僕の言葉を、梨花の怒号が遮る。眉間に皺を寄せた梨花の眼光が、さらに鋭く僕を捉える。
全く意味が分からない。彼女は、何を怒っているのだ。
「何なんですか、貴方。馬鹿にしてるんですか」
「いや、あの、僕はただ」
梨花が、俯いて口を押さえる。咳が止まらなくなった。
「大丈夫? ぜ――」
はっとし、口を閉ざす。今の僕が、喘息のことを知っていたらおかしい。
「帰ってください!」
何とか息を整えた梨花が、ドアを勢いよく閉める。取り付く島もない。慌てて玄関まで駆け寄り、「ちょっと!」と食い下がったのだが、中から聞こえてきた「警察呼びますよ!」の声で、僕は撤退を余儀なくされた。
逃げるようにその場を離れ、充分に距離を取ったところで一息つく。本当に意味が分からない。一体、僕の知らない間に何があったというのか。
近くの美容院に設置された時計を見ると、午前八時半だった。意味の分からないことばかりだが、考える余裕が無い。今、考えても仕方ないことは後回しにし、次にやるべきことへ、移らなければいけない時刻だった。
*
高茶屋駅からJRで津駅まで出て、近鉄線に乗り換え。数分で江戸橋駅に到着した。
昨日の自分から託された使命がある。それは〈エミリさんに会いに行け〉というものだった。正確に言えば使命ではなく、自分へのご褒美。
何でも、大学病院の一階ロビーにエミリさんがやってくる時刻を掴んだらしい。午前十時に必ずそこを通るから、それまでにロビーへ行け、との指示だった。
「……えっ」
しかし、大学病院の正面玄関に到着した僕は、鼻白んだ。今日は休日のため、開いていなかったのだ。〈急用の方はあちらの時間外出入口へ〉と書かれた立て看板に従い、裏へと回る。〈時間外出入口〉と書かれた大きなガラス扉の前には、警備員の格好をした屈強な男が立っていた。
通常、一階のロビーなんて誰でも簡単に入ることができる。それが、曜日が少しズレただけで、こんな難関になるなんて。
「おはようございます。どのようなご用件でしょうか」
こちらが身構える前に、話し掛けられた。躊躇したら、怪しまれてしまう。
「あの私、白木博人と申します」
またこの偽名を使ってしまった。一度、白木さんに謝りたい。
「はぁ。で、ご用件は」
少し、警備員の顔が曇った。しまった。怪しまれないようにまず名乗ったのだが、逆効果だったか。確かに、要件を聞かれているのに名前を言うなんて意味が分からない。
「あっ、えっと、〈松尾喜美江〉のお見舞いに来たんですけど」
ふと閃いた僕は、まっつんのお婆ちゃんの名前を使った。一度、松尾家にも謝りたい。
「ああ、でしたらこちらへどうぞ」
ガラス扉の中へ誘導される。そこには受付が設えてあった。
「ではこちらの紙にですね、お名前とご連絡先、患者様とのご関係を書いてもらって」
警備員に促されるまま、僕は紙に個人情報(もちろんデタラメ)を書いていった。しかし、その最中。
「ちなみに本日は、病院全体がお休みとなっております。本来は面会そのものを受け付けていないのですが、今日、お見舞いに来られたということは、何か病院側からの指示があったのですか」
「えっ」
一瞬、フリーズしてしまった。しかし、へどもどしている暇は無い。僕は闇雲にリュックを開いた。
「あっ、そうです。なんか、急いでマスクを持ってきてほしいって言われまして。お婆ちゃん、感染症の危険があるらしくて」
僕はマスクの入った箱を掲げた。その場しのぎにしては、いい言い訳だと思う。しかし、警備員は眉根に皺を寄せた。
「でも、マスクなら病院内に山ほどありますよね」
「それが、自分で使う分のマスクは自分たちで用意してください、って言われて。病院側も、経費削減でケチになったんですよ」
「ああ、なるほど。最近はどこも不景気ですからねぇ」
ようやく警備員に笑顔が戻る。左手で院内を指し「どうぞ」と促してくれた。
――ありがとう、警備員さん。この御恩は、明日まで忘れません。
多少の心理戦はあったものの、院内への侵入に成功。警備員から逃げる意味も込め、小走りで院内を捜索する。何度も角を曲がりながら辺りを見回すと、案内図を発見。それに従い、ロビーへと向かう。
ロビーには、ほとんど人がいなかった。普段の病院からは考えられないほどがらんとしていて、消毒液のような匂いだけが鼻をついた。
清掃業者さんが、階段の手すりを拭いている。広い受付には、一人だけ若い女性が立っている。入院患者さんらしき人が、ふらふらと歩いている。多種多様な人たちが、両手で数えられるくらいいるだけだった。
そのため、僕みたいな不審者がいても、とくに浮くことは無かった。ふと思いつき、マスクを装着。わざとらしく咳をしながら待合椅子に腰かける。これで僕も、立派な〈病院に用事がある人〉だ。誰も怪しむことが無いほど、この空間に溶け込んでいる。
時計を見る。九時五十五分。警備員と揉めたせいで、ギリギリになってしまった。しかし間に合った。本当にエミリさんは、十時にここへやって来るのだろうか。仮に来るとして、本当に十時ぴったりに来るのだろうか。もしかして、今日はもう、来た後なのではないだろうか。
いや、それは無い。昨日の自分が、あれだけはっきりと書いてくれたのだ。絶対的に、昨日の自分は今日の自分の味方。それを信じない理由が無い。
しかし、あえて言うなら一つ気になっていることがある。ノートに書かれた文章は、明日の自分にしっかり読んでもらうためか、すべての文字がテストの回答みたいに丁寧な文字で書かれていた。しかし、〈エミリさんに会いに行け〉という今日して欲しいことの指示部分。そこだけ、文字が雑だったのだ。殴り書きで脅すように書かれており、首を捻った。
再度、時計を見る。九時五十九分。辺りを何度も見回す。どこからエミリさんは来るのだろう。絶対に見逃してはならない。じっくりと待つ一分は、好きなテレビを見ている一時間よりも長く感じた。
――まだか、まだか。
そんなふうに待ち侘び、四方八方を見回している、最中だった。
「あああぁぁぁぁ!」
突然の奇妙な絶叫に、体が強張る。何だ、急に。病院内で大声を出すなんて、頭のおかしい奴が近くにいるのだろうか。しかし。
「エミリさぁん! 愛してるよぉ! 結婚してよぉ! 僕は未来の旦那さんだよぉ! 離れないでよ、エミリさぁぁん!」
それはまるで、僕の心の声をそのまま表しているようだった。気付くと、ロビーにいたすべての人の視線が僕に注がれていた。そこで気付く。この音声は、僕の近くから発せられているものだ。
「エミリさぁぁん! 愛してるよぉぉ!」
慌てて鞄を開く。音の出所はスマホだった。しかし、止め方が分からない。何だこれは。スマホ画面には、〈アラーム1 10時 音声メモ1〉と表示されている。その下にボタンらしきものがあるが、押しても何も起こらない。どれだけ連打しても、エミリさんへの愛を叫び続けるだけだった。
「すみません、すみません」
僕は周囲に頭を下げながら、逃げるようにロビーを出ていった。もうエミリさんを探すどころではない。ロビーを出て少し進んだところで、ようやくこのボタンは押すのではなくスライドさせるのだと気づく。音は何とか止まったが、もう戻れない。僕はまた、完全な不審者となってしまった。
行きと同じガラス扉から出ると、警備員が会釈してきた。マスクの受け渡しが終わったと思ったのだろう。僕も軽く目礼を返し、早足で病院の敷地を出ていく。昇り切った太陽が僕を照らし、一気に額から汗が溢れ出した。
*
怖くなった僕は、真っすぐにホテルへと戻った。もう何も信じられない。事故当日まで、部屋に引きこもっていたほうがいいのではないか。そもそも、昨日の自分は何をしたんだ。どうして、自分が自分の邪魔をするのだ。今の病院の一連の出来事に、どういう意味があるんだ。昨日の自分は、絶対的に今日の自分の味方ではないのか。
机に座って頭を抱えていると、ドアをノックする音が響いた。考え事をしていた僕は、その小さな音に飛び上がるくらい驚いた。
また、何かの罠かもしれない。恐る恐るドアに近づいて覗き穴に目を近づけると、魚眼レンズに正装を着たおばさんが映っていた。
「何ですか」
ドアを開け、顔だけを出す。おばさんは畏まって頭を下げた。
「突然申し訳ありません。宮川大介様ですね」
「はい」
「こちらのノートに見覚えがないでしょうか」
おばさんは僕に一冊のノートを差し出してきた。沢山折り目などが付いている、使い古された印象のあるノートだった。表紙に〈35〉と書いてある。
「いえ、知らないですけど」
僕は正直に頭を振った。
「実を言いますと、今日の朝、清掃員がロビーのゴミ箱から見つけまして。本当ならそのまま捨てるのですが、偶然、ノートの一ページ目だけ見えてしまいまして」
おばさんが、ノートの一ページ目を広げる。
〈このノートは非常に大事な物です。もし拾われた方は、以下の連絡先へ連絡してください〉
仰々しい注意書きとともに、四人の人間の連絡先が書いてあった。自分と両親、そしてエミリさん。
「これを見て、宮川様のものだと思いまして。大事なものと書かれておりますし、一応保管しておいたのですが」
そこでようやく腑に落ちた。これは、昨日の自分が引き出しに入っていると言っていた〈昔のノート〉だ。
「あっ、えっと、はい。やっぱり僕のです。すみません」
僕はおばさんからノートを受け取った。なぜゴミ箱にあったのか意味が分からないが、作り笑顔でおばさんに頭を下げる。
「それは良かったです。あと、そのノートに挟まっていたこちらの本も、宮川様のものでしょうか」
おばさんが新たに本を一冊、僕に差し出す。それは、コンビニの入口などで〈ご自由にお持ちください〉と書いて大量に置いてある、求人情報誌だった。
「えっと、それは」
言葉に詰まる。しかし、ノートの一件もある。僕は「はい」とだけ言い、とりあえず受け取る選択をした。
「そうですか。それは良かった。では」
おばさんは安堵したように微笑み、僕の前から去っていった。しかしその笑みは、何となくだが、先ほどの僕以上に作られたものだった気がした。
机に戻った僕は、求人情報誌を広げた。これは本当に、僕のものなのだろうか。ページを捲っていくと、カフェとコンビニ、そして清掃業者とクリーニング店の求人情報に赤い丸が付いていた。
これがもし僕のものだとしたら、僕はこっちの世界で働こうとしていた、ということか。
意味が分からない。僕は事故を未然に防いだ後、元の世界、2022年に戻るのだろうに。何で、こっちで生計を立てないといけないのだ。僕は、タイムマ……。
――いや、待て。
ふと、おかしな考えが頭をもたげる。僕は、NASAの発明したタイムマシンでこちらの世界にやってきた。それはノートに書いてあったし、間違いない。しかし、だ。そのタイムマシンは、どこにある? 事故を防いだ後、僕はどこに行けばいいのだ。それが書いていない。僕はもしかしたら、〈元の世界〉に戻れないのではないか。
そこら辺の調整は、ちゃんとNASAがしてくれていると信じたい。しかし、僕は特殊だ。障碍がある。もし、タイムスリップする前にそういった説明を聞いていたとしたら。そしてうっかり、僕がそれを忘れてしまうことを、全員が失念していたとしたら。
僕は事前に聞いていたであろう、タイムマシンの隠し場所に行くことができない。
昨日の自分は、その可能性に気付き、こちらの世界で生きていく決心をしたのではないか。
背筋に悪寒が走り、頭を掻きむしる。落ち着け、と自分に言い聞かす。
今の仮説は、何パーセントくらいの確率で正しい? 仮に正しかったとして、何をどうすればいい? そもそも、なぜゴミ箱に捨ててあった?
そうだ、とりあえずノートも見てみよう。そこに何か手がかりがあるかもしれない。
ノートを一ページ目から見ていく。事故に遭った事実と、2002年から2022年までの思い出が、日記のように書かれている。そこは斜め読みし、とにかく手がかりになりそうな記述が無いかを探していく。
そして、最後のページ。そこに、見つけた。手がかりではなく、答えそのものを。
〈明日の自分へ。この文章は、見つかるかどうか分からないところに書く。本当に悪いが、これを読んだ後、どうするかは、任せる。もう、今の自分には何も考えられない。
僕は、事故をみぜんに防いで、未来へ戻ってエミリさんと夫婦になろうとしている。でも、それは本当にできることなのか。僕は、事故にあったからこそ、エミリさんと結婚できたんだ。事故にあわなかったら、「カンゴフ」のエミリさんと、どうやって出会うんだ。出会ったとして、どうやって深い関係になるんだ。事故をみぜんに防いだ場合、本当に「エミリさんと結婚している元の世界」に戻れるのか?
最初、僕はカンタンな選択だと思っていた。僕にとってエミリさん以上に大切な存在なんていないのだから、「高校生の自分をわざと事故にあわせて、エミリさんと出会う」という選択を取ればいいだけだ。
でも、自分の中にいる、もう一人の自分が問いかけてくるんだ。本当にそれでいいのか。やっぱり、「事故を防いで障害を無くしたい」という思いもあるんじゃないか……と。
だから、今日の僕はもう分からない。すべての決断を、明日の自分に任せる。
結局、僕が大切なのは、「エミリさん」なのか、それとも「自分」なのか。明日の自分は、どっちを選ぶ?〉
頭が、真っ白になった。爆発しそうだった。もう、仮説とか、その他の問題はどうでもいい。こんな文章をいきなり読まされて、何をどうすればいいのだ。
天を仰ぐ。何も考えられない。できれば、見なかったことにしたい。
テレビの上の、目覚まし時計。その秒針の音だけが、室内に反響している。何分間、放心状態だっただろう。
呆然としている僕を叩き起こすように、本日二度目。部屋のドアをノックする音が響いた。
全く、意味が分からない。
狭い室内を一周見回す。恐らくだが、ここは、ホテル? 昔の家族旅行とドラマの記憶しかないけど、ホテルの部屋で間違いないと、思った。しかし一つだけ、僕のイメージするホテルとは異なる部分があった。
〈部屋を出る前に、必ず机の上のノートを見ろ!〉
部屋中の壁、至るところに、脅迫めいた赤字でそう書かれた貼り紙があった。
落ち着け。何だこれは。何がどうなっている。確か昨日は、まっつんとノブと、松下デンキで日本対ロシア戦を見たんだ。その後、その後は――何も覚えていない。それが、最後の記憶だった。
でも、なぜだろう。最新の記憶なのに、脳の奥深くに仕舞われた、大昔の記憶のように感じる。
一度目を瞑り、深呼吸をする。もう一度「落ち着け」と心の中で念じ、ある程度の平静を取り戻す。そもそも、部屋中に貼られた紙の文字は、間違いなく自分の文字だ。つまり、この紙を書いたのは自分自身であり、おかしな奴に誘拐されたわけではない、はずだ。
だからここは、命令通り机のノートを見るのが正解だ。
僕はベッドからやおら立ち上がり、歩き出した。その瞬間、凄まじい痛みが脳に響く。割れるような頭痛。頭に手を当てながらよくよく観察すると、胃の辺りに不快感もある。気持ち悪い。風邪だろうか。よろめきながら、トイレへと向かう。便座に座った瞬間、水のような便が出た。少しスッキリしたが、体調が悪いことに変わりない。
用を足し終え、部屋の椅子へと腰かける。そこでふと、自分の手に違和感を覚えた。左手の薬指に、指輪がある。何だこれは。僕はこういったアクセサリーには全く興味がない。怖くなって、外して机の隅へと置いた。
机上にポツンと置かれたノートには全く折れ目がなく、新品のようだった。僕はその一ページ目を恐る恐る開き、深呼吸を挟みながら読んでいった。
三ページ目までを読み終えた僕は、放心状態になった。おもむろにテレビリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。
「運命のロシア戦、その時が刻一刻と近づいています! 早速、今日の日本代表の様子を見てみましょう! 現地の、富田アナー?」
すべてのチャンネルが、その話題で持ち切りだった。どうやら、このノートに書かれていることはすべて事実らしい。そうやって考えると、自分が老けている理由、そして足の捻挫が治っている理由と出っ歯になっている理由にも説明がついた。
しかし、こんな絶望的な状況にもかかわらず、僕は意外にも落ち着いていた。それはひとえに、一人の女性のお陰だった。
「エミリ、さん……」
無意識に、名前を呟いた。瞬間、知らないはずのその女性の顔が、次々に脳内に浮かんできた。
エミリさんの笑っている顔、澄ました顔、そして最後に、泣いている顔――。
おぼろげだけど、間違いない。僕は、この女性を知っている。そして、愛している。これこそが、僕の脳の最前列にこびり付いている、絶対に取れない最新の記憶だと確信した。
この女性の存在を脳が認識した途端、嘘のように現状を理解でき、受け入れることができた。とにかく自分は大丈夫だと、そう思えたのだ。
慌てて、机上の指輪を再度付ける。これは結婚指輪だ。これは僕とエミリさんの繋がりを示すもので、絶対に外してはならない。
ノートの次のページからは、様々な細かい注意点と今日の自分にしてほしいことが書かれていた。僕は朝七時に起きて夜十時に眠たくなる体質で、机の引き出しには昔のノートが入っているらしい。しかし、そちらは昔の思い出ばかりが書いてあり、読んでいるとそれだけで一日が終わってしまうので、興味がある場合のみ読めばいいとのこと。
だが、首を捻る。引き出しを開けても、昔のノートが入っていない。昨日の自分が、何か勘違いをしたのだろうか。
探すのは後回しにして、ノートに書いてあった指示に従い鞄の中をチェック。見たことの無い鞄で、白い十字とハートマークが描いてある赤いキーホルダーが付いていた。
障碍者手帳に驚きながらも、深呼吸して落ち着く。一番大きな収納スペースには、ボールペンと修正液と大量のマスクと障碍者手帳、着替えとダサい帽子と財布が入っていて、小さいほうのポケットには、鍵と残り少ないポケットティッシュ、そしてノートの記載通り、催涙スプレーと未来の携帯〈スマホ〉が入っていた。
次に、財布の中を確認する。六千八百円ほど入っていた。さらに未来から来た証拠として、見たことの無いお札や〈令和〉という刻印のある硬貨が入っていた。
最後に、スマホを触ってみる。何気なく画面にタッチすると、画面全体が光り輝いた。「うおっ」と自然に声が漏れ、感嘆する。
何でも、〈手続き記憶〉というもので、ぼんやりとだがスマホの使い方を理解しているらしい。実際、いきなり画面にタッチして起動できたし、さらに指をスライドさせて画面を動かすこともできた。
〈フォト〉というマークをタッチすると、僕とエミリさんの思い出の写真が溢れ出た。自然と目頭が熱くなる。改めて確信した。僕は彼女を愛している。一度も会ったことは無いけれど、何度も出会って愛を育んでいる。間違いなく僕と彼女は夫婦で、どんなに離れていても心が繋がっている。論理では説明できない、絶対的な自信があった。
僕にとって、エミリさんという存在は本当に大きいようだ。記憶にないはずの二十年間が、確かに脳内に住み着いている。僕の脳には障碍があるようだけど、そんなハンデをものともせず、それよりも強い〈愛〉で覆われている。物心の前に、〈エミリ心〉が付いていたのではないかと思うほどだった。
タイムスリップしてきた自分は、とんでもない大役を担っている。しかし、実際は大したことをする必要はない。とにかく、明日の事故を防げばそれでいいのだ。ノートにも書いてあったが、サッカーの試合が終わった後に「櫛田先生が見回りに来ている」と告げれば、ケヤキ公園に寄らず帰るだろう。
現状が整理できた僕は、鞄に荷物を戻して着替えた後、部屋を出た。昨日の自分に託された使命があるのだが、それより先に、やりたいことがあった。
*
部屋でノートを読んでいるときから、違和感があった。先日の僕は恐らく、昔の恋人に同情して、チャンスを与えた。マウスピースを託して、復縁の切っ掛けを作ってあげた。気持ちは分かる。目の前にいる元恋人を無下にはできない。むしろ、助けたいと思う。その場限りの優しさで、便宜を図ってあげたのだろう。
しかし、それは本当に、正しいことだったのだろうか。
万が一、本当に復縁してしまった場合、そのまま結婚してしまい、〈エミリさんと結婚する〉という未来に辿り着けなくなるかもしれない。梨花には申し訳ないが、その可能性だけは摘んでおかなければいけない。
やはり、マウスピースは返してもらおう。そして、復縁のチャンスは無いと、はっきり告げてしまおう。嘘でも何でもいい。「すでに新しい恋人がいる」とか、適当に言えばいいだけだ。
まだ昇り切っていない太陽を背に、大通りを歩く。半袖だと少し肌寒かった。路地を折れ、住宅街へ。数十メートル進むと、見慣れた木造の一軒家があった。
〈山城〉という表札が掲げられた、梨花の家。洒落た花模様が描かれた門柱のインターフォンを、ゆっくりと押す。
「はい、どちら様でしょうか」
鷹揚とした声が、機械越しに聞こえてきた。これは、梨花の母親だ。
「朝早くにすみません。あの、私、白木と申します」
僕はノートに書いてあった偽名を名乗った。どうしてこんな名前にしたのか、理由は書いていなかった。
「どういった御用でしょうか」
「梨花さん、いらっしゃいますでしょうか。今日、学校はお休みですよね」
「いますけど、梨花とどういったご関係で」
明らかに、声に不信感が込もった。このインターフォンは恐らく、こちらの顔が見えるタイプのものだ。向こうからすれば、休日の朝に、見知らぬおっさんが女子高生の娘に会いに来ているようにしか見えない。
「えっとですね。実は私、お宅の梨花さんと同じ高校の、宮川大介の親戚でして。それで梨花さんと面識があります。ちょっと大介について話したいことがあるのですが」
「はぁ。少々お待ちください」
ブッ、と通信が切れる。三十秒ほど待つと、ゆっくりと玄関のドアが開いた。
「何ですか」
顔だけを出した梨花が、こちらを睨みつけてくる。顔はやつれている印象で、目も虚ろだった。持病の喘息が出ているのだろうか。
「あのさ。この前、マウスピースを渡したよね。やっぱりあれ、かえ――」
「いい加減にしてください!」
僕の言葉を、梨花の怒号が遮る。眉間に皺を寄せた梨花の眼光が、さらに鋭く僕を捉える。
全く意味が分からない。彼女は、何を怒っているのだ。
「何なんですか、貴方。馬鹿にしてるんですか」
「いや、あの、僕はただ」
梨花が、俯いて口を押さえる。咳が止まらなくなった。
「大丈夫? ぜ――」
はっとし、口を閉ざす。今の僕が、喘息のことを知っていたらおかしい。
「帰ってください!」
何とか息を整えた梨花が、ドアを勢いよく閉める。取り付く島もない。慌てて玄関まで駆け寄り、「ちょっと!」と食い下がったのだが、中から聞こえてきた「警察呼びますよ!」の声で、僕は撤退を余儀なくされた。
逃げるようにその場を離れ、充分に距離を取ったところで一息つく。本当に意味が分からない。一体、僕の知らない間に何があったというのか。
近くの美容院に設置された時計を見ると、午前八時半だった。意味の分からないことばかりだが、考える余裕が無い。今、考えても仕方ないことは後回しにし、次にやるべきことへ、移らなければいけない時刻だった。
*
高茶屋駅からJRで津駅まで出て、近鉄線に乗り換え。数分で江戸橋駅に到着した。
昨日の自分から託された使命がある。それは〈エミリさんに会いに行け〉というものだった。正確に言えば使命ではなく、自分へのご褒美。
何でも、大学病院の一階ロビーにエミリさんがやってくる時刻を掴んだらしい。午前十時に必ずそこを通るから、それまでにロビーへ行け、との指示だった。
「……えっ」
しかし、大学病院の正面玄関に到着した僕は、鼻白んだ。今日は休日のため、開いていなかったのだ。〈急用の方はあちらの時間外出入口へ〉と書かれた立て看板に従い、裏へと回る。〈時間外出入口〉と書かれた大きなガラス扉の前には、警備員の格好をした屈強な男が立っていた。
通常、一階のロビーなんて誰でも簡単に入ることができる。それが、曜日が少しズレただけで、こんな難関になるなんて。
「おはようございます。どのようなご用件でしょうか」
こちらが身構える前に、話し掛けられた。躊躇したら、怪しまれてしまう。
「あの私、白木博人と申します」
またこの偽名を使ってしまった。一度、白木さんに謝りたい。
「はぁ。で、ご用件は」
少し、警備員の顔が曇った。しまった。怪しまれないようにまず名乗ったのだが、逆効果だったか。確かに、要件を聞かれているのに名前を言うなんて意味が分からない。
「あっ、えっと、〈松尾喜美江〉のお見舞いに来たんですけど」
ふと閃いた僕は、まっつんのお婆ちゃんの名前を使った。一度、松尾家にも謝りたい。
「ああ、でしたらこちらへどうぞ」
ガラス扉の中へ誘導される。そこには受付が設えてあった。
「ではこちらの紙にですね、お名前とご連絡先、患者様とのご関係を書いてもらって」
警備員に促されるまま、僕は紙に個人情報(もちろんデタラメ)を書いていった。しかし、その最中。
「ちなみに本日は、病院全体がお休みとなっております。本来は面会そのものを受け付けていないのですが、今日、お見舞いに来られたということは、何か病院側からの指示があったのですか」
「えっ」
一瞬、フリーズしてしまった。しかし、へどもどしている暇は無い。僕は闇雲にリュックを開いた。
「あっ、そうです。なんか、急いでマスクを持ってきてほしいって言われまして。お婆ちゃん、感染症の危険があるらしくて」
僕はマスクの入った箱を掲げた。その場しのぎにしては、いい言い訳だと思う。しかし、警備員は眉根に皺を寄せた。
「でも、マスクなら病院内に山ほどありますよね」
「それが、自分で使う分のマスクは自分たちで用意してください、って言われて。病院側も、経費削減でケチになったんですよ」
「ああ、なるほど。最近はどこも不景気ですからねぇ」
ようやく警備員に笑顔が戻る。左手で院内を指し「どうぞ」と促してくれた。
――ありがとう、警備員さん。この御恩は、明日まで忘れません。
多少の心理戦はあったものの、院内への侵入に成功。警備員から逃げる意味も込め、小走りで院内を捜索する。何度も角を曲がりながら辺りを見回すと、案内図を発見。それに従い、ロビーへと向かう。
ロビーには、ほとんど人がいなかった。普段の病院からは考えられないほどがらんとしていて、消毒液のような匂いだけが鼻をついた。
清掃業者さんが、階段の手すりを拭いている。広い受付には、一人だけ若い女性が立っている。入院患者さんらしき人が、ふらふらと歩いている。多種多様な人たちが、両手で数えられるくらいいるだけだった。
そのため、僕みたいな不審者がいても、とくに浮くことは無かった。ふと思いつき、マスクを装着。わざとらしく咳をしながら待合椅子に腰かける。これで僕も、立派な〈病院に用事がある人〉だ。誰も怪しむことが無いほど、この空間に溶け込んでいる。
時計を見る。九時五十五分。警備員と揉めたせいで、ギリギリになってしまった。しかし間に合った。本当にエミリさんは、十時にここへやって来るのだろうか。仮に来るとして、本当に十時ぴったりに来るのだろうか。もしかして、今日はもう、来た後なのではないだろうか。
いや、それは無い。昨日の自分が、あれだけはっきりと書いてくれたのだ。絶対的に、昨日の自分は今日の自分の味方。それを信じない理由が無い。
しかし、あえて言うなら一つ気になっていることがある。ノートに書かれた文章は、明日の自分にしっかり読んでもらうためか、すべての文字がテストの回答みたいに丁寧な文字で書かれていた。しかし、〈エミリさんに会いに行け〉という今日して欲しいことの指示部分。そこだけ、文字が雑だったのだ。殴り書きで脅すように書かれており、首を捻った。
再度、時計を見る。九時五十九分。辺りを何度も見回す。どこからエミリさんは来るのだろう。絶対に見逃してはならない。じっくりと待つ一分は、好きなテレビを見ている一時間よりも長く感じた。
――まだか、まだか。
そんなふうに待ち侘び、四方八方を見回している、最中だった。
「あああぁぁぁぁ!」
突然の奇妙な絶叫に、体が強張る。何だ、急に。病院内で大声を出すなんて、頭のおかしい奴が近くにいるのだろうか。しかし。
「エミリさぁん! 愛してるよぉ! 結婚してよぉ! 僕は未来の旦那さんだよぉ! 離れないでよ、エミリさぁぁん!」
それはまるで、僕の心の声をそのまま表しているようだった。気付くと、ロビーにいたすべての人の視線が僕に注がれていた。そこで気付く。この音声は、僕の近くから発せられているものだ。
「エミリさぁぁん! 愛してるよぉぉ!」
慌てて鞄を開く。音の出所はスマホだった。しかし、止め方が分からない。何だこれは。スマホ画面には、〈アラーム1 10時 音声メモ1〉と表示されている。その下にボタンらしきものがあるが、押しても何も起こらない。どれだけ連打しても、エミリさんへの愛を叫び続けるだけだった。
「すみません、すみません」
僕は周囲に頭を下げながら、逃げるようにロビーを出ていった。もうエミリさんを探すどころではない。ロビーを出て少し進んだところで、ようやくこのボタンは押すのではなくスライドさせるのだと気づく。音は何とか止まったが、もう戻れない。僕はまた、完全な不審者となってしまった。
行きと同じガラス扉から出ると、警備員が会釈してきた。マスクの受け渡しが終わったと思ったのだろう。僕も軽く目礼を返し、早足で病院の敷地を出ていく。昇り切った太陽が僕を照らし、一気に額から汗が溢れ出した。
*
怖くなった僕は、真っすぐにホテルへと戻った。もう何も信じられない。事故当日まで、部屋に引きこもっていたほうがいいのではないか。そもそも、昨日の自分は何をしたんだ。どうして、自分が自分の邪魔をするのだ。今の病院の一連の出来事に、どういう意味があるんだ。昨日の自分は、絶対的に今日の自分の味方ではないのか。
机に座って頭を抱えていると、ドアをノックする音が響いた。考え事をしていた僕は、その小さな音に飛び上がるくらい驚いた。
また、何かの罠かもしれない。恐る恐るドアに近づいて覗き穴に目を近づけると、魚眼レンズに正装を着たおばさんが映っていた。
「何ですか」
ドアを開け、顔だけを出す。おばさんは畏まって頭を下げた。
「突然申し訳ありません。宮川大介様ですね」
「はい」
「こちらのノートに見覚えがないでしょうか」
おばさんは僕に一冊のノートを差し出してきた。沢山折り目などが付いている、使い古された印象のあるノートだった。表紙に〈35〉と書いてある。
「いえ、知らないですけど」
僕は正直に頭を振った。
「実を言いますと、今日の朝、清掃員がロビーのゴミ箱から見つけまして。本当ならそのまま捨てるのですが、偶然、ノートの一ページ目だけ見えてしまいまして」
おばさんが、ノートの一ページ目を広げる。
〈このノートは非常に大事な物です。もし拾われた方は、以下の連絡先へ連絡してください〉
仰々しい注意書きとともに、四人の人間の連絡先が書いてあった。自分と両親、そしてエミリさん。
「これを見て、宮川様のものだと思いまして。大事なものと書かれておりますし、一応保管しておいたのですが」
そこでようやく腑に落ちた。これは、昨日の自分が引き出しに入っていると言っていた〈昔のノート〉だ。
「あっ、えっと、はい。やっぱり僕のです。すみません」
僕はおばさんからノートを受け取った。なぜゴミ箱にあったのか意味が分からないが、作り笑顔でおばさんに頭を下げる。
「それは良かったです。あと、そのノートに挟まっていたこちらの本も、宮川様のものでしょうか」
おばさんが新たに本を一冊、僕に差し出す。それは、コンビニの入口などで〈ご自由にお持ちください〉と書いて大量に置いてある、求人情報誌だった。
「えっと、それは」
言葉に詰まる。しかし、ノートの一件もある。僕は「はい」とだけ言い、とりあえず受け取る選択をした。
「そうですか。それは良かった。では」
おばさんは安堵したように微笑み、僕の前から去っていった。しかしその笑みは、何となくだが、先ほどの僕以上に作られたものだった気がした。
机に戻った僕は、求人情報誌を広げた。これは本当に、僕のものなのだろうか。ページを捲っていくと、カフェとコンビニ、そして清掃業者とクリーニング店の求人情報に赤い丸が付いていた。
これがもし僕のものだとしたら、僕はこっちの世界で働こうとしていた、ということか。
意味が分からない。僕は事故を未然に防いだ後、元の世界、2022年に戻るのだろうに。何で、こっちで生計を立てないといけないのだ。僕は、タイムマ……。
――いや、待て。
ふと、おかしな考えが頭をもたげる。僕は、NASAの発明したタイムマシンでこちらの世界にやってきた。それはノートに書いてあったし、間違いない。しかし、だ。そのタイムマシンは、どこにある? 事故を防いだ後、僕はどこに行けばいいのだ。それが書いていない。僕はもしかしたら、〈元の世界〉に戻れないのではないか。
そこら辺の調整は、ちゃんとNASAがしてくれていると信じたい。しかし、僕は特殊だ。障碍がある。もし、タイムスリップする前にそういった説明を聞いていたとしたら。そしてうっかり、僕がそれを忘れてしまうことを、全員が失念していたとしたら。
僕は事前に聞いていたであろう、タイムマシンの隠し場所に行くことができない。
昨日の自分は、その可能性に気付き、こちらの世界で生きていく決心をしたのではないか。
背筋に悪寒が走り、頭を掻きむしる。落ち着け、と自分に言い聞かす。
今の仮説は、何パーセントくらいの確率で正しい? 仮に正しかったとして、何をどうすればいい? そもそも、なぜゴミ箱に捨ててあった?
そうだ、とりあえずノートも見てみよう。そこに何か手がかりがあるかもしれない。
ノートを一ページ目から見ていく。事故に遭った事実と、2002年から2022年までの思い出が、日記のように書かれている。そこは斜め読みし、とにかく手がかりになりそうな記述が無いかを探していく。
そして、最後のページ。そこに、見つけた。手がかりではなく、答えそのものを。
〈明日の自分へ。この文章は、見つかるかどうか分からないところに書く。本当に悪いが、これを読んだ後、どうするかは、任せる。もう、今の自分には何も考えられない。
僕は、事故をみぜんに防いで、未来へ戻ってエミリさんと夫婦になろうとしている。でも、それは本当にできることなのか。僕は、事故にあったからこそ、エミリさんと結婚できたんだ。事故にあわなかったら、「カンゴフ」のエミリさんと、どうやって出会うんだ。出会ったとして、どうやって深い関係になるんだ。事故をみぜんに防いだ場合、本当に「エミリさんと結婚している元の世界」に戻れるのか?
最初、僕はカンタンな選択だと思っていた。僕にとってエミリさん以上に大切な存在なんていないのだから、「高校生の自分をわざと事故にあわせて、エミリさんと出会う」という選択を取ればいいだけだ。
でも、自分の中にいる、もう一人の自分が問いかけてくるんだ。本当にそれでいいのか。やっぱり、「事故を防いで障害を無くしたい」という思いもあるんじゃないか……と。
だから、今日の僕はもう分からない。すべての決断を、明日の自分に任せる。
結局、僕が大切なのは、「エミリさん」なのか、それとも「自分」なのか。明日の自分は、どっちを選ぶ?〉
頭が、真っ白になった。爆発しそうだった。もう、仮説とか、その他の問題はどうでもいい。こんな文章をいきなり読まされて、何をどうすればいいのだ。
天を仰ぐ。何も考えられない。できれば、見なかったことにしたい。
テレビの上の、目覚まし時計。その秒針の音だけが、室内に反響している。何分間、放心状態だっただろう。
呆然としている僕を叩き起こすように、本日二度目。部屋のドアをノックする音が響いた。
