記憶の無い過去の未来人

 額の流血をポケットティッシュで押さえながら、僕は現実を受け入れていた。
 ――僕は、ちょうど二十年前、2002年の6月6日、木曜日にタイムスリップした。
 松下デンキに〈ロシア戦まであと三日!〉というのぼりが立っていたし、直接、松下店長にも確認したから、間違いない。
 松下店長は、仕事が上手くいかないと高校生の僕たちによく八つ当たりをしていた。しかし大人の僕には満面の笑みで敬語を使ってきたので、妙に可笑しかった。老けているうえにマスクもしていたので、いつもの三人組の一人だとは気付いていない様子だった。
 とにかく、ケヤキの木からの語りかけ――と呼ぶしかない一陣の風は、この超常現象を納得させるだけの説得力があった。科学的な根拠は当然無いが、6月9日、つまり事故当日の夜中に、2022年に帰してもらえる約束もした。
 しかし、もう一つだけ確認したいことがある。九十九パーセントの自信を、百パーセントの確信にしたい。
 僕の記憶上、ここは二十年前ではなく、四日前なのだ。落ち着いて考えれば、すぐに記憶が蘇った。
「まだ始まってへんよな?」
「てか、チャンネルここで合ってるん?」
 午後六時前。高校時代の僕とノブとまっつんが、松下デンキの街頭テレビに集合している。三人共、〈TSUYAMA〉と書かれた学校指定のジャージを着ていた。
 本当は三重県初開催の〈パブリックビューイング〉とかいうものに応募していたのだけど、見事に落選してしまったのだ。W杯の日本戦のために特設ステージをわざわざ野外に造り、警察も最大限の協力をして数万人の収容を予定している……と謳っていたので、簡単にチケットが取れると思い込んでいた。しかし、田舎の人間のほうがこういったイベントには目が無いらしい。一次応募も二次応募も全敗であった。
 それで自棄になった僕たち三人は、
「じゃあ自分たちだけのパブリックビューイングを開こうぜ。松下デンキで、日本戦だけじゃなくて、できるだけの試合を見てやろうぜ」
 という話になったのだ。
 こうして、恐らく日本中どこでも行なわれていないであろう、カメルーン対サウジアラビア戦の個人的なパブリックビューイングが決定したのだった。
 覚悟していたとはいえ、〈自分と出会う〉という経験は、とても気味が悪く、動悸が激しくなった。ケヤキの幹に身を隠しながら男子高校生を監視する僕は、どう見ても不審者だ。
 しかし、そのおかげで九十九パーセントの自信が百パーセントの確信になり、改めてタイムスリップの事実を受け入れる。それと同時に、高校時代の自分は〈現在の自分〉ではなく〈過去の自分〉と呼称しなければならない、という事実も認識した。自分にとっては四日前だが、やはり今、十数メートル先にいる彼は〈二十年前の自分〉なのだ。
 過去の僕は、まっつんに「大ちゃんはこんなん見とる場合じゃないやろ。早よ進路調査票を出さな」とからかわれ、いつものように「ここはどこ? 私は誰?」と、記憶喪失ごっこで逃げていた。
 確かに当時の僕は進路に悩んでいた。悩みすぎて、考えることさえ諦めていた。しかし、ふざけ倒しているあいつに物申したい。その〈迷える〉ということが、どれだけ幸せなことか。お前はもうすぐ、迷うことさえできなくなる。すべての選択肢を失うのだから。
 額の血は止まったが、まだズキズキと痛む。僕は頬を両手で強めに叩いて、自分に気合を入れた。
 ケヤキの木が、僕を過去に連れてきた理由――。
 それを、ずっと考えていた。しかしやはり、これしかない。
 三日後の事故を未然に防ぎ、エミリさんと結婚し直すためだ。
 ――障碍者のままでも、普通に幸せな人は沢山いるよ。
 申し訳ないが、今の僕は、そんな三十七歳の正論ではなく、十七歳の暴論を優先する。
 今度こそ、エミリさんに涙を流させない。僕は、健常者になって、エミリさんの後ろを歩く子供ではなく、隣を歩くパートナーとなるのだ。

   *

 矛盾した言い方になるけど、寂れた繁華街。もう夜が近いのに開く気配すら無い居酒屋の隣で、僕は佇んでいた。
 薄暮の中にひっそりと建つ、周囲で最も背の高い建物。恐らく都会では、五階建てなんて低い部類に入るのだろうけど、窓から漏れる少ない明かりが、それでも部屋を持て余していることを物語っている。
 ビジネスホテル〈キャッスル稲葉〉の入口前で、僕は尻込みしていた。
 いくら何でも自宅に帰ることはできず、今晩の寝床を探す必要があったのだ。高校生一人でチェックインなんてできるのかと不安だったけど、今の自分はただのおっさんだということに気付いた。いい加減、自分はもう三十代だという事実に慣れなければ。
 だが、一人でチェックインしたことが無い、という事実に変わりはない。家族旅行のときは父さんが代表でやってくれたし、全くもって何をどうすればいいのか分からない。
 自動ドアが開き、僕は恐る恐るロビーへと足を踏み入れる。真っすぐ進んでいくと受付があり、紺色の制服を着たおばさんが立っていた。
「こんばんは。チェックインでしょうか」
「はい」と答えつつ、僕はなぜか、三者面談のときのような緊張感を覚えていた。
「ご予約は?」
「無いんですけど、無理ですか」
「いえいえ、大丈夫でございますよ。何名様で何泊をご希望ですか?」
「えっと」と逡巡。事故までは三日ある。拠点は一つにしておいたほうがいいだろう。
「一名で三、いや、四泊でお願いします」
「かしこまりました。おタバコはお吸いになられますか」
「いえ」
「では禁煙部屋で。お手数ですが、こちらにご記入をお願いいたします」
 おばさんが〈受付票〉をカウンターに置く。僕は備え付けのペンで個人情報を書いていった。しかし住所を記載している最中、思わず手が止まる。
 ――三重県津市に住んでいる人間が、三重県津市のホテルに泊まるだろうか。
 かと言って、迷っている時間も無い。住所を書くのを躊躇っていたら、怪訝に思われる。
 僕は結局、〈三重県伊勢市〉と書き、その後はデタラメな町名を記した。
「へえ、伊勢からお越しになったんですか。いいところですよね」
「そうですね。伊勢神宮もありますしね」
 本当は行ったことすら無いのだが、数少ない伊勢市の知識で何とか話を合わせる。
「出張ですか」
「えっと、まあ、はい」
 これはしまったと思った。僕の見た目はどう見てもサラリーマンではない。ただのおっさんの一人旅だと言ったほうが良かった。気まずく視線を這わすと、廊下の奥に扉のようなもの、恐らく裏口を発見した。もし不審に思われたら、あそこから逃げてしまおうか。
 しかし、おばさんは予想以上に意に介さず、レジを操作していた。
「申し訳ありませんが、当ホテルは料金前払いとなっております。三泊以上ご利用のお客様限定の割引を適用させていただきまして、四泊で二万と千円でございます」
 僕の人生において、そんな大金を支払った経験はほとんど無い。しかし、いい歳をしたおっさんがそれくらいの額で狼狽していたら怪しまれる。僕は「安いですね。割引はありがたい」と無意味な見栄を張りつつ、財布から二万五千円を取り出そうとした。
「風邪ですか?」
 予期せぬおばさんからの問いに、硬直する。数秒後、言葉の意味を理解し、慌ててマスクを外す。こちらの世界では、マスクをしているほうが珍しいのだ。
「いえ、ちょっと、埃っぽいところにいたもので」
 意味不明な言い訳をしてしまった。けれどそのおかげで、料金を支払おうとしていた僕の思考も一息つくことができた。
 この五千円札は、この時代には流通していないものだ。もしこのまま出したら、大騒ぎにならないか。
 僕はさりげなく、五千円札を日給で貰った一万円札に持ち替え、三万円をカウンターへ出した。お釣りで貰った五千円札と千円札は見覚えのある新渡戸稲造と夏目漱石で、妙に懐かしく感じた。
 鍵を受け取り、受付を離れる。僕の部屋は三階だった。おばさんはエレベーターを差してくれたけど、僕はあえて階段で行くことを決めた。
 大した理由があったわけではない。ただ、自分の今の体力を知っておきたかったのだ。
 弱小とはいえ、サッカー部のレギュラー。毎日それなりに鍛えていた。そんな自分が、今どうなっているのか。単純に興味があった。
 思い切り膝を上げ、全速力で階段を駆け上がる。しかし、一歩目から違和感があった。予想以上に足が上がらない。重たい。二歩、三歩と進むたびに、ふくらはぎと太ももに鈍い痛みが走る。
 二階へ到着した段階で、すでに息が荒い。休憩を余儀なくされた。僕の体は、僕が思っている以上に〈おっさん〉になっているらしい。
 落ち込んだ心と呼吸を整えるために、二階を歩きながら少し探索しようと決めた。
 僕に限らず、多くの学生が〈ホテル〉という空間に憧れを持っていると思う。出張が多いホテル住まいのサラリーマンを、少なからず羨望の眼差しで見ている。それくらい、〈ビジネスホテルに一人で泊まる〉という非日常は、イチ高校生にとって興奮を覚えるものなのだ。
 しかし実際に歩いてみると、その興奮の魔法も解けていった。壁紙は染みだらけで剝がれかけ。さらに廊下奥の窓の前には三角コーンが置かれ、〈窓、修理中! 近づくな危険!〉という貼り紙がされていた。ホテル、特にこんな寂れた街のビジネスホテルという空間は、そこまで憧れる必要の無い場所だと、気付いたのだ。
 唯一感心したのが、床一面のカーペットだった。以前ノブに、「ホテルの床がカーペットなのは足音を消すため」という雑学を聞かされたことがあるが、それは事実らしい。歩いていても、足音が全くしない。これなら、就寝中に物音で起きることも無いだろう。
 ちなみに、もう一つ雑学を聞かされたのだが、それはあまりに馬鹿馬鹿しいものだったので、思い出す気にもならない。
 興味本位で、〈窓、修理中! 近づくな危険!〉に近づいてみた。窓が少し開いていて、生温い風が流れてくる。周りの窓は閉まっていて、触れてみたところ開けられる気配もない。ホテルでは事故を防ぐために、窓はほとんど開けられないのが基本だと思うのだけど、この窓だけ鍵が壊れて落下の恐れがあるということだろう。
 外からの風を浴びながら、眼下を見る。ゴミ捨て場になっており、茶髪の従業員が雑にゴミ袋を投げ捨てていた。ここでもホテルの現実を知り、憧れの非日常から現実へと引き戻される。
 見てはいけないものを見てしまった気分になり、視線を上へ向けた。そこには、僕の住む街が、僕の記憶通りに存在していた。二階という高さなので、そこまで一望できるわけではなかったが、周囲に背の高い建物が少なく、それなりに見渡せる。薄暮れに染まるケヤキ公園、田舎の木造住宅。
 僕は今日、ここから見たこの風景を忘れない。忘れない人間に、なるのだ。
 決意を新たに、僕は三階へとエレベーターで上がった。階段はもう使いたくない。
 僕の部屋、〈308号室〉はすぐに見つかった。ふと、向かいの部屋も目に入る。〈314号室〉だった。〈4〉が入っている部屋は不吉だから使わないと聞いていたが、都市伝説なのだろうか。
 受付で貰った鍵を挿し、室内へ入る。細い廊下の脇にユニットバスが完備されており、奥に四畳ほどの生活空間がある。と言っても、そのうちの二畳はベッドが占拠していたので、実際に動ける範囲は残りの二畳ほどしか無かった。ただ嬉しかったのが、見慣れた十四型のブラウン管テレビが置いてあった。頭に目覚まし時計が乗っている。やはりテレビは上にものが置けてナンボだな、と頷いた。
 さて、と椅子に腰を下ろした僕は、天を仰いだ。薄暗い明かりが、星のように瞬いている。寝床が決まって一度落ち着いた後は、明日に向けての作戦を実行すると決めていた。
 僕は十分ほど休憩した後、購入するものを脳内でまとめて部屋を出た。
 それから一時間ほどで部屋に戻って来た僕は、テーブルに鞄の中のものを広げた。サークルKへ行き、夕食と今後必要なものを購入してきたのだ。ホテルへチェックインする前に立ち寄るという選択肢もあったが、かなり歩く必要があったため、中継地点であるホテルで一度、休憩したかった。ホテルから一番近いコンビニまで、徒歩で二十分掛かるというのは、悲しい〈田舎あるある〉であった。
 机上に並ぶのは、お弁当と飲み物と新しいノート、修正液とセロテープ、赤いマジックペンと何枚かの着替え。
 トンカツ弁当を頬張りながら、じっくりと考える。僕が眠くなるまで、まだ二時間以上あるが、その時間すべてをこの作業に費やさないといけない。
 明日の自分に、この現状をどうやって説明するか、である。
 明日の朝七時に目覚めた自分は、記憶を失っている。明日、またイチからすべてを把握して受け入れなければならない。下手をすれば錯乱し、何もできないまま事故の日が過ぎ去ってしまう。それだけは避けなければならない。
 一応、ホテルへ来るまでの道すがらずっと考え、ある程度のアイデアは浮かんでいた。しかし優柔不断な僕に即決できるわけがなく、そのアイデアを二時間かけて練り直す必要があった。気分はストーリーを考えるプロの小説家である。
 ピンクの漬物を口に入れ、カツの下の白いパスタを啜る。口内で絶妙に交わらない食感に身悶えした。
 そもそも、この状況が異常なのだ。
 明日、目覚めた僕は、2002年の6月10日だと思っている。しかし実際は2002年の6月7日で、でも見た目は2022年の三十七歳になっている。過去と現在と未来がゴチャゴチャになり、状況を把握している今の自分ですら混乱する。
 こんな状況を、どうイチから説明すればいいのだ。何をどうやってノートに記せばいいのだ。
 ケヤキ公園に行き、もう一度ケヤキの木から語りかけてもらえば、理解もすぐだと思う。しかし、この時代の彼も語りかけてくれるのかが分からないし、そもそも、ただでさえ混乱しているときに〈木が語りかけてくるから公園へ行け〉なんて指示を見たら、おかしな宗教に洗脳されたと思い込むかもしれない。
 だからとにかく、目覚めた直後にこの室内で、落ち着いて現状を把握させる必要がある。
 僕は買ったばかりの新品のノートを広げた。元々鞄に入っていたノートにも詳細は書いてあるが、これはあくまで〈2022年の自分用〉に書かれたものだ。だから僕は、新しいノートに〈2002年の自分用〉としてイチから現状を書いていくことを決めた。
 最初の数ページ、必要箇所を写し終えて一息入れる。僕はサークルKで買ってきた〈大人のカフェオレ〉を一口飲んだ。しかし、僕にとっては苦すぎて、やはり自分はまだ大人ではないなと、そんな馬鹿げたことを思った。
 いつの間にか空になっていたトンカツ弁当の空き容器をゴミ箱に捨て、僕はユニットバスへと向かった。熱いシャワーを浴びながら、思考を整理する。やはり、歩きながら考えたあの作戦で行こう。自分が何に騙されるかは、自分が一番理解している。
 テーブルへ戻ってきた僕は、人生で初めてドライヤーというものを使った。今までは坊主だったため、気付いたら自然に乾いていたのだが、さすがにこのボサボサ頭の湿り気は鬱陶しい。電源をオンにするだけで使えるので、手続き記憶が無くても使うことができた。
 それからは、何度も下書きをしながら、慎重にノートに明日の自分への伝言を記していった。明日の自分は、何をどう伝えれば最も混乱せず、逸早く状況を理解してくれるのか。
 受験勉強でも見せたことのない集中力でノートを書き終え、その他の準備を完了したところで、途端に眠気が襲ってきた。時計を見る。午後九時五十分。どうやら、僕の脳は本当に規則正しく夜十時に眠たくなるらしい。
 この文章で、本当に明日の自分は、今日の自分の思った通りに動いてくれるだろうか。一抹の不安はあった。しかしそれよりも睡魔が勝り、眠るしかない状況に追い込まれる。
 ベッドに横になり、目を瞑る。すぐに眠れると確信するくらい、体全体が敷布団に沈んだ。
 目を瞑って、明るい世界に旅立とう。エミリさんと戯れる夢を見よう。僕は、エミリさんが甘くしてくれたコーヒーと現実しか、受け入れられな――。
 僕の意識は、数秒で無くなった。

   *

 目覚めたら、知らない部屋だった。
 全く、意味が分からない。
 夢……。夢を、見た。綺麗な女の人とお喋りする楽しい夢だった気がするが、はっきり思い出せない。ただ、今はそんなことどうでもいい。
 狭い室内を一周見回す。恐らくだが、ここは、ホテル? 昔の家族旅行とドラマの記憶しかないけど、ホテルの部屋で間違いないと、思った。しかし一つだけ、僕のイメージするホテルとは異なる部分があった。

〈部屋を出る前に、必ず机の上のノートを見ろ!〉
 
 部屋中の壁、至るところに、脅迫めいた赤字でそう書かれた貼り紙があった。
 落ち着け。何だこれは。何がどうなっている。昨日の僕は、間違いなく自分の部屋で寝た……いや、寝た、のか? 思い出せ。昨日、何があった。
 しかし、全く思い出せない。厳密に言えば、覚えていることもある。確かまっつんとノブと、松下デンキで日本対ロシア戦を見たんだ。その後、その後は――何も覚えていない。それが、最後の記憶だった。
 でも、なぜだろう。最新の記憶なのに、脳の奥深くに仕舞われた、大昔の記憶のように感じる。
 目を瞑り、何度も深呼吸をする。「落ち着け」と心の中で念じ、ある程度の平静を取り戻す。そもそも、部屋中に貼られた紙の文字は、間違いなく自分の文字だ。つまり、この紙を書いたのは自分自身であり、おかしな奴に誘拐されたわけではない、はずだ。
 だからここは、命令通り机のノートを見るのが正解だ。
 僕はベッドからやおら立ち上がり、椅子へと腰かけた。そこでふと、自分の手足に違和感を覚えた。まず、左手の薬指に、指輪がある。何だこれは。僕はこういったアクセサリーには全く興味がない。怖くなって、外して机の隅へと置いた。
 そして、足。僕は足首を捻挫していたはずなのだが、ベッドから机に歩いてくる間、全く痛みが無かった。代わりに、なぜか額がひりひりする。
「……えっ」
 机上に落としていた視線をはたと上げると、卓上の鏡を捉えた。そこに映る自分の顔は、自分であって自分で無かった。
 僕は、こんな顔だったか? 髪もボサボサで、何と言うか、少しやつれたうえに皺が増え、自分というより父さんに近い印象になっている。
 せっかく入手した平静が、いきなり消し飛ぶ。怖い、怖い。
 とにかく、ノートを、ノートを見なければ。恐らくすべての手がかりは、そこにある。
 机上にぽつんと置かれたノートには全く折れ目がなく、新品のようだった。僕はその一ページ目を、恐る恐る開いた。

〈今、お前は全く状況が理解できなくて困わくしているだろう。でも、このノートを書いたのはまぎれもなく自分自身だ。具体例を言う。僕は高一のとき、初めてできた彼女に無理やりキスをして、ビンタされてフラれたよな。その夜、ヤケになって一人カラオケでモーニング娘を歌いまくったよな。こんな事実を知っているのは、世界で自分だけだ。本当にこのノートを書いたのは自分自身だから、安心して読んでほしい。自分は自分の味方だ。次のページから本だいに入るが、理解できない文章が出てきたら、一度目をつぶり、深呼吸してから読んでくれ〉

 とんでもなく、熱量を感じる文章だった。恥ずかしい具体例もだが、何より、自信の無い漢字を平仮名にしているあたりが、まさしく自分が書いた文章であることを示唆していた。僕は小説を読むのが好きだが、漢字を覚えるのは苦手で、よく友達に「意味の無い趣味やな」と馬鹿にされていたのだ。
 少し落ち着きを取り戻し、僕はノートの二ページ目を開いた。

〈僕、宮川大介は、2002年6月9日に事故に遭い、健忘症という記憶障害になった。日本対ロシア戦を見た後、ケヤキ公園で車にはねられたんだ。事故に遭う前の記憶はあるが、事故の後の記憶は、一晩眠るごとにリセットされてしまう。自分は今、2002年の6月10日だと思っているだろうが、実際は2022年だ〉

 前半部分を読んだだけで、眩暈がした。意味が分からない。今が2022年? 何の話だ。でも、それだと自分が老けている理由にも説明が付く。
 僕は指示通りに目を瞑って深呼吸をした。その途端、事故の記憶がぶつ切りだがはっきりと蘇った。
 耳をつんざく車のブレーキ音、目を焼くヘッドライトの明かり――。
 僕は慌てて目を開け、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。傷跡を触ったときのような、ピリッとした痛みが走る。大きく息を吐き、無理やり落ち着こうと試みる。
 とにかく、続きを読まなくては。

〈でも、そんな僕にもチャンスがおとずれた。2022年にNASAがタイムマシンを完成させたんだ。僕はそのお客さんにえらばれ、2002年の6月6日にタイムスリップした。事故をふせぎ、未来を変えられるかというNASAの実験だ。一晩たち、今日は6月7日。全く記憶が無いだろうけど、それは障害のせいだ。僕は6月9日の事故をなかったことにして、2022年に戻るのだ〉

 後半部分は、さらに衝撃的だった。頭が痛い。気持ちが悪い。しかしそれよりも、一刻も早く先を読みたい気持ちが勝った。

〈今のお前がまずやることは、現状の理解。自分が2022年の三十七歳の見た目になっている事実を受け入れる。そして次に、日本対ロシア戦を見た後なのに、その試合の前にタイムスリップしているという事実を受け入れる。それができてから、次のページを開いてくれ〉

 目を瞑り、何度も何度も深呼吸。目をゆっくり開いた僕は、テレビリモコンの電源ボタンを押した。
「さぁ、ついに明後日に迫りました、運命のロシア戦! 早速、今日の日本代表の様子を見てみましょう! 現地の、富田(とみた)アナー?」
 どうやら、今日が6月7日というのは本当らしい。こんなテレビ局を使ったドッキリを、僕の周りの人間ができるわけがない。つまり僕は、未来の姿で、過去にタイムスリップしてきたということか。訳が分からないが、分かるしかない。
 確かに僕は、最近読んだSF小説の影響で、タイムマシンというものに多少の興味を持っていた。恐らくだけど、2020年ごろにはタイムマシンが完成するのではないかと、夢想していた。しかしそれが、本当にできていただなんて。そしてさらに、僕がその被験者に選ばれるなんて。もしこれが本当だったら、いや、本当だと思うしかないのだけど、とてつもない幸運なのではないだろうか。
 しかし、喜びと同時に、若干の怒りも覚えていた。いくら何でも、NASAも無責任すぎないだろうか。どうしてこんな、記憶が一日でリセットされる人間を被験者に選んだのだ。もっと記憶が保てる、普通の人を過去に送ればいいだろう。それとも、自分の運命を変えるのは自分でなければいけない、というルールでもあるのだろうか。
 僕は憮然としながらも、ノートの三ページ目を開いた。

〈そして、これがある意味もっとも大事なことなのだが、2022年の僕は、結婚している。エミリさんという看護婦だ。事故にあってもエミリさんの記憶だけはかすかに残っているのが、愛しているショウコ。僕は事故をふせいで、2022年にもどって、エミリさんと結婚しなおすんだ〉

「エミリ、さん……?」
 無意識に、名前を呟いた。瞬間、知らないはずのその女性の顔が、次々に脳内に浮かんできた。
 エミリさんの笑っている顔、澄ました顔、そして最後に、泣いている顔――。
 おぼろげだけど、間違いない。僕は、この女性を知っている。そして、愛している。これこそが、僕の脳の最前列にこびり付いている、絶対に取れない最新の記憶だと確信した。
 間違いない。夢に出てきたのは、この女性だ。はっきり覚えていないが、とにかく幸せだった感触だけは残っている。エミリさんの存在を脳内で認識した途端、僕の中にあったすべての不安が、火傷に氷を押し当てたときのような気持ち良さで軽減されるのが分かった。
 慌てて、机上の指輪を再度付ける。これは結婚指輪だ。これは僕とエミリさんの繋がりを示すものだ。絶対に外してはならない。
 ノートの次のページからは、今日の自分にしてほしいことが書かれていた。僕は朝七時に起きて夜十時に眠たくなる体質で、机の引き出しには昔のノートが入っているらしい。しかし、そちらは昔の思い出ばかりが書いてあり、読んでいるとそれだけで一日が終わってしまうので、興味がある場合のみ読めばいいとのこと。
 引き出しを開けると、確かに〈35〉と表紙に書かれたノートがあった。ページを捲ると、2002年から2022年までの思い出が記されていた。斜め読みしただけだが、そこに書かれた事柄は、すべてイタズラではなく事実であると言い切れる、そういう実感があった。
 その後、ノートに書いてあった指示に従い、鞄の中をチェックした。見たことの無い鞄で、白い十字とハートマークが描いてある赤いキーホルダーが付いている。
 まず驚いたのが、障碍者手帳だった。こういうものを見ると、嫌でも自分が障碍者だと思い知らされる。しかし、落ち込んでいる暇はない。僕はその他のものの確認を始めた。
 一番大きな収納スペースには、ボールペンと修正液と大量のマスクと障碍者手帳、着替えと帽子と財布が入っていて、小さいほうのポケットには、鍵と残り少ないポケットティッシュ、そしてノートの記載通り、催涙スプレーと未来の携帯、〈スマホ〉と呼ぶものが入っていた。
 なぜ、こんなにマスクが入っているのかは分からなかったが、恐らく帽子とセットで変装するためだろう。万が一、こちらの世界で自分の親しい人に会ってしまったら大変だ。僕の顔は、老けていようが宮川大介そのものなのだから。
 それにしても、この帽子に書かれた〈キンシャチクリーン〉とはどういう意味だろう。ファッションに全く興味の無い僕から見ても明らかにダサいのだが、2022年ではこのブランドが流行しているのだろうか。
 次に、財布の中を確認する。七千五百円ほど入っていた。この財布は小銭入れが二つに分かれているのだが、もう片方には見たことのないお札が折り畳んで入れてあった。これもノートに書いてあった通りだ。未来から来た証拠として、置いておいてくれたらしい。野口英世の千円札と、見知らぬ女性の五千円札。さらに小銭もいくらか入っていたのだが、〈令和二年〉という未知の刻印がされていた。恐らく、平成の次の年号なのだろう。改めて未来からタイムスリップしてきた実感を得たのと同時に、この時代にこの貨幣は間違っても使ってはならないと思った。
 最後に、スマホを触ってみる。何気なく画面にタッチすると、画面全体が光り輝いた。「うおっ」と自然に声が漏れ、感嘆する。僕にとって最新の携帯は〈N504i〉なのだが、そういうレベルではない科学力を感じた。恐らく、四十和音以上の音が出るのだろう。
 何でも、〈手続き記憶〉というもので、ぼんやりとだがスマホの使い方を理解しているらしい。実際、いきなり画面にタッチして起動できたし、さらに指をスライドさせて画面を動かすこともできた。
〈フォト〉というマークをタッチすると、僕とエミリさんの思い出の写真が溢れ出た。自然と目頭が熱くなる。何度だって言う。僕は彼女を愛している。一度も会ったことは無いけれど、何度も出会って愛を育んでいる。間違いなく僕と彼女は夫婦で、どんなに離れていても心が繋がっている。その確信があった。
 それから僕は、すべての荷物を鞄に戻して着替えた後、部屋を出た。昨日の自分から託された使命が、二つあるのだ。
 ――しかし、その前に。
 僕には、それよりも大事な、やりたいことがあった。

   *

 夏の到来を知らせるように、青々とした雑草が自分の膝付近まで伸びている。
 帽子を目深に被り、僕は駅への歩を進めていた。
 ――エミリさんに、会いたい。
 僕は、その思いを抑えることができなかった。
 高茶屋駅に到着した僕は、周囲を見回した。普段から利用している、お世辞にも栄えているとは言えない駅。今は通学時間のため、学生が多くて活気があるが、すぐに乗客より駅員のほうが多い時間が訪れる。
 高茶屋駅からJRで津駅まで行き、近鉄線に乗り換える。数分で江戸橋駅に到着し、そこからさらに徒歩数分。僕は大学病院の入口に到着した。おぼろげな記憶の中のエミリさんは、大きな病院で働いていた。この辺りで大きな病院はここだけだし、かなり高い確率で、エミリさんはここにいる。
 あのエミリさんが、憧れの存在が、手の届く距離にいるのだ。
 ――早く、早く。
 僕は、自分の高揚感を抑えられなかった。
 巨大な正面玄関から入り、受付へ向かう。周りには目もくれず、直線上にいる女性に猪突猛進。
「すみません。宮川エミリという看護婦さん、呼んでいただけますか」
 自然と、言葉が出た。はやる気持ちが、静止を聞かず漏れ出した。受付の五十代くらいの女性はきょとんとし、何度か目を瞬かせた。
「えっと、その看護婦とはどういったご関係で」
 彼女は当然の疑問を口にした。しかし、こちらももう止まれない。
「友達です」
 女性は手元のパソコンを操作し始めた。しかしそこで、大事なことに気付く。
「あっ、すみません。今はまだ結婚してないから、苗字は宮川じゃないです」
「はい? ……失礼ですが、貴方の名前をお伺いしてもよろしいですか」
 女性の眼光が、急に鋭くなった。そこでようやく、僕は我に返った。
 今の僕は、どう見ても不審者だ。エミリさんに会えるかもしれないという高揚感が、僕に冷静さを失わせていた。もっと作戦を練ってから話し掛けるべきだった。今考えれば、当たり前のことだ。いくら何でも馬鹿すぎる。
「白木(しらき)、博人(ひろと)です」
 とっさに、偽名を名乗った。女性の背後に貼ってある、〈医療の未来シンポジウム〉というポスターに書かれていた名前だ。
「シラキ様ですね。そのエミリという看護婦の、正しい苗字は何でしょうか」
「ちょっと分からないんですけど」
「友達なのにですか」
 彼女は取り調べのように追及してくる。その眼光は、以前テレビで見た、万引きジーメンのものに似ていた。
「えっと……」
 と視線を宙に漂わせる。思案するためではなく、このジーメンから目を逸らすために。
 必死になって場を取り繕う嘘を考えるが、それよりも脳が〈逃げろ〉と叫んでくる。
「あの、やっぱり、今日は結構です。すみません、本当なんか、すみません」
 僕は精一杯の愛想笑いで彼女に会釈し、その場を早足で去った。後ろは確認できない。またあの目に睨まれたら、心が折れてしまいそうだった。緊張で乾き切った唇を一舐めし、僕は病院を後にした。
 しかし、これで良かったのかもしれない。仮にエミリさんが出てきたとして、何を話せばいいのだ。この世界ではまだ、僕たちは付き合うどころか知り合ってもいない。そんな状態で会えば、それこそただの不審者であり、警察に通報されてしまうかもしれない。
 僕は駆け足になり、病院の敷地内を出ていった。

   *

 電車を乗り継いで高茶屋駅に戻って来た僕は、最も歩き慣れた道路を進んだ。国道23号線を直進し、右折と左折を繰り返して住宅街に入っていく。
 到着したのは、僕の家。三十七歳の立場で言えば、〈実家〉と表現するべきなのだろうか。
 昭和の最後に建てられた、木造二階建て。2002年の段階で古臭く感じるのだから、2022年ではどうなっているのか、あまり想像したくなかった。
 僕の記憶上では、当然のように昨日もこの家で生活をしていた。しかし、実際には何年もの隔たりがある。そう思うと、懐かしさのようなものが込み上げてきた。
 門戸を開け、前庭に入る。植木鉢の下に隠してある鍵で中へ入ると、油が焦げたような匂いがした。そういえば、この前日の夕食は焼肉だったなと、ふと思う。靴を脱ぎ、階段を上る。別に両親に会いたかったわけではない。この時間には、誰もいないことが分かっていた。
 二階の見慣れた細い廊下を進み、その突き当たり。扉を開けると、自分の部屋があった。
 六畳一間の、自分の城。部屋干しのカッターシャツが醸す洗剤の匂いが、部屋全体を包んでいる。MDコンポにプレステ2、十四型のブラウン管テレビ。上に置かれた時計が、十一時を指していた。
 なぜか、目頭が熱くなる。いつもいる場所なのに、久しぶりに来たような感覚。混乱する脳を落ち着かせるために、両頬を強めに叩いた。
 僕は勉強机の下段引き出しを開け、奥に手を突っ込んだ。そこには、クッキーの空き缶が隠してある。取り出し、蓋を開ける。夏目漱石の千円札が七枚。これは、何かあったときに使おうと思っていた、僕なりのタンス預金だ。
 これが、昨日の自分から託された、一つ目の使命。
 こちらの世界で使えるお金を、少しでも増やしておく。
 恐らくだけど、自分自身からお金を盗んでも泥棒にはならないだろう。この時代の自分には申し訳ないけど、まさに今こそが、〈何かあったとき〉である。
 さすがに全額は申し訳ないので、五千円だけくすねる。クッキー缶を元の場所に戻し、名残惜しいが部屋を後にした。しかし、廊下を進んで階段を下りようとした瞬間、一階から、玄関の開く音が聞こえてきた。
 体が、硬直する。一気に背筋が寒くなった。
 足音が一階の廊下を進み、リビングへと入っていった。恐らくこの足音は、母さんだ。十二時までパートで、スーパーの品出しをしているはずだから、まだ帰ってくるわけがない。どうなっているんだ。
 息を殺す。一歩も動けない。しかし、リビングからの物音は収まる気配が無かった。
 二階に上がって来られたら終わりだ。とにかく、ここを早く離れよう。僕は一か八か、抜き足で階段を下りた。しかしすぐさま、ミシッと音がして、僕の心を砕く。
 瞬間、一階の物音が止まった。当然その姿は見えないが、二階からの物音に驚いて固まっているのだと確信した。開き直った僕は、階段を一気に駆け下りた。母さんの「えっ、何?」という困惑した声と同時に、トイレへ逃げる。
「ちゃうって。母さん、俺や俺」
 大急ぎで近づいてきた足音に、僕は慌ててドア越しに声を掛けた。やおら便座に腰掛ける。
「だ、大介? 何でおんの?」
 瞬間、心が揺れた。昨日まで聞いていたはずの母さんの声を、妙に懐かしく感じた。親と話しているだけなのに、泣きそうになっている自分がいる。
「忘れ物したんや。すぐ学校戻るわ」
 僕は一応、声を高くして若者を装った。この老けた姿を見られるわけにはいかない。
「ビックリしたぁ。私、てっきり泥棒かと」
「そっちこそ、何でおんねん。パートとちゃうんか」
「休憩時間やから、戻って来たんよ。ちょっとしたいこともあったし」
「朝だけの仕事に、休憩時間ってあるんか」
「最近、昼からも仕事になったの。お金が要るようになったから」
 はっ、と沈黙してしまった。何か言葉を紡いで話を続けなければと、無理やり口を開く。
「ごめん、俺のせいやな」
 親の前でだけ一人称が〈俺〉になってしまうというのは、〈学生あるある〉だと思う。母さんがドアの向こうで、プッと噴き出した。
「今さら何? 別に気にせんでええよ、私らも納得したことやし」
「うん」
 申し訳なさを込めて頷く。母さんは今、どんな顔をしているのだろう。
「あ、そうや。今日の晩御飯、何がいい?」
「何でもいいよ」
「それ、母親が一番困るやつ。ちゃんと言ってよ」
「じゃあ、カレーでいいや」
「〈カレーで〉じゃなくて〈カレーが〉って言うてよ。ちょっと前もカレーやったけど、本当にいいの?」
「うん。母さんのカレー好きやし、いつでも食べたいよ」
 僕は嘘偽りなく答えた。母さんの困惑したような笑い声が聞こえてきた。
「何よ、急に。そんなん言うても、牛肉にはならんで」
「分かってるよ。昨日の焼肉も豚と鶏やったやん」
「あっそ。じゃあ、もう行くでな。休憩終わるし。あんた、鍵閉めてってな」
 母さんの足音が、一度リビングへ戻った。数秒後、玄関へと向かって扉を開ける音が聞こえる。途端に、母さんの気配が遠くなる。
 庭の砂利を踏む母さんの足音が完全に聞こえなくなってから、僕は立ち上がってトイレを出た。
 改めて、自分の家の中を見回す。昭和の最後に建てられた、お世辞にも豪邸とは言えない家。ノブの家みたいに、屋上でバーベキューができる家に憧れていた。しかし今になって、こんな家でも、充分凄いのではないかと思う。今の僕は、両親とほぼ同世代だ。先日も父さんに、「ジジイ」と悪態をついたけど、もはや自分も、そのジジイの年齢なのだ。
 二十年間の記憶が無いから心はまだ高校生だけど、それでもやはり、今の僕が一家の大黒柱になるなんて考えられない。たとえ小さくても、自分で家を建てるなんて考えられない。たとえ息子の要望とはいえ、自分以外の人のために仕事をしてお金を稼ぐなんて考えられない。
 実は、僕の両親は、凄いことをしているのではないだろうか。こんな恵まれた環境にいるのに、「小遣いが少ない」と文句を垂れていた高校時代の自分は、ただのガキだったのだ。
 家を出て、再度、実家を仰ぎ見る。太陽の陽が後光のように差し、僕はなぜだか、ぽつりと「ありがとう」と口にした。

   *

 昨日の自分に託されたもう一つの使命までは、まだ時間があった。
 マックで昼食を済ませ、それから隣接する漫画喫茶で暇を潰した僕は、夕方の四時、ようやく本題へと移ることを決めた。ちょっとした失敗はあったものの、今日はここからが本番である。
「だからさぁ、マジでオモロイんやって」
「そのオモロさが全く伝わってこんのやって」
 制服姿のノブの熱弁を、同じく制服姿の宮川大介が受け流している。そこへ、遅れてまっつんがやってきた。ノブの隣、宮川大介の斜向かいに腰掛ける。
「おう、スマン。喜美江(きみえ)がなかなか帰してくれへんくてな」
 まっつんはお婆ちゃんが入院しており、そのお見舞いに行った後だった。ちなみに自分たち二人もその予定に乗じて部活をサボったため、まだ明るいこんな時間にこんなところにいる。
 漫画喫茶から国道23号線を道なりに進み、横断歩道を渡った先のファミレス、ガスト。
 現在の僕は帽子とマスクをより深く装着し、入口付近のテーブル席から自分とまっつんとノブを観察していた。三人は、トイレ付近のテーブル席でくだらない話をしている。
「彼女みたいに言うなや。ただのババアやろ」
「松尾喜美江を舐めんなよ、激動の大正生まれやぞ」
 まっつんが手を挙げて「すみませーん」と店員を呼び、「とりあえずドリンクバー」と注文した。そのまま宮川大介に向き直り、
「で、何の話してたん?」
「ノブがこの前、勧めてきたやつ」
「ああ」
 と、面倒臭そうにまっつんが頷く。ノブをじとっと見つめ、
「大体さぁ、無駄な知識を知って何の意味があるん。無駄って言うてもうてるやん」
 鼻で笑い、片肘をつく。まっつんだけ制服のブレザーを脱いでおり、カッターシャツ姿だった。
「それがオモロいんやって。例えばな、〈みのもんた〉の本名知ってるか? 〈ミノリカワノリオ〉なんやで」
「だから何やねん。みのもんたの本名を知って、何の得があんねん」
 店中に響くくらいの音量で手を叩きながら、まっつんが大笑いした。
「せやから、そういう番組やって言うてるやん」
 そうだ。こんな話を、周囲の迷惑も考えず大声でしていたのだ。数日前の、二十年前の、記憶が蘇る。
 もうすぐ〈トリビアの泉〉というテレビ番組が始まるとノブが言い出し、それが面白そうだと熱弁し始めた。でも、〈知っても無駄な雑学を教える〉という番組内容を聞いて、僕とまっつんは懐疑的だった。
「じゃあ、これはどうや。ホテルの廊下がカーペットなんは、足音を消すためなんやで」
「ふーん。どうでもええわ」
「てか、何でいきなりホテルの話やねん」
「この前、何かのテレビで見たんやわ」
「じゃあそのテレビを見とけばええやんけ」
 と笑いながらも、過去の僕は、確かにその雑学はちょっと面白いな、と思っていた。できれば、僕の実家の階段もそうして欲しい。
 その後、注文した料理が運ばれてきた。それと同時に、過去の僕がおもむろに口から〈マウスピース〉を取り出して水色のケースに仕舞った。瞬間、現在の僕の視線もそこに注がれる。あれこそが、昨日の僕から託された、二つ目の使命。
 僕は子供のころから歯並びが悪く、少し出っ歯なのがコンプレックスだった。そして雑誌で〈大人になってからも歯並びはどんどん悪くなる可能性がある〉という記事を読んで怖くなった僕は、両親に歯列矯正がしたいと懇願した。さらに贅沢にも、見た目で歯列矯正していると気付かれない、最新のマウスピース型での矯正を希望した。
 しかし両親が調べた結果、それはとんでもない価格で、とてもじゃないが無理だと拒否された。それでも僕が引き下がらずにいると、両親は溜息をつき、条件付きでの購入を約束してくれた。
 これから、毎月の小遣いは減額される。また、マウスピースは数か月ごとに新しいものと交換して徐々に歯並びを矯正していくのだが、作り直しにはこれまたとんでもない額が掛かる。そのため、もし一つでも無くしたらそこで即終了。絶対に無くさず管理する、という誓いを僕は立てた。「車の買い替えがパァやわ」という父さんの言葉が印象的だったが、僕はあえて聞き流し、具体的な金額は聞かなかった。
 先ほど、実家で母さんが「お金が必要になった」と言っていたが、まさしくこのマウスピースのことである。
 それからもくだらない話で盛り上がった三人は、一段落したところで席を立った。レジに向かう三人から顔を背けつつ、僕は横目で三人のいたテーブルを凝視していた。
 汚れた食器の間で、水色のケースが放置されている。
 そう。僕はこの日、マウスピースをガストに忘れていったのだ。マウスピースは、食事中のみ外すというルールだった。
 三人が店外に出ていったのを確認すると同時に、僕も席を立つ。トイレへ行く道中、さりげなく水色のケースを盗み、ポケットに仕舞う。そのままトイレに入ると、数十秒後、慌てた様子の足音が聞こえてきた。
「あれ、えっ、嘘っ」
 トイレの入口から顔を出して店内を確認する。泣きそうな顔の自分が、店員へ詰め寄っていた。
「すみません、あの、ここに、水色のケース、ありませんでした?」
 過去の自分は、部活中にも見せたことのないような必死さだった。しかし店員は、他人事のように「さぁ」と首を傾げる。
「おかしい、絶対、あるはず、絶対」
 過去の自分がそう呟きながら、テーブルの下に潜り込む。そのまま頭を上げて、後頭部を強打していた。
 僕は過去の自分に心中で謝りながら、横を通り過ぎた。そのまま会計を済まし、店を出る。その瞬間、マスクの奥で、ゴリ、ガキ、グリ、という異音が響いた。
 僕が、昨日の自分から託されたのは、まさにこれだった。
 事故を未然に防ぎ、障碍を無くすことが目的なのは分かる。しかし、SF小説などでは過去にタイムスリップしても、その世界と自分が来た世界は、世界線そのものが違うから互いに干渉しない、という設定があるものも多い。だからこの世界で過去を変えて、本当に今の自分にも影響が出るのか。それを調べてほしいということだった。
 本来の歴史では、すぐにマウスピースを忘れたことに気付いて取りに戻ったため、事なきを得た。しかしそこで、マウスピースが盗まれていたらどうか。僕の両親の性格上、最初の約束通り、本当に歯列矯正を中止にするだろう。確実に今の自分にも影響、変化が出るはずだ。
 慌てて近くの公園へ行き、トイレに入る。鏡の前でマスクを外すと、そこには見たことのない自分がいた。
 とんでもなく出っ歯。お笑い芸人として生きていくしかないほど、特徴的な口元になっていた。思わず、そのクチバシを撫でる。間違いなく本物だった。
〈大人になってからも歯並びはどんどん悪くなる可能性がある〉という雑誌の記事は、事実だったのだ。僕は、もし歯列矯正をしなければ、こんな口元になっていたのだ。
 急ぎ足でトイレを出て、ガストへ戻ろうとする。今の自分にも影響が出ると分かった時点で、マウスピースを盗む必要は無い。さっさと過去の自分に返して、この出っ歯を元に戻そう。
 ふと思い立ち、小走りのままスマホを確認する。しかし、写真の中の自分は出っ歯になっていなかった。どうやら、僕自身に変化があっても、僕の所持している〈持ち物〉に変化は無いらしい。これには安堵した。もし〈持ち物〉にも変化があれば、僕が過去を改変するたびに、ノートに書いてある事実も自動的に書き換わってしまうかもしれない。そうなったら明日の自分は、それこそ大混乱してしまうだろう。
 ちなみに余談だが、このマウスピースを盗む作戦には、もう一つの目的があった。本来の歴史でマウスピースを見つけた僕は、嬉しさのあまりジャンプしながら店を出た。本当に馬鹿げた理由だが、その着地の際に、足を捻挫してしまったのだ。たった数日でも、部活を見学するしかない辛さは大きく、その不幸も取り除いてあげたかった。
「あっ、と、すみません」
 駆け足で角を曲がろうとしたとき、制服姿の女性とぶつかりそうになって足を止めた。女性側も「すみません」と謝り、目が合う。しかし、その瞬間。
「えっ……?」
 と、互いの時間が止まった。
 梨花だった。昨年、無理やりキスをしてビンタされて振られた、僕の元恋人、山城梨花(やましろりんか)だったのだ。
 制服姿の梨花は、ただでさえ小さな体をさらに丸め、携帯を操作していた。数秒間、お互い石化したように固まる。しかし魔法はすぐに解け、再び歩を進める。何事も無かったかのようにすれ違い、そのまま歩き去ろうとした。しかし。
「……大介、君?」
「はっ!?」
 思わず、足を止めて振り返る。冷静に考えれば、無視して逃げるべきだった。しかし、冷静になれる訳が無かった。
 梨花は、恐怖心と好奇心がない交ぜになったような瞳で、こちらへゆっくりと近づいてきた。
「やっぱり貴方、大介君……宮川大介君の、親戚の方ですか?」
「えっ」
 一気に肩の力が抜ける。しかしすぐさま、力を入れ直す。まだ、何も安心できる状態ではない。
「その、いきなり話しかけてすみません。あの、どうしよう。どう言えばいいか……」
 梨花は混乱している様子だった。しかし、それはこちらも同じだ。全く状況が飲み込めず、辺りを見回した。そこで疑問の一つが解決する。この通りは、梨花の家の近くだ。学校帰りに鉢合わせになった、ということらしい。
「君……梨花ちゃん、やよね。大介から聞いて知ってるよ」
 僕は思わず助け船を出した。何度も言うが、冷静に考えればこのまま逃げ去るべきだ。しかし、冷静でいられる訳が無かったし、何よりも、元恋人が僕に話しかけてきた理由が気になって仕方無かった。
「えぇっ、本当ですか? 良かったぁ」
 梨花は緊張の糸が切れたように目尻を下げた。僕と付き合っていたときに見せていた、満開の笑顔。しかし、すぐに表情を引き締め、
「あ、申し遅れました。私、山城梨花と申します。知っているかもしれませんけど、宮川大介君と同じ高校に通っています」
 僕は相槌としてとりあえず「ああ、知ってるよ」と返した。まだ話の全容が掴めない。
 梨花は目を瞑り、大きく深呼吸した。何か、自分の中で決意を固めているようだった。
「あの、失礼ですけど、お名前は」
「えっ……白木、博人です」
 反射的に、またその偽名を使う。一度、白木さんに謝りたい。
「シラキヒロトさん。実は折り入って、お願いがあります」
「はぁ、何でしょう」
「本当に、本当に、初対面の人に言うようなことではないんですけど……」
 しかし梨花はそこで言葉を止め、俯いてしまった。
「えっと、やっぱり、どうしよう」
「いやいや、そこまで言われたら気になるよ。遠慮せずに言ってよ」
 僕が促すと、梨花は目を泳がせたままゆっくりと口を開いた。
「……私、実は、大介君と付き合っていたんです。でも去年、ちょっとしたトラブルで別れてしまって。凄く後悔しているんです。本当はやり直したいんですけど、こっちから振ってしまったから、どうやって話を持ち掛ければいいか分からないんです」
「そう、なんや」
 僕は冷静な言葉とは裏腹に、鼓動が高鳴っていた。梨花は、まだ僕と付き合いたかったのか。でも、去年別れてから、一度も会話をしていない。それどころか、学校ですれ違いそうになったら、どちらからともなく道を変えて避けるような習慣も身についていた。
「それで悩んでいたところ、貴方と出くわした。九十九パーセント気のせいだと思うけど、どことなく、いや、かなり大介君に似ている。それで、もしかしたら大介君の親戚かもしれないと思って、その一パーセントに賭けて、大介君の名前を呟いたら、貴方が反応してくれて」
「ああ、なるほど」
 ようやく合点がいった。今さらだけど、本当に彼女が、僕を大介本人だと思っていないと分かり、安堵する。僕は瞬間的に脳内で決めた設定で、話を続けた。
「確かに私は、大介の叔父やけど、何をすればええのですか」
「話す切っ掛けを作ってほしいんです。私と大介君、もう学校では普通に話せない仲になってしまったので」
「切っ掛け、かぁ」
 言葉を復唱する。確かにこんなこと、道端で偶然出くわした人に頼むことではない。それだけ切羽詰まっていて、本気で大介、つまり僕と復縁したかった、ということだろうか。
「例えばやけど、普通に〈ごめんなさい〉って謝るのはどうなん」
「いや、そんなん、言う前に大介君が逃げてしまいます。そもそも、大介君に睨まれたら私、何も言われへんようになるし」
 梨花は警戒心が解けてきたのか、口調から堅苦しさが無くなった。いくら僕を別人だと思っているとしても、長時間会話するのは危険だ。できるだけ早く話を切り上げて、離れたい。
 しかし、それ以上に、目の前で困っている元恋人を何とかしてあげたい、その気持ちが勝った。
「そうや、これ持っていき」
 おもむろに鞄から水色のケースを取り出すと、梨花が首を傾げた。
「これは?」
「マウスピースや。大介は今、歯列矯正しとんのやけど、無くしてしもうてな。めちゃくちゃ大事なもんやったから、これを渡せば、絶対に向こうから近づいてきてくれるで」
「ホンマですか」
 梨花の顔がぱっと明るくなり、水色のケースを奪うように僕の手から持っていった。こういうところを見ると、やはり子供なんだなと思う。高一のときの自分は、梨花を女性として見ていたが、今見ると、それこそ親戚の子供にしか見えない。これは無意識に、エミリさんという本当の大人の女性と比べてしまっているからなのか、ただ単に僕の精神年齢が上がっているからなのか、どちらだろうか。
「でも、何でそれを叔父さんが持っているんですか」
「えっ、偶然、拾ったんやけど」
 唐突な質問に、おかしな返答をしてしまった。しかし梨花は疑う様子も無く、水色のケースをまじまじと見つめていた。
「じゃあこれ、今度渡してみます」
 マウスピースから顔を上げた梨花が、期待に満ちた目で言った。
「今度? 今ちょうど、この先のガストにおるで」
「えっ!? いや、そんな、いきなりは心の準備が……明日とか明後日じゃ、駄目ですか」
「別にええと思うけど」
 僕が苦笑しながら頷くと、梨花はニカッと笑って
「本当に、こんな変なことを聞いてもらって、ありがとうございます。あの、それじゃあ失礼します」
 と、僕に一礼。こちらも手を挙げて応えたのだが、その去り際に唐突に足を止め、
「あの、一応聞いておきたいんですけど、大介君、すでに新しい彼女がいるってことは」
「ないない、絶対に無い」
 僕は即座に頭を振った。梨花と別れて以来、女性恐怖症のような状態になった僕は、そもそも女子とまともに会話をしたことがなかった。背伸びして女子と話すより、男友達とだらだら過ごすほうが何倍も楽しいと感じていた。
 梨花は安堵したように微笑み、改めて「ありがとうございました」と言いながら、道の奥へ消えていった。
 その瞬間、僕の口元で、ゴリ、ガキ、グリ、という異音が響いた。そうか。梨花にマウスピースを渡した時点で、歯列矯正が再開される未来に戻ったのだ。
 口元を撫でるように触る。鏡を見なくても分かるほど、出っ歯が治っていた。
 それにしても、と改めて思う。今の僕の見た目は、全くの別人と言っても過言では無い。にもかかわらず、梨花は〈大介君に似ている〉と判断して話しかけてきた。その勇気と洞察力に感服する。
 梨花と出会ったのは、高校一年のとき。病弱な彼女は喘息を持っていた。偶然、隣の席になった僕が何度か介抱したのが切っ掛けで、仲を深めていった。
 正直言って、恋心と言うよりは同情心と呼ぶべき感情だったのかもしれない。しかし梨花のほうは、僕に対し、本当の〈愛の力〉を持っていてくれたのだろうか。

   *

 ホテルの部屋へ戻って来た僕は、最初にシャワーを浴びた。リフレッシュさせた頭と体を、新しいタオルで拭く。その後、人生で初めて使うドライヤーで髪を乾かし、帰り道にサークルKで買ってきたトンカツ弁当を頬張った。レジへ出した瞬間、店員がニヤリとし、「これ好きなんですね」と聞いてきたが、全くもって意味が分からなかった。
 さて、と一息つく。トンカツ弁当の空き容器を捨て、歯を磨きながら思案する。明日の自分、つまり事故前日に当たる6月8日の自分は、どう動くべきだろう。
 まず、今日の反省を踏まえ、〈エミリさんには会いに行くな〉とノートに書く必要がある。明日の自分も今日の自分と同じく、当たり前のようにエミリさんに会いに行くだろう。それは危険であると、病院には近づくなと、伝えなければならない。
 そして次に、本題である事故の防ぎ方。
 単純な作戦として、本人に直接警告する、というアイデアもある。僕はSF小説が好きなのだから、ちゃんと説明すれば、〈僕は未来から来たお前自身だ。お前はもうすぐ事故に遭う〉という話も信じてくれると思う。しかし、そもそもの話、この数日間、僕が一人きりになる時間が無いことに気付いた。不審者に声を掛けられて変な話を聞かされるのだから、長時間一人でいて、何より落ち着いているときに話し掛ける、というのが最低条件だ。周囲の人にそんな会話を聞かれたら、警察に通報されてしまうかもしれない。
 そんなリスクを背負うくらいなら、もっと単純な作戦として、事故当日に松下デンキの前からさっさと追い払う、というものがベストだろう。日本対ロシア戦を見終わった後、「この辺りに生徒指導の櫛田先生がいるぞ」とでも言えば、ケヤキ公園に寄ることもなく、慌てて帰るはずだ。
 歯を磨き終えた僕は、机へ戻ってからペットボトルのお茶を一口飲んだ。
 自分の過去を変える。未来を変える。とんでもなく難しい使命をNASAから託されたと思っていたが、こうやって考えると、実に簡単なことだった。いっそのこと、事故当日にいきなり送り込んでくれても良かったのだが、何か制約でもあったのだろうか。
 僕は未来に帰ったら、英雄だ。世界的な有名人になれるかもしれない。夢だった自伝小説を出版し、億万長者になれるかもしれない。
 いや、お金なんてどうでもいい。僕にはエミリさんがいる。〈なれるかもしれない〉とかいう仮定ではなく、厳然たる事実としての、幸せの象徴であるエミリさん。エミリさんさえいれば、僕はそれでいいのだ。
 ――ああ、エミリさん。
 僕はスマホを取り出し、改めて二人の思い出の写真を眺めた。
「……えっ?」
 ふと。
 その瞬間、僕の脳内に、おかしな仮説が浮かんだ。いや、そんなことはあり得ない。考えなくていい。
 しかし、思いとは裏腹に、その思考はウィルスのように蔓延し、脳一杯に広がっていった。僕の脳はただでさえ障碍があるのに、どうしてさらに苦しめられなければならないんだ。
 落ち着け、落ち着け。
 何度も深呼吸。しかしすればするほど、鼓動が速くなっていく。脳の中はぐちゃぐちゃなのに、頭は真っ白だった。
 時計を見る。午後九時十五分。
 僕はあと、三十分ちょっとで眠ってしまう。つまりこの問題に、三十分で結論を出さないといけない。
 迷っている暇は無い。でも、どうする。自分の優柔不断さが嫌になる。でも、こんな問題、誰だって迷うだろう。即断できないだろう。
 意味も無く頭を平手で叩き、天を仰ぐ。薄暗く室内を照らす電球が、ドラマで見た取り調べ室のライトを想起させた。
 とにかく、落ち着け。まず考えなきゃいけないのが、この事実を明日の自分に伝えるかどうか、だ。
 明日の朝、目覚めた自分は、今日の自分と同じように現状をイチから理解していく。自分が〈記憶の無い過去の未来人〉だという、SF小説でも聞いたことのない荒唐無稽な状況にあることを、受け入れなければならない。まずそれだけでも、とんでもない労力だ。そのうえ、さらにこんな事実を知らされたら、どうなるだろう。
 知らせないほうがいいのか。しかし、気付いてしまった以上、知らせないわけにもいかない。
 改めて深呼吸。とにかく、一つ結論を出そう。僕は折衷案を思いついた。
〈興味があったら読んで〉と書いた、古いノート。〈2022年の自分用〉に書かれたこちらのノートの最終ページに、この事実を記そう。その記述に気付くかどうかは、完全に運次第。気付いても気付かなくても、それは明日の自分の責任。
 最低かもしれない。いや、実際に最低だ。すべてを明日の自分に押しつけて逃げるのだから。しかし、今の僕に、これ以上の結論を出すのは無理だ。
 古いノートの最後のページにその事実を記し、引き出しに仕舞った。思いの丈を一気に書き上げたため、親指の付け根が痛む。軽く揉んで痛みを取ってから、改めて〈2002年の自分用〉の新しいノートに、今日の出来事や明日の自分に伝えたいことを記していった。
 途端に、眠気が襲ってくる。僕は眠る前に、やろうかどうか迷っていたことを実行に移した。もう一度、古いノートを引き出しから取り出し、新しいノートとともに〈ある細工〉を施した。
 こんなことが正しいかどうか分からない。でも、もう何でもいい。とにかく眠たいし、これ以上頭を使いたくなかった。この細工に気付くかどうかも、気付いた後どうするかも、明日の自分次第。明日は明日の風が吹く。今日の自分には関係ない。
 眠気の中で最低な思考に支配された僕は、そのままベッドに横になった。そして意識が遠のく直前、ふと、あることを思った。
 ――僕は本当に、〈元の世界〉に戻れるのだろうか。