「おはよう」
一階へ降りてドアを開けた瞬間、その声が僕を出迎えた。
自分の部屋を模した不思議な部屋で目覚め、不思議なノートを読み、半信半疑のままやって来た僕を、彼女――エミリさんは優しく微笑みながら出迎えてくれた。
「もうノートは読んだ?」
「あ、はい」
「何で敬語? 私ら夫婦やで」
また、彼女が笑う。胸元の銀色のネックレスを揺らしながら、朝食の用意をしていた。
――僕はこの人を愛している。そして本当に結婚しているんだ。
初対面でそう確信し、歓喜した。
「さ、食べよか」
エミリさんに促され、テーブルの椅子へ腰掛ける。
その後、朝食を二人で食べながら様々なことを聞いた。障碍のこと、この二十年間のこと、いつも使っているリュックのこと、〈手続き記憶〉のこと、両親はまだ健在で還暦を過ぎているということ……。
そのどれもが衝撃的であり、信じがたいものだった。しかし何よりも、目の前にいる彼女が、〈エミリさん〉という絶対的に信じられる存在が、僕の猜疑心を霧消してくれた。
「さて。そろそろ行こか」
上品な咀嚼音とともに、エミリさんが話しかけてきた。
「行くって、どこへ?」
「私の職場と、大介さんの職場」
あまり意味が分からなかったが、とりあえず頷き、エミリさんに促されるままに顔を洗って服を着替えた。襟の皺をエミリさんが直してくれたとき、思わず「夫婦みたいやな」と言ってしまったが、エミリさんは笑いながら「夫婦やわ」と突っ込んでくれた。
*
エミリさんの運転する軽自動車の助手席で、僕は外の景色を眺めていた。
本日6月6日、月曜日のお天気です――。
車内ラジオの音声で、今日の日付を知る。2002年の6月6日、つまり僕にとっての四日前は月曜日では無かったはずだから、やはりここは自分の知らない世界なんだな、と、今さらながら背筋が少し寒くなった。
「あっ、そうや」
エミリさんの指示で鞄の中を確認している最中、彼女が唐突に叫んだ。
「今日は時間が無いから、車の中でノートを読んでもらわないかんのや」
意味が分からなかったが、とりあえず「分かった」と従う。〈今日は〉ということは、昨日などは、車内以外で読んでいたのだろうか。
しかし、ノートを広げ、集中して読み進めること数分。
「ぶー。時間切れでーす」
エミリさんが悪戯っぽく笑った。そっちが読めと言ったから読んでいるのだが、この態度は何なのだろう。しかし、この顔を見ていたら、腹を立てる気さえ無くなっていく。
気付くと、車は大学病院の駐車場に停まっていた。院内へ入って医師と会話したのだが、何とそれはノブだった。あの日、松下デンキで一緒にサッカーを見た、ノブだったのだ。とても驚いたが、そのお陰で、改めて自分の現状を受け入れることができた。
病院を後にした僕は、再び車の助手席でノートを読み進めた。熟読する僕に配慮してくれたのか、エミリさんは運転中、全く話しかけてこなかった。何でも、僕をどこかへ送っていってから、病院に戻って仕事を始めるらしい。
「大介さん、ここ分かる?」
数分ぶりに話し掛けられ、心が跳ねる。慌てて意識を戻し、周囲を確認。車は何やら大型商業施設の敷地内に入っており、エミリさんがバックで駐車場に停車させるところだった。
景色を眺め、推理する。一見、見慣れない風景だったが、落ち着いて観察すると二十年前の名残が見て取れた。
通学路として毎日、自転車を漕いだ国道23号線。その通りの向こうでは、サークルKが潰れてファミリーマートになっていた。
そして、この配置で存在していた大型商業施設といえば。
「ここって、ジャスコやったとこやよな」
「今もジャスコやで。イオンって名前に変わったけど」
「あっ、何かニュースで見たことある。そうや、イオンや。ジャスコがイオンに変わるって言っとった」
「でもな、未だにジャスコって呼ぶおばちゃんも多いし、気にせんでええよ。まぁ、そのおばちゃんの代表が私やけど」
それにしても、本当に変わりすぎだと思った。ジャスコにしてはお洒落すぎる。一流建築家に依頼したような立体的なロゴ、壁面のカラフルな格子状の模様。何よりも、建物自体がとんでもなく巨大で、SF映画で見た宇宙船を想起させた。
こんな施設ができてしまったら、そりゃ街の商店街なんて一溜まりもないよな、と同情した。
車を降りて、正面入口から店内へ。食品売り場を横目に、エミリさんが店内を進んでいく。メイン通りから外れた殺風景な通路に入っていき、旅行代理店横の階段を上っていこうとする。しかし僕は、案内掲示板にエレベーターの表記を発見した。
「エミリさん。向こうにエレベーターがあるみたいやよ」
しかし彼女は、眉間に皺を寄せて腰に手を当てた。
「ごめん。私な、昔から閉所恐怖症やねん。せやから、できるだけエレベーターは避けたいんよ」
「あっ、えっと、すみません」
僕は素直に謝罪した。恐らくこの会話も、何回もしているのだろう。そのたびにエミリさんは、自分の弱い部分を僕に説明しなければならない。その苦労を慮った。恐らくノートのどこかにこの事実は書いてあるのだろうが、最も大事なこととして、一ページ目に書き直してもいいのではないだろうか。先ほどの車内でもすぐに時間切れになってしまい、隅々までノートを読めなかった。もっと急いで読めばよかったと、今さらながら後悔した。
エミリさんは「別にええよ」と優しく笑い、階段を上っていった。僕は彼女の後に続きながら、改めて心の中で謝罪した。
三階に到着し、専門店売り場を進んでいく。家電量販店の店頭で、恐らく最新型であろう薄いテレビが展示されていた。とてつもない大きさで、家が映画館になってしまうのではないかと思った。
さらにそのテレビで、ハリウッド映画の予告編らしきものが流れていた。しかしよく見ると、〈プレステ5用〉と書いてあり、ゲームの画面だと気付く。2002年の僕は、プレステ2の映像で「実写みたいやな」と感嘆していたが、そういうレベルではない技術の進歩を感じ、自分が世界から取り残されているような恐怖を覚えた。
「ここ。付いてきて」
エミリさんが、服屋と雑貨屋の間にある〈関係者以外立ち入り禁止〉と書かれた扉を当たり前のように開けた。
僕は、ここの〈関係者〉なのだろうか。忘れていたが、僕は仕事をしに来たのだ。ここが、僕の職場……なのだろうか。
在庫の段ボールが山積みになっているバックヤードを躊躇なく進んでいくエミリさんに、僕は子供のように必死に付いていった。彼女は〈事務室〉のプレートが掲げられた部屋のドアをノックし、これまた躊躇なく入っていった。
「おはようございます。宮川です」
「おお、どうも」
僕もエミリさんに続いて怖ず怖ずと入っていく。そしてデスクに腰掛けた店員と対面した瞬間、「……は?」と、開いた口が塞がらなくなった。
「こんにちは、大ちゃん」
まっつんだった。あの日、松下デンキで一緒にサッカーを見た、友達のまっつんだったのだ。
膨よかだった体型はそのままで、半袖のワイシャツから伸びる腕は大根のようだった。特徴的だった豚鼻はマスクに隠れて見えなかったが、首から〈松尾里志〉と書かれた名札をぶら下げていた。
「まっつん、ジャスコの店長になったの?」
「店長ではないよ。まあ、そこそこの役職はさせてもらっとるけど」
まっつんはパーティー開けしたポテトチップスを一枚口へ運び、指を一舐めした後、濡れた指で右方向を差した。
「こちら、教育係の千代崎さんね」
紹介された女性が立ち上がり、頭を下げる。
「千代崎です。よろしくお願いします」
ゆで卵に小さな目を付けただけの容姿をした彼女は、赤い縁の眼鏡を掛け、当然マスクもしていた。恐らく自分より年上、二十代だろう。……いや、自分は今、三十代なのだから、〈年下〉と表現しなければならないのか。
「初めまして、宮川です」
こちらも丁寧に挨拶する。しかし、その場の全員がプッと噴き出した。
「いえいえ。私はもう二年以上、宮川さんの教育係をしていますよ」
「そう、だったんですか」
僕はその事実に衝撃を受けたのだが、三人は何食わぬ顔で話を進めていく。
「そうか。今日は、その部分を読んでないパターンの大ちゃんか」
「すみません。今日は、ノートを読ませるのがいつもより遅れてしまって」
「ははは。奥さんも大変でしょうし、それくらいのミスはありますよ」
「確か、松尾さんと、お医者さんの同級生の方に関しては、サプライズのためにあえてノートには書いてないんですよね?」
頼むから、勝手に盛り上がらないでほしい。僕を中心とした話なのに、僕だけが取り残されている。僕が気まずそうに目を泳がせていると、エミリさんが眼前にピンク色の包みを差し出してきた。
「はい、お弁当。じゃあ、私も仕事へ行くね。四時ごろ迎えに来るけど、一人で大丈夫?」
エミリさんが試すような目で問いかけてくる。本当は不安だったけど、そんな子供みたいなことは言えない。僕が大丈夫じゃなさそうに「大丈夫」と答えると、エミリさんは満足そうに出ていった。その直後、
「大介さん、千代崎さんと浮気したらイカンよぉ!」
というエミリさんの大声が聞こえてきて、全員がどっと湧いた。
*
「では、こちらに着替えてください」
千代崎さんに案内された更衣室で、僕は従業員用のジャンパーを羽織った。オレンジ色の派手なもので、胸元に〈キンシャチクリーン〉と書いてある。
「この、キンシャチクリーンというのは?」
「宮川さんの所属している会社です。イオンで働いていますが、あくまで外部委託なので」
その言葉の意味はよく分からなかったが、要するに僕はイオンで働きながらも、所属している会社は別の清掃会社らしい。名前から察するに、本社は名古屋にあるのだろう。さらに同じく〈キンシャチクリーン〉と書かれた帽子も受け取り、それも被った。
「では、行きましょうか」
千代崎さんに促され、更衣室を出る。ちなみに下は私服のジーンズでいいということで、着替えは一分ほどで終わった。
「使うのはこちらです」
千代崎さんは、バックヤードに置かれた大きな手押しコンテナを指差した。巨大な空洞の中央に仕切りがあり、二つに区切られている。
「宮川さんの仕事は、ゴミ回収です。これで店内をすべて回って、燃えるゴミと燃えないゴミを回収してきてください」
千代崎さんが僕に数枚の紙を手渡す。店内の地図だった。所々に赤い点がしてある。
「そのマークの場所が、回収ポイントです」
なるほど、これは分かりやすい。僕はずっと、自分みたいな人間が本当に仕事なんてできるのか不安だった。しかし、これだけ丁寧な説明があるなら、確かに毎日初心者でも問題無いと感じた。
それから仕事中の注意事項をいくつか指示され、僕は千代崎さんと別れた。何でも、最初のころは不安で毎日付き添っていたのだが、僕が真面目に働く姿を見て、これなら一人でも大丈夫だと判断したらしい。
バックヤードから出て、店内を回る。指示通りのポイントへ行き、燃えるゴミと燃えないゴミを分けて空洞に入れていった。
それにしても、改めて観察すると、より異質さが際立つ。僕の知っているジャスコとは違う、お洒落で落ち着かない店舗が軒を連ねていた。恐らく、名古屋まで行かないと無かったはずのブランド洋品店、店内がピンクで統一されたファンシーショップ、挙句の果てに、〈タピオカ屋〉という何を売っているのかよく分からない店まで存在した。いつから三重県は、こんな都会になったんだ。
「おはようございますぅ」
途中、同じジャンパーを着た女性が僕に挨拶してきた。モップで床を磨いていたので、キンシャチクリーンの同僚だろう。僕も社交辞令でお辞儀を返したが、釈然としない。
あの女性は、どこまで僕のことを知っているのだろう。毎日、挨拶するだけの関係なのだろうか。それとも、僕の障碍についても知っているのだろうか。
不安が頭をもたげる。歩くたびにぽろぽろと雑念が零れ落ちる。やはり、強がっていたけど、エミリさんと逸れた僕は、迷子の子供みたいな焦燥感に駆られていた。
僕は考える暇も無いほど、忙しく仕事を進めた。右も左も分からない新人なのだから、前を向いて進むしか無い。マスクで表情の分からない数百人のお客さんとすれ違いながら、無心でゴミを集め続けた。
昼の十二時。千代崎さんが僕を昼食に誘ってくれた。フードコートへ行き、向かい合って食事を取る。千代崎さんはスガキヤのラーメンを啜りながら、「いつもいいですね、愛妻弁当」と笑っていた。
「あ、そうや。モンパチ聴きましたよ」
千代崎さんの声に、お弁当箱から顔を上げる。
「モンパチ?」
「宮川さんが勧めてくれたんじゃないですか〈MONGOL800〉。あーなーたぁーに、会いたくてぇー……って、覚えてないですよね。すみません、未だにこんな初歩的なミスして」
ばつが悪そうに、千代崎さんがメンマを頬張る。どうやら過去の僕は、千代崎さんに当時流行っていた歌手を教えていたらしい。
「それでこちらもお返しに〈米津玄師〉を勧めたんですけど、聴いてくれました?」
「いや、ちょっと分からないかな」
「もう、ちゃんとノートに書いといてくださいよ」
彼女は頬を膨らませながら、スープをレンゲで啜った。マスクを外した彼女は、エミリさんほどではないにしろ、愛らしい顔をしていた。……これは、浮気ではないよな?
「せっかくやから、今から〈ユーチューブ〉で聴いてみたらどうです?」
「ゆうちゅうぶ?」
「スマホの画面に、矢印みたいなマークないですか? それを――」
意味が分からないままスマホを取り出し、千代崎さんの指示に従って操作する。しかし。
「えっと……やっぱり、やめときましょうか」
僕のスマホ画面を覗いた千代崎さんが、目を伏せる。途端に気まずい空気が流れたが、自席に戻った千代崎さんが「ゴミ回収、どうでした?」と話題を変えてくれた。
その後は他愛無い世間話を続け、千代崎さんに「今度、MDウォークマンを見せてあげる」と約束したところで昼食が終了。彼女と別れ、僕は昼からの仕事に取り掛かった。少し不安だったけど、午前中と同じ動きをすればいいだけだったため、つつがなく終えることができた。
「はい、じゃあこれ」
午後四時過ぎ。着替えを済ませて事務室に戻ってきた僕に、まっつんが封筒を差し出した。受け取り、中を覗く。福沢諭吉と目が合った。
「ありがとう、ございます」
僕は恭しく頭を下げた。その光景は友達というより、上司と部下のようだった。実際にそうだから仕方ないのだが、やはり違和感がある。
「あっ、そうや。宮川さん、約束覚えてます?」
まっつんの隣に立っていた千代崎さんが、思い出したように口を開く。
「MDウォークマン、忘れないでくださいよ。今度こそ、絶対にノートに書いといてくださいね」
千代崎さんが、念押しして僕に詰め寄る。僕は苦笑いで「はいはい」と返し、改めて二人に「お疲れ様でした」と言いながら部屋を出た。
なぜかMDウォークマンは、朝起きたとき床に転がっていた。家へ帰ったら、すぐさま鞄に入れよう。
そんな考え事をしながら、バックヤードを出ようとする。しかし。
「あっ」と、あることに気付いた。
帽子を返し忘れていた。仕事中、汗ばんできたので気持ち悪くなり、僕は私服のジーンズの後ろポケットに、キンシャチクリーンの帽子を折り畳んで詰め込んでいたのだ。
慌てて踵を返し、事務室へ戻る。
「えーっ、まじかぁ」
しかし、ドアをノックしようとした瞬間。中からの大声で手が止まった。
「大ちゃん、歌好きやから覚えてると思ったんやけどなぁ」
「全くでしたよ。はい、千円」
「きっつ、三連敗やで、もう。でもさぁ、今日のMDウォークマンはあんだけ言ったんやから、さすがに持ってくるやろ」
「どうですかね。あの人、また書かないんじゃないですか? 自信があるなら、倍額でいきます?」
「えっ、じゃあ負けたら二千円? きっつ。でも、そのルールやと――」
それ以上、聞いていられなかった。再び踵を返し、早歩きでバックヤードを後にする。
何も考えられない。何も考えてはいけない。何があっても、悲しむ資格も、怒る資格も、僕には無い。
こんな面倒臭い人間を雇ってくれているのだから、それだけで感謝しなければいけない。僕を使ったお遊びくらい、許してあげなきゃいけない。そもそも、ゴミを数時間集めただけで、日給一万円って凄くないか。2022年の物価は知らない。確かにスガキヤも値上げしていた。しかしそれにしても、一万円はちょっと多すぎる。
恐らく、まっつんは懸命に上と交渉して僕を雇ってくれたのではないか。そして障碍者用の何とか制度みたいなものを使って、多めに給料を渡してくれているのではないか。そこまで気を遣ってくれているのなら、むしろ玩具にされて本望だ。
だから、悲しんじゃいけない。いけないんだ。
「おかえり」
正面入口から外に出た途端、その声が出迎えた。下を向いていた顔を、ゆっくりと持ち上げる。
エミリさんが、いた。
考えるより先に、足が動いた。無心で、一直線に進む。エミリさんの胸に顔を埋めた瞬間、体中が一気に熱くなった。
「エミリさん、好きです、離れやんといてください、僕を裏切らんといてください、怖いです、怖いです」
ろ過していない本音と涙が、詰まったトイレみたいに溢れた。それは赤ちゃんの泣き声のようにワガママで、素直な思いだった。頬にネックレスが当たり、そこだけひんやりとする。エミリさんは僕の思いを受け止めるように、黙って後頭部を撫でてくれた。
自分は本当に、こんな経験すらも、明日になったら忘れてしまうのだろうか。
泣いているのとは別の部分、脳の比較的冷静な場所で、僕はそんなことを考えていた。
*
「大介さん、自分の名前ってどう思う?」
助手席でぐったりしている僕に、エミリさんが話しかけてくる。流れる景色に交じって窓に映る自分の顔は、まだ紅潮していた。
「名前って?」
僕はそっけなく返した。エミリさんにそんな態度は取りたくないのだが、どうしても今は気分を盛り上げることができない。
「宮川大介って、よくある名前やん。好き? 嫌い?」
「まあ確かに、初対面の人に〈どっかで会ったことあります?〉って言われることが多いから、それは嫌やな。お笑い芸人にもおるし」
「大介さんが言ってるのって、夫婦漫才師のほうやよね。でも、今は違うんよ。今は〈アカーン!〉なんよ」
「は?」
「ふふ、お祭り男。帰ったら、録画してある〈イッテQ〉見せたるわ」
言葉の意味は分からなかったが、とにかく僕を元気づけようとしてくれているのは理解できた。エミリさんはあの後、あえて何も聞かず、いつも通りに接してくれている。その優しさが、嬉しくもあり辛くもあった。
信号待ちで、車が止まる。所在無く景色を見ていた僕は、あるものを発見し、「あっ」と声を出してしまった。
住宅街の屋根の隙間から、生い茂った緑が顔を出している。あれは、ケヤキ公園の中央に聳え立っている、巨大なケヤキの木だ。
つまり、僕が事故に遭った場所。
「あそこ、行ってほしい」
僕が指差すと、エミリさんは「えっ、でも」と難色を示した。
「お願い」
窓からエミリさんに視線を移し、彼女が首を縦に振るまで逸らさない覚悟で目を見つめる。エミリさんは眉間に皺を寄せながらも、「うん、分かった」と言ってくれた。
車が急遽ウィンカーを出し、左折。木造が多かった住宅街はすっかり様変わりし、鉄筋コンクリートで埋め尽くされていた。
その一角に、何も変わらない公園があった。周囲が遊具で囲まれた真ん中に、王様のように聳え立つケヤキの木。樹齢何百年なのか、恐らく街の誰も知らない。ただとにかく、〈不思議な力があるらしい〉という言い伝えだけが有名だった。この一帯のシンボルとして長年人々の暮らしを見守ってきたそいつを、僕は車内から睨みつけた。
「大介さんは、あの大きな木と車……飲酒運転の車に挟まれる形で事故に遭ったの。本当は死ぬ筈やったんやけど、木の衝撃で車が減速して、それで助かったって。お医者さんも、奇跡やって言うてたよ」
それを聞いても、何も感じなかった。
「で、どうするの」
公園の入口前で車を止めたエミリさんが、問いかけてきた。僕は間髪容れずに「ちょっと一人にして」と告げ、助手席のドアに手を掛けた。
「それはアカンよ」
エミリさんが、珍しく強い口調を出した。エンジンを切り、シートベルトも外す。
「私も行くわ。こうなったら、見せたいものもあるしな」
訳が分からないなりに頷き、二人で車から降りる。何気なく辺りを見回すと、松下デンキを発見。明かりが消え、店内は手入れしていない倉庫のように荒れ果てていた。しかし、不思議とショックは無い。先ほどのジャスコに大型家電量販店も入っており、あんなものができてしまったら、街の電気屋なんて営業できるわけがないと、ある程度予測していた。
ゆっくり歩を進め、公園内に入っていく。これもコロナとやらの影響だろうか。まだ夕方なのに、僕たち以外に人の姿は無かった。何も変わらないと言ったが、実際に近くで見ると、すべての遊具が錆び切っていた。さらに、その数自体も減っている。
遠方から風に乗り、夕方五時を知らせるメロディが流れてくる。どこからともなく、焼き魚の匂いも漂ってきた。
ケヤキの木の前まで来て、仰ぎ見る。扇状の葉がさわさわと揺れ、辺り一帯が影となっている。僕の十倍以上はあると思われる長躯に圧倒され、息を呑んだ。
「大介さん、こっち来て」
幹の反対側で、エミリさんが叫んだ。指示通りに回り込み、エミリさんの指差した先を見る。
幹に、相合傘が彫ってあった。
〈大介〉〈エミリ〉と彫られたそれは、紛れもなく僕たちのものだった。
「実はな。過去にも何回か、大介さんはここに来たいって言ったことがあるんよ。でも、来る度に悲しそうな顔するから、私が冗談で彫ったの。本当はここに、事故のときに付いた傷があったんやけど、それを隠す意味もあってね。どれだけダサくても、私らの年代はやっぱり相合傘やろ」
エミリさんが眉を八の字に寄せ、困ったように笑う。僕はあえて無視をして、その相合傘を指でなぞった。そこには、確かに生命の温もりがあった。ゴツゴツしているが滑らかで、緑の、生物の香りが立ち込めている。
「ゴメン。やっぱ、ちょっと一人にしてほしいな」
「せやからそれは――」
僕はケヤキの木を睨んでいた視線を、そのままエミリさんに向けた。エミリさんの口が閉じる。
「本当にゴメン。これが、最後のワガママ。三十分くらいしたら、迎えに来てくれへん?」
エミリさんは少し考えた後、諦めたように溜息をつき「分かった」と言ってくれた。
「じゃあ、買い物してくるわ。今日は夜ご飯、ちゃんと作るから」
「今日は、ってことは、昨日は手抜きやったん?」
「さぁ、どうでしょう」
意地悪そうな笑みを浮かべるエミリさん。僕も釣られて微笑んだ。
「で、何がいい?」
「エミリさんが作ってくれたら、何でもいいよ」
「それ、奥さんが一番困るやつ。具体的に言ってよ」
「じゃ、ロールキャベツ。ハッキリとは覚えてないけど、エミリの得意料理やろ」
「いきなり呼び捨て?」
「あっ、ごめん。何でやろ。何か急に、言ってしまって」
慌てて僕は謝った。エミリさんが輪を掛けて、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「冗談やわ。呼び捨てにされたの初めてじゃないし、怒ってないよ」
「え。僕、過去にもエミリさんを呼び捨てに――」
「はいはい、その話は終わり。ロールキャベツね、了解。じゃ、行ってくるわ」
エミリさんが、手を振りながら去っていく。車に乗り込んでもう一度手を振ってくれた後、エンジン音とともに颯爽と走り去った。
一人になった僕は、改めてケヤキの木を見つめた。そのまま視線を落とし、おもむろにスマホを取り出す。どうしても今、確認しておきたいことがあったのだ。千代崎さんとの食事中に気まずくなった、その原因である。
〈ゆうちゅうぶ〉の検索欄に〈米津玄師〉と入れようとした瞬間、下部にとある単語が表示されたのだ。
――健忘症、イブニングッド。
これは恐らく、過去の僕が検索した〈履歴〉なのだと思う。〈イブニングッド〉というのは、この地方で放送されている夕方のニュース番組だ。
僕は改めて〈ゆうちゅうぶ〉を起動し、その単語で検索した。出てきた画像の中心をタッチすると、程なくして動画が始まった。
――本日の特集です。皆さんは、半年前に当番組が密着した、一組の夫婦を覚えていますでしょうか。健忘症の夫を支える、看護師の妻。その特集は話題を呼び、日本民間放送連盟賞を受賞しました。本日は、その第二段をお届けいたします。
映像が切り替わり、〈三重県津市〉のテロップとともに、見慣れた駅舎が映る。それは僕の予想通り、僕たち夫婦の、僕とエミリさんの、特集動画だった。
そりゃそうか、と思った。こんな珍しい障碍を持っている夫と、それを支える看護婦の妻。地元のテレビ局からすれば、格好の〈ネタ〉だ。そりゃ取材にも来る。
静かなBGMの中で、僕たちの何気ない日常が淡々と映し出されている。時折、暗い声のナレーションが挿入された。そしてそのVTRの最後は、エミリさんへのインタビューで締め括られていた。
――今、幸せですか。
――はい、幸せです。
エミリさんの大きな双眸から、涙が零れ落ちる。その瞬間、これ見よがしにBGMの音量が上がった。〈ここで視聴者を泣かせる〉という意図を、隠すつもりもないようだった。
映像がスタジオに切り替わり、コメンテーターらしき人が言葉を発する。
――僕はね。この夫婦は、とても幸せだと思いますよ。本当にこれからも、頑張っていってほしいですね。
そこでついに我慢できなくなり、僕はスマホの画面を消してしまった。一度目を瞑り、大きく息を吐く。何とか平静を装いたいが、鼓動と鼻息は激しさを増していった。
甘かった。
正直に、そう思った。僕は、僕たちは、幸せだと思っていた。確かに障碍はある。でも、僕たちなりに幸せな日々を送っていると、そう信じていた。実際問題として、それは正しいことなのだろう。障碍者とか健常者とか関係なく、僕は本心から、エミリさんと一緒にいるときに幸せを感じていた。
しかし、世間の目は、違うんだ。
やはり僕たちは、〈普通じゃない可哀そうな夫婦〉なんだ。そりゃそうだ。普通の夫婦がテレビで特集されるわけないし、何とかって賞も受賞しない。確かにコメンテーターの人は、僕たちを〈幸せな夫婦〉と言ってくれた。しかし、最後に馬脚を現した。
――本当にこれからも、頑張っていってほしいですね。
それは、〈幸せな夫婦〉に対して言う言葉ではない。僕たち夫婦は、〈頑張らなければ〉生きていけない、過酷な状況なんだ。どれだけ綺麗事を並べても、世間の本音は、結局そこに帰結するのだろう。
まっつんに玩具にされ、僕は傷ついていた。「何で自分だけこんな目に」と思っていた。しかし、そうじゃない。僕が考えなきゃいけないのは、エミリさんのことだったんだ。
エミリさんはテレビ局に玩具にされ、定期的に〈可哀そうな妻〉として衆目に晒されている。何とか賞も受賞したと言っていたし、味を占めて、すでに第三段、四段と、特集が組まれているのではないだろうか。そのたびにエミリさんは、カメラの前で無理やり泣かされている……可能性が高い。
――周りの目なんてどうでもいいじゃん。自分たちが幸せならさ。
今はそんな、道徳の授業で使うような綺麗事は役立たない。そもそもそれは、無責任な第三者だから言えることであって、自分が実際に障碍者になってしまった場合は――。
心に芽生えた苛立ちが、一気に成長する。そんな八つ当たりは意味が無いと分かりつつも、心と顔が、どんどん熱を帯びていくのが分かる。
僕は幹に頭突きをした。何度も何度も繰り返し、徐々に力を強めていく。
僕の前で、エミリさんはずっと笑顔だった。だから、エミリさんも幸せなんだと、そう思っていた。しかし、陰では泣いていたんだ。この十数年間、〈可哀そうな妻〉として生きてきたのに、一番近くにいた僕がそれを理解せず、能天気に自分だけ幸せを感じていた。
いや、エミリさんにだって、幸せなときはあったかもしれない。しれない、けれど。
やはりあのVTRの、エミリさんの涙が、頭から離れない。本当に幸せな人は、あんな顔で、あんな涙を、流さない。
……奇跡だった? 笑わせるな。こんなことなら、お前に命なんて助けてもらわないほうが良かった。こんなことなら、こんなことなら。
「殺してくれたほうが良かったよっ!」
僕は幹に、渾身の力で頭を叩きつけた。瞬間、額に生暖かい液体が滲む感触があった。
しかし、それよりも。
僕が認識したのは、嗅覚だった。フッと風が吹き、明らかに、匂いが変化した。血の匂いではない、田舎のような懐かしい匂いに。
ゆっくりケヤキの木から頭を離し、視線を漂わせる。
右へ左へ、何秒か見渡し、呼吸と意識を整える。
気のせいか? いや、気のせいではない。遊具が、増えている。遊具が、僕の知っているケヤキ公園の数に戻っている。撤去された筈のジャングルジムが、そこにはあった。
そのまま視線を移動させた僕は、さらにおかしなことに気付いた。
松下デンキが、営業している。僕の記憶通りに街頭テレビが設置され、〈運命のロシア戦まであと三日!〉というのぼりが立っている。木造の住宅に囲まれた店内では、松下店長がお客さんと談笑していた。二人とも、マスクをしていない。
遠方から風に乗り、夕方五時を知らせるメロディが流れてくる。これもおかしい。さっき聞いたばかりだ。どうして二回も流れるのか。
――これは、夢? いやむしろ、今までが、夢?
ここには、未来ではなく過去、いや、僕にとっては紛れもなく〈現在〉の景色がある。僕は催眠術のようなものに掛かっていて、幻覚を見ていたのだろうか。
つまり、エミリさんも、幻覚だったのか……?
途端に心臓が縮こまり、呼吸が苦しくなる。現実に戻ってこられたのは嬉しいけれど、エミリさんの存在だけは、嘘であってほしくない。
ふと思い立ち、僕は背負っていたリュックを開いた。そこには未来の車内で確認した持ち物が入っていた。ノートを取り出し、中の文章を確認する。
やはり、2002年の6月9日に事故に遭い、2022年まで生きてきたのは間違いないらしい。エミリさんの名前も確認できた。そもそも、この張りの無い腕は、やはり三十代のもので間違いない。
その瞬間、再びフッと風が吹き抜けた。それはケヤキの木から発せられたとしか思えないもので、僕は彼に呼ばれているような気がした。
「まさか……お前が、したのか?」
またもや風が吹き抜ける。それは、「そうだよ」と言っているようだった。
一階へ降りてドアを開けた瞬間、その声が僕を出迎えた。
自分の部屋を模した不思議な部屋で目覚め、不思議なノートを読み、半信半疑のままやって来た僕を、彼女――エミリさんは優しく微笑みながら出迎えてくれた。
「もうノートは読んだ?」
「あ、はい」
「何で敬語? 私ら夫婦やで」
また、彼女が笑う。胸元の銀色のネックレスを揺らしながら、朝食の用意をしていた。
――僕はこの人を愛している。そして本当に結婚しているんだ。
初対面でそう確信し、歓喜した。
「さ、食べよか」
エミリさんに促され、テーブルの椅子へ腰掛ける。
その後、朝食を二人で食べながら様々なことを聞いた。障碍のこと、この二十年間のこと、いつも使っているリュックのこと、〈手続き記憶〉のこと、両親はまだ健在で還暦を過ぎているということ……。
そのどれもが衝撃的であり、信じがたいものだった。しかし何よりも、目の前にいる彼女が、〈エミリさん〉という絶対的に信じられる存在が、僕の猜疑心を霧消してくれた。
「さて。そろそろ行こか」
上品な咀嚼音とともに、エミリさんが話しかけてきた。
「行くって、どこへ?」
「私の職場と、大介さんの職場」
あまり意味が分からなかったが、とりあえず頷き、エミリさんに促されるままに顔を洗って服を着替えた。襟の皺をエミリさんが直してくれたとき、思わず「夫婦みたいやな」と言ってしまったが、エミリさんは笑いながら「夫婦やわ」と突っ込んでくれた。
*
エミリさんの運転する軽自動車の助手席で、僕は外の景色を眺めていた。
本日6月6日、月曜日のお天気です――。
車内ラジオの音声で、今日の日付を知る。2002年の6月6日、つまり僕にとっての四日前は月曜日では無かったはずだから、やはりここは自分の知らない世界なんだな、と、今さらながら背筋が少し寒くなった。
「あっ、そうや」
エミリさんの指示で鞄の中を確認している最中、彼女が唐突に叫んだ。
「今日は時間が無いから、車の中でノートを読んでもらわないかんのや」
意味が分からなかったが、とりあえず「分かった」と従う。〈今日は〉ということは、昨日などは、車内以外で読んでいたのだろうか。
しかし、ノートを広げ、集中して読み進めること数分。
「ぶー。時間切れでーす」
エミリさんが悪戯っぽく笑った。そっちが読めと言ったから読んでいるのだが、この態度は何なのだろう。しかし、この顔を見ていたら、腹を立てる気さえ無くなっていく。
気付くと、車は大学病院の駐車場に停まっていた。院内へ入って医師と会話したのだが、何とそれはノブだった。あの日、松下デンキで一緒にサッカーを見た、ノブだったのだ。とても驚いたが、そのお陰で、改めて自分の現状を受け入れることができた。
病院を後にした僕は、再び車の助手席でノートを読み進めた。熟読する僕に配慮してくれたのか、エミリさんは運転中、全く話しかけてこなかった。何でも、僕をどこかへ送っていってから、病院に戻って仕事を始めるらしい。
「大介さん、ここ分かる?」
数分ぶりに話し掛けられ、心が跳ねる。慌てて意識を戻し、周囲を確認。車は何やら大型商業施設の敷地内に入っており、エミリさんがバックで駐車場に停車させるところだった。
景色を眺め、推理する。一見、見慣れない風景だったが、落ち着いて観察すると二十年前の名残が見て取れた。
通学路として毎日、自転車を漕いだ国道23号線。その通りの向こうでは、サークルKが潰れてファミリーマートになっていた。
そして、この配置で存在していた大型商業施設といえば。
「ここって、ジャスコやったとこやよな」
「今もジャスコやで。イオンって名前に変わったけど」
「あっ、何かニュースで見たことある。そうや、イオンや。ジャスコがイオンに変わるって言っとった」
「でもな、未だにジャスコって呼ぶおばちゃんも多いし、気にせんでええよ。まぁ、そのおばちゃんの代表が私やけど」
それにしても、本当に変わりすぎだと思った。ジャスコにしてはお洒落すぎる。一流建築家に依頼したような立体的なロゴ、壁面のカラフルな格子状の模様。何よりも、建物自体がとんでもなく巨大で、SF映画で見た宇宙船を想起させた。
こんな施設ができてしまったら、そりゃ街の商店街なんて一溜まりもないよな、と同情した。
車を降りて、正面入口から店内へ。食品売り場を横目に、エミリさんが店内を進んでいく。メイン通りから外れた殺風景な通路に入っていき、旅行代理店横の階段を上っていこうとする。しかし僕は、案内掲示板にエレベーターの表記を発見した。
「エミリさん。向こうにエレベーターがあるみたいやよ」
しかし彼女は、眉間に皺を寄せて腰に手を当てた。
「ごめん。私な、昔から閉所恐怖症やねん。せやから、できるだけエレベーターは避けたいんよ」
「あっ、えっと、すみません」
僕は素直に謝罪した。恐らくこの会話も、何回もしているのだろう。そのたびにエミリさんは、自分の弱い部分を僕に説明しなければならない。その苦労を慮った。恐らくノートのどこかにこの事実は書いてあるのだろうが、最も大事なこととして、一ページ目に書き直してもいいのではないだろうか。先ほどの車内でもすぐに時間切れになってしまい、隅々までノートを読めなかった。もっと急いで読めばよかったと、今さらながら後悔した。
エミリさんは「別にええよ」と優しく笑い、階段を上っていった。僕は彼女の後に続きながら、改めて心の中で謝罪した。
三階に到着し、専門店売り場を進んでいく。家電量販店の店頭で、恐らく最新型であろう薄いテレビが展示されていた。とてつもない大きさで、家が映画館になってしまうのではないかと思った。
さらにそのテレビで、ハリウッド映画の予告編らしきものが流れていた。しかしよく見ると、〈プレステ5用〉と書いてあり、ゲームの画面だと気付く。2002年の僕は、プレステ2の映像で「実写みたいやな」と感嘆していたが、そういうレベルではない技術の進歩を感じ、自分が世界から取り残されているような恐怖を覚えた。
「ここ。付いてきて」
エミリさんが、服屋と雑貨屋の間にある〈関係者以外立ち入り禁止〉と書かれた扉を当たり前のように開けた。
僕は、ここの〈関係者〉なのだろうか。忘れていたが、僕は仕事をしに来たのだ。ここが、僕の職場……なのだろうか。
在庫の段ボールが山積みになっているバックヤードを躊躇なく進んでいくエミリさんに、僕は子供のように必死に付いていった。彼女は〈事務室〉のプレートが掲げられた部屋のドアをノックし、これまた躊躇なく入っていった。
「おはようございます。宮川です」
「おお、どうも」
僕もエミリさんに続いて怖ず怖ずと入っていく。そしてデスクに腰掛けた店員と対面した瞬間、「……は?」と、開いた口が塞がらなくなった。
「こんにちは、大ちゃん」
まっつんだった。あの日、松下デンキで一緒にサッカーを見た、友達のまっつんだったのだ。
膨よかだった体型はそのままで、半袖のワイシャツから伸びる腕は大根のようだった。特徴的だった豚鼻はマスクに隠れて見えなかったが、首から〈松尾里志〉と書かれた名札をぶら下げていた。
「まっつん、ジャスコの店長になったの?」
「店長ではないよ。まあ、そこそこの役職はさせてもらっとるけど」
まっつんはパーティー開けしたポテトチップスを一枚口へ運び、指を一舐めした後、濡れた指で右方向を差した。
「こちら、教育係の千代崎さんね」
紹介された女性が立ち上がり、頭を下げる。
「千代崎です。よろしくお願いします」
ゆで卵に小さな目を付けただけの容姿をした彼女は、赤い縁の眼鏡を掛け、当然マスクもしていた。恐らく自分より年上、二十代だろう。……いや、自分は今、三十代なのだから、〈年下〉と表現しなければならないのか。
「初めまして、宮川です」
こちらも丁寧に挨拶する。しかし、その場の全員がプッと噴き出した。
「いえいえ。私はもう二年以上、宮川さんの教育係をしていますよ」
「そう、だったんですか」
僕はその事実に衝撃を受けたのだが、三人は何食わぬ顔で話を進めていく。
「そうか。今日は、その部分を読んでないパターンの大ちゃんか」
「すみません。今日は、ノートを読ませるのがいつもより遅れてしまって」
「ははは。奥さんも大変でしょうし、それくらいのミスはありますよ」
「確か、松尾さんと、お医者さんの同級生の方に関しては、サプライズのためにあえてノートには書いてないんですよね?」
頼むから、勝手に盛り上がらないでほしい。僕を中心とした話なのに、僕だけが取り残されている。僕が気まずそうに目を泳がせていると、エミリさんが眼前にピンク色の包みを差し出してきた。
「はい、お弁当。じゃあ、私も仕事へ行くね。四時ごろ迎えに来るけど、一人で大丈夫?」
エミリさんが試すような目で問いかけてくる。本当は不安だったけど、そんな子供みたいなことは言えない。僕が大丈夫じゃなさそうに「大丈夫」と答えると、エミリさんは満足そうに出ていった。その直後、
「大介さん、千代崎さんと浮気したらイカンよぉ!」
というエミリさんの大声が聞こえてきて、全員がどっと湧いた。
*
「では、こちらに着替えてください」
千代崎さんに案内された更衣室で、僕は従業員用のジャンパーを羽織った。オレンジ色の派手なもので、胸元に〈キンシャチクリーン〉と書いてある。
「この、キンシャチクリーンというのは?」
「宮川さんの所属している会社です。イオンで働いていますが、あくまで外部委託なので」
その言葉の意味はよく分からなかったが、要するに僕はイオンで働きながらも、所属している会社は別の清掃会社らしい。名前から察するに、本社は名古屋にあるのだろう。さらに同じく〈キンシャチクリーン〉と書かれた帽子も受け取り、それも被った。
「では、行きましょうか」
千代崎さんに促され、更衣室を出る。ちなみに下は私服のジーンズでいいということで、着替えは一分ほどで終わった。
「使うのはこちらです」
千代崎さんは、バックヤードに置かれた大きな手押しコンテナを指差した。巨大な空洞の中央に仕切りがあり、二つに区切られている。
「宮川さんの仕事は、ゴミ回収です。これで店内をすべて回って、燃えるゴミと燃えないゴミを回収してきてください」
千代崎さんが僕に数枚の紙を手渡す。店内の地図だった。所々に赤い点がしてある。
「そのマークの場所が、回収ポイントです」
なるほど、これは分かりやすい。僕はずっと、自分みたいな人間が本当に仕事なんてできるのか不安だった。しかし、これだけ丁寧な説明があるなら、確かに毎日初心者でも問題無いと感じた。
それから仕事中の注意事項をいくつか指示され、僕は千代崎さんと別れた。何でも、最初のころは不安で毎日付き添っていたのだが、僕が真面目に働く姿を見て、これなら一人でも大丈夫だと判断したらしい。
バックヤードから出て、店内を回る。指示通りのポイントへ行き、燃えるゴミと燃えないゴミを分けて空洞に入れていった。
それにしても、改めて観察すると、より異質さが際立つ。僕の知っているジャスコとは違う、お洒落で落ち着かない店舗が軒を連ねていた。恐らく、名古屋まで行かないと無かったはずのブランド洋品店、店内がピンクで統一されたファンシーショップ、挙句の果てに、〈タピオカ屋〉という何を売っているのかよく分からない店まで存在した。いつから三重県は、こんな都会になったんだ。
「おはようございますぅ」
途中、同じジャンパーを着た女性が僕に挨拶してきた。モップで床を磨いていたので、キンシャチクリーンの同僚だろう。僕も社交辞令でお辞儀を返したが、釈然としない。
あの女性は、どこまで僕のことを知っているのだろう。毎日、挨拶するだけの関係なのだろうか。それとも、僕の障碍についても知っているのだろうか。
不安が頭をもたげる。歩くたびにぽろぽろと雑念が零れ落ちる。やはり、強がっていたけど、エミリさんと逸れた僕は、迷子の子供みたいな焦燥感に駆られていた。
僕は考える暇も無いほど、忙しく仕事を進めた。右も左も分からない新人なのだから、前を向いて進むしか無い。マスクで表情の分からない数百人のお客さんとすれ違いながら、無心でゴミを集め続けた。
昼の十二時。千代崎さんが僕を昼食に誘ってくれた。フードコートへ行き、向かい合って食事を取る。千代崎さんはスガキヤのラーメンを啜りながら、「いつもいいですね、愛妻弁当」と笑っていた。
「あ、そうや。モンパチ聴きましたよ」
千代崎さんの声に、お弁当箱から顔を上げる。
「モンパチ?」
「宮川さんが勧めてくれたんじゃないですか〈MONGOL800〉。あーなーたぁーに、会いたくてぇー……って、覚えてないですよね。すみません、未だにこんな初歩的なミスして」
ばつが悪そうに、千代崎さんがメンマを頬張る。どうやら過去の僕は、千代崎さんに当時流行っていた歌手を教えていたらしい。
「それでこちらもお返しに〈米津玄師〉を勧めたんですけど、聴いてくれました?」
「いや、ちょっと分からないかな」
「もう、ちゃんとノートに書いといてくださいよ」
彼女は頬を膨らませながら、スープをレンゲで啜った。マスクを外した彼女は、エミリさんほどではないにしろ、愛らしい顔をしていた。……これは、浮気ではないよな?
「せっかくやから、今から〈ユーチューブ〉で聴いてみたらどうです?」
「ゆうちゅうぶ?」
「スマホの画面に、矢印みたいなマークないですか? それを――」
意味が分からないままスマホを取り出し、千代崎さんの指示に従って操作する。しかし。
「えっと……やっぱり、やめときましょうか」
僕のスマホ画面を覗いた千代崎さんが、目を伏せる。途端に気まずい空気が流れたが、自席に戻った千代崎さんが「ゴミ回収、どうでした?」と話題を変えてくれた。
その後は他愛無い世間話を続け、千代崎さんに「今度、MDウォークマンを見せてあげる」と約束したところで昼食が終了。彼女と別れ、僕は昼からの仕事に取り掛かった。少し不安だったけど、午前中と同じ動きをすればいいだけだったため、つつがなく終えることができた。
「はい、じゃあこれ」
午後四時過ぎ。着替えを済ませて事務室に戻ってきた僕に、まっつんが封筒を差し出した。受け取り、中を覗く。福沢諭吉と目が合った。
「ありがとう、ございます」
僕は恭しく頭を下げた。その光景は友達というより、上司と部下のようだった。実際にそうだから仕方ないのだが、やはり違和感がある。
「あっ、そうや。宮川さん、約束覚えてます?」
まっつんの隣に立っていた千代崎さんが、思い出したように口を開く。
「MDウォークマン、忘れないでくださいよ。今度こそ、絶対にノートに書いといてくださいね」
千代崎さんが、念押しして僕に詰め寄る。僕は苦笑いで「はいはい」と返し、改めて二人に「お疲れ様でした」と言いながら部屋を出た。
なぜかMDウォークマンは、朝起きたとき床に転がっていた。家へ帰ったら、すぐさま鞄に入れよう。
そんな考え事をしながら、バックヤードを出ようとする。しかし。
「あっ」と、あることに気付いた。
帽子を返し忘れていた。仕事中、汗ばんできたので気持ち悪くなり、僕は私服のジーンズの後ろポケットに、キンシャチクリーンの帽子を折り畳んで詰め込んでいたのだ。
慌てて踵を返し、事務室へ戻る。
「えーっ、まじかぁ」
しかし、ドアをノックしようとした瞬間。中からの大声で手が止まった。
「大ちゃん、歌好きやから覚えてると思ったんやけどなぁ」
「全くでしたよ。はい、千円」
「きっつ、三連敗やで、もう。でもさぁ、今日のMDウォークマンはあんだけ言ったんやから、さすがに持ってくるやろ」
「どうですかね。あの人、また書かないんじゃないですか? 自信があるなら、倍額でいきます?」
「えっ、じゃあ負けたら二千円? きっつ。でも、そのルールやと――」
それ以上、聞いていられなかった。再び踵を返し、早歩きでバックヤードを後にする。
何も考えられない。何も考えてはいけない。何があっても、悲しむ資格も、怒る資格も、僕には無い。
こんな面倒臭い人間を雇ってくれているのだから、それだけで感謝しなければいけない。僕を使ったお遊びくらい、許してあげなきゃいけない。そもそも、ゴミを数時間集めただけで、日給一万円って凄くないか。2022年の物価は知らない。確かにスガキヤも値上げしていた。しかしそれにしても、一万円はちょっと多すぎる。
恐らく、まっつんは懸命に上と交渉して僕を雇ってくれたのではないか。そして障碍者用の何とか制度みたいなものを使って、多めに給料を渡してくれているのではないか。そこまで気を遣ってくれているのなら、むしろ玩具にされて本望だ。
だから、悲しんじゃいけない。いけないんだ。
「おかえり」
正面入口から外に出た途端、その声が出迎えた。下を向いていた顔を、ゆっくりと持ち上げる。
エミリさんが、いた。
考えるより先に、足が動いた。無心で、一直線に進む。エミリさんの胸に顔を埋めた瞬間、体中が一気に熱くなった。
「エミリさん、好きです、離れやんといてください、僕を裏切らんといてください、怖いです、怖いです」
ろ過していない本音と涙が、詰まったトイレみたいに溢れた。それは赤ちゃんの泣き声のようにワガママで、素直な思いだった。頬にネックレスが当たり、そこだけひんやりとする。エミリさんは僕の思いを受け止めるように、黙って後頭部を撫でてくれた。
自分は本当に、こんな経験すらも、明日になったら忘れてしまうのだろうか。
泣いているのとは別の部分、脳の比較的冷静な場所で、僕はそんなことを考えていた。
*
「大介さん、自分の名前ってどう思う?」
助手席でぐったりしている僕に、エミリさんが話しかけてくる。流れる景色に交じって窓に映る自分の顔は、まだ紅潮していた。
「名前って?」
僕はそっけなく返した。エミリさんにそんな態度は取りたくないのだが、どうしても今は気分を盛り上げることができない。
「宮川大介って、よくある名前やん。好き? 嫌い?」
「まあ確かに、初対面の人に〈どっかで会ったことあります?〉って言われることが多いから、それは嫌やな。お笑い芸人にもおるし」
「大介さんが言ってるのって、夫婦漫才師のほうやよね。でも、今は違うんよ。今は〈アカーン!〉なんよ」
「は?」
「ふふ、お祭り男。帰ったら、録画してある〈イッテQ〉見せたるわ」
言葉の意味は分からなかったが、とにかく僕を元気づけようとしてくれているのは理解できた。エミリさんはあの後、あえて何も聞かず、いつも通りに接してくれている。その優しさが、嬉しくもあり辛くもあった。
信号待ちで、車が止まる。所在無く景色を見ていた僕は、あるものを発見し、「あっ」と声を出してしまった。
住宅街の屋根の隙間から、生い茂った緑が顔を出している。あれは、ケヤキ公園の中央に聳え立っている、巨大なケヤキの木だ。
つまり、僕が事故に遭った場所。
「あそこ、行ってほしい」
僕が指差すと、エミリさんは「えっ、でも」と難色を示した。
「お願い」
窓からエミリさんに視線を移し、彼女が首を縦に振るまで逸らさない覚悟で目を見つめる。エミリさんは眉間に皺を寄せながらも、「うん、分かった」と言ってくれた。
車が急遽ウィンカーを出し、左折。木造が多かった住宅街はすっかり様変わりし、鉄筋コンクリートで埋め尽くされていた。
その一角に、何も変わらない公園があった。周囲が遊具で囲まれた真ん中に、王様のように聳え立つケヤキの木。樹齢何百年なのか、恐らく街の誰も知らない。ただとにかく、〈不思議な力があるらしい〉という言い伝えだけが有名だった。この一帯のシンボルとして長年人々の暮らしを見守ってきたそいつを、僕は車内から睨みつけた。
「大介さんは、あの大きな木と車……飲酒運転の車に挟まれる形で事故に遭ったの。本当は死ぬ筈やったんやけど、木の衝撃で車が減速して、それで助かったって。お医者さんも、奇跡やって言うてたよ」
それを聞いても、何も感じなかった。
「で、どうするの」
公園の入口前で車を止めたエミリさんが、問いかけてきた。僕は間髪容れずに「ちょっと一人にして」と告げ、助手席のドアに手を掛けた。
「それはアカンよ」
エミリさんが、珍しく強い口調を出した。エンジンを切り、シートベルトも外す。
「私も行くわ。こうなったら、見せたいものもあるしな」
訳が分からないなりに頷き、二人で車から降りる。何気なく辺りを見回すと、松下デンキを発見。明かりが消え、店内は手入れしていない倉庫のように荒れ果てていた。しかし、不思議とショックは無い。先ほどのジャスコに大型家電量販店も入っており、あんなものができてしまったら、街の電気屋なんて営業できるわけがないと、ある程度予測していた。
ゆっくり歩を進め、公園内に入っていく。これもコロナとやらの影響だろうか。まだ夕方なのに、僕たち以外に人の姿は無かった。何も変わらないと言ったが、実際に近くで見ると、すべての遊具が錆び切っていた。さらに、その数自体も減っている。
遠方から風に乗り、夕方五時を知らせるメロディが流れてくる。どこからともなく、焼き魚の匂いも漂ってきた。
ケヤキの木の前まで来て、仰ぎ見る。扇状の葉がさわさわと揺れ、辺り一帯が影となっている。僕の十倍以上はあると思われる長躯に圧倒され、息を呑んだ。
「大介さん、こっち来て」
幹の反対側で、エミリさんが叫んだ。指示通りに回り込み、エミリさんの指差した先を見る。
幹に、相合傘が彫ってあった。
〈大介〉〈エミリ〉と彫られたそれは、紛れもなく僕たちのものだった。
「実はな。過去にも何回か、大介さんはここに来たいって言ったことがあるんよ。でも、来る度に悲しそうな顔するから、私が冗談で彫ったの。本当はここに、事故のときに付いた傷があったんやけど、それを隠す意味もあってね。どれだけダサくても、私らの年代はやっぱり相合傘やろ」
エミリさんが眉を八の字に寄せ、困ったように笑う。僕はあえて無視をして、その相合傘を指でなぞった。そこには、確かに生命の温もりがあった。ゴツゴツしているが滑らかで、緑の、生物の香りが立ち込めている。
「ゴメン。やっぱ、ちょっと一人にしてほしいな」
「せやからそれは――」
僕はケヤキの木を睨んでいた視線を、そのままエミリさんに向けた。エミリさんの口が閉じる。
「本当にゴメン。これが、最後のワガママ。三十分くらいしたら、迎えに来てくれへん?」
エミリさんは少し考えた後、諦めたように溜息をつき「分かった」と言ってくれた。
「じゃあ、買い物してくるわ。今日は夜ご飯、ちゃんと作るから」
「今日は、ってことは、昨日は手抜きやったん?」
「さぁ、どうでしょう」
意地悪そうな笑みを浮かべるエミリさん。僕も釣られて微笑んだ。
「で、何がいい?」
「エミリさんが作ってくれたら、何でもいいよ」
「それ、奥さんが一番困るやつ。具体的に言ってよ」
「じゃ、ロールキャベツ。ハッキリとは覚えてないけど、エミリの得意料理やろ」
「いきなり呼び捨て?」
「あっ、ごめん。何でやろ。何か急に、言ってしまって」
慌てて僕は謝った。エミリさんが輪を掛けて、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「冗談やわ。呼び捨てにされたの初めてじゃないし、怒ってないよ」
「え。僕、過去にもエミリさんを呼び捨てに――」
「はいはい、その話は終わり。ロールキャベツね、了解。じゃ、行ってくるわ」
エミリさんが、手を振りながら去っていく。車に乗り込んでもう一度手を振ってくれた後、エンジン音とともに颯爽と走り去った。
一人になった僕は、改めてケヤキの木を見つめた。そのまま視線を落とし、おもむろにスマホを取り出す。どうしても今、確認しておきたいことがあったのだ。千代崎さんとの食事中に気まずくなった、その原因である。
〈ゆうちゅうぶ〉の検索欄に〈米津玄師〉と入れようとした瞬間、下部にとある単語が表示されたのだ。
――健忘症、イブニングッド。
これは恐らく、過去の僕が検索した〈履歴〉なのだと思う。〈イブニングッド〉というのは、この地方で放送されている夕方のニュース番組だ。
僕は改めて〈ゆうちゅうぶ〉を起動し、その単語で検索した。出てきた画像の中心をタッチすると、程なくして動画が始まった。
――本日の特集です。皆さんは、半年前に当番組が密着した、一組の夫婦を覚えていますでしょうか。健忘症の夫を支える、看護師の妻。その特集は話題を呼び、日本民間放送連盟賞を受賞しました。本日は、その第二段をお届けいたします。
映像が切り替わり、〈三重県津市〉のテロップとともに、見慣れた駅舎が映る。それは僕の予想通り、僕たち夫婦の、僕とエミリさんの、特集動画だった。
そりゃそうか、と思った。こんな珍しい障碍を持っている夫と、それを支える看護婦の妻。地元のテレビ局からすれば、格好の〈ネタ〉だ。そりゃ取材にも来る。
静かなBGMの中で、僕たちの何気ない日常が淡々と映し出されている。時折、暗い声のナレーションが挿入された。そしてそのVTRの最後は、エミリさんへのインタビューで締め括られていた。
――今、幸せですか。
――はい、幸せです。
エミリさんの大きな双眸から、涙が零れ落ちる。その瞬間、これ見よがしにBGMの音量が上がった。〈ここで視聴者を泣かせる〉という意図を、隠すつもりもないようだった。
映像がスタジオに切り替わり、コメンテーターらしき人が言葉を発する。
――僕はね。この夫婦は、とても幸せだと思いますよ。本当にこれからも、頑張っていってほしいですね。
そこでついに我慢できなくなり、僕はスマホの画面を消してしまった。一度目を瞑り、大きく息を吐く。何とか平静を装いたいが、鼓動と鼻息は激しさを増していった。
甘かった。
正直に、そう思った。僕は、僕たちは、幸せだと思っていた。確かに障碍はある。でも、僕たちなりに幸せな日々を送っていると、そう信じていた。実際問題として、それは正しいことなのだろう。障碍者とか健常者とか関係なく、僕は本心から、エミリさんと一緒にいるときに幸せを感じていた。
しかし、世間の目は、違うんだ。
やはり僕たちは、〈普通じゃない可哀そうな夫婦〉なんだ。そりゃそうだ。普通の夫婦がテレビで特集されるわけないし、何とかって賞も受賞しない。確かにコメンテーターの人は、僕たちを〈幸せな夫婦〉と言ってくれた。しかし、最後に馬脚を現した。
――本当にこれからも、頑張っていってほしいですね。
それは、〈幸せな夫婦〉に対して言う言葉ではない。僕たち夫婦は、〈頑張らなければ〉生きていけない、過酷な状況なんだ。どれだけ綺麗事を並べても、世間の本音は、結局そこに帰結するのだろう。
まっつんに玩具にされ、僕は傷ついていた。「何で自分だけこんな目に」と思っていた。しかし、そうじゃない。僕が考えなきゃいけないのは、エミリさんのことだったんだ。
エミリさんはテレビ局に玩具にされ、定期的に〈可哀そうな妻〉として衆目に晒されている。何とか賞も受賞したと言っていたし、味を占めて、すでに第三段、四段と、特集が組まれているのではないだろうか。そのたびにエミリさんは、カメラの前で無理やり泣かされている……可能性が高い。
――周りの目なんてどうでもいいじゃん。自分たちが幸せならさ。
今はそんな、道徳の授業で使うような綺麗事は役立たない。そもそもそれは、無責任な第三者だから言えることであって、自分が実際に障碍者になってしまった場合は――。
心に芽生えた苛立ちが、一気に成長する。そんな八つ当たりは意味が無いと分かりつつも、心と顔が、どんどん熱を帯びていくのが分かる。
僕は幹に頭突きをした。何度も何度も繰り返し、徐々に力を強めていく。
僕の前で、エミリさんはずっと笑顔だった。だから、エミリさんも幸せなんだと、そう思っていた。しかし、陰では泣いていたんだ。この十数年間、〈可哀そうな妻〉として生きてきたのに、一番近くにいた僕がそれを理解せず、能天気に自分だけ幸せを感じていた。
いや、エミリさんにだって、幸せなときはあったかもしれない。しれない、けれど。
やはりあのVTRの、エミリさんの涙が、頭から離れない。本当に幸せな人は、あんな顔で、あんな涙を、流さない。
……奇跡だった? 笑わせるな。こんなことなら、お前に命なんて助けてもらわないほうが良かった。こんなことなら、こんなことなら。
「殺してくれたほうが良かったよっ!」
僕は幹に、渾身の力で頭を叩きつけた。瞬間、額に生暖かい液体が滲む感触があった。
しかし、それよりも。
僕が認識したのは、嗅覚だった。フッと風が吹き、明らかに、匂いが変化した。血の匂いではない、田舎のような懐かしい匂いに。
ゆっくりケヤキの木から頭を離し、視線を漂わせる。
右へ左へ、何秒か見渡し、呼吸と意識を整える。
気のせいか? いや、気のせいではない。遊具が、増えている。遊具が、僕の知っているケヤキ公園の数に戻っている。撤去された筈のジャングルジムが、そこにはあった。
そのまま視線を移動させた僕は、さらにおかしなことに気付いた。
松下デンキが、営業している。僕の記憶通りに街頭テレビが設置され、〈運命のロシア戦まであと三日!〉というのぼりが立っている。木造の住宅に囲まれた店内では、松下店長がお客さんと談笑していた。二人とも、マスクをしていない。
遠方から風に乗り、夕方五時を知らせるメロディが流れてくる。これもおかしい。さっき聞いたばかりだ。どうして二回も流れるのか。
――これは、夢? いやむしろ、今までが、夢?
ここには、未来ではなく過去、いや、僕にとっては紛れもなく〈現在〉の景色がある。僕は催眠術のようなものに掛かっていて、幻覚を見ていたのだろうか。
つまり、エミリさんも、幻覚だったのか……?
途端に心臓が縮こまり、呼吸が苦しくなる。現実に戻ってこられたのは嬉しいけれど、エミリさんの存在だけは、嘘であってほしくない。
ふと思い立ち、僕は背負っていたリュックを開いた。そこには未来の車内で確認した持ち物が入っていた。ノートを取り出し、中の文章を確認する。
やはり、2002年の6月9日に事故に遭い、2022年まで生きてきたのは間違いないらしい。エミリさんの名前も確認できた。そもそも、この張りの無い腕は、やはり三十代のもので間違いない。
その瞬間、再びフッと風が吹き抜けた。それはケヤキの木から発せられたとしか思えないもので、僕は彼に呼ばれているような気がした。
「まさか……お前が、したのか?」
またもや風が吹き抜ける。それは、「そうだよ」と言っているようだった。
