記憶の無い過去の未来人

「おはよう」
 一階へ降りて、一番大きなドアを開けた瞬間、その声が僕を出迎えた。
 エミリさんは朝食の用意をしている手を止め、僕に微笑みかけてくれた。その笑顔は、まだ昇り切っていない太陽の代わりをしているのかと思うほど眩しかった。
 ――いた。本当に。
 心が飛び跳ねた。本当にいるとは思っていたけど、まさか本当にいるなんて。
 自分でも言っている意味が分からないけど、とにかく僕は、混乱しながら感動していた。
「もうノートは読んだ?」
「あ、はい」
「何で敬語? 私ら夫婦やで」
 また、エミリさんが笑う。胸元の銀色のネックレスを揺らしながら、テーブルに目玉焼きを置く。僕はアクセサリーなどの知識が全く無いのだが、それがどんな高級品でも、付けているエミリさんのほうが輝いているように見える。
 ――僕はこの人を愛している。そして本当に結婚しているんだ。
 初対面でそう確信し、歓喜した。
 本来であれば、歓喜する前にしなければいけないことが沢山ある。現状を嘆き、狼狽しなければならない。現状を受け入れるのが、いくら何でも早すぎると、自分でも思う。
 しかし、エミリさんの前で醜態は見せられないという変な見栄があった。恐らく、僕の脳が勝手に強がっているだけだろう。でも、今はその強がりが、正しいような気がした。
「さ、食べよか」
 エミリさんに促され、テーブルの椅子へ腰掛ける。気付けばテーブル上は、目玉焼きの他にトーストやトマトサラダなど、色とりどりの食べ物が並んでいた。
 向かいに座ったエミリさんを、改めてじっと見つめる。吸い込まれるような大きな瞳から流れるようにスッとした鼻筋が続き、丸みを帯びたピンクの唇がその下で半円を描いている。日本人離れしたその容姿は、見つめ続ける恥ずかしさよりも、見つめていたいという欲が勝ってしまうものだった。
「大介さんはこれやよね」
 エミリさんが、僕の前に置いたコーヒーに大量のミルクを注いだ。そうである。僕は甘い甘いカフェオレが大好きなのだ。こんな好みまで知っているなんて、本当に僕たちは長い間夫婦なのかもしれないと、実感した。
 卓上のソースを取ろうとした瞬間、エミリさんと手が触れた。「すみません」と慌てて手を引っ込めた僕を見て、エミリさんが頬を膨らませる。
「だから、私ら夫婦やで。何で謝るん?」
 怒った顔がこんなに可愛らしい人間が、この世に存在するだろうか。僕はすでに、お腹よりも胸が満たされていた。
「あの、エミリさん。何て言うか、まず確認したいんですけど」
「何?」
「僕は、その、障碍者、なんですよね?」
 そんな深刻な質問を、あっさりとしてしまった。これも、エミリさんが放つ安心感のお陰だろうか。
「うん、そやで」
 エミリさんは軽い口調で言いながら、部屋の隅に置いてあるグレーのリュックを指差した。
「ほら、障碍者マーク付いてるやろ」
 リュックには赤いキーホルダーが付いていた。白い十字とハートマークが描いてある。僕が知らなかっただけかもしれないけど、2002年には存在しなかったものだ。
「凄くアッサリ言うんですね」
「そりゃあ、大介さんにとっては初日やけど、私は二十年目やからね。もう説明も慣れっこよ」
「あの、何て言うか、本当にすみません。毎日、迷惑かけているんですよね。もしかして、このやり取りも、毎日?」
「あのさ。三回目やけど、私ら夫婦やで。迷惑かけるなんて当たり前やし、大介さんの分も私が大介さんのこと考えてるから、余計なこと考えんでいいよ」
「でも」
「はい、暗い話は終わり。さっさと食べよ」
 僕の言葉を遮り、エミリさんが大きく手を叩く。彼女の言葉には、有無を言わせぬ説得力があった。
 それから本格的に朝食を食べ始め、結婚してからの思い出話などを聞きながらトーストを頬張った。次第に緊張も解れていき、言葉遣いも砕けていく。
「ノートって、全部読んだん?」
「全部はまだやな」
 僕は部屋から持ってきたノートを広げ、先ほどの続きに目を通した。
 どうやら僕は、事故の後遺症により、毎日朝七時ごろ起床して夜十時ごろ睡魔が襲ってくる体質になってしまったらしい。これはどれだけ対策を講じても抗えない運命で、僕は小学生のような規則正しい生活を強いられているようだった。
 次のページからは、この二十年間のエミリさんとの思い出が日記形式で書かれており、読みたい気持ちもあったが、読んでしまうとそれだけで一日が終わる危険があったため、断念した。
「さて。そろそろ行こか」
 上品な咀嚼音とともに、エミリさんが話しかけてきた。慌ててノートから顔を上げる。
「行くって、どこへ?」
「私の職場。大介さんにとっても大事なところやよ」
 あまり意味が分からなかったが、とりあえず頷き、エミリさんに促されるままに顔を洗って服を着替えた。襟の皺をエミリさんが直してくれたとき、思わず「夫婦みたいやな」と言ってしまったが、エミリさんは笑いながら「夫婦やわ」と突っ込んでくれた。

   *

 エミリさんの運転する軽自動車の助手席で、僕は外の景色を眺めていた。
 僕の住む三重県津市の風景は、この二十年間で大きく変わってしまっていた。まだ朝だということもあるかもしれないけど、シャッターを下ろしている商店が非常に多い。2002年の段階で、〈街の商店街の経営がピンチ〉とよく報道されていたので、2022年の状況は推して知るべしだった。
 また、最も奇妙に映ったのがマスクだ。歩道を行く人たちが、全員マスクをしていた。僕も家を出るとき、エミリさんに「マスクをして」と促され、訳も分からないまま装着した。車内で質問したところ、何でも〈コロナ〉という病気が流行っているらしい。エミリさんは「大介さんはそこまで気にせんてええよ」と言っていたが、ここまで全員が警戒しているということは、結構な病気なのではないだろうか。
 本日6月5日、日曜日のお天気です――。
 車内ラジオの音声で、今日の日付を知る。2002年の6月5日、つまり僕にとっての五日前は日曜日では無かったはずだから、やはりここは自分の知らない世界なんだな、と、今さらながら背筋が少し寒くなった。
「鞄の中、確認しといてな」
 エミリさんが前を見ながら言う。僕は「ああ、そうやな」と、膝に抱えたリュックを開けた。出掛ける直前、自分でノートを入れたのだが、急いでいたため、それ以外の持ち物をちゃんと確認していなかった。
 一番大きな収納スペースには、ノートとボールペンと障碍者手帳、大量のマスクと着替えと財布が入っていて、小さいほうのポケットには、鍵とポケットティッシュ、そして用途不明の黒い板とスプレーが入っていた。
 当たり前のように入っている障碍者手帳に衝撃を受けつつも、まずは財布を開いて所持金を確認。恐らくだが、二万七千円ほど入っていた。なぜそんな不確定な表現かというと、千円札と五千円札が初めて見るものだったからだ。一万円札は見慣れた福沢諭吉だったが、千円札は野口英世、五千円札に至っては全く見知らぬ女性になっていた。これらが偽札ではないと言い切れない限り、所持金を断言できない。
 次にスプレーを手に取り、まじまじと見つめる。パッケージの文字がすべて英語だったので、わざわざ海外から取り寄せたものだと推察。中央に、涙を流す人間のイラストが描かれていた。
「これってもしかして、強盗に襲われたときとかに使うやつ?」
「うん、催涙スプレー。私はそこまで気にすることはないと思うんやけど、一応障碍を持ってるわけやし、そういう護身グッズも持っておいたほうがいいんじゃないか、って」
「えっ、誰が言ったん?」
「大介さんの、お母さん」
 その単語に、思わずはっとする。エミリさんに夢中で全く意識していなかったけど、僕には両親がいるのだ。当たり前のことだけど。
「あの――」
 両親は、今、どうしているのだろう。息子がこんな状態になってしまって、どんな日常を送っているのだろうか。年齢も、還暦を過ぎているはずだ。
 ……そもそも、生きているのか?
「お元気やよ」
 エミリさんは僕の質問を先読みしてくれた。恐らく、これも何度も聞いているのだろう。
 とりあえず生きているという事実に安堵はしたものの、それで何かが解決したわけでもなかった。
「本当は一緒に住んだほうがええんやろうけど、私のワガママでな。親と同居って嫌やん? せやから、夫婦二人で暮らしたいってお願いしたんよ」
 エミリさんが困ったように笑いながら、こちらを一瞥する。その顔を見た瞬間、それは嘘だと悟った。エミリさんは、そんな女性ではないという確信がある。
 ワガママではなく、エミリさんはすべての責任を自分で負うと決めたのだ。結婚すると決めた以上、自分の弱さで周りに迷惑を掛けたくない。たとえそれが親であっても。彼女はそういう、確固たる決意で僕と結婚したのだ。
 もちろんこれは、ただの妄想だ。今日初めて出会った女性のことなど、何も分からない。しかし、僕の中には根拠のない自信があった。
 ちなみに、今の僕が住んでいた家は、見たことのない鉄筋コンクリートの一軒家だった。二人で住むには充分な大きさで、恐らく、様々な人の支援とエミリさんの覚悟によって建てられたのだろうと、推察できた。
「ご両親に、会いたい?」
「会いたい、く、ないかな」
「どっち?」
 悪戯っぽく微笑みながら、エミリさんが僕を見る。
 両親に会いたい気持ちも当然あったが、それ以上に恐怖心があった。いきなり二十歳老けた両親に会って、何を話せばいいのか。答えが出なかった。
「……僕ってさ。特に取り柄がないから、両親もそんなに、僕が凄い人になるとは思ってなかったはずなんよ。それでもやっぱり、一応、一人息子やし、それなりに将来には期待してたと思うんよ。それがこんなことになって、合わせる顔がないわ」
 僕は苦笑しながら、冗談のように本音を言った。
 車が信号待ちで止まる。エミリさんはその途端、こちらを鋭い眼差しで睨みつけた。
「期待〈してた〉やない。〈してる〉です」
「はい?」
「私も、大介さんの両親も、まだ、大介さんの未来に期待してる。鞄から、スマホ出してみて」
 スマホ、という単語に馴染みがなかったが、該当するものが他になかったため、用途不明の黒い板を取り出した。何も言わないところを見るに、正解だったらしい。
 その、女子の弁当箱みたいなサイズの黒い板をまじまじと見つめ、何気なく真ん中をタッチする。板全体に画面が表示された。
「うわっ、凄いな。もしかして、これが今の携帯?」
「な、言った通りやろ」
 エミリさんは僕の質問を無視して、調子外れなことを言った。
「大介さん、何でいきなり画面にタッチしたん? 使い方を知らんのやで、普通、まずはボタンとかを探すやろ?」
 そう問われ、目を瞬かせる。確かにそうだ。僕は何で、何の躊躇もなく、〈画面に直接タッチする〉という、人生でしたことのない行為をしたのだろうか。
「あのな、それは〈手続き記憶〉って言ってな。例えば、何年乗らんでも、自転車の乗り方って忘れへんやん? そういう風に、人間は脳じゃなくて体で覚えてることもあるんさ。脳の記憶には残ってないやろうけど、大介さんは毎日スマホを触ってるから、操作方法を何となく体が覚えてんのよ」
 信号が青になり、車が動き出す。それと同時に、僕の人生も前に進んだ気がした。
 毎日記憶がリセットされるなら、僕の人生はすべてのマスに〈振り出しへ戻る〉と書いてある双六のようなものだと、そう思っていた。でも、こんな僕でも、少しずつ前進できる、成長できる要素があるのか。
 そして、ふと思う。エミリさんへの〈愛〉も、〈手続き記憶〉になっているのではないだろうか。今朝目覚めたとき、僕はかなり動揺した。当然だ。いきなり自分に障碍があることを突きつけられたのだから。しかしそれと同時に、やけに落ち着いている自分も存在していた。本来であれば、もっと泣き喚いてもいい状況だったのに、不思議とそうはならなかった。何と言うか、〈自分はずっと前から障碍者だけど、エミリさんがいるから大丈夫〉という事実を、ぼんやりとだが体のどこかで理解している、そんな状況だった。
 ぎこちない手つきで、スマホを操作していく。〈フォト〉というマークをタッチすると、想像通りの、いや、想像以上の光景が広がった。
 僕とエミリさんの、思い出の写真たち。病室、結婚式、誕生日会……。人生の様々な瞬間が切り取られている。それはまさしく、僕がこの二十年間も生きていたという、厳然たる事実を証明してくれるものだった。
 けれど、こういった写真を見れば見るほど、ある疑問が浮かんでくる。目覚めたときからずっと気になっていたことなのだが、なかなか質問することができないでいた。
 僕は、思い切って口を開いた。
「あの、エミリさん。何で僕なんかと結婚してくれたんですか」
 そうである。それが一番の疑問なのだ。エミリさんほどの容姿と性格であれば、僕なんかよりももっと凄い人と結婚できたはずだ。
 エミリさんは「うーん」と少し逡巡したのち、目尻を下げながらこちらを見た。
「本当の理由と嘘の理由があるけど、どっちから聞く?」
 こっちは真面目に聞いているのだが、この態度は何なのだろう。しかし、この顔を見ていたら、腹を立てる気さえ無くなっていく。僕は、「じゃあ嘘から」と答えた。
「大介さんって、凄く便利なんよね。昨日の記憶がないって一見悪いことやけど、昨日の嫌なことを引き摺らない、って長所でもあるんよ。都合の悪いことを全部忘れてくれるこの人は便利やわぁ、って感動したんよ」
「都合の悪いことって、例えば?」
「そうやなぁ。浮気とかしても、ばれへんやん」
「えっ」
 思わず、硬直する。エミリさんはハンドルを切りながらプッと噴き出した。
「せやから、嘘の理由やって言うてるやん」
 体中の力が抜ける。ぐったりした僕を見て、からかい過ぎたと思ったのか、エミリさんが表情を引き締めて話を続けてくれた。
「本当の理由は、まぁぶっちゃけると、最初は同情やよね。自分より三つも下やのに、こんな障碍を背負って、どうやって生きていくんやろう、って思ったんよ」
「それは分かるけど、だからって結婚する?」
 僕は平静を装いながらも、エミリさんの発言に驚いていた。三つも下? ということは、彼女は、四十歳? 確かに大人の余裕を感じさせる雰囲気はある。しかしそれは、僕の心が十代だからそう見えるのであって、さすがに自分の記憶にある母親と同年代だとは思えなかった。
「その後、障碍があるけど私のことだけは覚えてる、ってことが判明したんよ。そんなん、純粋な乙女は運命感じるに決まってるやん」
 エミリさんは四十歳とは思えない、皺一つ無い眼で僕を見つめた。その顔は先ほどまでの大人びたものとは打って変わり、遊園地に来た園児のように輝いていた。
 自分から聞いておいて何だけど、もう理由とかどうでも良かった。とにかく彼女と結婚している。一緒にいられる。その事実だけで充分だった。そしてそれと同時に、僕の中には別の思考も芽生えていた。
 ――本当に浮気していても、何の問題もない。
 仮に浮気に気付いたとしても、どうせ次の日には忘れている。確かに、浮気したい女性にとって、こんなに都合のいい男はいない。
 僕みたいな人間と結婚してくれたのだから、それくらいの特権、ご褒美はあってもいいのではないだろうか。彼女が幸せを感じるのであれば、どれだけ利用されても構わない。
 本気で、そう思った。

   *

 エミリさんがウィンカーを出し、ハンドルを右に切る。車は大学病院の駐車場へと入っていった。
 行き先を具体的には聞いていなかったけど、ある程度予測はしていた。エミリさんは看護婦さんなのだから、職場といえばここしかない。
 正面玄関からぐるりと回り、裏口付近に車を停める。〈時間外出入口〉と書かれたガラス扉の前に佇む警備員とは顔見知りなのか、エミリさんが軽く挨拶しただけで、僕たちは通行を許可された。だだっ広いロビーには、数えられるほどの人しかいない。泣きじゃくっている子供をどやし付ける、母親の声だけが響いていた。そこで気付く。今日は日曜だから、病院自体が休みなのだ。
 しかしエミリさんは、そんな人たちを歯牙にも掛けず黙々と歩を進めていく。僕はエミリさんに置いていかれないように、必死に後を付いていった。その姿は夫婦というよりも親子で、先ほどの泣きじゃくっていた子供と自分はそんなに変わらないな、と思った。
 外来診察室の前にある長椅子へ、二人で腰掛ける。僕はエミリさんの右側に、少し距離を開けて座った。
「ここに座って、どうするん? 何が始まるの?」
「うん。実はな――」
「おっ、田丸(たまる)ちゃぁん!」
 しかし、説明を始めようとしたエミリさんの声は、廊下の向こうから聞こえてきた胴間声にかき消された。
「久しぶりだねぇ」
 突如現れたその男は、でっぷりとした体型だった。白衣を着ているが明らかにサイズが合っておらず、前のボタンが留められそうにない。
「おはようございます。加茂(かも)先生」
 エミリさんが恭しく挨拶した。この人に会うためにここへ座ったのかなと思ったが、それは彼女の引き攣った表情を見て間違いだと察した。
「何の御用ですか」
「何って、別に。同僚に話し掛けるって、普通やろ」
 加茂先生はコーラのペットボトルを開け、口へと運んだ。しかし、マスクをしていたことを失念し、飲み口はマスクと衝突。彼は恥ずかしそうに、肌色が露出した頭頂部を空いているほうの手で撫でた。
「今日は仕事?」
 マスクを下げ、今度はちゃんとコーラを飲めた加茂先生が、エミリさんに尋ねた。
「はい。九時半から」
「そうか。今日は休みなんやな」
 加茂先生は僕を一瞥し、軽く会釈した。こちらもお辞儀を返したが、顔を上げたとき、すでに彼の視線は僕に無かった。エミリさんの胸元を見て、フッと鼻で笑っている。けれどそれは下心とかではなく、彼女の付けている銀色のネックレスを見て笑っている、そんな印象だった。
 白衣のポケットから着信音が鳴り、加茂先生が慌てた様子で僕たちに「じゃ」と手を挙げながら去っていった。エミリさんは引きつった笑みで加茂先生を見送った後、大きく息を吐いた。
 それから数分待つと、診察室の中から僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。困惑しながらエミリさんに助けを求める視線を送ったが、彼女は椅子から動こうとしない。
「毎日、一人で行ってもらってるの。積もる話もあるやろうしね」
 意味が分からなかったが、中からもう一度名前を呼ばれ、僕は急かされるように一人で室内へ入っていった。そして診察椅子に腰掛けて先生と対面した瞬間、「……は?」と、開いた口が塞がらなくなった。
「こんにちは、大ちゃん」
 ノブだった。あの日、松下デンキで一緒にサッカーを見た、友達のノブだったのだ。
 痩せこけていた頬には肉が入り、中年太りを思わせる。しかし特徴的な吊り目は変わっておらず、マスク越しでも一目でノブだと気付いた。丁度いいサイズの白衣を着ており、胸元には〈楠信彦(くすのぶひこ)〉と書かれた名札が付いていた。
「ノブ……お医者さんに、なったの?」
「大ちゃんがあんなことになって、何か自分にできることは無いか、考えたんさ。残念ながらまだ大ちゃんを救う方法は見つけられてないけど、とりあえず今こうして、医者をしながら毎日、仕事が始まる前に大ちゃんと喋らせてもらえるくらいにはなったよ」
 目の前の事実を、一つ一つ咀嚼する。確かにノブは、僕より頭が良かった。でも、医師になるほどの優等生ではなかったはずだ。一体、僕が事故に遭ってから、どれだけの努力をしてきたのだろう。
「じゃあ始めよか。……宮川、大介さん」
 ノブが突如、慇懃な口調になった。特徴的な吊り目を見開き、僕と改めて真っすぐに相対する。こちらも釣られて、居住まいを正した。
「はっきり言って、私が何を言っても気休めにしかなりません。貴方はこの障碍と、一生付き合っていかなければならない。でも、貴方は間違いなく、これからも未来へ向かって生きていきます。貴方を支えてくれる人もいます。これは、とても幸せなことです」
「はい」
「そしてこれが最も大事なことですが、田丸さんを、今は苗字が変わって宮川さんですが、宮川エミリさんを、大切にしてあげてください」
「はい」
 二回目の返事は、無自覚なままさっきよりも力が入った。
「彼女は、貴方のために看護師の仕事も常勤から非常勤に変えた。そんなこと、いくら夫婦でも簡単にできることじゃない」
「えっと、すみません。細かいことですけど、エミリさんは〈看護師〉なんですか。看護婦さんとは、違うんですか」
「いえ、同じです。今は〈看護婦〉のことを〈看護師〉と呼びます」
「そうなんですか。話を遮って、すみません」
 思わず、ノブに真剣に謝った。この威圧感は間違いなく僕より大人で、医師であることを実感させるものだった。
「とにかく彼女は、本気で自分の人生を捧げて貴方の人生と向き合っています。毎朝毎朝、夫に障碍のことを説明し続ける、というのは、想像以上の苦労が伴うはずです。だから、どれだけ記憶が無くなろうが、彼女に対する感謝の気持ちだけは、忘れてはいけません」
「はい。それは言われなくても、絶対に大丈夫です」
 僕はノブの吊り目を真っすぐ見つめながら断言した。ノブは大きく息を吐きながら目尻を下げ、表情を医師のものから友達のものへと戻した。
「大ちゃんってさ、昔から優柔不断やったよな」
「何やねん、急に」
 僕も不意に肩の力が抜け、十七歳に戻ったような感覚に陥る。
「ぶっちゃけ、毎日この質問しとるんさ。同じ人間でも、その日によって態度は様々やけど、最後の質問の答えだけは、必ず力強く答えてくれんねん。優柔不断やった大ちゃんとは思えへんわ」
「それ褒めてんのか? 何かこっ恥ずかしいわ」
「褒めてる褒めてる。そういえば、優柔不断で思い出したけど、覚えてる? 櫛田(くしだ)に進路のこと聞かれたとき、〈私は誰? ここはどこ?〉って、記憶喪失の振りして逃げてたよな。それがまさか、本当の記憶喪失になるなんて」
「アホ。患者に対して不謹慎やろ」
「もう患者やなくて友達やわ」
 その後、二人で笑いながら、時間を忘れて学生時代の思い出話に花を咲かせた。しばらくしたら、看護婦、ではなく看護師さんからの注意で、そろそろ仕事が始まることを知ってノブと別れた。
 部屋を出ると、エミリさんが座ったまま待っていてくれた。携帯を触るでもなく、雑誌を読むでもなく、ただ真っすぐ前を見据えて、僕が出てくるのを待っていてくれた。
「おかえり。今日はかなり話が盛り上がったみたいやね」
「エミリさん、ありがとう」
 無意識に、唇が動いた。エミリさんは虚を突かれたような表情をした後、すぐさま相好を崩して「何がよ?」という当然の疑問を口にした。
「何がとかじゃなくて、とにかく、今までの全部に対して、ありがとう」
「アホちゃう?」
 もしかしたら、毎日同じやり取りをしているのかもしれない。
 それでもエミリさんは恥ずかしそうに微笑んで、満更でもなさそうな様子だったのが、心の底から嬉しかった。

   *

「じゃあ、大介さんはここにおってね。暇つぶしに散歩とか行ってもいいけど、私が戻ってくる五時には絶対ここにおってな」
 ナースウェアに着替えたエミリさんが、僕を院内の休憩室へ案内してくれた。清楚だったエミリさんの印象が、純白の仕事着のせいでより強調される。
「あと、これ」
 エミリさんがピンク色の包みを差し出す。お弁当だと気付いて、僕は笑顔で受け取った。
「でも、散歩なんてしたら迷子になるで」
「大丈夫。大介さん、ここの有名人やから。迷ってたら、必ず誰かが助けてくれるよ」
「それにしたって、五時までは長すぎひん?」
「何言ってんの。最高の暇つぶしがあるやんか」
 エミリさんが僕のリュックを指差す。瞬時に理解し、僕は笑って頷いた。
「じゃあね。何かあったら電話してね」とエミリさんは言い残し、急ぎ足で去っていった。日曜日でも、入院病棟は基本的に大忙しらしい。
 エミリさんを見送った後、僕は椅子に座り、長テーブルにノートを広げた。確かにこれは、最高の暇つぶしだ。僕の二十年間の軌跡が書いてある、僕だけの自伝小説。ようやく、ゆっくりと目が通せるのだ。
 まだ読んでいない、七ページ目からを開く。

〈2002年6月9日(日)午後10時48分 事故に遭って健忘症になる〉

 いきなり、衝撃的な文言が目に飛び込んできた。ある意味予想通りなのだが、それにしたって息が詰まる。
 ふと、頭を撫でてみた。意識しないと分からない程度だが、頭頂部に不自然な凹凸がある。そこで気付く。自分の髪がボサボサなのは、この手術跡を隠すためか。
 ノートにはその後、2002年から現在までの主な出来事が箇条書きで書かれていた。そこで、もう一つ気付く。ノートの表紙に〈35〉と書いてあるが、これは〈35冊目〉という意味だろう。ノートが更新される度に、それまでの記述は要約されて箇条書きにされていくのだ。
 ノートに書いてある事実で、最も驚いたことがある。何と今の僕は、働いているのだそうだ。〈イオンモール津南店〉で、ゴミ回収の仕事をしているとのこと。
 先ほど、加茂先生が「そうか。今日は休みなんやな」と言っていたが、あれは僕の仕事が休みだから、エミリさんがいつもより早い時間から仕事ができる、という意味だったのか。
 そして、それ以外の記述は、はっきり言って笑ってしまうものばかりだった。

〈2008年3月27日(木) エミリさんとレストランで食事をした。嬉しかった〉
〈2016年9月23日(金) エミリさんとトランプをした。楽しかった〉

 と、エミリさんに関する記述ばかりだったのだ。この二十年間、僕の人生において、エミリさんとの思い出以上に大切なことは無かったらしい。
 休憩を挟みながらノートを一通り読み終え、時計を見る。十二時過ぎだった。本当はエミリさんと一緒に昼食を取りたいのだが、忙しいみたいなので無理だろう。
 僕は一人で包みを広げ、エミリさんの作ってくれたお弁当に舌鼓を打った。正直言って中身はほとんど朝食の使い回しだったが、もちろん文句は無い。作ってくれるだけで、とてつもない感謝だ。
 米粒一つ残さずに完食した僕は、席を立ち、院内の散歩を始めた。しかし、病院自体に来た経験がほとんど無いため、2002年との違いを感じ取ることができなかった。恐らく、医療器具も最新のものになっているのだろうけど、その変化が理解できない。
 散歩が暇つぶしにもならないと気付いた僕は、道中、ふと今朝の会話を思い返した。
 ――大ちゃんってさ、昔から優柔不断やったよな。
 そう。確かに僕は、ノブの言う通り、優柔不断な人間だった。
 高校の進路調査票もクラスで自分だけ出しておらず、生徒指導の櫛田に「早く出せ」とせっつかれていた。けれど僕にとって、〈将来を決める〉というのは難度の高すぎる課題で、いつも記憶喪失の振りをして逃げ回っていた。
 進路なんて何でもいいけど、本当に何でもいいかと問われたら何でもはやっぱり嫌で、やりたいことは無いけれどやりたくないことは大量にある。何か変えたいと思う自分と何も変えたくないと思う自分がいつも脳内で闘っていて、結局いつも結論を先延ばしにする。
 それが、僕という人間であった。
 サッカー部では、一応レギュラーだった。ノブがディフェンダーでまっつんがキーパー、そして僕がミッドフィルダー。しかし、優柔不断な性格が災いして、いつも「パスの判断が遅い」と顧問に叱られていた。そんな奴がプロを目指せるわけもなく、勉強も全教科平均点を行ったり来たり。普段から小説を読んでいたため、唯一、国語だけは少し自信があったが、それも作家を目指せるようなレベルではなかった。
 正直言うと、夢想したことはある。将来、小説家になって、自分の半生を記録した自伝小説のようなものを出せたらいいな、と考えたこともある。しかしそれも、今となっては絶対に不可能なこととなってしまった。今の僕が自伝小説を書いても、あのノートのように、ただの日記にしかならない。
 妄想を終え、虚しさのようなものを感じた僕は、さっさと部屋へ戻って大人しくしていようと思った。
 休日の病院は、行きも帰りもほとんど人とすれ違わず、悲しいくらいに静かだった。

   *

 帰宅後、僕はエミリさんと向かい合って夕食を取った。「今日は忙しかったから、スーパーの総菜でゴメンな」と言われたが、何も問題は無い。エミリさんと食事ができる、それが何よりの幸せなのだから。
 その後、エミリさんの愚痴を聞きながら食事を進めた。何でも、ゴールデンウィークに伊勢神宮へ来た観光客から〈クラスター〉というものが発生。三重県内は、過去最大級にコロナ患者が多いらしい。都会の人間はすでにコロナを舐めていて、マスクをしていない人も多い。何でそんな馬鹿たちのために、自分が忙しい思いをしなきゃいけないんだと、笑いながら怒っていた。
 当然、その会話自体は面白かった。心の底から幸せを感じた。一方でだからこそ、別の種類の不安が、恐怖が、僕の中に顕現していた。
「エミリさん、あの、ごめんなさい」
「何がよ」
「本当に今さらなんですけど……。エミリさんがどれだけお喋りしてくれても、僕はあと数時間で、そのことを忘れてしまうんですよね」
 するとエミリさんは表情を引き締め、真っすぐな眼差しで僕を見つめた。
「まぁそれは、〈個性〉として受け止めるしかないよ。今日の楽しかったことを忘れてしまうけど、今日の辛かったことも忘れられるんやから、プラマイゼロやん」
 しかしエミリさんの慰めも、今は意味を成さなかった。俯くと、半額の唐揚げと目が合った。
「それにな。健忘症の人にも、全く記憶が無いわけじゃないんよ。手続き記憶だけじゃなくて、〈心の記憶〉もあるんよ」
「心の?」
 思わず、顔を上げる。エミリさんの顔は、優しく微笑んでいた。
「強い衝撃を受けた〈感情〉だけは、健忘症の人も記憶に残るんさ。感情は、脳じゃなくて心で覚えるものやからな。だから大介さんにとって、私という人間は強い衝撃であり、心で覚えている存在なんさ」
「意味が分かるような、分からないような」
「だって、毎日具体的な内容は忘れてしまうけど、私といて楽しかった、私のことが好きや、っていう感情の記憶だけは忘れへんやろ? 世の中、それすら忘れて離婚してしまう夫婦ばっかりやで? それに比べたら、私たちはとんでもなく幸せやで」
 目頭が熱くなる。彼女は決して悲観せず、僕を支えてくれているのだ。
 まだ、不安はある。これから夜が更けるにつれ、それはさらに大きくなっていくだろう。けれど、せめて彼女の前でだけは、強い人間でいようと、心に誓った。
 それからエミリさんに促され、ノートを広げた。明日の自分への引継ぎ事項を書くためだ。
 しかし。

〈2022年6月5日(日) エミリさんと一日を過ごした。楽しかった〉

 それだけ書いて、手が止まってしまった。今日の僕に、これ以上の思い出は無い。
「えっ、終わり?」
 エミリさんが笑いながら問いかけてくる。僕は黙って頷いた。
「そうやなぁ。じゃあ、秘密の情報を教えたるわ。実は私、大介さんが忘れてくれるのをいいことに、忙しくなくてもスーパーの総菜で主婦業を手抜きしとるんさ。その半額の唐揚げ、実は三日前も食べてるんやで。それはノートに書かんてええ?」
 俯いた僕の顔を覗き込むエミリさん。僕はついに我慢できず、噴き出してしまった。
「そんな衝撃的な事実、明日の自分に伝えられへんわ」
「ひっど!」
 エミリさんも、大声で笑いだす。その瞬間、本当に一瞬だけど、自分の運命を忘れられた。そこにあったのは、普通に笑い合う、普通の幸せな夫婦、そのものだった。
 その後、お風呂から出た僕は、人生で初めて使うドライヤーというもので髪を乾かし、エミリさんと〈イッテQ〉というテレビ番組を見て再び笑い合った。さらに録画してある過去の放送回も見て、何度も何度も笑い合った。でも、この楽しい時間ももう終わり。時刻は九時四十分。僕は、意を決して口を開いた。
「エミリさん。そろそろ、寝るわ」
「うん、おやすみ」
 エミリさんは寂しそうに笑った。こちらも同じ気持ちだ。本当はもっと側にいたい。でも、それ以上に、エミリさんに迷惑を掛けたくなかった。ここで寝てしまったら、エミリさんが僕を部屋まで運ばなくてはならない。
 階段を上り、自分の部屋に入る。まだ眠たくはなかったので、試しに押し入れを開けてみる。中にはサッカーのユニフォームやMDウォークマンなど、過去の僕が使っていたものが仕舞われていた。
 また、僕の予想通り〈1〉から〈34〉のノートも保管されていた。しかし、それに目を通す気にはなれない。膨大すぎて、どこから手を付ければいいのか分からなかった。
 何気なく、MDウォークマンを手に取る。イヤホンを耳に付けて再生ボタンを押すと、当時流行っていた曲が流れ始めた。
 ――あーなーたぁーに、会いたくてぇぇー。
 その曲を聞きながら、改めて眼前のノートの山と向き合った。瞬間、僕の中で何かが弾け飛び、涙が止まらなくなった。
 このノートの山は、本来、僕の脳内に無ければいけないものだ。これだけの量の、膨大な数の記憶を、僕は失っているのだ。その事実が、改めて怖い。
 イヤホンを千切るように外し、雄叫びをあげながらウォークマンを壁に叩きつけた。叫ばないとやっていられない。あと十分たらずで、僕はまた〈リセット〉されるのだ。
 その直後、部屋のドアを誰かがノックした。いや、誰か、ではない。僕の部屋をノックするのは、世界でただ一人だ。
 ゆっくりドアが開く。エミリさんが恐る恐る顔を覗かせる。
「大介さん、大丈夫? 何か、叫び声が聞こえたけど」
 瞬間、思考より先に体が動いた。気付くと、僕はエミリさんの胸に顔を埋めていた。銀色のネックレスが頬に当たり、そこだけひんやりと冷たい。
「エミリさん、やっぱり怖いです。眠ってしまう前に、もう一つだけ、僕を安心させてください。やっぱり気になります。エミリさんは、何で僕なんかと結婚してくれたんですか」
 それは、ずっと溜め込んでいた疑問だった。一応、朝の車内で説明はしてもらった。でも、それだけでは納得していないという本音もあった。
 エミリさんの、息を呑む音が聞こえる。
「せやから、それは――」
「感情だけじゃ、安心できません。根拠を、教えてください。僕は本当に、明日からも、エミリさんの夫でいる資格がある人間なんですか」
 顔を埋めているため、エミリさんの表情は分からない。しばしの沈黙の後、彼女は僕の頭をゆっくり撫でながら、大きく息を吐いた。そして。
「実はな――」