目覚めたら、自分の部屋だった。
当たり前だけど、当たり前ではない感覚。
まず、匂いが違う。僕の部屋は、カッターシャツの生乾き臭が充満しているはずなのに、モデルルームみたいな爽やかな香りが漂っていた。六畳の部屋を一周見回す。家具や家電も僕の所有物に似せてはいるが、やはりどこか違う。顕著だったのがテレビだ。薄すぎる。十四型のブラウン管テレビの上に時計を置いていたはずだが、このテレビの上には何も置けない。
そして何より、最も困惑したのが、ドアの貼り紙だった。
〈部屋を出る前に、必ず机の上のノートを見ろ!〉
脅迫めいた赤字で、そう書かれていた。
この部屋は、誰かが僕の部屋を模して作った偽物だと、そこで理解した。
――しかし、何のために?
机上にぽつんと置かれたノートは使い込まれており、折り目や皺が目立っていた。表紙に大きく〈35〉と書いてある。
「うぉっ」
やにわに鳴った目覚まし時計の爆音に、間抜けな声を出す。アラームを止めようとしたところ、文字盤の上にもドアと同じ貼り紙がしてあった。どうやらこのイタズラの犯人は、どうしても僕にノートを見てもらいたいらしい。
貼り紙を剥がし、時間を確認。朝の七時過ぎだった。
とにかく考えても仕方ない。そこまで言うなら、机のノートを見るしかない。
やおらベッドを抜け出し、勉強机の椅子へと腰かけた。そこでふと、自分の手足に違和感を覚える。まず、左手の薬指に、指輪があった。何だこれは。僕はこういったアクセサリーには全く興味が無い。怖くなって、外して机の隅へと置いた。
そして、足。僕は足首を捻挫していたはずなのだが、ベッドから机に歩いてくる間、全く痛みが無かった。
色々と意味が分からなかったが、今の自分にできるのは、やはりこのノートを読むことだけだ。
僕はその一ページ目を、恐る恐る開いた。
〈このノートは非常に大事な物です。もし拾われた方は、以下の連絡先へ連絡してください〉
仰々しい注意書きとともに、四人の人間の連絡先が書いてある。自分と両親、そしてもう一人、知らない女性〈宮川エミリ〉という名前だった。苗字が同じだが、こんな親戚は聞いたことが無い。
「エミリ、さん……」
無意識に、名前を呟いた。瞬間、知らないはずのその女性の顔が、次々に脳内に浮かんできた。
エミリさんの笑っている顔、エミリさんの澄ました顔、エミリさんのはしゃいでいる顔――。
おぼろげだけど、間違いない。僕は、この女性を知っている。鼻の奥がツンとなり、なぜだか分からないけど、泣きそうになる。
鼓動が速まるのを感じながら、次のページを捲る。
〈僕、宮川大介は、2002年6月9日に事故に遭い、健忘症という記憶障害になった。事故に遭う前の記憶はあるが、事故の後の記憶は、一晩眠るごとにリセットされてしまう。自分は今、2002年の6月10日だと思っているだろうが、実際は2022年だ〉
呼吸が激しくなる。眩暈も始まる。訳が分からない。状況が飲み込めない。
――今が、2022年? そんな馬鹿な。僕は昨日、昨日……何をした?
昨日のことが思い出せない。正確に言えば記憶はあるのだが、なぜかぼんやりしていて、脳の最前列ではなく、一番奥で埃を被っている大昔の記憶のように思えた。
僕は昨日、まっつんとノブと三人で、〈松下デンキ〉の街頭テレビでサッカーを見たんだ。日韓W杯の日本対ロシア戦。後半六分、稲本のゴールで日本が1対0で勝利して、その後、まっつんとノブを見送って、一人になった僕は、僕は……。
その途端、背筋に氷を流し込まれたような悪寒が走った。脳が、そこから先の記憶を拒んでいるように感じた。
そんな訳はない。そんな訳はないと、思いたいのだが。
僕は脳の反対を押し切り、回想を続けた。
一人になった僕は年甲斐もなく興奮していて、向かいのケヤキ公園でサッカーごっこをしたんだ。公園の中央に聳え立っている巨大なケヤキの木を相手ディフェンダーに見立てて、稲本のシュートを真似して遊んでいた。
その時だ。
耳をつんざく車のブレーキ音、目を焼くヘッドライトの明かり、921、強い衝撃、木の匂い、鼻の奥に鉄の味が広がって、どす黒いマウスピースが飛び散って――。
僕の記憶は、そこまでだった。
事故に遭ったのは、間違いない。込み上げてくる胃液とともに、その事実を飲み込むほかなかった。
しかし、今が2022年というのはどうだろう。にわかには信じられない。何気なく視線を宙に浮かせると、机に備え付けの本棚に小さな鏡があった。まるで、このタイミングで僕が困惑することを予測して、事前に配置されているようだった。
小刻みに震える手でそれを取り、顔を確認。
寝癖が気にならないほどの短髪だったのに、ボサボサに伸びた髪。肌がつるつるで髭なんて剃ったことが無いはずなのに、汚らしく生えた無精髭。窪んだ目元には皺が目立ち、雨の日のグラウンドみたいに染みがいくつもある。
その風貌は確かに、自分自身が老けた姿、と表現するしかないものだった。
一応、皮膚を引っ張ってみる。特殊メイクかもしれない。僕みたいな一介の高校生に、テレビ局がドッキリを仕掛けるわけが無いのは分かっている。でも、どうしても信じられない。今が2022年ということは、僕は十七歳ではなく三十七歳……ということになってしまう。
不意に、笑いが込み上げてきた。もちろん恐怖心はあるけれど、具体的に何を怖がればいいのか分からない。情報量が多すぎて、脳が自棄になっている。
自分でも驚くほどの平常心で、鏡に向かって口を開けた。歯列矯正をしていたのだが、鏡の中の自分はマウスピースを付けていなかった。それどころか、すべての歯が綺麗な列を成し、少し気になっていた出っ歯も治っている。つまり、何年も掛かると言われていた歯列矯正が、すでに終わっていたのだ。
今が2022年だという事実も、真実味を帯びてきた。
ノートの次のページを捲る。
〈多分、今自分は絶望感でいっぱいだろう。状況が飲み込めず、何も考えられないだろう。ただ、そんな僕の人生にも、一つだけ、いいことがあった。なんと僕は、結婚しているのだ。担当看護婦だったエミリさんと、2007年に結婚したんだ。しかも、毎日記憶がリセットされるはずなのに、なぜかエミリさんの記憶だけは、おぼろげながら残るんだ。お医者さんも非常にレアなケースだと言っていて、「愛の力」と言うしかないらしい〉
改めて、隅に置いた指輪を見つめた。これは、結婚指輪なのか。手に取り、薬指に付けると、走馬燈のように脳内に映像が溢れ出てきた。
結婚式。ドレス姿のエミリさん。世界で一番綺麗。誓いのキス。
――ああ、幸せ。
まるで、温かい毛布に包まれたような安心感だった。
まだ、何も解決していないし、ほとんど状況も理解できていない。
しかしそれでも、僕の中にあった恐怖心は霧消していた。心の傷を、エミリさんという糸が瞬時に縫ってくれているようだった。
またもや、不意に笑いが込み上げてくる。けれども今度のそれは、恐怖心からのものではなく、自然に零れたものだった。
まだ、ノートには続きがある。それを読んでから部屋を出たほうがいいだろう。
しかし。
――一刻も早く、エミリさんに会いたい。
僕はドアを開け、見慣れぬ廊下を進み、見慣れぬ階段を下りていった。
当たり前だけど、当たり前ではない感覚。
まず、匂いが違う。僕の部屋は、カッターシャツの生乾き臭が充満しているはずなのに、モデルルームみたいな爽やかな香りが漂っていた。六畳の部屋を一周見回す。家具や家電も僕の所有物に似せてはいるが、やはりどこか違う。顕著だったのがテレビだ。薄すぎる。十四型のブラウン管テレビの上に時計を置いていたはずだが、このテレビの上には何も置けない。
そして何より、最も困惑したのが、ドアの貼り紙だった。
〈部屋を出る前に、必ず机の上のノートを見ろ!〉
脅迫めいた赤字で、そう書かれていた。
この部屋は、誰かが僕の部屋を模して作った偽物だと、そこで理解した。
――しかし、何のために?
机上にぽつんと置かれたノートは使い込まれており、折り目や皺が目立っていた。表紙に大きく〈35〉と書いてある。
「うぉっ」
やにわに鳴った目覚まし時計の爆音に、間抜けな声を出す。アラームを止めようとしたところ、文字盤の上にもドアと同じ貼り紙がしてあった。どうやらこのイタズラの犯人は、どうしても僕にノートを見てもらいたいらしい。
貼り紙を剥がし、時間を確認。朝の七時過ぎだった。
とにかく考えても仕方ない。そこまで言うなら、机のノートを見るしかない。
やおらベッドを抜け出し、勉強机の椅子へと腰かけた。そこでふと、自分の手足に違和感を覚える。まず、左手の薬指に、指輪があった。何だこれは。僕はこういったアクセサリーには全く興味が無い。怖くなって、外して机の隅へと置いた。
そして、足。僕は足首を捻挫していたはずなのだが、ベッドから机に歩いてくる間、全く痛みが無かった。
色々と意味が分からなかったが、今の自分にできるのは、やはりこのノートを読むことだけだ。
僕はその一ページ目を、恐る恐る開いた。
〈このノートは非常に大事な物です。もし拾われた方は、以下の連絡先へ連絡してください〉
仰々しい注意書きとともに、四人の人間の連絡先が書いてある。自分と両親、そしてもう一人、知らない女性〈宮川エミリ〉という名前だった。苗字が同じだが、こんな親戚は聞いたことが無い。
「エミリ、さん……」
無意識に、名前を呟いた。瞬間、知らないはずのその女性の顔が、次々に脳内に浮かんできた。
エミリさんの笑っている顔、エミリさんの澄ました顔、エミリさんのはしゃいでいる顔――。
おぼろげだけど、間違いない。僕は、この女性を知っている。鼻の奥がツンとなり、なぜだか分からないけど、泣きそうになる。
鼓動が速まるのを感じながら、次のページを捲る。
〈僕、宮川大介は、2002年6月9日に事故に遭い、健忘症という記憶障害になった。事故に遭う前の記憶はあるが、事故の後の記憶は、一晩眠るごとにリセットされてしまう。自分は今、2002年の6月10日だと思っているだろうが、実際は2022年だ〉
呼吸が激しくなる。眩暈も始まる。訳が分からない。状況が飲み込めない。
――今が、2022年? そんな馬鹿な。僕は昨日、昨日……何をした?
昨日のことが思い出せない。正確に言えば記憶はあるのだが、なぜかぼんやりしていて、脳の最前列ではなく、一番奥で埃を被っている大昔の記憶のように思えた。
僕は昨日、まっつんとノブと三人で、〈松下デンキ〉の街頭テレビでサッカーを見たんだ。日韓W杯の日本対ロシア戦。後半六分、稲本のゴールで日本が1対0で勝利して、その後、まっつんとノブを見送って、一人になった僕は、僕は……。
その途端、背筋に氷を流し込まれたような悪寒が走った。脳が、そこから先の記憶を拒んでいるように感じた。
そんな訳はない。そんな訳はないと、思いたいのだが。
僕は脳の反対を押し切り、回想を続けた。
一人になった僕は年甲斐もなく興奮していて、向かいのケヤキ公園でサッカーごっこをしたんだ。公園の中央に聳え立っている巨大なケヤキの木を相手ディフェンダーに見立てて、稲本のシュートを真似して遊んでいた。
その時だ。
耳をつんざく車のブレーキ音、目を焼くヘッドライトの明かり、921、強い衝撃、木の匂い、鼻の奥に鉄の味が広がって、どす黒いマウスピースが飛び散って――。
僕の記憶は、そこまでだった。
事故に遭ったのは、間違いない。込み上げてくる胃液とともに、その事実を飲み込むほかなかった。
しかし、今が2022年というのはどうだろう。にわかには信じられない。何気なく視線を宙に浮かせると、机に備え付けの本棚に小さな鏡があった。まるで、このタイミングで僕が困惑することを予測して、事前に配置されているようだった。
小刻みに震える手でそれを取り、顔を確認。
寝癖が気にならないほどの短髪だったのに、ボサボサに伸びた髪。肌がつるつるで髭なんて剃ったことが無いはずなのに、汚らしく生えた無精髭。窪んだ目元には皺が目立ち、雨の日のグラウンドみたいに染みがいくつもある。
その風貌は確かに、自分自身が老けた姿、と表現するしかないものだった。
一応、皮膚を引っ張ってみる。特殊メイクかもしれない。僕みたいな一介の高校生に、テレビ局がドッキリを仕掛けるわけが無いのは分かっている。でも、どうしても信じられない。今が2022年ということは、僕は十七歳ではなく三十七歳……ということになってしまう。
不意に、笑いが込み上げてきた。もちろん恐怖心はあるけれど、具体的に何を怖がればいいのか分からない。情報量が多すぎて、脳が自棄になっている。
自分でも驚くほどの平常心で、鏡に向かって口を開けた。歯列矯正をしていたのだが、鏡の中の自分はマウスピースを付けていなかった。それどころか、すべての歯が綺麗な列を成し、少し気になっていた出っ歯も治っている。つまり、何年も掛かると言われていた歯列矯正が、すでに終わっていたのだ。
今が2022年だという事実も、真実味を帯びてきた。
ノートの次のページを捲る。
〈多分、今自分は絶望感でいっぱいだろう。状況が飲み込めず、何も考えられないだろう。ただ、そんな僕の人生にも、一つだけ、いいことがあった。なんと僕は、結婚しているのだ。担当看護婦だったエミリさんと、2007年に結婚したんだ。しかも、毎日記憶がリセットされるはずなのに、なぜかエミリさんの記憶だけは、おぼろげながら残るんだ。お医者さんも非常にレアなケースだと言っていて、「愛の力」と言うしかないらしい〉
改めて、隅に置いた指輪を見つめた。これは、結婚指輪なのか。手に取り、薬指に付けると、走馬燈のように脳内に映像が溢れ出てきた。
結婚式。ドレス姿のエミリさん。世界で一番綺麗。誓いのキス。
――ああ、幸せ。
まるで、温かい毛布に包まれたような安心感だった。
まだ、何も解決していないし、ほとんど状況も理解できていない。
しかしそれでも、僕の中にあった恐怖心は霧消していた。心の傷を、エミリさんという糸が瞬時に縫ってくれているようだった。
またもや、不意に笑いが込み上げてくる。けれども今度のそれは、恐怖心からのものではなく、自然に零れたものだった。
まだ、ノートには続きがある。それを読んでから部屋を出たほうがいいだろう。
しかし。
――一刻も早く、エミリさんに会いたい。
僕はドアを開け、見慣れぬ廊下を進み、見慣れぬ階段を下りていった。
