僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

6
 午後3時半。教室にはまだ勉強している数人を除いて、ほかは放課後のチャイムとともに帰っていった。見回して、入学初日からここまで必死なのかと、高校の大変さを思う。

 ん?ずいぶん他人事みたいだなって?
 そうだな。いい質問だ。

「もう帰る?」

 前の席で机が鳴り、紫木がノートを書いたまま顔も上げずに聞いてきた。別にいいけど、昼からもう敬語じゃないんだな。これって友情の証か?

 机の上を見ると、教科書も参考書もかなり先まで進んでいた。

「ずいぶん真面目だな。」
「当然。」

 少しおどけた口調なのに、やっぱり顔は上げない。
 医者志望、だったか。初日からこの本気なら納得だ。ここの生徒は、授業を聞くより自分でやったほうが早そうだ。

「じゃあな。」
「また明日。」

 近寄りがたい雰囲気のくせに、ちゃんと気にかけてくれる。案外優しい。
 さて、どこを見て回ろうか。引っ越してきてしばらく経つのに、姉さんと食事に出る時くらいしか外に出ず、校内もまだろくに歩いていない。

 400メートルトラックの内側にはいくつもバスケットコートがあり、上手いのも下手なのもいる。パンドラのバスケ部はどれくらいなんだろう。

 まあ、どうせヒロより上なんてあり得ない。
 洗練された基礎、多彩な攻め、完璧な体さばき、理不尽なくらい柔らかいシュートタッチ。日本のプロどころかNBAが発掘しに来てもいいくらいだ。
 ……って何だこれ。まるで僕、ヒロのファンじゃないか。べ、別に好きなわけじゃない!

「カンッ!」

 遠くから金属音がした。あの辺に野球場でもあるのか?十数本の木が並んでるだけにしか見えないけど。
 野球といえば、朝の自己紹介で、たしか……

―「名前は望《もち》月《づき》奏《かな》音《ね》です。運動が好きで、特に野球!プロ野球も見ますし、普段から家族や友達と外で野球をしたりもします。野球が好きな人は、ぜひグラウンドで会えたらうれしいです!」

 あの営業スマイルは甘すぎて、僕も一瞬だけ「よし、今日から野球の天才を目指すか」なんて馬鹿なことを考えた。
 まあ、野球に興味はないけど。

―「あと、クラシック音楽も好きで、ピアノもちょっと習ってました~。この先みんなと仲良くできたらうれしいです。よろしくお願いします~」

 その一言も印象に残った。ただ、理由は望月本人じゃない。

―「私、もうピアノは弾きたくない。」
  
 人と人は、妙なところで似ている。無邪気だったはずの中学時代も、振り返れば直視しづらい記憶ばかりだ。

「カンッ!」

 ……野球、か。
 行ってみるか。何かイベントでも起きるかもしれない。

 近づくと、野球場は直角に並んだ木の奥にあった。
 校内の隅にある、掘り下げ式の正方形の野球場だ。打球事故を防ぐため、本塁は最奥で打席は校内向き。壁と高い防球ネットでファウルも防いでいる。

 どこからツッコめばいいんだ。どこの天才がこんな球場を設計した?

 ベンチを見たが目当ての姿はなく、野球場へ下りる階段に座って様子を見る。
 ……守備、下手すぎるだろ。

「おや、興味あるの?」

 背後から声がしたが、振り向かなかった。僕宛てとは限らないし、聞き覚えはあった。

「無視するのか?」

 横を通りながらもう一度言われ、ようやく気づいた。

「か……風!?」
「そこは先輩、だろ?」

 風は振り返り、自信たっぷりに笑った。

「先輩、野球部なんですか?」
 その問いに、風は足を止めて振り返る。

「そうだ。僕はパンドラ野球部のキャプテンだ。」

 ……何だこの間。中二病かよ。

「二人とも、その人は放っておいて下りよう。」

 誰か確認したかったが、女子なら振り向いた瞬間にスカートの中が見えるかもしれない。
 入学初日から変態認定は避けたいので、そのまま前を向いた。

「すみません。」
 先に下りたのは、黒髪を高い位置で結んだ目の大きな女子。

「失礼しま~す。」
 次の女子は僕を見て足を止めた。

 いた。目標確認。野球少女、望月奏音。

「や、こんにちは。」
「こんにちは! 羽《はね》……夜《よる》くん、でしたっけ?どうしてここに?」
「校内探検。まさか野球場がこんな場所にあるとは思わなかった。」

 名前を間違えかけた空気を、すぐ質問で流した。実際間違えてたけど、ここは追及しないのが紳士だ。

「ですよね。私も初めて来た時、そう思いました。」
 初めて?

「羽夜くんって風先輩と知り合いなんですか?あ、私もう下りないと。羽夜くんも野球やるなら、早くグラウンドへ来てね! それじゃ!」
「わかった。また明日!」

 ……危ない。もう二回目か。あの笑顔に引っ張られて、危うく下りるところだった。
 でも、部活は面倒だ。まして野球なんてやったこともない。三年ベンチなんてごめんだ。

 ん?あの180センチ超えの人、確か同じクラスの……

―「よっ!高《たか》木《き》陽《はる》輝《き》です。バスケと野球が好きです。よろしくな~」

 動きがいい。他の連中とは明らかに格が違う。
 短い集合のあと、さっきの連中は高木だけ残して下がった。代わりに、高木と風、それからベンチにいた連中が出てきて練習を始めた。

 うわ……まったく別チームだ。三分も見ないうちに分かった。
 この連中こそがレギュラーだ。人数こそ多くないが、打撃も守備も「自分たちは優勝を狙う強豪だ」と言わんばかりだった。

 進学校でこのレベルかよ。

 もし僕が野球をやっていたなら、ここは案外いい場所だったのかもしれない。
 そんな妙なことを思いながら、僕は静かに野球場を後にした。