40
翌日、5月2日、朝八時。パンドラ高校の校門前。
やっとゴールデンウィークを満喫できる日に、なんでこんな時間にこんな場所にいなきゃいけないんだ……。
そうだ。話は昨日の放課後、僕があの一言を口にしたところから始まる。
───────────────
「高校入ってすぐに、君みたいな友達ができて、本当によかった。」
その言葉を聞いた紫木は、しばらくぽかんと固まっていた。
10秒くらいは止まっていたんじゃないか。
「……え!?ってことは、羽冬って私のこと好きじゃなかったの?」
「うっ……」
いや、なんでそんなことを真正面から聞けるんだこの女は。
「羽冬が恥ずかしくて言えないだけなのかなって思ってたから、私から告白して、羽冬の気持ちを自然に受け入れてあげようと思ってたのに。」
「……あ。」
何だその勢いだけの理屈は。
全然筋が通ってない。
「もう、ほんと。私、こんなに大ごとにしちゃったじゃん。」
紫木は少し頬を膨らませた。
え、これってもしかして――
「……怒ってる?」
紫木はゆっくり目を閉じ、ふうっと息を吐いた。
「はあ~これでやっと本当に楽になった。さっき羽冬、『やっと終わったなあ~』って言ってたけど、私、全然そんな気分じゃなかったし。」
わざわざ僕の声と口調まで真似してきやがる。
「ふはっ……」
「え、ど、どうしたの?」
「はははははっ……!」
三週間前、Purple Forestで紫木姉と夜中に話してからずっと背負っていた重荷が、ようやく下りた。
その直後に紫木のものまねで笑わされるなんて、思ってもみなかった。
だめだ。面白すぎる。腹が痛い。涙まで出そうだ。
「な、何なのよ!」
紫木は顔を真っ赤にして口を尖らせていた。
「やっぱ君と知り合えてよかった。高校生活の笑いの八割、もう紫木が担当してる。」
「羽冬夜良!」
「はいはい、ごめんごめん。」
落ち着いて互いの顔を見ると、また二人で吹き出してしまう。
ん?これって、いわゆるよりを戻すってものか?いっそこの流れで本当に付き合うか。
もちろん、冗談だ。
「ねえ、羽冬。」
「どうしたの?」
「ゴールデンウィーク、何するの?」
───────────────
「やっほー、羽冬!」
「八時集合って言い出した人が遅刻するなよ。」
紫木は緑のUネックの半袖トップスに、ゆるめのデニムという格好だった。
鎖骨の下まで開いた襟元は、少しかがんだだけで危ないんじゃないかと思うくらい大胆だ。
……まあ、これまでにそれ以上のものを見たことがあったけど。
「家が近い人は、電車で来る人に優しくするべきでしょ!」
「時間を守るのは大事だぞ。」
「一時間目まるごと寝てた人には言われたくないな~」
「じゃあ今後、毎朝電話して起こしてくれる?」
「うん~考えとく。」
……考えるんだ。
そう言うと紫木は少し前へ駆け出し、僕がついてこないと気づくと振り返って文句を言い、そのまま先へ進んだ。
「早く!中間考査の範囲は全然分かってないでしょ?授業中いつも寝てるし!」
関係を「仲のいい友達」に制限した後、紫木は前より少しだけ素直に明るくなった気がする。
たぶん、こっちのほうが元々の姿だ。
「置いてくよ!」
「分かったよ。走りたくないんだって。速すぎる。」
校内の図書館へ入ると、紫木は鞄の中から真新しい参考書を何冊も取り出して、向かいの席に座った僕の机へどさっと置いた。
「はい、これ。」
図書館なので声は小さい。
「え?」
「学校の教科書なんて全然役に立たないんだ。この出版社の参考書、私ずっと使ってるの。おすすめ!」
とりあえず数学の参考書を手に取ってぱらぱらめくる。
……ああ、そうか。
紫木の細かすぎる書き込みがないから、妙に白く見えるんだ。
「これ、くれるの?」
「まさか。ちゃんと払ってもらうよ。定価で。送料はサービス。」
……それ、強制購入じゃないか?
「まけてくれない?」
少し考えたあと、紫木は何か思いついたように目を上げた。
「今回の中間考査、平均90点以上取れたら、タダであげる。」
「いくらですか?今払います。」
「諦めるの早すぎるでしょ!」
思わず声が大きくなったらしく、紫木は慌てて自分の口を両手で押さえる。
やっぱりこういうところは変わっていない。
パンドラ祭の準備期間中にも、各教科で小テストはいくつかあった。
中学までの感覚で適当にやっても80点か90点はいけるだろうと思っていたけど、実際にテストの答案と点数を見て、自分の実力をとんでもなく見誤っていたと気づいた。
その日、僕が少しでも眠そうな顔をすると、紫木は遠慮なく肩を揺さぶってきた。
それでもだめなら、ボールペンで僕の頭を直接こつんと叩いてきた。
いや、何でこんなに元気なんだよ。昨日あれだけ――
ああ、そうか。彼女は昨日ほとんど運動してないんだった。
結局、紫木が夕飯のために帰らなければならず、午後5時ごろに本日の「紫木先生による地獄の補習」は終了した。
学校を出たあと、紫木と一緒にパンドラ商店街を抜け、日吉駅まで歩いた。
「明日も同じ時間ね!用事があるなら仕方ないけど、寝坊したいだけなら絶対許さないから!」
どうやら、「普段はしっかり勉強して、たまに安心して友達と遊ぶ」という紫木の原則は、なぜか僕にも適用されるらしい。
紫木が改札を抜けてホームへ消えたあと、僕はさっそく電話をかけた。
「羽冬?どうしたの?」
「明日、どこかへ遊びに行かない?」
「まだ一日しか勉強してないでしょ!すぐにサボろうなんて考えは却下!」
あ、切っちゃった。
どうやらこれから先、かなり長い間、妙に世話焼きな監督役が僕の勉強を見張ることになりそうだ。
そして夜。寝る準備をしていたところで、不意にスマホが鳴った。
「うっ……」
うっすら見覚えがある番号。
「ヨ~ル~」
どこで覚えたんだ、その無駄に伸ばす呼び方。
「何の用ですか。」
しばらく沈黙があったあと、紫木姉の優しい声が聞こえてきた。
「うまくいったみたいね。」
「別に、大したことはしていません。」
「そう?一応確認だけど、理香とは付き合ってないのよね?」
「自分の命を懸けるような冗談は言いません。」
「ハハハ、何それ。大げさ。」
いや、あの時「理香と付き合うのは許さない」って言った君、間違いなく本気の殺気を出してましたけど。
「でも、今の状況がいいのも、あくまで『今』の時点では、ということでしょう?」
やっぱりこの女は、鋭すぎる。
「まだ何か頼みでもあるんですか?」
「いいえ。正直、この結果はもう予想以上だ。理香が笑っていられるなら、それで十分。」
「期待に応えられて、光栄です。」
「ああ~青春っていいわねえ~」
……何だその感想。
「とにかく、これからも理香のことよろしくね。暇な時は飲みに来て。Purple Forestでいつでもお待ちしてるから。じゃあね~
」
この女、本当に僕を未成年だと認識してるんだろうか。
そう。僕は何もしなかった。ただ先延ばしにしただけだ。
誰にも予測できない結末が、早く訪れてしまうのを防いだだけ。
もしあの時、紫木姉の頼みがなくて、望月の忠告もなかったら、今ごろ僕と紫木の関係は、たぶんもう変質していた。
それが良い方向に変わったのか、悪い方向に変わったのかは分からない。
ただ、どちらに転んでも、ろくな結末にはならなかったと思う。
紫木が僕のせいで傷つくかどうかなんて、今でもそこまで気にしていない。
ただ、彼女を傷つけないやり方が、ちょうど僕の心の向かう先と重なっていただけだ。
僕がやったことは、たくさんある選択肢の中から、自分がこの先も平穏に暮らせそうな道を、勝手に選んだだけだ。
そもそも紫木が、なぜ僕が彼女を好きだと思ったのか。なぜ自分も僕を好きになるべきだと思ったのか。なぜ僕に告白しようと決意できたのか。
最後まで、本人に聞くことはなかった。
もしかしたら、紫木は本当に僕を好きだったのかもしれない。
でも、僕の言葉を聞いて、最後の最後で自分を偽った可能性だってある。
どれだけ多くの人が分析して、同じ答えを出しても、紫木の本当の気持ちは、彼女自身ですらまだ言葉にできていないのかもしれない。知っているのは、彼女の心の奥だけだ。
僕は、紫木の本心を知ろうともしなかったし、知るつもりもなかった。
今がうまくいっているなら、それで十分だ。
僕の選んだ道が正しかったのかどうか、最後の最後まで分からないのだろう。
あるいは、そもそも正解が明かされる日なんて来ないのかもしれない。
それでも僕は信じている。
無数の選択肢から、あまりにも間違ったものを一つずつ取り除いていけるなら、少なくとも僕らは正解に一歩ずつ近づいているのだと。
翌日、5月2日、朝八時。パンドラ高校の校門前。
やっとゴールデンウィークを満喫できる日に、なんでこんな時間にこんな場所にいなきゃいけないんだ……。
そうだ。話は昨日の放課後、僕があの一言を口にしたところから始まる。
───────────────
「高校入ってすぐに、君みたいな友達ができて、本当によかった。」
その言葉を聞いた紫木は、しばらくぽかんと固まっていた。
10秒くらいは止まっていたんじゃないか。
「……え!?ってことは、羽冬って私のこと好きじゃなかったの?」
「うっ……」
いや、なんでそんなことを真正面から聞けるんだこの女は。
「羽冬が恥ずかしくて言えないだけなのかなって思ってたから、私から告白して、羽冬の気持ちを自然に受け入れてあげようと思ってたのに。」
「……あ。」
何だその勢いだけの理屈は。
全然筋が通ってない。
「もう、ほんと。私、こんなに大ごとにしちゃったじゃん。」
紫木は少し頬を膨らませた。
え、これってもしかして――
「……怒ってる?」
紫木はゆっくり目を閉じ、ふうっと息を吐いた。
「はあ~これでやっと本当に楽になった。さっき羽冬、『やっと終わったなあ~』って言ってたけど、私、全然そんな気分じゃなかったし。」
わざわざ僕の声と口調まで真似してきやがる。
「ふはっ……」
「え、ど、どうしたの?」
「はははははっ……!」
三週間前、Purple Forestで紫木姉と夜中に話してからずっと背負っていた重荷が、ようやく下りた。
その直後に紫木のものまねで笑わされるなんて、思ってもみなかった。
だめだ。面白すぎる。腹が痛い。涙まで出そうだ。
「な、何なのよ!」
紫木は顔を真っ赤にして口を尖らせていた。
「やっぱ君と知り合えてよかった。高校生活の笑いの八割、もう紫木が担当してる。」
「羽冬夜良!」
「はいはい、ごめんごめん。」
落ち着いて互いの顔を見ると、また二人で吹き出してしまう。
ん?これって、いわゆるよりを戻すってものか?いっそこの流れで本当に付き合うか。
もちろん、冗談だ。
「ねえ、羽冬。」
「どうしたの?」
「ゴールデンウィーク、何するの?」
───────────────
「やっほー、羽冬!」
「八時集合って言い出した人が遅刻するなよ。」
紫木は緑のUネックの半袖トップスに、ゆるめのデニムという格好だった。
鎖骨の下まで開いた襟元は、少しかがんだだけで危ないんじゃないかと思うくらい大胆だ。
……まあ、これまでにそれ以上のものを見たことがあったけど。
「家が近い人は、電車で来る人に優しくするべきでしょ!」
「時間を守るのは大事だぞ。」
「一時間目まるごと寝てた人には言われたくないな~」
「じゃあ今後、毎朝電話して起こしてくれる?」
「うん~考えとく。」
……考えるんだ。
そう言うと紫木は少し前へ駆け出し、僕がついてこないと気づくと振り返って文句を言い、そのまま先へ進んだ。
「早く!中間考査の範囲は全然分かってないでしょ?授業中いつも寝てるし!」
関係を「仲のいい友達」に制限した後、紫木は前より少しだけ素直に明るくなった気がする。
たぶん、こっちのほうが元々の姿だ。
「置いてくよ!」
「分かったよ。走りたくないんだって。速すぎる。」
校内の図書館へ入ると、紫木は鞄の中から真新しい参考書を何冊も取り出して、向かいの席に座った僕の机へどさっと置いた。
「はい、これ。」
図書館なので声は小さい。
「え?」
「学校の教科書なんて全然役に立たないんだ。この出版社の参考書、私ずっと使ってるの。おすすめ!」
とりあえず数学の参考書を手に取ってぱらぱらめくる。
……ああ、そうか。
紫木の細かすぎる書き込みがないから、妙に白く見えるんだ。
「これ、くれるの?」
「まさか。ちゃんと払ってもらうよ。定価で。送料はサービス。」
……それ、強制購入じゃないか?
「まけてくれない?」
少し考えたあと、紫木は何か思いついたように目を上げた。
「今回の中間考査、平均90点以上取れたら、タダであげる。」
「いくらですか?今払います。」
「諦めるの早すぎるでしょ!」
思わず声が大きくなったらしく、紫木は慌てて自分の口を両手で押さえる。
やっぱりこういうところは変わっていない。
パンドラ祭の準備期間中にも、各教科で小テストはいくつかあった。
中学までの感覚で適当にやっても80点か90点はいけるだろうと思っていたけど、実際にテストの答案と点数を見て、自分の実力をとんでもなく見誤っていたと気づいた。
その日、僕が少しでも眠そうな顔をすると、紫木は遠慮なく肩を揺さぶってきた。
それでもだめなら、ボールペンで僕の頭を直接こつんと叩いてきた。
いや、何でこんなに元気なんだよ。昨日あれだけ――
ああ、そうか。彼女は昨日ほとんど運動してないんだった。
結局、紫木が夕飯のために帰らなければならず、午後5時ごろに本日の「紫木先生による地獄の補習」は終了した。
学校を出たあと、紫木と一緒にパンドラ商店街を抜け、日吉駅まで歩いた。
「明日も同じ時間ね!用事があるなら仕方ないけど、寝坊したいだけなら絶対許さないから!」
どうやら、「普段はしっかり勉強して、たまに安心して友達と遊ぶ」という紫木の原則は、なぜか僕にも適用されるらしい。
紫木が改札を抜けてホームへ消えたあと、僕はさっそく電話をかけた。
「羽冬?どうしたの?」
「明日、どこかへ遊びに行かない?」
「まだ一日しか勉強してないでしょ!すぐにサボろうなんて考えは却下!」
あ、切っちゃった。
どうやらこれから先、かなり長い間、妙に世話焼きな監督役が僕の勉強を見張ることになりそうだ。
そして夜。寝る準備をしていたところで、不意にスマホが鳴った。
「うっ……」
うっすら見覚えがある番号。
「ヨ~ル~」
どこで覚えたんだ、その無駄に伸ばす呼び方。
「何の用ですか。」
しばらく沈黙があったあと、紫木姉の優しい声が聞こえてきた。
「うまくいったみたいね。」
「別に、大したことはしていません。」
「そう?一応確認だけど、理香とは付き合ってないのよね?」
「自分の命を懸けるような冗談は言いません。」
「ハハハ、何それ。大げさ。」
いや、あの時「理香と付き合うのは許さない」って言った君、間違いなく本気の殺気を出してましたけど。
「でも、今の状況がいいのも、あくまで『今』の時点では、ということでしょう?」
やっぱりこの女は、鋭すぎる。
「まだ何か頼みでもあるんですか?」
「いいえ。正直、この結果はもう予想以上だ。理香が笑っていられるなら、それで十分。」
「期待に応えられて、光栄です。」
「ああ~青春っていいわねえ~」
……何だその感想。
「とにかく、これからも理香のことよろしくね。暇な時は飲みに来て。Purple Forestでいつでもお待ちしてるから。じゃあね~
」
この女、本当に僕を未成年だと認識してるんだろうか。
そう。僕は何もしなかった。ただ先延ばしにしただけだ。
誰にも予測できない結末が、早く訪れてしまうのを防いだだけ。
もしあの時、紫木姉の頼みがなくて、望月の忠告もなかったら、今ごろ僕と紫木の関係は、たぶんもう変質していた。
それが良い方向に変わったのか、悪い方向に変わったのかは分からない。
ただ、どちらに転んでも、ろくな結末にはならなかったと思う。
紫木が僕のせいで傷つくかどうかなんて、今でもそこまで気にしていない。
ただ、彼女を傷つけないやり方が、ちょうど僕の心の向かう先と重なっていただけだ。
僕がやったことは、たくさんある選択肢の中から、自分がこの先も平穏に暮らせそうな道を、勝手に選んだだけだ。
そもそも紫木が、なぜ僕が彼女を好きだと思ったのか。なぜ自分も僕を好きになるべきだと思ったのか。なぜ僕に告白しようと決意できたのか。
最後まで、本人に聞くことはなかった。
もしかしたら、紫木は本当に僕を好きだったのかもしれない。
でも、僕の言葉を聞いて、最後の最後で自分を偽った可能性だってある。
どれだけ多くの人が分析して、同じ答えを出しても、紫木の本当の気持ちは、彼女自身ですらまだ言葉にできていないのかもしれない。知っているのは、彼女の心の奥だけだ。
僕は、紫木の本心を知ろうともしなかったし、知るつもりもなかった。
今がうまくいっているなら、それで十分だ。
僕の選んだ道が正しかったのかどうか、最後の最後まで分からないのだろう。
あるいは、そもそも正解が明かされる日なんて来ないのかもしれない。
それでも僕は信じている。
無数の選択肢から、あまりにも間違ったものを一つずつ取り除いていけるなら、少なくとも僕らは正解に一歩ずつ近づいているのだと。
