39
閉会式が終わると、生徒たちはそれぞれ教室へ戻り、鞄を取って帰る準備を始めた。
青春の熱さと悔しさに満ちた一日が、終わろうとしていた。
「やっと終わったなあ~」
講堂を出たところで、僕は大きく伸びをした。
「週に二回の会議生活もこれで終わりだ~残念だったね、羽冬。もう私と二人きりになるチャンスがないよ。」
「そんなに惜しいなら、今から友子先生に頼んで、十一月の文化祭実行委員も僕らの分、予約しておくか?」
「嫌だ、無理。ほんとに疲れたもん。」
紫木の返事を無視してスマホを取り出し、わざと電話をかけるふりをした。
「もしもし、友子先生ですか?」
「えっ、羽冬!?ちょ、ちょっと待って、落ち着いて!」
僕は立ち止まり、左手のスマホ画面を紫木に向けた。
通話中の表示なんてなく、あるのはホーム画面だけだった。
同時に、ほかの女子もつけている、同じデザインの宝石のブレスレットを、わざと不自然に揺らした。
「……あ。」
気づいたか。
「ほんと羽冬って、毎回そうやってからかうんだから!」
「だって、反応が面白いし。」
ずっと変えていなかったデフォルトの壁紙を、さっき夢ちゃんたちが帰る前に姉さんに撮ってもらった写真へ変えた。
僕の描いたメインビジュアルを背景に、四人で撮った写真だ。
―「ヨルが自分から写真撮ろうって言うの、珍しいね。」
―「高校入って最初の学園祭だし、記念にしとこうと思って。」
―「いいじゃん!」
―「今度はあの35号も呼んで一緒にバスケしよう。」
―「はい、撮るよ~!」
夢ちゃんには、八割本当の理由を言った。
残りの二割は、このためだ。
一つ小さな異常では足りないでも、積み重ねれば無視できない違和感になる。
認めたくはない。
けれど今の僕は、みんなの期待に応え、誰も傷つけず、自分が大切にしたい絆を守るために、使えるものは何でも使おうとしている。
「望月、高木と僕と三人で撮ったユニフォーム写真、あとで送って!」
教室に、わざとそう言った。
「いいよ!」
「えっ、羽冬、みんなで撮った写真もあるじゃん!」
「ハハ、悪い悪い。野球部は特別扱いってことで。」
「特別なのって、望月のほうじゃないの~?」
「ちょっと、変なこと言わないでよ~」
「Oh~no~俺はただの煙幕役だったのか~」
気持ち悪い。
こんなふうに振る舞う自分が、ひどく嫌だった。
自分のすることすべてに、意図があるみたいで。
それでも、ここを乗り切れば、元に戻せるはずだった。
もし僕の考えが正しいなら、紫木は傷つかない。
紫木姉の言う「勘違い」とは、紫木が「羽冬夜良は紫木理香を好きで、紫木理香に何かを期待している」と思い込み、その期待に応えるには「紫木理香も羽冬夜良を好きになるべきだ」と勘違いしている、ということだ。
つまり、紫木は本当は僕を好きなわけじゃない。
ただ、好きになるべきだと思い込んでいるだけだ。
なら、「羽冬夜良は紫木理香を好きだ」という最初の認識そのものを、大きな行動や十分な異常で崩せばいい。
そうすれば、もう存在しない期待に応える必要もなくなる。
紫木は昔から男子との接点が少なく、僕は彼女が初めて本気で「男」として意識し、近い距離で接した相手だった。
そうした偶然が重なって、こんな勘違いが生まれてしまった。
仮にあの時、紫木に「本気で私を口説くつもり!?」と聞かれて、僕がきっぱり否定していたとしても、たぶん彼女の中で固まり始めた結論は変わらなかった。
だから、たった一か月足らずで、こんなところまで来てしまった。
これは紫木のせいじゃない。
彼女の見た目と性格なら、自意識過剰とは言えない。
ただ、彼女が勘違いした期待の相手が、たまたま僕だった。羽冬夜良という、致命的すぎた相手だった。
望月の言う「本当の傷」とは、加害者が、被害者の一方的な、あるいは誤解から生まれた感情を、永遠に対等になれない関係へ変えてしまうことだ。
望月は、最初から僕と自分が「同じタイプ」だと分かっていたのかもしれない。
だから、僕と紫木の間に何が起きても、どれだけ曖昧に見えても、僕にとってはそれだけのことだと、望月には分かっていたのだろう。
僕と紫木の間に、そういう化学反応は起きない。
少なくとも、僕から紫木へ向かう側では。
そして紫木自身も、自分の感情が恋なのかどうか、きっと分かっていない。
だから望月の考えでは、いつか紫木は僕に告白する。
関係をはっきりさせたくて、あるいは僕の気持ちを確かめたくて。
断れば、短くても強い痛みになる。
受け入れてしまえば、紫木を決して幸せにできないその関係が、紫木にとって永遠の傷になる。
要するに、前提が最初から間違っていた。
僕たちは互いに傷つけ合う関係なんかじゃない。
僕が一方的に、紫木を傷つける側になる関係だ。
紫木姉と望月、どちらの見立てがより本当の紫木に近いのか、今は分からない。
できるのは、自分のいつも通りの軽さを保ちながら、少しずつ紫木に「異常」を積ませていくこと。
そして何より、紫木を傷つける側にならないこと。僕に傷つけられる人にしないこと。
けれど、紫木が本当に僕を好きかどうかに関係なく、「受け入れる」か「断る」かを選ばなければならない状況になった時点で、「紫木を僕のせいで傷つけない」という条件は成り立たなくなる。
実際、一度だけ考えたことはあった。紫木と付き合う未来を。
少なくとも僕の感覚では、男が女を好きになるのは、そこまで難しいことじゃない。
一目惚れでもいいし、いつの間にか好きになるのでもいい。
何かの瞬間、恋に落ちることだってある。
それに、紫木と一緒にいる時間が心地いいのも事実だった。
でも、その先の光景を本気で思い描こうとすると、胸の奥のどこかが強く拒絶する。
これ以上進めば、すべてが壊れてしまうような圧迫感があった。
なぜそうなるのか、今の僕にはまだ分からない。突き詰めようとも思わない。
でもたぶん、これが望月の言っていた「心の向かう先」なんだろう。
だから無理だ。
僕にはできない。
そして、起こさせてもいけない。
気づけば教室には、もう誰も残っていなかった。
黒板の上に掛かった時計だけが、規則正しく秒を刻んでいた。
カチ、カチという音が、さっきまで笑い声に満ちていた校舎を死んだような静けさで包み込み、僕の心を少しずつ削っていった。
今の紫木は、きっとこの教室の空気を、僕が緊張しているせいだと受け取るだろう。
そして次の瞬間には、いつもの明るい声で僕の名前を呼んで、安心させようとするはずだ。
羽冬夜良。
どれだけ苦しくても、これはやり遂げろ。
紫木がこのあとどれだけ明るく、魅力的な顔をしても、絶対に間違えるな。
「羽冬!」
「紫木。」
受けることも、断ることもできない今の僕に残された道は、一つしかない。
紫木にあの言葉を言わせないために、声を聞いた瞬間、「どうした?」と返す身体に染みついた習慣を押し殺し、先に名前を呼んだ。
「えっ、どうしたの?」
まるで頭の中の筋書きを狂わされたみたいに、振り向いた先の紫木には、さっきのような明るい表情はなかった。
本当は、こんな気まずい本音なんて、今ここで言いたくなかった。
「君と一緒に行事をやれて、本当に楽しかった。」
「入学したばかりの頃は、袖だけちゃんと整ってなかったり、眼鏡を上下逆にかけてたりして、ああいうの、ほんと面白かった。」
紫木は無表情のまま、淡い茶色の目でじっと僕を見る。
「でも、知っていくうちに、君は自分で見せているほど抜けてるわけじゃないんだって思った。」
「勉強してる時も、実行委員の仕事に真剣な時も、何をやっても中途半端な僕には、君はずっと眩しい存在だった。」
「高校入ってすぐに、君みたいな友達ができて、本当によかった。」
閉会式が終わると、生徒たちはそれぞれ教室へ戻り、鞄を取って帰る準備を始めた。
青春の熱さと悔しさに満ちた一日が、終わろうとしていた。
「やっと終わったなあ~」
講堂を出たところで、僕は大きく伸びをした。
「週に二回の会議生活もこれで終わりだ~残念だったね、羽冬。もう私と二人きりになるチャンスがないよ。」
「そんなに惜しいなら、今から友子先生に頼んで、十一月の文化祭実行委員も僕らの分、予約しておくか?」
「嫌だ、無理。ほんとに疲れたもん。」
紫木の返事を無視してスマホを取り出し、わざと電話をかけるふりをした。
「もしもし、友子先生ですか?」
「えっ、羽冬!?ちょ、ちょっと待って、落ち着いて!」
僕は立ち止まり、左手のスマホ画面を紫木に向けた。
通話中の表示なんてなく、あるのはホーム画面だけだった。
同時に、ほかの女子もつけている、同じデザインの宝石のブレスレットを、わざと不自然に揺らした。
「……あ。」
気づいたか。
「ほんと羽冬って、毎回そうやってからかうんだから!」
「だって、反応が面白いし。」
ずっと変えていなかったデフォルトの壁紙を、さっき夢ちゃんたちが帰る前に姉さんに撮ってもらった写真へ変えた。
僕の描いたメインビジュアルを背景に、四人で撮った写真だ。
―「ヨルが自分から写真撮ろうって言うの、珍しいね。」
―「高校入って最初の学園祭だし、記念にしとこうと思って。」
―「いいじゃん!」
―「今度はあの35号も呼んで一緒にバスケしよう。」
―「はい、撮るよ~!」
夢ちゃんには、八割本当の理由を言った。
残りの二割は、このためだ。
一つ小さな異常では足りないでも、積み重ねれば無視できない違和感になる。
認めたくはない。
けれど今の僕は、みんなの期待に応え、誰も傷つけず、自分が大切にしたい絆を守るために、使えるものは何でも使おうとしている。
「望月、高木と僕と三人で撮ったユニフォーム写真、あとで送って!」
教室に、わざとそう言った。
「いいよ!」
「えっ、羽冬、みんなで撮った写真もあるじゃん!」
「ハハ、悪い悪い。野球部は特別扱いってことで。」
「特別なのって、望月のほうじゃないの~?」
「ちょっと、変なこと言わないでよ~」
「Oh~no~俺はただの煙幕役だったのか~」
気持ち悪い。
こんなふうに振る舞う自分が、ひどく嫌だった。
自分のすることすべてに、意図があるみたいで。
それでも、ここを乗り切れば、元に戻せるはずだった。
もし僕の考えが正しいなら、紫木は傷つかない。
紫木姉の言う「勘違い」とは、紫木が「羽冬夜良は紫木理香を好きで、紫木理香に何かを期待している」と思い込み、その期待に応えるには「紫木理香も羽冬夜良を好きになるべきだ」と勘違いしている、ということだ。
つまり、紫木は本当は僕を好きなわけじゃない。
ただ、好きになるべきだと思い込んでいるだけだ。
なら、「羽冬夜良は紫木理香を好きだ」という最初の認識そのものを、大きな行動や十分な異常で崩せばいい。
そうすれば、もう存在しない期待に応える必要もなくなる。
紫木は昔から男子との接点が少なく、僕は彼女が初めて本気で「男」として意識し、近い距離で接した相手だった。
そうした偶然が重なって、こんな勘違いが生まれてしまった。
仮にあの時、紫木に「本気で私を口説くつもり!?」と聞かれて、僕がきっぱり否定していたとしても、たぶん彼女の中で固まり始めた結論は変わらなかった。
だから、たった一か月足らずで、こんなところまで来てしまった。
これは紫木のせいじゃない。
彼女の見た目と性格なら、自意識過剰とは言えない。
ただ、彼女が勘違いした期待の相手が、たまたま僕だった。羽冬夜良という、致命的すぎた相手だった。
望月の言う「本当の傷」とは、加害者が、被害者の一方的な、あるいは誤解から生まれた感情を、永遠に対等になれない関係へ変えてしまうことだ。
望月は、最初から僕と自分が「同じタイプ」だと分かっていたのかもしれない。
だから、僕と紫木の間に何が起きても、どれだけ曖昧に見えても、僕にとってはそれだけのことだと、望月には分かっていたのだろう。
僕と紫木の間に、そういう化学反応は起きない。
少なくとも、僕から紫木へ向かう側では。
そして紫木自身も、自分の感情が恋なのかどうか、きっと分かっていない。
だから望月の考えでは、いつか紫木は僕に告白する。
関係をはっきりさせたくて、あるいは僕の気持ちを確かめたくて。
断れば、短くても強い痛みになる。
受け入れてしまえば、紫木を決して幸せにできないその関係が、紫木にとって永遠の傷になる。
要するに、前提が最初から間違っていた。
僕たちは互いに傷つけ合う関係なんかじゃない。
僕が一方的に、紫木を傷つける側になる関係だ。
紫木姉と望月、どちらの見立てがより本当の紫木に近いのか、今は分からない。
できるのは、自分のいつも通りの軽さを保ちながら、少しずつ紫木に「異常」を積ませていくこと。
そして何より、紫木を傷つける側にならないこと。僕に傷つけられる人にしないこと。
けれど、紫木が本当に僕を好きかどうかに関係なく、「受け入れる」か「断る」かを選ばなければならない状況になった時点で、「紫木を僕のせいで傷つけない」という条件は成り立たなくなる。
実際、一度だけ考えたことはあった。紫木と付き合う未来を。
少なくとも僕の感覚では、男が女を好きになるのは、そこまで難しいことじゃない。
一目惚れでもいいし、いつの間にか好きになるのでもいい。
何かの瞬間、恋に落ちることだってある。
それに、紫木と一緒にいる時間が心地いいのも事実だった。
でも、その先の光景を本気で思い描こうとすると、胸の奥のどこかが強く拒絶する。
これ以上進めば、すべてが壊れてしまうような圧迫感があった。
なぜそうなるのか、今の僕にはまだ分からない。突き詰めようとも思わない。
でもたぶん、これが望月の言っていた「心の向かう先」なんだろう。
だから無理だ。
僕にはできない。
そして、起こさせてもいけない。
気づけば教室には、もう誰も残っていなかった。
黒板の上に掛かった時計だけが、規則正しく秒を刻んでいた。
カチ、カチという音が、さっきまで笑い声に満ちていた校舎を死んだような静けさで包み込み、僕の心を少しずつ削っていった。
今の紫木は、きっとこの教室の空気を、僕が緊張しているせいだと受け取るだろう。
そして次の瞬間には、いつもの明るい声で僕の名前を呼んで、安心させようとするはずだ。
羽冬夜良。
どれだけ苦しくても、これはやり遂げろ。
紫木がこのあとどれだけ明るく、魅力的な顔をしても、絶対に間違えるな。
「羽冬!」
「紫木。」
受けることも、断ることもできない今の僕に残された道は、一つしかない。
紫木にあの言葉を言わせないために、声を聞いた瞬間、「どうした?」と返す身体に染みついた習慣を押し殺し、先に名前を呼んだ。
「えっ、どうしたの?」
まるで頭の中の筋書きを狂わされたみたいに、振り向いた先の紫木には、さっきのような明るい表情はなかった。
本当は、こんな気まずい本音なんて、今ここで言いたくなかった。
「君と一緒に行事をやれて、本当に楽しかった。」
「入学したばかりの頃は、袖だけちゃんと整ってなかったり、眼鏡を上下逆にかけてたりして、ああいうの、ほんと面白かった。」
紫木は無表情のまま、淡い茶色の目でじっと僕を見る。
「でも、知っていくうちに、君は自分で見せているほど抜けてるわけじゃないんだって思った。」
「勉強してる時も、実行委員の仕事に真剣な時も、何をやっても中途半端な僕には、君はずっと眩しい存在だった。」
「高校入ってすぐに、君みたいな友達ができて、本当によかった。」
