僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

26
「集合!」

 最後のゴロをどうにか処理し終えたところで、風(かぜ)が練習終了を告げた。

 部員たちはそれぞれ荷物のところへ戻り、スパイクを脱いで、野球場の整備の準備に入った。
 僕も当然のように、また風(かぜ)からマウンド周辺の整備を任された。
 
 望月はベンチで加藤と楽しそうに話していたので、今回は一人で先に動き出した。

 三年生の先輩たちは支度を終えると、軽く挨拶して帰っていった。

 一方、高木は三年生に負けない実力があるのに、今日は二・三塁間をちゃんと整備していた。

「羽冬(はねふゆ)~」

 結局、また望月のほうから来た。

「どうしたの?」
「さっきまで奈奈ちゃんと話してたんですけど、ふと見たら羽冬がもう一人で整備始めてたから。」

 わざわざ自分から来るってことは、やっぱり望月は僕のことを気にかけてる。
 違いない、これは関係がさらに深まった証拠だ!

 いつも通り、望月は軽やかな足取りで少し前を歩き、僕は飼い主に導かれる犬みたいについていく。
 
 そんな言葉が浮かんだせいで、周りの視線まで妙に気になり始めた。

「そういえば、なんで望月ってバスケの記録方法知ってたんだ?」
「中学の時、バスケ部のマネージャーだったよ!」
「へえ。野球部じゃなかったのか?」

 望月はすぐには答えず、少し先で立ち止まり、野球場全体を見渡した。

「だって、野球部に入るのはこっちって決めてましたから~」

 そう言って、僕のほうを向いたまま後ろ向きに数歩下がる。

「そうか。」

 整備が終わる頃には、みんな順々に帰り支度を始めていた。
 今日は加藤と望月で話がついていたのか、いつも一緒に帰る加藤が先に帰っていった。

「じゃあ、行こうか。」
「うん!」

 鞄を手に持って、僕のそばで静かに待つ望月が妙に可愛らしい。

「どこか、ゆっくり話せる場所ある?」

 校門へ向かいながら聞くと、望月は少し考えた。

「日吉駅の近くにスタバがありますけど、そこにしますか?」
「いいよ。」

 学校を出て、パンドラ商店街と日吉駅を抜けてしばらく歩くと、スタバが見えてきた。

 木目調の内装に、穏やかなピアノ曲。
 チェーン店らしい無難さはあるが、そのぶん落ち着いている。
 店内は空いていたので、四人席に座った。

 注文を済ませ、僕のアイスアメリカーノと望月のホットラテを受け取って席に戻った。

「羽冬って、生活がシンプルだよね。」
「え?どうして?」
「飲み物いつも余計なもの入れないでしょ?緑茶も無糖しか飲まないし。」

 初めて二人きりで出かけたのに、よくそんなところまで気づく。

「望月も、人のことよく見てるんだな。」
「そうですか?私、気になる人しか見ませんよ~」

 そういうことを、そんな自然に言うなよ。
 たぶん、緑茶でもコーヒーでも、僕が余計な甘さを足さないのは、自分をなるべくはっきりした状態に保っていたいからだ。

 世の中には、人に勘違いをさせる偶然が多すぎる。
 しかも最近は、それが怖くなるくらい続いている。

 でも、紫(ゆかり)木(き)といろいろあったからって、それで紫木が僕を好きになるのか?
 百歩譲って、仮にそうだったとして、それだけで付き合うなんて話になるのか?

 そんなわけがない。

 軽口、共同作業、外泊、周囲のからかい、噂話。
 そういうものが積み重なっていくと、妙に甘くて、青春っぽい空気が生まれる。
 その甘さは、当人に都合のいい自信だけを育てる。
 そして膨らみきった先に待っているのは、目も当てられない結末だ。

 あの悪魔みたいな幸福感を、人は「錯覚」と呼ぶんだろう。

―「ヨル、私……昨日、津(つ)桐(ぎり)くんの告白を受けたの。」
―「松田先輩……私が告白を受けて、好きになったあとになってから、彼女がいるって言ったんだ……」

 そうだ。全部、錯覚だ。
 だからこそ、緑茶やアメリカーノの苦味で、自分をいつでも目覚めたままにしておきたい。

「それで、どうしたんですか?」

 望月がラテを一口飲み、カップをソーサーに戻した。

「羽冬があんな真面目な言い方するの、珍しいです。何かありましたか?」

 ストローでコーヒーを一口飲み、苦味と少しの酸味を確かめてから、視線を店の入口へ逃がした。
 望月の目を見たまま、こんな話をするのはきつい。

 本当はもう少し回りくどくいこうかとも思ったが、まあいい。

「この前、望月が言った言葉、どういう意味だったんだ?」

 望月は少しうつむき、小さく首を傾げ、柔らかい笑顔を浮かべた。

「羽冬が気づいたなら、もう心の中では答えが出てるんじゃないですか?」
「いや……分からないから聞いてる。」
「そうですか。」

 まあ、望月の言う通りなのかもしれない。

「人を傷つける形とか、その影響って、いろいろあるんです。」

 僕が黙っていると、望月はそのまま続けた。

「小さな傷なら、その人にとってはほとんど何の影響もないこともあります。大きな傷でも、その瞬間はすごく痛くても、時間と一緒に少しずつ癒えていくものもあります。」

 そう言って、望月はラテの表面から立ちのぼる湯気を見つめた。

「でも、一番治りにくい傷って、外から見えないんです。気づかれにくいのに、何度も内側を削って、最後に内から外へ噴き出した時には、消えない跡になってしまう。」

 話しているうちに、望月の目は少しずつ細くなった。
 その表情には、説明以上の深い悲しみがにじんでいた。

「私たちって、人の空気とか期待とか、わりとすぐ察しちゃうじゃないですか。だから、そのまま周りが思う自分になろうとしちゃうんです。相手の期待に応えようとしてるうちに、自分が本当はどうしたいのか、分からなくなることもあります。」

 望月は指先でカップの縁を二回、軽く叩いた。
 音はほとんど鳴らなかったけれど、何かを押し込めるみたいな仕草だった。

「深いな。」

 自分ではわりと自分のことを分かっているつもりだった。忠実でもある。

 そもそも、紫木姉に言われなければ、今日こうして望月に相談しようとは思わなかっただろう。
 知り合って一か月もたたない相手のことで、ここまで考えている時点で、かなり異例だ。

「でも、羽冬なら分かると思いますよ。」

 グラスの中で、溶けた氷が小さくぶつかり合って、かすかな音を立てた。

「羽冬がちゃんと心の向かう先に従って選ぶなら、あの子にとって、それは『本当の傷』にはならないと思います。もしその先で、誰かを幸せにできると思えるなら、それもすごく素敵な選び方です。」

 「あの子」か。

「でも、その前提は――その気持ちが、本当に羽冬自身のものであることです。」

 そう言った時の望月は、やさしく、それでいてひどく切なそうだった。
 笑っているのに、その奥に言葉にできない感情が沈んでいるように見えた。
 ここまで言える望月は、いったい何を経験してきたんだろう。

 話が終わったあと、僕は望月を日吉駅まで送った。
 改札へ向かう前、望月は一度だけ振り返り、静かに言った。

「羽冬なら、きっと答えを見つけられるよ。」