僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

22
 一晩中の大雨で、林の小道はすっかりぬかるんでいた。
 気をつけて歩いたつもりでも、パンドラ商店街に戻る頃には僕も紫(ゆかり)木(き)も靴にかなり泥がついていた。

 ん?
 商店街に入った途端、紫木がわざと速度を落とし、僕と五歩ほど距離を取って歩き始めた。
 並ぶのを避けたいのだろうが、他人の目を気にしているにしては露骨すぎるし、距離も中途半端だ。

 だから、僕は遠慮なく歩く速度を上げた。

「え、ちょっと!なんで急に速くなるの!」

 追いつこうとした紫木の前で立ち止まり、振り返った。

「ひゃっ……な、何?」

 紫木がびくっと後ろへ跳ねる。

「別に、途中でたまたま会ったふうにすればいいだろ。」
「わ、私がどんな速さで歩こうが勝手でしょ。」
「はいはい。もう何も言わない。」

 いかにも紫木らしいな。そう思って先に進むと、少しして後ろから足音が近づいてきた。

「おはよう、羽冬(はねふゆ)!奇遇だね!」

 肩をちょんと叩き、紫木が改めて挨拶してきた。
 ……演技がぎこちなさすぎて、逆にどこからツッコめばいいのか分からない。

「おはよう。」

 けれど、そうやって仕切り直したことで、さっきよりはだいぶ自然に見えた。
 表情も歩き方も、変な遠慮はかなり薄れている。

「昨日の夜、なんだか不思議だったね。」
「そうだな。お姉さんは、思った以上に人懐っこかったし。」
「社交の場に出ることが多いから、初対面の人と話すのも慣れてるんだと思う。」

 そう言われると、たしかに納得できる。

「あ、そういえば昨日の参考書、しまっちゃったみたい。今返すよ。」
「いや、学校着いてからでいいよ。」
「そっか。」

 そう言われて、僕は鞄を開きかけた手を止めた。

 校門を抜け、良(りょう)見楼(けんろう)へ入った。
 階段を上がって教室へ向かう直前、紫木はまた少し距離を空けた。
 今回の判断は正しい。
 警戒すべきは他人の目というより、知り合いの目だ。

 けれど、教室に入った瞬間、最悪の相手と鉢合わせた。

「おや、羽冬くん。今日は少し遅めだねえ。」

 小山真衣。
 しかもちょうど外へ出るところらしい。タイミングが悪い。
 時間を見ると、6時55分。たしかに普段よりだいぶ遅い。

「たまにはさぼりたい日もあるんだよ。」

 いつもどおり淡々と返し、小山の横をすり抜けようとした――のだが、この人、妙に勘が鋭い。
 野生動物みたいに鼻をひくっとさせて、二度ほど空気を吸い込んだあと、じろじろと僕を見回してきた。

 ……君、警察犬か何かか?

 それに、僕たちはそこまで親しくないだろ。シャンプーが変わったくらいで気づくな!

 その最悪のタイミングで、紫木まで入ってくる。
 いや、もう少し間を空けろよ!そういう時間差を作るなら、せめて自然な範囲でやれ!

「理香ちゃん、おはよう!」
「あっ……真衣、お、おはよう……」

 ……終わった。
 この、悪いことして見つかった時みたいな不自然な言い方。

 どうして登校中に少しくらい心の準備をさせなかったんだ。

「ん~?」

 小山は楽しそうに僕と紫木を見比べながら、紫木へ近づく。

「……お?」

 何かに気づいたらしい小山は、次の瞬間、本当に頭から足先まで紫木の匂いを嗅ぎ始めた。

「真衣!何してるの!?」

 次に自分が巻き込まれる前に、僕はさっさと席へ向かった。途中で教室内を見回すと、後ろの席の高木と目が合った。
 一、二秒見つめ合ったあと、高木はいつもの皺眉の顔をしてから、何事もなかったようにスマホへ視線を戻した。

 ……いや待て。その一瞬で納得した理由のほうが逆に怖いんだけど。

「理香ちゃん、ボディソープ変えた~?」

 席についたころには、小山の現場検証も一通り終わったらしい。
 静かな教室に、その軽い一言がやけに響く。

「わ、私は……」
「ん~?」

 完全に詰んだな。
 さっきまで顔に焦りを貼りつけていた紫木だったが、その瞬間に脳の全細胞を総動員したらしい。
 慌てたように小山の手をつかんだ。

「い、行こ!購買部へ!ちょっと見たいものあるの!」
「え?え?」

 なるほど、「犬」をおびき出すか。
 この場の最適解としては、たしかに逃げるしかない。

 10分ほどして、二人が戻ってきた頃には、教室もだいぶ埋まっていた。
 そして小山は入ってきた瞬間から、意味ありげな目でずっと僕を見ている。

 今の小山の中では、僕が丸裸に見えているようなものだ。

 席に戻った紫木は、力尽きたように机に突っ伏した。

「あぁ……」
「ずいぶん絞られたみたいだな。」

 できるだけ小声で話しかける。

「真衣、ほんと手ごわい……ごめん羽冬。あんまり人に知られたくなかったでしょ。」

 正直、広がって困るのは、どちらかと言えば紫木のほうだろう。

「大丈夫だろ。小山も言いふらしはしないだろ。」
「うん……たぶん。たぶんね……」

 小山が余計なことさえしなければ、ここからの振る舞いで多少は印象を修正できるはずだ。
 むしろ、さっき紫木が断ってくれたのは助かった。

「はい。昨日、放課後に貸してくれた参考書。ありがとな。数学、ほんと難しくてさ。家で夜遅くまで見て、やっと分かった。」

 そう言うと、紫木は一瞬だけ固まって、すぐに察した。

「役に立てたならよかった。これからも必要なら言ってね。」

 もしかすると、昨日の長い時間で、僕と紫木も、少しずつ息が合ってきたのかもしれない。