僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

21
「ん……やだ……もうちょっと寝かせて……」
 誰だよ……ずっと肩揺らしてるの……。

「羽冬、起きて。普段あんなに早く学校行くなのに、今日は全然起きないじゃん!」

 かすかに覚えのあるシャンプーの匂いがした。この声は、紫木か。
 ああ、そうだ。昨日の豪雨で、紫木の家の店「Purple Forest」に泊まったんだった。

「目が覚めた?」

 目を開けると、眼鏡もポニーテールもない紫木がいた。
 こっちのほうが、僕は少しいいと思う。
 まだTシャツの部屋着だが、髪は整っていて、だいぶ前から起きていたらしい。

「そっちのほうが珍しいだろ……朝からそんなに元気なの。」

「起きたら羽冬が押し入れの前で倒れるみたいに寝てたんだもん。本気で心臓が止まるかと思ったよ。あれで目が覚めないほうがおかしいでしょ。」

 僕だって、ただ座っていただけで意識を失うとは思ってなかった。

「うるさい理香……まだ六時前でしょ……勘弁して……」

 襖から一番遠い布団の人は、紫木の早起きに不満らしい。
 まあ、それもそうか。

 それにしても、昨夜のあの人と今のこの寝ぼけた声、落差がすごい。

「お姉ちゃんも起きて~お腹すいた!」
「……理香、ヨルは先に外に出して。すっぴんだから、せめて口紅くらい塗らせて……」

 さっきの「うるさい」よりずっと頭が働いてる声だ。
 やっぱり、ああいうタイプの女って、見た目のことになると判断が早い。

 なるほど。昨夜、わざと僕に酒を多めに飲ませたのは、自分が先にメイクを落として布団に入る時間を稼ぐためでもあったのか。

 本当に多すぎたけど。おかげであんな時間まで飲みきれなかった。
 でもあの時間のおかげで、少し息をつけた。

「ほら羽冬、聞いたでしょ。早く出てって。じゃないと朝ごはん食べられない。」
「はいはい……」

 歯を磨きながら、さっき紫木に起こされた場面って、かなり「彼女力高い」イベントだな、と思う。

―「理香を、あんたのせいで傷つけないで。」

 ほんと、面倒なことを言われたものだ。
 浴室を出ると、半開きの襖の向こうは空だった。
 布団が三組そのまま残っている。部屋に入り、片づけ始めた。

 すると、私用通路の奥から足音が近づいてきた。
 現れたのは、眼鏡もポニーテールも戻っていて、制服姿の紫木だ。

「えっ、なんで片づけてるの!?私がやるつもりだったのに!」

 驚きに、少し申し訳なさそうな色も混じっている。

「いいって。僕のほうは整えるものもないし、先に出てて。」

「……分かった。ありがとう。じゃあ先に行ってるね。」

 片づけを終え、ホールへ出る。どこか奥から換気扇の音が聞こえてきた。たぶん紫木姉が朝食を作っている。

「おはよう、紫木。」
 挨拶しながら、昨日カウンター椅子に置いたままだった制服を身につける。

「おはよう、羽冬。雨、ちゃんと止んだね。」

 外を見ると、窓の向こうには雲ひとつない空が広がっていた。
 地面の水たまりだけが、昨夜の暴雨が本物だった証拠みたいだった。

「ほんとだな。」
「なんか、すごく眠そう。大丈夫?」
「まあ、なんとか。」

 昨夜また紫木姉に呼ばれて酒を飲まされたことは、さすがに言わないでおく。
 五分ほどして、紫木姉が三人分の朝食をまとめて運んできた。さすが店員だ。

「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
「ありがとう、お姉ちゃん。いただきます!」

 目玉焼きにソーセージ、パンが一枚。シンプルな朝食だ。
 朝から女二人と一緒に食べるのは妙な気分だ。

 でも、ここまで来ると今さらである。
 食べようとした時、紫木姉が頬杖をついたまま紫木をじっと見ていることに気づいた。

「お姉ちゃん?食べないの?」
「なんか、理香に朝ごはん作るの久しぶりだなって思って。」

 その目には、懐かしそうな色があった。

「だって姉ちゃん、普段起きないじゃん。」

 紫木は笑いながら返す。

「だから、つい見ちゃうの。朝ごはん食べてるところ。」
「私は好きだよ!特にお姉ちゃんの作る朝ごはん!」
「そっか。」
「うん!」

 温かい姉妹だな。
 どこかの、起き抜けに口へゆで卵をねじ込まれるだけの姉弟とは大違いだ。

 これだけ強い情があるからこそ、あそこまで必死に守ろうとするんだろう。
 相手が嫌がっても、自分の正しいと思う道を示したくなる。
 紫木姉の中にあるのは、たしかに紫木への愛だ。

 だが、あらゆる「守る」が愛で片づくわけじゃない。
 一線を越えたものは、もう保護なんて呼べない。

「ヨル、食べないの?」
「『羽冬』で。」

 やっぱりその呼び方は慣れない。
 そう思いながらベーコンを口に入れると、紫木姉が何かのスイッチでも入ったみたいに、また危ないことを言い出した。

「やだ、他人行儀。昨日の夜、あんなにいろいろあったのに。」

 言い方が危険すぎる。

「えっ!?昨日の夜、何してたの二人で?」

 ほら見ろ。案の定、紫木の好奇心に火がついた。

「本人に聞いてみたら~?」

 紫木姉に促されて、紫木がまっすぐ僕を見る。

 「お姉さんに、傷つけるなって要求された」なんて言っても意味不明だろう。
 なら、ボールは出題者に返すべきだ。

「お姉さんに、ウイスキーでがっつり説教された。」
「えっ!?私が寝たあとも飲んでたの!?お姉ちゃん!」
「ヨルが飲みたいって……」
「いや、僕は部屋出たら捕まっただけで――」
「二人とも!誰が誰を誘ったにせよ、昨日だめって言ったよね!?そりゃ羽冬も起きないわけだよ!お酒飲んだら二日酔いするって分からないの?」
「そこまでひどい二日酔いじゃ――」
「言い返さない!」
「すみません……」
「それからお姉ちゃん。こっそり飲んでるの、今さら驚かないけど、もう少しで二十歳なんだから、あとちょっと我慢できないの?」
「ま、まだ一年以上あるし……」
「言い返さない!」
「ごめんなさい……」

 きっちりしてるのに抜けていて、軽い調子なのに妙なところで周到。
 性格は正反対なのに、その差がうまく噛み合っている。

 だからこの姉妹は、こんなにも強く結びついているのかもしれない。

 賑やかな朝食が終わると、片づけは全部姉がやるから、そのまま出ていいと言われた。
 紫木が鞄を持って先に店を出る。僕も続こうとした時、背後から声が飛んできた。

「ヨル。」

 本当は、僕が望んだ呼び方をしない限り無視してやろうと思っていた。
 それでも結局、足は止まった。
 まあ、もう好きに呼ばせてもいいか。

「理香のこと、頼むね。」
「分かった。」